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4巻
4-2
ベルの音は聞こえないと思ったら、ボリスさんの研究室は防音だという。
中から返事の気配が全くしない。ミカエルさんがもう一度ベルを鳴らし、しばらく待ったがこれにも返事はなかった。
「また、これですか……」
ミカエルさんが微笑みながら額に青筋を立てベルを何度も連打する。
(ミカエルさん……)
それからベルを十回ほど鳴らしたところでガチャッとドアが開き、中から無精髭を生やしたボリスさんが顔を出した。記憶にあるボリスさんはタレ目顔のおっとりとした印象だったけど、やや疲れているようだ。お疲れ顔なのに、以前よりもさらに色気の増した雰囲気で首を傾げる。
「ミカエルさんと……ミリアナ様? 本日はどのようなご用件でしょうか?」
「ボリス、研究室にこもりきりで家にも帰っていませんよね? 奥方が心配され、毎日食べ物を届けていると聞きました。行き詰まっているようなのでミリー様をお連れしたんです」
「そ、そうですか。散らかっていますが……とりあえず、中へどうぞ」
「お、お邪魔します」
遠慮気味に入ったボリスさんの研究室は、爺さんの執務室の三倍以上の広さだった。いろいろな機材や資料があちこちに散乱している。奥には別の研究員が二人いるが、こちらには見向きもせずに机に向かって作業をしている。
「あの二人は、私の弟子です。気にせずとも大丈夫です」
ボリスさんにソファに座るよう促されるが……これは、どこに座るのかな? ソファの上には大量の紙の他に謎の棒が転がっている。
「ああ、申し訳ない。すぐ片付けるから、少し待ってください」
ボリスさんが急いでソファの片付けを始める。
ようやくソファに座ることができたので本題だ。ボリスさんが奥の部屋から作製途中のショーケースを運んでくる。
「凄い……」
思わず声が出てしまう。ショーケースの外観は、私の描いた絵の通りに忠実に仕上がっている。この国の技術でどこまで再現が可能なのか分からなかったので、思いつく限りの形のショーケースの絵を提供したが……目の前のこれは、日本のケーキ屋さんなんかでもよく見る対面型の冷蔵ショーケースだ。ボリスさんやるな。あれ? でも、何に悩んでいるのだろう? ボリスさんに尋ねる。
「ボリスさん、外観はとても素晴らしいです。問題は何でしょうか?」
「複層ガラスの部分です。複層にすること自体には問題はないのですが、隙間部分に結露ができてしまうんです」
「中を見せていただけますか?」
二枚のガラスの間には空間を確保するための金属器具のスペーサーがあり、その下には水抜きの穴と余分な水が通る通路もきちんとあった。
「ボリスさん、この金属にはなにか仕組みがありますか?」
「いいえ。何もない、ただの金属です。二つのガラスの間隔を均等にして固定するために入れています」
前世のコンビニなどでは確か電気を流して外側のガラスを温め結露を防止していた。ここでも魔石があるから、可能かもしれない。だけど、今からそれを研究していると菓子店リサのオープンに間に合わない。この構造だったら必要なのはきっとアレだと思う。
「湿気を吸い取る物が必要ですね。金属の中に乾燥剤……水気を吸い取る物があったほうがいいですね」
「水を吸い取る物……風魔法の魔石か? いや、それだとコストがかかる。吸湿性のあるものは一応あるが……水との相性が悪い」
ぶつぶつと呟くボリスさんが白い小石がたくさん入った袋を持ってくる。
これは、生石灰か? この辺に貝はないけど、石灰岩が取れる地域が近くにあるのかもしれない。生石灰は前世のお菓子の乾燥材などにも使われていたけど……水に触れると熱くなるし膨張する。これを使うのは危険だと思う。
「残念ですが……これはダメです。おっしゃる通り水と合わないなら危険だと思います」
前世には紐を引っ張って温まるお弁当があり、なぜ温まるのか気になってお弁当箱を破壊――研究したことがあった。そしたら弁当の下部分に生石灰と水袋が入っていたんだよね。
危険性を確認するために試しに生石灰を安全な箱に入れ水魔法で水をかけてみると、少しして少量の煙が上がり生石灰が熱くなる。
ミカエルさんが生石灰の近くに手を翳し、眉を顰める。
「熱くなっていますね。これは却下です。他に使える物はありますか?」
「吸湿力がある素材……うーむ。それだったらアレか、いやいや、アレも同じだ。それなら――」
あー、またボリスワールドに入っていったよ。もう私とミカエルさんの存在はボリスさんの中で微塵も形跡なく消え散ったね。
「ミリー様、もうボリスは大丈夫でしょう。この状態になった彼を引き戻すのは大変なので、今日はもう戻りましょう」
ブツブツ言うボリスさんを放置して、ミカエルさんと研究所のドアへ向かう。弟子の二人も先程と同じ位置から動いていない。これはボリスさんの奥さんも心配で食事を持ってくるわけだ。
急にバサバサと音が聞こえると、カラスのような黒い鳥が窓辺から研究室の中に入ろうとするのが見えた。すぐにボリスさんの弟子が視線を机から外さず、バシッと黒い鳥がとまろうとする窓枠の辺りを棒で叩く。黒い鳥は逃げるように空に羽ばたいていった。
(あの棒はこのための物か!)
無言で窓辺を見つめ、ミカエルさんに声をかける。
「……ボリスさんもお弟子さんも、研究熱心ですね」
「周りが見えなくなると心配していましたが……大丈夫そうですね。それに、ボリスはいつも素晴らしい成果を出します」
ミカエルさんはそう言うとジッと私を見つめた。
「何か他にありましたか?」
「はい、ミリー様は先程の小石のことをご存じだったのですか?」
あ、そういえば熱くなった生石灰に驚きもせずに普通にしてた。誤魔化そう。
「え? はい。木工屋で前にお話を聞いたことがあったので……」
「そうですか……」
変な間が流れたので話を逸らそうとしたが、その前にミカエルさんが研究室のドアを開けながら言う。
「ミリー様。私はこの後にいくつか執務があります。応接室でお茶を飲みながら、お迎えを待ちますか?」
一人でティータイムもいいのだけど、数時間のロンリータイムを過ごすよりも気になっていたミカエルさんの業務を見学したい。
「一応、商業ギルドの見習いということになっているので、今日はミカエルさんについて行ってもいいですか?」
「構いませんよ。では、行きましょうか。ジェームズ」
ミカエルさんが私の見習い用の偽名で呼びかけたので、元気よく返事をする。
「はい!」
◆
ミカエルさんについて商業ギルドの中を移動すれば、行く先々で声をかけられる。
「ミカエルさん、この前は助言をありがとうございました。おかげで、商売がスムーズになりました」
「いえいえ。上手くいって、よかったです」
声をかけられたのはこれで三人目だ。ミカエルさんは人気者だね。でも、挨拶をされる度に立ち止まってしまう。これではいつまでたっても自分の仕事ができない。何度も呼び止められて業務が遅れても、ミカエルさんは全ての人に穏やかな対応をし続けていた。
ようやくミカエルさんの執務室に到着する。ここまでくるのに結構時間がかかった。ミカエルさんは爺さんのもう一人の部下と相部屋らしいけど、もう一人の姿は見えない。部屋の中は殺風景で必要最低限の家具があるだけだ。
キョロキョロしているとミカエルさんが苦笑いをする。
「こちらの部屋には、お客様をお通しすることはありません。何もなくてつまらないですよね」
「そんなことないですよ」
「目を通さないといけない書類がありますので、ミリー様はこちら、私の隣の席に座ってお待ちください。お茶をお出しましょうか?」
「お茶は大丈夫です。お気遣いをありがとうございます」
ミカエルさんの隣の席はどうやら同僚の席のようだ。
机の上には小さな押し花のしおりが飾ってあった。この席の主であるもう一人の部下の名前はなんだったかな……何度か服を着替えるのを手伝ってもらった二十代半ばの女性だ。若いのに爺さんの直属の部下を務めるのはやはり優秀だからだろう。
席に座り、隣で執務を始めたミカエルさんを眺める。
(ミカエルさん、綺麗に机を整理してるなぁ)
特にやることもなく暇なので、お絵かき用にもらった紙で折り鶴を折る。少しして完成した折り鶴は、まぁ普通の鶴だな。
鶴を手で飛ばしながら小さく呟く。
「ピヨピヨ」
あれ? 鶴ってどう鳴くの? カァーはカラスで……あ、そうだった!
「クエェェェ」
「ミリー様! どうされましたか?」
「すみません。なんでもないです。気にしないでください」
つい、大きな声を出してしまった。これ以上ミカエルさんの邪魔はしたくないので大人しく折り紙に没頭する。
普通の鶴だけでは面白くないので、祝い鶴や足のある鶴を折る。足がある鶴はカエルっぽい。調子に乗って、九万里の大鶴も折る。風魔法をハサミのように使い完成! これは大作だ。九万里は大鶴の両翼の先に小さな鶴が乗った連鶴だ。良い出来に口角を上げる。
(手先はそれなりに器用なはずなのに、なんで未だに裁縫や刺繍は不器用なのだろうか……)
鶴はもうレパートリー切れなので、次はカニだ。幼児用の可愛いカニではなく、立体感ある足八本のやつだ。途中までは鶴と折り方が似てるから楽勝だね。ハサミで切らないといけない部分はまたこっそりと風魔法を使う。
完成したけど……何匹作っても白い紙だからか、今一つカニという感じではない。強いて言えば、白い蜘蛛に見える。あ! そうだ。白なら、迎えに来てくれるガレルさんにプレゼントするためにあれを折ろう。あれも途中までは鶴と同じだしね。
黙々と折り紙の作業をしてたら、仕事を終えたミカエルさんに声をかけられる。
「ミリー様、こちらは終了しましたが……それは鳥ですか? よくできてますね。紙で作られたのですか?」
ヒィ。ミカエルさんの目がまたギラギラしている。なんでも商品にしなくていいから。
「お父さんとお母さんに見せたいので、これはダメです」
「そうですか。残念です」
「でも、この鳥だったらミカエルさんにあげます」
ミカエルさんに普通に折った鶴をあげると、目を細めながらそのまま胸ポケットに飾ってくれた。次回見る時には鶴にリボンが付いて可愛くされていそうだ。
「大切にしますね。そろそろ、お迎えが来る時間です」
「そうですね。ガレルさんを待たせるのも悪いので、急ぎます」
完成品の鶴やカニをポシェットに入れる。最近、猫の財布から物を落とす事件があったのでマリッサに肩掛けのポシェットを作ってもらった。まだ刺繍とかは施していないけど、後で猫の刺繍をしてもらう予定だ。自分で刺繍? 妖怪が誕生しそうなので却下だ。
ミカエルさんに商業ギルドの入り口まで送ってもらう。
「あ、ガレルさんだ。ミカエルさん今日はありがとうございました」
「気をつけてお帰りください」
ミカエルさんに手を振り、ガレルさんと商業ギルドを後にする。
「ガレルさん、今日もお迎えありがとうございます。今日は特別に凄いの作りました!」
「気にするな。また菓子か?」
「違います。これです」
差し出した手に折り紙を乗せると、ガレルさんが目を見開き大声を上げた。
「アクラブ!」
折り紙を地面に叩きつけ踏み潰そうとするガレルさんを止める。
「待って待って。ガレルさん! 違うの。これ紙なの!」
「紙?」
「そうそう。ほら、見て。手に乗せても動かないでしょう?」
手に乗せたサソリの折り紙をガレルさんに見せると、不思議そうにサソリを触った。
「紙……そうか。驚いた。なんのためにこれを?」
「ガレルさんの国にも、もしかしたらいるかなって」
「……いる。でも猛毒。危ない。見たら踏み潰す」
砂の国ではサソリはたまに家の中にも入ってくるそうで、出かける前は靴の中など毎回確認するそうだ。完全に害虫扱いだ。
「驚かせてごめんなさい。他の折り紙もあるよ。この、鳥はどう?」
「アクラブがいい。ラジェにも見せたい。よくできている」
「えへへ。褒めてくれて、ありがとうございます」
ガレルさんが本物のサソリだと思ってびっくりした顔を思い出し、クスッと笑う。
「どうした?」
「いえいえ、早く帰りましょう!」
仲良く二人で並んで帰る。ガレルさんのポケットからはチラリと白いサソリの折り紙が見えた。
ミカエルさんの執務室にて
洞察力、発想力、行動力の全てにおいて自分の知っている子供とは違うとミカエルはミリアナの後ろ姿を見送りながら思った。
(傍から見れば普通の子供なのだが……ミリー様は才能の塊だ)
特に今日の魔道具への理解力、血が繋がっていなくとも魔道具で有名なエードラー・スパークを彷彿とさせる。だがその反面、ミリアナの鳥の物まねなどをする姿は子供のようで可愛らしかったとミカエルは笑みを浮かべ執務室へと戻る。
「ハンナさん、戻っていましたか」
「ミカエルさん、お疲れ様です。先ほど戻りました……」
部屋を共有するミカエルの同僚ハンナがやや疲れた顔で笑う。
「そういえば、今日は西のギルドでの会議でしたね。大変だったのでは?」
ミカエルが問うとハンナはため息をつきながら答える。
「はい……西のギルド長は融通が利きません。今回は特に出店する菓子の専門店という新しい試みが二店舗とも東から出ることを嫌味たっぷりにグチグチと文句を言われました」
「今まで菓子店専門を考えた人はいると思いますが、実行に移したのは私たち東ギルドの二商会だけですからね」
今回菓子店を出店するペーパーダミー商会とオーシャ商会はどちらとも東商業ギルドの管轄なのが西のギルド長は許せないのだろうとミカエルは呆れながら鼻で笑う。
「あの方はうちのギルド長に個人的に執着があるので気をつけてください」
「はい。西のギルドでも菓子店を出すと豪語していましたので、ミカエルさんも気をつけてください」
「新しい菓子店ですか……真っ当に勝負してくるのか見ものですね。こちらは何かされても万全に対策しているので大丈夫でしょう」
(根掘り葉掘りこちらの動向を探っているとは思っていたが……)
西のギルド長は人の考案を盗むのが得意だが、今回はこざかしい探りだけでは通用しないだろうとミカエルが冷ややかに笑った顔にハンナが頷きながら尋ねる。
「でも、あの感じは料理人の引き抜きとか堂々とやってきそうですよ。念のためにオーシャ商会にも調理人の契約を見直しさせたほうがいいかもしれないですね。声をかけますか?」
「オーシャ商会はこちらに委託していませんので強制はできませんが……アズール商会の会頭に助言しておきます」
ロイが会頭であるアズール商会はオーシャ商会の親商会であり、オーシャ商会の菓子店の経営はほぼロイの手腕によるものだということは多くの商人の共通認識であった。
早速ミカエルがアズール商会に西の商業ギルドの動きについて忠告する一筆を書き始めると、傍にいたハンナが叫びながら飛び上がった。
「きゃああああああああ。虫虫虫虫。とってとってとって!」
パニックに陥るハンナをミカエルが宥める。
「ハンナさん! 落ち着いて。退治しますから。虫はどこですか?」
「椅子の下! 椅子の下!」
ミカエルが丸めた紙を片手にハンナの椅子の下を覗き、笑い出す。
「ハンナさん、虫ではないので安心してください。これは紙です。本日、ここでミリー様が紙遊びをしていた残りでしょう。ほら、この鳥も紙でできています」
ミカエルが胸元に挿したミリアナ作の鶴の折り紙をハンナに見せる。紙だと知ってホッとしたハンナが尋ねる。
「紙遊びですか……落ちているのはそれと形が違いますが、あれも鳥ですか?」
ミカエルが椅子の下の折り紙を拾い、躊躇しながら答える。
「白い蜘蛛……ですかね?」
「やっぱり虫じゃないですか!」
トマトとイタズラ
いつもよりかなり早く起き、掃除でもしようかと猫亭の厨房へと下りると、暗い厨房にジョーが立っていた。
「お父さん、おはよう!」
「ミリー、今日はえらく早いな」
ん? この厨房に充満する青葉のような匂いはなんだろう。匂いを辿れば、トマトがいっぱいに入ったカゴが数個あった。
「あれ、この大量のトマトは何?」
「今まで、冬場は市販の瓶詰めトマトを使ってたんだが、去年から使う量が多くてな。今年は自分でトマトの瓶詰めを作ろうと思ってる」
「そうなんだ」
確かに去年、トマトベースのレシピを大量に出した覚えがある。トマトソースパスタ、ラザニア、ケチャップなどだ。
トマトの独特な香りが倍増して厨房に充満する。トマトの匂いは好きだけど、朝からこれだけのトマト臭を浴びるのはつらい。少しだけ避難しようと回れ右したら、その前にジョーに止められる。
「こらっ。ミリー、どこへ行こうとしてるんだ? こっちのトマトは湯むきして水に浸けているから、皮むきよろしくな」
「窓だけでも全開にしていい?」
「そこまでか? カレーの臭いに比べたら大したことないと思うがな」
笑いながらガラッと厨房の窓を全て開けたジョーに、茹でたてトマトが水に浸かったボウルをいくつかカウンターに並べられる。この細長い種類のトマトはこの国では一般的なものだ。風魔法を使い、こっそりトマト臭を窓から外へ流す。
(匂いも大丈夫になったし、早速皮をむくか……)
手をクリーンして水に浸けてあったトマトを取る。
……ぬるい。氷魔法を使いトマトたちを冷やす。
指を滑らせるとツルツルとトマトの皮がむけて気持ちいい。へへへ。
そういえば、トマトは野菜なのか果物なのかって地球の各国で論争されてたよね。
個人的にはトマトって茄子の仲間だから野菜だと思っているけど……国によっては、果物の部類に入っている。確か、野菜の税金を払いたくないがために、トマトが果物だと認めろと誰かが言い出したトマト裁判とかいうのもどこかの国であったよね。ずる賢い。
結局、その裁判では野菜っていう判決が出たらしいけど、実際の所、植物学的にいうと果物に分類されるらしい。なんとも言えない争いだ。
「ミリー、トマトの皮は捨てるぞ」
「あ! 待って。それで作りたいものがあるの」
「これでか? 全部いるのか?」
「んー、全部はいらないかな」
トマトの皮の湿気を取り、並べて塩を振る。オーブンの中心には入れず、温度の低い入り口に置く。んー、場所が足りない。この量だと、全部を乾燥させるのに数時間くらいかかりそう……
乾燥トマトの皮で作るのは、トマトソルトだ。甘じょっぱいこの塩はトマト料理にはもちろん、フライドポテトなんかにかけても美味しい。考えただけで、お腹が空く!
ジョーが大量のガラス瓶が入った箱を厨房へ持ってくる。
「次は瓶詰めだ。その前に瓶を熱湯に入れるぞ。コルクもだ」
この世界でもずっと昔から、瓶詰めは行われてきたという。クリーンを使えばいいのにと思ったけど、やはりクリーンだけでは腐る瓶が出るらしい。スクリューキャップはないので、蓋はコルクに蝋をかけたものになる。これは、なんの蝋だろうか? 動物蝋や蜜蝋にしてはなんか違うような手触りだ。もしかして、鯨蝋? この世界、鯨がいるのかな?
「お父さん、これは何?」
「キラービーの蝋だ」
予想は全てハズレ、正解は魔物でした~。
この蝋はキラービーの分泌液で作られた巣から採取できるらしい。一応、蜂なんだね。残念ながら、キラービーの蜂蜜は不味くて食べられたものではないという。
「値段が高いんじゃないの?」
「蝋の中では一番安いはずだ。一度に採れる量も多いしな。キラービーが凶暴化して中々採取できない年もあるから、その年は値が張るがな。冒険者の力量次第ってとこか? 冬前はやつらが移動で巣を捨てていくらしいから、冬場の蝋燭はお手頃で助かるがな」
その他にも木材や皮製品に使うワックスなどに使われているという。お手ごろな価格なら蜜蝋でクレヨンとか作れそう。
オーシャ商会のカヌレ風オーシャ焼きには使われていなかったけど、カヌレに蜜蝋を塗るのが伝統的な作り方だったはず。表面が艶々で、カリッとした食感に仕上がるそうだ。考えただけでヨダレが出てしまう。
あー、でも密が不味いなら蜜蝋も食料としては使えないかもしれない……
それにしても凶暴化か……聞いている話では凶暴じゃない魔物はいなさそう。攻撃的なスズメバチと似た感じかな? 蝋燭は王都市民の普段の家庭でも重宝されている。普通の人は、魔法のライトを出し続けられるほど魔力が保てないし、魔道具は高価なものだ。
「蜂蜜が美味しければいいのにね」
「一応言っておくが、森でキラービーが出る場所には行かないだろうが……見たら全速力で逃げろよ。やつらは水を嫌うからな、水のある場所に行け。小さい動物や子供は襲われて連れ去られる時があるからな」
「ん? 連れ去られるって何?」
中から返事の気配が全くしない。ミカエルさんがもう一度ベルを鳴らし、しばらく待ったがこれにも返事はなかった。
「また、これですか……」
ミカエルさんが微笑みながら額に青筋を立てベルを何度も連打する。
(ミカエルさん……)
それからベルを十回ほど鳴らしたところでガチャッとドアが開き、中から無精髭を生やしたボリスさんが顔を出した。記憶にあるボリスさんはタレ目顔のおっとりとした印象だったけど、やや疲れているようだ。お疲れ顔なのに、以前よりもさらに色気の増した雰囲気で首を傾げる。
「ミカエルさんと……ミリアナ様? 本日はどのようなご用件でしょうか?」
「ボリス、研究室にこもりきりで家にも帰っていませんよね? 奥方が心配され、毎日食べ物を届けていると聞きました。行き詰まっているようなのでミリー様をお連れしたんです」
「そ、そうですか。散らかっていますが……とりあえず、中へどうぞ」
「お、お邪魔します」
遠慮気味に入ったボリスさんの研究室は、爺さんの執務室の三倍以上の広さだった。いろいろな機材や資料があちこちに散乱している。奥には別の研究員が二人いるが、こちらには見向きもせずに机に向かって作業をしている。
「あの二人は、私の弟子です。気にせずとも大丈夫です」
ボリスさんにソファに座るよう促されるが……これは、どこに座るのかな? ソファの上には大量の紙の他に謎の棒が転がっている。
「ああ、申し訳ない。すぐ片付けるから、少し待ってください」
ボリスさんが急いでソファの片付けを始める。
ようやくソファに座ることができたので本題だ。ボリスさんが奥の部屋から作製途中のショーケースを運んでくる。
「凄い……」
思わず声が出てしまう。ショーケースの外観は、私の描いた絵の通りに忠実に仕上がっている。この国の技術でどこまで再現が可能なのか分からなかったので、思いつく限りの形のショーケースの絵を提供したが……目の前のこれは、日本のケーキ屋さんなんかでもよく見る対面型の冷蔵ショーケースだ。ボリスさんやるな。あれ? でも、何に悩んでいるのだろう? ボリスさんに尋ねる。
「ボリスさん、外観はとても素晴らしいです。問題は何でしょうか?」
「複層ガラスの部分です。複層にすること自体には問題はないのですが、隙間部分に結露ができてしまうんです」
「中を見せていただけますか?」
二枚のガラスの間には空間を確保するための金属器具のスペーサーがあり、その下には水抜きの穴と余分な水が通る通路もきちんとあった。
「ボリスさん、この金属にはなにか仕組みがありますか?」
「いいえ。何もない、ただの金属です。二つのガラスの間隔を均等にして固定するために入れています」
前世のコンビニなどでは確か電気を流して外側のガラスを温め結露を防止していた。ここでも魔石があるから、可能かもしれない。だけど、今からそれを研究していると菓子店リサのオープンに間に合わない。この構造だったら必要なのはきっとアレだと思う。
「湿気を吸い取る物が必要ですね。金属の中に乾燥剤……水気を吸い取る物があったほうがいいですね」
「水を吸い取る物……風魔法の魔石か? いや、それだとコストがかかる。吸湿性のあるものは一応あるが……水との相性が悪い」
ぶつぶつと呟くボリスさんが白い小石がたくさん入った袋を持ってくる。
これは、生石灰か? この辺に貝はないけど、石灰岩が取れる地域が近くにあるのかもしれない。生石灰は前世のお菓子の乾燥材などにも使われていたけど……水に触れると熱くなるし膨張する。これを使うのは危険だと思う。
「残念ですが……これはダメです。おっしゃる通り水と合わないなら危険だと思います」
前世には紐を引っ張って温まるお弁当があり、なぜ温まるのか気になってお弁当箱を破壊――研究したことがあった。そしたら弁当の下部分に生石灰と水袋が入っていたんだよね。
危険性を確認するために試しに生石灰を安全な箱に入れ水魔法で水をかけてみると、少しして少量の煙が上がり生石灰が熱くなる。
ミカエルさんが生石灰の近くに手を翳し、眉を顰める。
「熱くなっていますね。これは却下です。他に使える物はありますか?」
「吸湿力がある素材……うーむ。それだったらアレか、いやいや、アレも同じだ。それなら――」
あー、またボリスワールドに入っていったよ。もう私とミカエルさんの存在はボリスさんの中で微塵も形跡なく消え散ったね。
「ミリー様、もうボリスは大丈夫でしょう。この状態になった彼を引き戻すのは大変なので、今日はもう戻りましょう」
ブツブツ言うボリスさんを放置して、ミカエルさんと研究所のドアへ向かう。弟子の二人も先程と同じ位置から動いていない。これはボリスさんの奥さんも心配で食事を持ってくるわけだ。
急にバサバサと音が聞こえると、カラスのような黒い鳥が窓辺から研究室の中に入ろうとするのが見えた。すぐにボリスさんの弟子が視線を机から外さず、バシッと黒い鳥がとまろうとする窓枠の辺りを棒で叩く。黒い鳥は逃げるように空に羽ばたいていった。
(あの棒はこのための物か!)
無言で窓辺を見つめ、ミカエルさんに声をかける。
「……ボリスさんもお弟子さんも、研究熱心ですね」
「周りが見えなくなると心配していましたが……大丈夫そうですね。それに、ボリスはいつも素晴らしい成果を出します」
ミカエルさんはそう言うとジッと私を見つめた。
「何か他にありましたか?」
「はい、ミリー様は先程の小石のことをご存じだったのですか?」
あ、そういえば熱くなった生石灰に驚きもせずに普通にしてた。誤魔化そう。
「え? はい。木工屋で前にお話を聞いたことがあったので……」
「そうですか……」
変な間が流れたので話を逸らそうとしたが、その前にミカエルさんが研究室のドアを開けながら言う。
「ミリー様。私はこの後にいくつか執務があります。応接室でお茶を飲みながら、お迎えを待ちますか?」
一人でティータイムもいいのだけど、数時間のロンリータイムを過ごすよりも気になっていたミカエルさんの業務を見学したい。
「一応、商業ギルドの見習いということになっているので、今日はミカエルさんについて行ってもいいですか?」
「構いませんよ。では、行きましょうか。ジェームズ」
ミカエルさんが私の見習い用の偽名で呼びかけたので、元気よく返事をする。
「はい!」
◆
ミカエルさんについて商業ギルドの中を移動すれば、行く先々で声をかけられる。
「ミカエルさん、この前は助言をありがとうございました。おかげで、商売がスムーズになりました」
「いえいえ。上手くいって、よかったです」
声をかけられたのはこれで三人目だ。ミカエルさんは人気者だね。でも、挨拶をされる度に立ち止まってしまう。これではいつまでたっても自分の仕事ができない。何度も呼び止められて業務が遅れても、ミカエルさんは全ての人に穏やかな対応をし続けていた。
ようやくミカエルさんの執務室に到着する。ここまでくるのに結構時間がかかった。ミカエルさんは爺さんのもう一人の部下と相部屋らしいけど、もう一人の姿は見えない。部屋の中は殺風景で必要最低限の家具があるだけだ。
キョロキョロしているとミカエルさんが苦笑いをする。
「こちらの部屋には、お客様をお通しすることはありません。何もなくてつまらないですよね」
「そんなことないですよ」
「目を通さないといけない書類がありますので、ミリー様はこちら、私の隣の席に座ってお待ちください。お茶をお出しましょうか?」
「お茶は大丈夫です。お気遣いをありがとうございます」
ミカエルさんの隣の席はどうやら同僚の席のようだ。
机の上には小さな押し花のしおりが飾ってあった。この席の主であるもう一人の部下の名前はなんだったかな……何度か服を着替えるのを手伝ってもらった二十代半ばの女性だ。若いのに爺さんの直属の部下を務めるのはやはり優秀だからだろう。
席に座り、隣で執務を始めたミカエルさんを眺める。
(ミカエルさん、綺麗に机を整理してるなぁ)
特にやることもなく暇なので、お絵かき用にもらった紙で折り鶴を折る。少しして完成した折り鶴は、まぁ普通の鶴だな。
鶴を手で飛ばしながら小さく呟く。
「ピヨピヨ」
あれ? 鶴ってどう鳴くの? カァーはカラスで……あ、そうだった!
「クエェェェ」
「ミリー様! どうされましたか?」
「すみません。なんでもないです。気にしないでください」
つい、大きな声を出してしまった。これ以上ミカエルさんの邪魔はしたくないので大人しく折り紙に没頭する。
普通の鶴だけでは面白くないので、祝い鶴や足のある鶴を折る。足がある鶴はカエルっぽい。調子に乗って、九万里の大鶴も折る。風魔法をハサミのように使い完成! これは大作だ。九万里は大鶴の両翼の先に小さな鶴が乗った連鶴だ。良い出来に口角を上げる。
(手先はそれなりに器用なはずなのに、なんで未だに裁縫や刺繍は不器用なのだろうか……)
鶴はもうレパートリー切れなので、次はカニだ。幼児用の可愛いカニではなく、立体感ある足八本のやつだ。途中までは鶴と折り方が似てるから楽勝だね。ハサミで切らないといけない部分はまたこっそりと風魔法を使う。
完成したけど……何匹作っても白い紙だからか、今一つカニという感じではない。強いて言えば、白い蜘蛛に見える。あ! そうだ。白なら、迎えに来てくれるガレルさんにプレゼントするためにあれを折ろう。あれも途中までは鶴と同じだしね。
黙々と折り紙の作業をしてたら、仕事を終えたミカエルさんに声をかけられる。
「ミリー様、こちらは終了しましたが……それは鳥ですか? よくできてますね。紙で作られたのですか?」
ヒィ。ミカエルさんの目がまたギラギラしている。なんでも商品にしなくていいから。
「お父さんとお母さんに見せたいので、これはダメです」
「そうですか。残念です」
「でも、この鳥だったらミカエルさんにあげます」
ミカエルさんに普通に折った鶴をあげると、目を細めながらそのまま胸ポケットに飾ってくれた。次回見る時には鶴にリボンが付いて可愛くされていそうだ。
「大切にしますね。そろそろ、お迎えが来る時間です」
「そうですね。ガレルさんを待たせるのも悪いので、急ぎます」
完成品の鶴やカニをポシェットに入れる。最近、猫の財布から物を落とす事件があったのでマリッサに肩掛けのポシェットを作ってもらった。まだ刺繍とかは施していないけど、後で猫の刺繍をしてもらう予定だ。自分で刺繍? 妖怪が誕生しそうなので却下だ。
ミカエルさんに商業ギルドの入り口まで送ってもらう。
「あ、ガレルさんだ。ミカエルさん今日はありがとうございました」
「気をつけてお帰りください」
ミカエルさんに手を振り、ガレルさんと商業ギルドを後にする。
「ガレルさん、今日もお迎えありがとうございます。今日は特別に凄いの作りました!」
「気にするな。また菓子か?」
「違います。これです」
差し出した手に折り紙を乗せると、ガレルさんが目を見開き大声を上げた。
「アクラブ!」
折り紙を地面に叩きつけ踏み潰そうとするガレルさんを止める。
「待って待って。ガレルさん! 違うの。これ紙なの!」
「紙?」
「そうそう。ほら、見て。手に乗せても動かないでしょう?」
手に乗せたサソリの折り紙をガレルさんに見せると、不思議そうにサソリを触った。
「紙……そうか。驚いた。なんのためにこれを?」
「ガレルさんの国にも、もしかしたらいるかなって」
「……いる。でも猛毒。危ない。見たら踏み潰す」
砂の国ではサソリはたまに家の中にも入ってくるそうで、出かける前は靴の中など毎回確認するそうだ。完全に害虫扱いだ。
「驚かせてごめんなさい。他の折り紙もあるよ。この、鳥はどう?」
「アクラブがいい。ラジェにも見せたい。よくできている」
「えへへ。褒めてくれて、ありがとうございます」
ガレルさんが本物のサソリだと思ってびっくりした顔を思い出し、クスッと笑う。
「どうした?」
「いえいえ、早く帰りましょう!」
仲良く二人で並んで帰る。ガレルさんのポケットからはチラリと白いサソリの折り紙が見えた。
ミカエルさんの執務室にて
洞察力、発想力、行動力の全てにおいて自分の知っている子供とは違うとミカエルはミリアナの後ろ姿を見送りながら思った。
(傍から見れば普通の子供なのだが……ミリー様は才能の塊だ)
特に今日の魔道具への理解力、血が繋がっていなくとも魔道具で有名なエードラー・スパークを彷彿とさせる。だがその反面、ミリアナの鳥の物まねなどをする姿は子供のようで可愛らしかったとミカエルは笑みを浮かべ執務室へと戻る。
「ハンナさん、戻っていましたか」
「ミカエルさん、お疲れ様です。先ほど戻りました……」
部屋を共有するミカエルの同僚ハンナがやや疲れた顔で笑う。
「そういえば、今日は西のギルドでの会議でしたね。大変だったのでは?」
ミカエルが問うとハンナはため息をつきながら答える。
「はい……西のギルド長は融通が利きません。今回は特に出店する菓子の専門店という新しい試みが二店舗とも東から出ることを嫌味たっぷりにグチグチと文句を言われました」
「今まで菓子店専門を考えた人はいると思いますが、実行に移したのは私たち東ギルドの二商会だけですからね」
今回菓子店を出店するペーパーダミー商会とオーシャ商会はどちらとも東商業ギルドの管轄なのが西のギルド長は許せないのだろうとミカエルは呆れながら鼻で笑う。
「あの方はうちのギルド長に個人的に執着があるので気をつけてください」
「はい。西のギルドでも菓子店を出すと豪語していましたので、ミカエルさんも気をつけてください」
「新しい菓子店ですか……真っ当に勝負してくるのか見ものですね。こちらは何かされても万全に対策しているので大丈夫でしょう」
(根掘り葉掘りこちらの動向を探っているとは思っていたが……)
西のギルド長は人の考案を盗むのが得意だが、今回はこざかしい探りだけでは通用しないだろうとミカエルが冷ややかに笑った顔にハンナが頷きながら尋ねる。
「でも、あの感じは料理人の引き抜きとか堂々とやってきそうですよ。念のためにオーシャ商会にも調理人の契約を見直しさせたほうがいいかもしれないですね。声をかけますか?」
「オーシャ商会はこちらに委託していませんので強制はできませんが……アズール商会の会頭に助言しておきます」
ロイが会頭であるアズール商会はオーシャ商会の親商会であり、オーシャ商会の菓子店の経営はほぼロイの手腕によるものだということは多くの商人の共通認識であった。
早速ミカエルがアズール商会に西の商業ギルドの動きについて忠告する一筆を書き始めると、傍にいたハンナが叫びながら飛び上がった。
「きゃああああああああ。虫虫虫虫。とってとってとって!」
パニックに陥るハンナをミカエルが宥める。
「ハンナさん! 落ち着いて。退治しますから。虫はどこですか?」
「椅子の下! 椅子の下!」
ミカエルが丸めた紙を片手にハンナの椅子の下を覗き、笑い出す。
「ハンナさん、虫ではないので安心してください。これは紙です。本日、ここでミリー様が紙遊びをしていた残りでしょう。ほら、この鳥も紙でできています」
ミカエルが胸元に挿したミリアナ作の鶴の折り紙をハンナに見せる。紙だと知ってホッとしたハンナが尋ねる。
「紙遊びですか……落ちているのはそれと形が違いますが、あれも鳥ですか?」
ミカエルが椅子の下の折り紙を拾い、躊躇しながら答える。
「白い蜘蛛……ですかね?」
「やっぱり虫じゃないですか!」
トマトとイタズラ
いつもよりかなり早く起き、掃除でもしようかと猫亭の厨房へと下りると、暗い厨房にジョーが立っていた。
「お父さん、おはよう!」
「ミリー、今日はえらく早いな」
ん? この厨房に充満する青葉のような匂いはなんだろう。匂いを辿れば、トマトがいっぱいに入ったカゴが数個あった。
「あれ、この大量のトマトは何?」
「今まで、冬場は市販の瓶詰めトマトを使ってたんだが、去年から使う量が多くてな。今年は自分でトマトの瓶詰めを作ろうと思ってる」
「そうなんだ」
確かに去年、トマトベースのレシピを大量に出した覚えがある。トマトソースパスタ、ラザニア、ケチャップなどだ。
トマトの独特な香りが倍増して厨房に充満する。トマトの匂いは好きだけど、朝からこれだけのトマト臭を浴びるのはつらい。少しだけ避難しようと回れ右したら、その前にジョーに止められる。
「こらっ。ミリー、どこへ行こうとしてるんだ? こっちのトマトは湯むきして水に浸けているから、皮むきよろしくな」
「窓だけでも全開にしていい?」
「そこまでか? カレーの臭いに比べたら大したことないと思うがな」
笑いながらガラッと厨房の窓を全て開けたジョーに、茹でたてトマトが水に浸かったボウルをいくつかカウンターに並べられる。この細長い種類のトマトはこの国では一般的なものだ。風魔法を使い、こっそりトマト臭を窓から外へ流す。
(匂いも大丈夫になったし、早速皮をむくか……)
手をクリーンして水に浸けてあったトマトを取る。
……ぬるい。氷魔法を使いトマトたちを冷やす。
指を滑らせるとツルツルとトマトの皮がむけて気持ちいい。へへへ。
そういえば、トマトは野菜なのか果物なのかって地球の各国で論争されてたよね。
個人的にはトマトって茄子の仲間だから野菜だと思っているけど……国によっては、果物の部類に入っている。確か、野菜の税金を払いたくないがために、トマトが果物だと認めろと誰かが言い出したトマト裁判とかいうのもどこかの国であったよね。ずる賢い。
結局、その裁判では野菜っていう判決が出たらしいけど、実際の所、植物学的にいうと果物に分類されるらしい。なんとも言えない争いだ。
「ミリー、トマトの皮は捨てるぞ」
「あ! 待って。それで作りたいものがあるの」
「これでか? 全部いるのか?」
「んー、全部はいらないかな」
トマトの皮の湿気を取り、並べて塩を振る。オーブンの中心には入れず、温度の低い入り口に置く。んー、場所が足りない。この量だと、全部を乾燥させるのに数時間くらいかかりそう……
乾燥トマトの皮で作るのは、トマトソルトだ。甘じょっぱいこの塩はトマト料理にはもちろん、フライドポテトなんかにかけても美味しい。考えただけで、お腹が空く!
ジョーが大量のガラス瓶が入った箱を厨房へ持ってくる。
「次は瓶詰めだ。その前に瓶を熱湯に入れるぞ。コルクもだ」
この世界でもずっと昔から、瓶詰めは行われてきたという。クリーンを使えばいいのにと思ったけど、やはりクリーンだけでは腐る瓶が出るらしい。スクリューキャップはないので、蓋はコルクに蝋をかけたものになる。これは、なんの蝋だろうか? 動物蝋や蜜蝋にしてはなんか違うような手触りだ。もしかして、鯨蝋? この世界、鯨がいるのかな?
「お父さん、これは何?」
「キラービーの蝋だ」
予想は全てハズレ、正解は魔物でした~。
この蝋はキラービーの分泌液で作られた巣から採取できるらしい。一応、蜂なんだね。残念ながら、キラービーの蜂蜜は不味くて食べられたものではないという。
「値段が高いんじゃないの?」
「蝋の中では一番安いはずだ。一度に採れる量も多いしな。キラービーが凶暴化して中々採取できない年もあるから、その年は値が張るがな。冒険者の力量次第ってとこか? 冬前はやつらが移動で巣を捨てていくらしいから、冬場の蝋燭はお手頃で助かるがな」
その他にも木材や皮製品に使うワックスなどに使われているという。お手ごろな価格なら蜜蝋でクレヨンとか作れそう。
オーシャ商会のカヌレ風オーシャ焼きには使われていなかったけど、カヌレに蜜蝋を塗るのが伝統的な作り方だったはず。表面が艶々で、カリッとした食感に仕上がるそうだ。考えただけでヨダレが出てしまう。
あー、でも密が不味いなら蜜蝋も食料としては使えないかもしれない……
それにしても凶暴化か……聞いている話では凶暴じゃない魔物はいなさそう。攻撃的なスズメバチと似た感じかな? 蝋燭は王都市民の普段の家庭でも重宝されている。普通の人は、魔法のライトを出し続けられるほど魔力が保てないし、魔道具は高価なものだ。
「蜂蜜が美味しければいいのにね」
「一応言っておくが、森でキラービーが出る場所には行かないだろうが……見たら全速力で逃げろよ。やつらは水を嫌うからな、水のある場所に行け。小さい動物や子供は襲われて連れ去られる時があるからな」
「ん? 連れ去られるって何?」
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