君か僕のいない夏

秋澤えで

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君か僕のいない夏

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少し、街から離れた湿原。湿地の上に架かる気の板を踏んでいく。好きに伸びた緑の雑草がくるぶしをかすめた。湿原を抜けるとそのまま山裾へとつながっていく。鬱蒼とした木々のでこからともなく蝉がけたたましく泣いていた。少しずつ重たくなる足を引きずるように登っていく。光を反射する小さな沢を飛び越えた。日陰が増えて涼しい風が吹く。じっとりした汗でTシャツが背中に張り付いた。
木でできた急な階段を見上げる。階段の先は木々がひらけて強い日差しが照り付けている。肌が焦げそうなほどの日、微かにあがった息はひどく熱く感じた。
山の尾根を歩いていくと小さな広場がある。申し訳程度の木のベンチ、引き出しの付いた白塗りの小さな机。じゃわじゃわと四方から声が響き、焦がすような白い光、熱を帯びた地面。

そうだ、あの日もこんな夏の日だった。

踏み外された水色のスニーカー。風にあおられ飛んでいくキャップ。見開かれた目、何か言おうとあけられた口。真白の光、青い空、視界の端の綠。ぐらりと傾く身体。小さな体は尾根の向こう側へと消えていった。


「ナツキ!」


世界から音がなくなった。ナツキは悲鳴を上げていたのか、何かを言っていたのか、それとも絶句していたのか、僕にはわからない。ただ、こちらへ伸ばされた褐色の小さな手は、確かに僕の手を掴もうとしていた。

僕がナツキへと伸ばした手は、あと15センチ、足りなかった。小さな手は、何もない宙を掻いた。
今日によく似た夏の日だった。
あの日から10年たった。いまだに僕はあの15センチを悔やみ続けている。

尾根の端に立つ。下は木々がさえぎっていて地面を見ることはできなかった。見下ろしても、何も見えない。あの日と同じ蝉の声、同じ日差し、同じ緑、同じ風、ただいない彼女と、大人になった僕だけが違っていた。汗が顎を伝って向こう側へ落ちていった。
もし、あの日に戻れるなた、僕はきっとナツキの手をつかめる。落ちそうになった身体を引き戻して、二人して転んで、びっくりしたね、怖かったね、なんて少し冷や汗を垂らして笑うんだ。決してありはしない、もしもだけど。ナツキはもうどこにもいない。

日差しに耐えかねて、木陰へと腰を下ろしたさわさわと吹く風は信条に反してどこまでも穏やかだった。
何を願っても、何を思っても、もう全部遅い。今さら何を悔やんだところで何も変わりはしないのだから。
それでも尾根から離れる気にもなれずなんとなく、白い机に手を伸ばした。引き出しの中には色あせたキャンパスノートと数本の鉛筆がはいている。なるほど、この山を登った人が記念に書くノートだ。表紙にはvol133.と書かれている。確か、ナツキとここへよく来ていたころはなかった気がする。僕たちが気が付いていなかっただけかもしれないけど。惰性のままにページをめくる。

「〇月〇日、朝日見れた!キレイ!」
「〇月×日、百合が咲いていた。」
「〇月△日、3年1組一同登頂!いえーい!」

様々な筆跡で思い思いの言葉がつづられている。しかしその中で、定期的に同じ筆跡があることに気が付いた。常連であればわざわざこういったノートに書くことはあまりないのだが。丁寧な字で日付と天気だけ書かれている。訝しみながら最新のページを開いた。すると丸まる一ページ使って書かれたものを見つけた。たびたび現れていた、細い丁寧な文字たち。

そして読み進めて行って冷水を注ぎ込まれたように鳩尾が冷たくなった。


「2017年7月10日、晴天。私の大好きな親友がここで死んで、今日で10年がたちました。ここはあの日から全然変わりません。こんな暑い日でした。いつも一緒に遊んでいました。小学校が終わったら、ランドセルだけおいて遊びまわっていました。この山にもよく二人できていました。春には湿原でオタマジャクシを探し、夏にはセミを捕まえて、秋にはススキをもってトンボを追いかけ、冬には凍り付いた沢を割っていました。2007年7月10日学校が終わってから水筒だけもって、この尾根に私たちはいました。どちらの方が先にここへ着けるか、競争をして。いつもの放課後。数多あるうちの何の変哲もない夏の一日でした。でもそれが二人でここへ来る最後の日になりました。

尾根の向こう側へと消えていく友達を、名前を呼ぶことしかできず、そうして彼は落ちていきました。
もっと私が注意していれば、いつも来る場所だからと気を抜かなければ、きっと一緒に大人になっただろうに。今年で私は20歳になります。夏休みの宿題で、「20才になった自分」という作文がありました。直前、ここで、大きくなったらどうなりたい、という話をしていました。大きくなれたのは私だけでした。あの日ケーキ屋さんになりたいと言っていた私は、今大学の文学部にいます。20になったら大人になると思っていましたが、あの日からあまり成長がない気もします。

もしも、これをフユキが読んでくれることがあるなら、ありがとう、ごめんね。」


「ここに書いても仕様のないことですが、私の一つの区切りとして。このノートを管理している方へ。不適切な内容と思われましたら、このページを破いてくださって構いません。」


嫌な汗が流れて、口がからからに乾いた。けたたましいはずだったセミの声がはるか遠くに聞こえる。何度も何度も読み返しても、内容が変わることはない。

2007年7月10日、ここでナツキが新た。同じ日にこれを書いた人間の友人が死んだ。同じ日に二人の子供が同じ場所で死んだなんて、知らない。事実であれば、ぼくが知らないはずがない。それになぜ、ナツキが尾根から踏み外す直前に話した内容をこの人は知っているのだろうか。あのとき、この場所にはぼくとナツキ以外の誰もいなかった。そして何より、

「これをフユキが読んでくれることがあるなら、ありがとう、ごめんね。」

なんで、僕の名前が書かれている。まるで、僕が死んでしまったように。
まるでナツキ自身が、このノートを書いているような。

あるわけがない。ありえない。ナツキは死んだ、僕の手が届かなくて、落ちていった。なのに、これはおかしい。偶然にしてはできすぎている。嘘にしては手が込みすぎている。それに、名前だ。もし、あの場所に僕以外のナツキの友人がいたとしよう。それならばナツキの最後を知っているのも頷ける。なのにここに書かれているのは僕の名前だ。
おかしい、気持ち悪い。なにより、これは僕ら二人に対する侮辱じゃないだろうか。僕ら二人だけの自称だったのに、赤の他人がまるで創作物の種にするかのよう。何年たとうと、この出来事は僕にとって大きな意味を持つもので、決して風化することも薄らぐこともない。

怒り、怪訝、戸惑い、悲しみ、処理できない感情が綯交ぜになる。そんな坩堝に、ぷかりと一つの馬鹿馬鹿しい考えが浮かび上がる。

「ナツキは、生きてるんじゃないだろうか。」

ナツキは死んだ。葬式だって出た。でもその体を、僕は見ていない。僕の見た最後のナツキは生きていた。驚愕の色に顔を染めていたけれど、確かにナツキは生きていた。落ちていいたナツキの姿をのぞき込んでも木に隠され、見えなかった。僕は半狂乱になりながら、転がるように山を駆け下りて、大人を呼んだ。それきり、ナツキにあることは二度となかった。

もしかしたら、どこかで生きているかもしれない。だって、あの時のことを知っているのは僕とナツキだけだから。

色褪せたノートから目が離せない。乾ききった喉で唾を飲み込んだ。
二度と会えないはずの友達。あの日15センチ届かなかったがために永遠に失われた友人が、生きているかもしれない。僕の目の前にいなくても、生きているとこのノートに書き記してる。
割り切っているはずだった。死んだ人間とは二度と会えない。10年前に死んだ友人は、もういないのだと。
でもこうして、不確かで、不明瞭で、その声も顔もないのに縋ってしまいたくなったんだ。
この人のいうフユキが必ずしも僕じゃないかもしれない。それでも、もしかしたら、と。
だから僕とナツキだけがわかることを。
今まで一度も書いたことのなかったノートに震える手で文字を書いた。


「2017年7月10日晴天。僕の大好きな親友がここで死んで、今日で10年がたちました—―――」
「教師になりたいと言っていた僕は、教育大学に通っています。もしも、これをナツキが読んでくれることがあるなら、届かなくて、ごめん。」


その人と書いた内容とそっくりそのまま。僕の視点から書き直して。
書き終わってから、ひどく泣きたくなった。なんてみじめなことだろう。10年たっても、まるで割り切れるようにならず、得体のしれない相手に縋りつく。それでも、縋らずにはいられない。そのみっともなさで、じくじくと胸が痛んだ。けれども胸は高揚感も覚えている。二度と会えないはずの親友と、再び言葉を交わせるかもしれないという淡い期待。

日常と非日常は紙一重だと、10年前の僕は知った。
だから今の日常も、一瞬で非日常に変わる可能性がある。ありえないはずのことが、ありえるかもしれなくなる。ダメ元でも、手を伸ばさずにはいられない。
僕は褪せたノートを引き出しに突っ込んで、逃げるように下山した。



**********



次の日、気もそぞろで何も手がつかなかった。今となっては毎日通い詰めることのなかった山へと二日連続で昇る。夕方のためか、数人とすれ違う。早くあのノートを開きたいと逸る気持ちと、何も新しく書かれていないノートに落胆したくないという気持ちが葛藤する。その間にも足は勝手に動いて、あの尾根へと気づけばたどり着いていた。日差しが強いせいで、みなさっさと降りていくため、日の当たる尾根には今日も誰もいなかった。恐る恐る、白い机の引き出しをひく。昨日と同じように色褪せたノートは鎮座ましましていた。

ありえない。きっと何も書かれていない。
もしかしてという期待を押さえつけながらノートを開いた。


「2017年7月11日晴天。フユキは、死にました。あなたは誰ですか。」


確信した。これはナツキだ。こぼれそうになる涙を、上を向いてこらえた。昨日と違って、たった一行そう書かれているだけ。でもそれだけでわかる。だって本人であれば、そう言うことしかできないから。なぜ僕が死んでいることになっているのかはわからないけれど、言葉を選ぶように何度も書き直したその字は、悪ふざけでもいたずらでもない。
死んだと言い聞かせる。でも期待してしまうから、また書いてしまう。なにより、ナツキしか、フユキしか知らないことを、書いているから。ほかの人の誰にも分らないこと。
あの夏の日、日常が非日常に変わったあの日の尾根でのこと。あの最期の瞬間は間違えようもなく僕ら二人だけのものなのだ。


「2017年7月11日晴天。ナツキは、死にました。ではあなたは誰ですか。なぜ、僕は死んだことになっているのですか。」


ひどく、もどかしい。もし目の前に彼女がいてくれるなら、きっと目の前で問いただすことができるのに、こんなノートに書いて、相手が山を登ってここへ書きに来るのを待つしかない焦燥感。
思い立ち、カバンの中に入っていた真っ新なノートを出した。悩んでから、「ナツキへ」と表紙に書いて、引き出しに入れた。あの褪せたノートは僕らの伝言板ではなくみんなが好きに書くものだ。こんな個人的なものを書くべきじゃない。それに、誰かに邪魔されたり茶化されたりもしたくなかった。
なにも新しいノートを作ったからと言って邪魔が入らないとは言えない。姿の見えない同士で文通のようなことをするのははたから見たら滑稽だろう。さらにいえば、内容を読めばお互い死んだ人間を探しているのだ。不気味というほかない。それでも、この山に登る人がどうか善意の傍観者であることを願って。



**********



それからナツキは僕の用意したノートにメッセージを書くようになった。「ナツキへ」と書かれた表紙の隣には今「フユキへ」と異なる筆跡で書かれている。いたずらもないわけではない落書きだったり、バカにするような内容であったり。でもそれは些細なことだ。馬鹿馬鹿しいことくらい、きっと僕らが一番知っているから。死んだ人間は帰ってこない。それを僕らはこの10年で誰よりも知っていた。この机の管理を誰がしているのか知らないけれど、管理人がこの僕らのノートを撤去することもなかった。それが善意からか、それとも死者同士で話すという不気味さからかはわからないが、ありがたかった。

僕がナツキが落ちていくのを見た日、ナツキは僕が落ちていくのを見た。
不思議な話だけれど、それは僕らにとって、あったかもしれない話なんだろう。
あの日、どちらがいなくなってもおかしくはなかった。

日々、埋まるノート。そして夏の終わり僕は一つの提案をした。


「8月の30日、2時から会えないか?」


次の日の返答は是、だった。
顔の見えない、死んだはずのナツキ。生きていたかもしれないナツキ。彼女は間違いなく、ナツキだった。
でもどうしても違和感があった。それをどうにかはっきりさせたかった。それを聞くことで終ってしまうとしても。


朝から雨が降っていた。傘をさしたまま湿原を抜ける。尾根に着いたころには足はぐしょぐしょに濡れていた。階段を上った先、僕らのノートの入れてある机の周りには誰もいない。時計を見れば、約束の時間だった。むしろ雨でよかった。野次馬や茶化しに来る人間はいないだろう。

2017年8月30日14時、雨天
僕らのノートにはすでに日付と天候が書かれていた。


「雨なのに、来てくれてありがとう。」


ノートに雨粒が垂れないよう、注意して書く。たぶんややあって、彼女が書きだした。


「そっちこそ、ありがとう。わざわざ会いに来てくれて。」


本当に不思議なことで、彼女はここにいないのに、ここにいた。白かったはずのノートに、鉛筆の柔らかい黒が書かれていく。丁寧で細い、女性らしい字。野山を駆け巡っていたナツキのイメージには合わない、大人の女性の字。むなしいほど、時間を感じさせた。それはきっと、お互いにとってだけれど。


「たぶん、これで最後になると思う。」
「私も、そう思ってる。むしろ、これで終わらせたい。」


意味は分かっていても、まるでナツキに嫌がられているようで、苦笑いをした。


「ごめん、気分悪いかもしれないけど話が聞きたい。」
「――最期の?」
「ああ、最期の。僕も書くから、ナツキも書いてほしい。これで終わりだ。ノートは僕が持ち帰る。」
「私たちの最期は、私たちだけのものって?」
「そう。」


しばらくしても、文字は浮かばない。おそらく、僕から書き始めるのを待っているのだろう。
これを書けば終わる。これは間違いなく、僕らにとって悲しいことだ。でもこれをしないときっと終われない。文字通り、僕らは死者に縛られたままになってしまう。


「僕らは、競争して尾根に向かってた。水筒だけ持って。入道雲の成り損ないが、空にあった。じりじりと日が照っていて、この上なく暑かった。」
「うん、そうだった。私たちはランドセルだけおいて、二人で走って山を登ってた。階段を登りきったところで、岩に手をついたら、すごく熱かった。」


対応するように、丁寧な字が下へと続く。


「お茶を飲んで、少しずつ出され始めた夏休みの宿題の話をした。自由工作で何を作るか、日記にはどんなことを書くか。それから、「20歳になった自分」に関する作文について。」
「そう。学校で育ててた朝顔や絵の具も少しずつ持って帰らないとね、って話をした。それで夏休みの課題、「20歳になった自分」に関する作文の話になった。」

「ナツキは、ケーキ屋さんになって、みんなの誕生日を祝いたいって言ってた。」
「フユキは、学校の先生になって算数を教えたいって言ってた。……なんか私のほうが精神年齢が低い気がする。」
「そうだった。だから僕は君を笑ったんだ。ごめん。」


返事はなかった。これが原因だったことを、僕らは知っていたから。


「笑った僕を、ナツキは怒った。」
「フユキの誕生日にはケーキ作ってあげないって。」
「それで僕はまたからかった。」
「そう、フユキは私に向かって、ナツキは20歳になっても子供のままだろって、笑った。」
「だから君は言った。私は大きくなったらね、ちゃんと大人になってるよ。」

「一人でいろんなところへ行けるんだ。」
「一人で船に乗ってアメリカに行けるよって。」
「私は尾根に立って、背伸びをして、空と混じる海を指さした。遠くて、本当に少し見えるだけの海だった。
「一人でロケットに乗って、空の向こうにだって行けるよって。」
「私はフユキの方を見て、尾根の崖に背を向けて言った。」


ああ、ああ、そうだった。二人分の記憶で、かすれていた部分まで、鮮明によみがえる。

雲に覆われた鈍色の空は、どこまでも広がる青に変わる。
雨にけぶって濁る海は、光を反射しながら空と混じる深藍に変わる。
遮られ光もない日は、燦々と降り注ぐ太陽に変わる。
雨粒に揺れる木々は、太陽に首を伸ばす瑞々しい緑に変わる。

「そうしたら、風が吹いたんだ。」
「そうしたら、足元が少し崩れたの。」

「水色のスニーカーが向こう側に滑り落ちて。」
「吹き上げる風に、かぶってたキャップが飛ばされた。」

「ナツキは、びっくりした顔をしてた。」
「フユキもびっくりした顔をしてた。」


怖くなって、筆が止まる。ここまで、ここまでは全部一緒だった。
ナツキが落ちそうになる瞬間、それは寸分の狂いもなく一致した。

じゃあなんで、ナツキじゃなくて、フユキが死んだんだ。


「ナツキは、僕に手を伸ばした。僕も、ナツキが落ちてしまわないように、引き戻そうと手を伸ばした。」
「…………、」
「でも、届かなかった。15センチ。あと15センチだったんだ。」


小さな褐色の手は、僕の手に触れることなく宙をつかんだ。


「ナツキは、何もつかめずに、僕に手を伸ばしたまま、尾根から落ちていった。」


まざまざと呼び起せる。どんな顔をしていたか。煽る風が頬を撫で上げた感触を。伸ばした手が、何も掴めなかった虚しさも。


「僕は、それを見送ることしかできなかった。」


しばらく、ノートになんの文字も出てこなかった。ぱたぱたと傘を打つ雨音を聞きながら、次の言葉をまった。


「…………私は、足元が崩れて、身体が後ろに傾いた。本当に、何も考えてなかった。びっくりして、ああ、フユキがびっくりしてるって、他人事みたいに思って。そうしたらね、」
「…………、」
「フユキが手を伸ばしたの。フユキの手がね、私の手を掴んだ。力いっぱい、痛いくらいに。」
「え……、」


ノートに書くまでもなく、口から零れ落ちた。


「フユキの手が、私の手を掴んだ。私は、フユキにひっぱりあげられた。でもね、」
「…………、」
「小学生の体格も、力も、同じくらいでしょう。私を思いっきり引っ張ったフユキは、バランスを崩した。私を思いっきり引っ張ったってことは、フユキは私に思いっきり引っ張られたってこと。」


ああ、そうか。


「強く、手を握ってたはずなのに。フユキの手がほどけた。握ってたはずなのに。私に引っ張られたフユキは、私とそっくりそのまま位置が入れ替わったの。それで、握ってたはずの手がほどけた。火傷しそうなくらい熱かった手が離れて、遠心力のまま、フユキは尾根から落ちていった。私は、」


手を伸ばすことしか、できなかった。


「それを見送ることしかできなかった。」


あの夏の日崩れた尾根の崖は、今はそんな跡もない。

もしもあの日、山に行かなければ。
もしもあの日、僕が崖側に立っていれば、
もしもあの日、「20歳の自分」の作文の宿題が出ていなければ、
もしもあの日、将来の話をしなければ、
もしもあの日、ナツキの夢を笑わなければ、
もしもあの日、15センチが届いていたなら、


「冬樹。」
「…………、」
「冬樹は15センチ足りなかったって言ったよね。」
「ああ……、」
「15センチ足りた世界が、フユキのいない世界だよ。」


もしもあの日、15センチが届いていれば、それは、


「もし届いていたなら、っていうけど、届いたとしても、そこにハッピーエンドは、ないよ。」


15センチが届かなかった。
15センチが埋まってしまった。
どちらであっても、そこに僕ら二人の未来はない。


「そっち、雨やんだ?」


そう聞かれ、はたと、傘を打ち付けていた雨音が聞こえないことに気が付いた。


「ああ、やんだよ。」


蒸し殺されるような暑さはなく、ほのかに秋のにおいを感じた。


「これで、終わりだね。」
「うん、話させてごめん。」
「ううん、私も誰かに、話したかったのかもしれない。」


いまだ雨の残滓でけぶる景色に、あの夏の暴力的なまでの鮮やかさはない。


「最後に一ついいかな。冬樹、君は勘違いしていることが一つある。」
「勘違い?」
「ナツキは、フユキに手を伸ばしたと。そしてフユキはナツキの手を取り損ねたと。」
「……ああ、」


僕らの一番の違いで。僕らにとってもっとも自分の心の多くを占めた、その瞬間。届かなかった手は、


「違うんだよ。私は助けてほしくて手を伸ばしたんじゃない。落ちる前から、私はフユキに手を伸ばしてた。」
「え、」
「一人で船に乗ってアメリカに行けるよ。一人でロケットに乗って、空の向こうにだって行けるよ。私は、そう言ったね。でも私はまだ言おうとしたことがまだあったの。」


かすかに開いた口、伸ばされた褐色の小さな手。
それは、悲鳴ではなく、それは助けを求めるものではなく、


「『馬鹿にしたこと謝るなら、フユキも一緒に連れて行ってあげるよ。』本当は、そう続くはずだった。」


この先も一緒にいようという、朗らかな声だった。一緒に行こうと誘う、その手だった。


「落ちたから手を伸ばしたんじゃなくて、その前に一緒に行こうって、手を取ろうとしてたんだよ。」
「それは、」
「だからどうか冬樹、助けを求められたのに、助けられなかった、手が届かなかったって思わないで。落ちていく私は真っ白で、何も考えてなかったから。……死んだ私もたぶん、なんにも考えていなかったよ。」


それは青天の霹靂で、同時にひどく不安にさせられた。まるで僕が手を伸ばしたことなんて、すべて無駄だったみたいで。なんの意味もないと言われているようで。
あの15センチが埋まって、ナツキを助けられたとしたら、ナツキは僕を恨むのだろうか。


「夏葵、勘違いではないけれど僕からも一つ言わせてほしい。」
「……何、」
「フユキは、僕は、たとえあの15センチが埋まってナツキが生きて自分が死ぬことをわかっていたとしても、必ず手を伸ばしたよ。どんな不利益があったとしても、それでナツキが助かるなら僕はどんな方法でも喜んで飛びついたよ。」
「それは、」
「それでも良いって思えるくらい、フユキはナツキのことが好きだったんだ。」


返事はなかった。

ナツキはフユキに助けを求めていなかった。だから助けられなかったと、冬樹が感じ続ける必要はない。
フユキはナツキを何をしても助けたいと思ってた。だからその結果死んだとしても、夏葵が自責の念に駆られる必要はない。
それは表面上慰めであり、そして死後勝手に思いを解釈されて、勝手に責任を感じられる死者の苦言だった。

手が届かなかったことを悔やまないでいて。たとえ手が届いていて、ナツキが生き、フユキが死ぬことになっても、誰も幸せにはならなかったから。
手を伸ばしていたことを悔やまないでくれ。たとえその手を掴めず、フユキが生き、ナツキが死ぬことになっても、誰も幸せにはならなかったから。

悔やもうとも、もしもを夢想しようとも、生きている人間は手元に残ったものとともに生きなければならないから。

何より、僕らは感じていた。この夏の間不思議なノートを介して20歳になった親友と話していて、決して埋まることのない違和感を。
ナツキとフユキは、唯一無二の親友だった。
けれど夏葵と冬樹はもう、かつて親友であったという間柄だった。
ナツキはフユキのいない10年を歩んできた。フユキはナツキのいない10年を歩んできた。

夏葵はナツキであり、冬樹にとってのナツキじゃない。
冬樹はフユキであり、夏葵にとってのフユキではない。

もしもの世界で生きた10年は、互いを変えるのには長すぎた。
結局、僕のナツキは10年前に死に、夏葵の僕は10年前に死んだ。それが事実なのだ。
もしもの世界で生きた親友が現れようとも、それは親友によく似た、親友のことをよく知った他人にしかなれない。

もしもの世界は僕が思っていたよりも甘美なものではなく、むしろどこか不毛で苦々しかった。
それでも、この時間は決して無駄ではなかった。10年目の夏の不可思議な時間は確かに僕らの何かを変えていった。


「もうきっと、会うことはないね。」
「ああ、これでおしまいだ。」

「冬樹、君は私の知るフユキじゃなかった。」
「夏葵、君は僕の知るナツキじゃなかった。」

「それでも、生きて大人になれた君と話すことができて、嬉しかった。」
「ああ、生きて大人になれた君と話すことができたこれは、無為なんかじゃない。」


未来なんてなかった幼い親友。そんな親友に、異なる世界で未来が与えられていた。


「冬樹、私の知らないフユキ。」
「夏葵、僕の知らないナツキ。」


交わることのない世界が、ほんの少しだけ重なった。
ここにはいない。けれどきっと僕のすぐ隣にでも、彼女はいるのだろう。


「どうか生きる君のこれからが平和で朗らかなものであるように、」
「どうか生きる君のこれからが美しく輝かしいものであるように、」


「愛した親友の未来に、祝福を。」



そう書いたのは、僕が先だったか、夏葵が先だったか。それはわからなかった。二人分の筆跡だけが書かれたノートを、僕は鞄の中へしまった。
登り慣れた山を下っていく。少しずつ薄くなった雲の合間から光が落ちてきた。
どうか、もう一つの世界の知らない君に、光あれ。
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