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五章 『運命の糸』
241話 『地獄のような救いの手』
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「え、えっ?」
無理解がその少女の思考を支配する。
空白による、思考の染め上げ。あるいは、阻害。
目の前にあるのは、激しい怒りに身を委ねた男達の姿と、何を考えているのか分からない、髪が黒く変色した少女の姿のみ。
頬をぶたれたらしく、感覚が無くなっていた。鼻血が唇から滴り落ちて、先程、声を出した時に傷んだ唇は、切れて血が滲んでいる。
大の大人から本気の拳を喰らい、何をされたのか、少女はあまりの激痛から、その認識をしないよう無意識下で脳が必死に努めている事に気づけない。
ただ、吹っ飛ばされて。
ただ、感覚が無くなって。
ただ、熱を帯び始めたその箇所を手で押さえながら、言葉を、思考を、失っていた。
「愛香、負けだよ」
重ねて告げられたその声に少しずつ意識が呼び起こされ、状況に思考が追いつきつつあった。小さな少女の声が、言葉一つが、途方も無く大きな大砲のように愛香には思われた。
「もうこの人達は、愛香は操ってない。待ってもらってるけど、今のがこの人達の答え」
そう言う彼女の周囲に立つ男達は全員、現出した煙や靄、黒色をしたそれらに体を絡められて足止めされていた。
一歩、一歩。危うい足取りで愛香へと近づいてくる彼女を見つめながら、ぽろぽろと涙を流す。愛香は、声をただ殺し、ただ泣いた。そして、絞り出すような掠れた声で一言。
「……して」
「なんて?」
近づいていくエミリは、無機質に訪ね返す。
瞬間、ふるふると唇を震わせて、愛香は叫んだ。
「殺し、てッ!」
「どうして?」
平坦な返答。そして、質問。その声に堪えられず、愛香は叫ぶ。
「私は、もう何もできない! だって、貰った力全部、使ったのに……勝てない! お兄ちゃんを、取り戻せない……。ああ、嫌だ、やだやだやだ。やだあ……。もう、生きたくない。こんな所、生きたくない。死にたい。ねえ、その人達は、私を殺したい、でしょ? いいよ、殺して。このまま、生きたくない……」
エミリは、よろよろと歩いていた。
話し終わる頃には、顔を抱えて蹲る愛香を、上から見下ろす位置に立っていた。
「死にたいの?」
「…………」
床を見つめたまま、何かを食い縛るように歯を噛み合わせたその顔は、誰にも見られる事はない。その、足下にある後頭部を見つめながらエミリは告げる。
「殺さないよ」
食い縛っていた歯が浮いた。顎に込めていた力が抜けて、代わりに、ぽろぽろと目から涙が溢れる。いつの間にか止まっていた涙が再び湧き上がった。
それは、直後に顔を支配する熱によって、再び力が込められる。
「ふざ、けないで……」
「人を傷付けるのは、ダメなことなんだよ?」
「……は?」
「だから、傷付けない」
冷たい風が、部屋の中にびゅおうと吹き込んで来た。
その場の空気が一変する。
背後で男達が獣のような唸り声を上げながら、エミリを睨みつけていた。それを肩越しに開閉する瞳孔で一瞥したエミリは、唸り声を背負いながら再び前を向いて愛香に告げる。
「ボクは愛香を死なせない。悪い事は、しちゃいけないから」
それを言い切った瞬間、電撃に貫かれたような頭痛が走る。
一瞬だったその頭痛にエミリは眉をひそめる。
そして次の瞬間には、靄の拘束を解かれた背後の男達が自分達へ、正確には愛香へとこれまでの屈辱を、雪辱を、恨みを晴らすため迫って来ていた。
「…………」
何も言わず、エミリは無表情のまま呆然とする愛香を抱き抱える。エミリを通り越して愛香に殴り掛かろうと殺到していた男達はたじろぐ。
その隙にエミリは愛香を抱きかかえたまま引き摺り、浅い呼吸を繰り返す。
エミリを見上げた愛香は眉をひそめて、エミリの体を切り裂くような声を上げながら突き放した。──と、その後ろに開けていた窓枠があって、愛香は目を見開きながら振り返る。
そこにあるのは遠くに見える真っ白な地面。
「──ぁ」
死ぬんだ、と愛香は確信した。
そして、ようやく死ねると、救われたように頬を綻ばせた。
ずるりと滑り落ちるように窓の外へと頭から落ちる。
満足だった。地獄のような日々を送るのも、うんざりだったのだ。これでようやく、この日々は終わりを迎えると思うと、愛香は心の底から安堵した笑みを浮かべた。だが。
「ああああああああああああああああああッッ‼」
叫ぶ声は、生存本能の最後の悪あがき。命の最後に燃やし尽くされる僅かな灯火。
しわがれたはずの喉の奥から絞られる声に応える者は誰一人としていない。
──その足をぐっと掴んだエミリ以外は、確かに誰もいなかったのだ。
自分の足を掴む少女の姿を視界に入れた途端、彼女に強い蹴りを放つ。力も弱い小さな少女の手は簡単に剥がれるはずだった。しかし、それは簡単には剥がれない。
死人のようなその黒と白の瞳に愛香はその手を何度も蹴って引き剥がそうとする。
「離れろ! 離れろ離れろ離れろ!」
「死なせ──」
突如、ぐりんと瞳が上を向き、瞼の向こう側へと隠れた。白目。
それと同時に彼女の手はふわりと離れ、少しだけ二人の間に距離が生まれる。
もう一度、頭の上を見る。
そこには真っ白な地面がすぐ目の前にまで迫っていて──
「大丈夫か?」
衝突する直前、二人を左右それぞれの手で抱えていたのはレイカだった。
※※※
窓を割って外に飛び出したレイカ。
涙が浮かぶその目を大きく見開いて、宙を浮かんでいた。
その目に映るのは、窓から落ちている二人の少女の姿。一人は見知った少女愛香で、もう一人は、髪の色こそ変わっているが、顔と服装を見ればエミリだという事は一目瞭然だった。
その瞬間、超人的な脚力で飛び出した市役所の壁を蹴って地面と平行に、落ちていく二人の少女に向かって飛んでゆく。途中、階段を上るかのように空気を蹴って加速していったレイカはいとも簡単に二人に追いつき、地面に衝突する直前に愛香を抱きかかえ、そこから身を回してエミリを反対側の腕で抱きかかえる。
「大丈夫か?」
校舎の中をその勢いのまま駆け抜け、正面に立つ柱へと足裏を着け、そこから持て余した勢いを使って天井を走り、もと来た方向へと突っ走る。
「この街から出るよ、良いね?」
どこか一点を見つめながら唇を引き結ぶ愛香と、背中の方で気を失っているエミリ。返事ができるような状態でない二人の返事は期待しない。
いつの間にか、コートを落としていたレイカは薄いブラウス越しに感じる凍えるような寒さに一瞬だけ身震いして、変わり果てた二人の返事を待たずに拠点へと戻って行った。
※※※
斯くして、それぞれに起こった事件が一応の決着を見せた時、まほまほくん、もとい川田ゆうは一人、雪の上を歩いていた。はらはらと小さな粉雪が降りしきる一面の光景には目もくれず、自分の足下をだらしなく見つめながら、ぽつぽつと歩いていた。
指を赤く染め上げた包帯で巻き、疲れ果てた顔の川田ゆう。彼は数刻前の事を思い起こす。
『──全て話していただけるのなら、解放しましょう』
運命を変える力を持つ少女、エミリ。もし本当にそんな能力があるのだとすれば、今日こんなにも災難に見舞われたのは彼女のせいなのではないか、と邪推が脳裏を駆け巡る。
益体も無く、思い返される苦痛。
最初に始まったのは周囲への攻撃。『姉』が眠っているあの建物へと、ヴィジターを送り込んだと。見ようとするのは怖くもあったが、見なければ、延々と恐怖と戦い続ける事になる。それならば、見て、罪悪感に苛まれた方が幾らかマシに思えた。
「ああ、痛い……」
零れた声は掠れ、疲れ果てていた。
泣いた後なのか目元は少しばかり湿っている。
ふと、顔を上げれば見えるはずの建物を、下を向いて頑なに見ようとしないのは最後の足掻きなのかどうか、彼自身、分かってはいなかった。ただ、脅迫めいた何かが頭からぶら下がり、どうしても顔を上げることは叶わずにいた。
「おーい! まほまほくーん! もう皆さん帰ってますよー!」
そう、川田ゆうを呼ぶ声がしてぴくりと動きを止める。しかし一瞬間後には再び歩き出した。手を挙げて返事する事も億劫で、何も返さずにとぼとぼと歩を進める。
「無視しないでくださいよー! あと、お話があるので駆け足で帰ってきてくださーい!」
無視。歩き続ける。指に突き刺される痛み。無視。歩き続ける。足に纏わりつく凍傷の予兆。無視。歩き続ける。無視、無視、無視。歩き、歩いて、進み続ける。
「どうしたんですか?」
肩を掴まれて弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは『人造人間』で、人が大好きな少女だった。
目的地からは少し離れているようでいつの間にやら外に出て迎えに来ていたらしかった。
彼の瞳は少女の顔を映しながら、少しずつその像をゆらゆらと歪ませてしまう。
ああ、ダメだなと、彼は腹の底に呟いた。
「……ごめん」
「え?」
唐突な謝罪に、るんちゃんは何を言われているのかが分からず、特徴的なまろ眉を上げて、金色の瞳を瞬かせた。そんな、何も知らないその顔を見る事ができずに川田ゆうは目を伏せて、ぽつり、ぽつりと、
「俺は、お前達を……」
顔を伏せて、掠れていた声を湿らせて、彼は肩を震わせる。
ただならぬその様子に、るんちゃんはただ彼の様子を見つめ続ける。
「ぅ──」
「何か、あったんですね?」
普段を想像できなくなるほど、彼女の口調には重みがあった。
その声に、川田ゆうは大きく目を見開いて、しかし、顔を上げることは叶わない。
「…………」
黙り続ける彼に、ため息の後にるんちゃんは一言付け加える。
「七つの大罪の一人を見つけました」
「ぇ……」
驚きのあまり顔を伏せる事を体がやめてしまった。彼女をその見開いた目で見れば、るんちゃんはいつもの愛らしさよりも、少しの鋭さを覚える瞳で川田ゆうを見つめていた。
「色々と、話があるんです」
「…………」
石化したかのように、体が動かない。
繋がったかのように、視線が動かない。
「中で、話しましょう。良いですね?」
「…………」
彼はただの一言も返すことができず、下を向いて、自分に問いかける。
アレは恐怖を克服する戦いだった。
ならば、克服できたのか。
「……ああ」
るんちゃんにはそう返事をして、彼女の後を追う形で彼は帰路についた。
[あとがき]
また遅れてすみませんでした。
来年はしっかりと気を引き締めていきます。
次回は8日です。よろしくお願いします。
無理解がその少女の思考を支配する。
空白による、思考の染め上げ。あるいは、阻害。
目の前にあるのは、激しい怒りに身を委ねた男達の姿と、何を考えているのか分からない、髪が黒く変色した少女の姿のみ。
頬をぶたれたらしく、感覚が無くなっていた。鼻血が唇から滴り落ちて、先程、声を出した時に傷んだ唇は、切れて血が滲んでいる。
大の大人から本気の拳を喰らい、何をされたのか、少女はあまりの激痛から、その認識をしないよう無意識下で脳が必死に努めている事に気づけない。
ただ、吹っ飛ばされて。
ただ、感覚が無くなって。
ただ、熱を帯び始めたその箇所を手で押さえながら、言葉を、思考を、失っていた。
「愛香、負けだよ」
重ねて告げられたその声に少しずつ意識が呼び起こされ、状況に思考が追いつきつつあった。小さな少女の声が、言葉一つが、途方も無く大きな大砲のように愛香には思われた。
「もうこの人達は、愛香は操ってない。待ってもらってるけど、今のがこの人達の答え」
そう言う彼女の周囲に立つ男達は全員、現出した煙や靄、黒色をしたそれらに体を絡められて足止めされていた。
一歩、一歩。危うい足取りで愛香へと近づいてくる彼女を見つめながら、ぽろぽろと涙を流す。愛香は、声をただ殺し、ただ泣いた。そして、絞り出すような掠れた声で一言。
「……して」
「なんて?」
近づいていくエミリは、無機質に訪ね返す。
瞬間、ふるふると唇を震わせて、愛香は叫んだ。
「殺し、てッ!」
「どうして?」
平坦な返答。そして、質問。その声に堪えられず、愛香は叫ぶ。
「私は、もう何もできない! だって、貰った力全部、使ったのに……勝てない! お兄ちゃんを、取り戻せない……。ああ、嫌だ、やだやだやだ。やだあ……。もう、生きたくない。こんな所、生きたくない。死にたい。ねえ、その人達は、私を殺したい、でしょ? いいよ、殺して。このまま、生きたくない……」
エミリは、よろよろと歩いていた。
話し終わる頃には、顔を抱えて蹲る愛香を、上から見下ろす位置に立っていた。
「死にたいの?」
「…………」
床を見つめたまま、何かを食い縛るように歯を噛み合わせたその顔は、誰にも見られる事はない。その、足下にある後頭部を見つめながらエミリは告げる。
「殺さないよ」
食い縛っていた歯が浮いた。顎に込めていた力が抜けて、代わりに、ぽろぽろと目から涙が溢れる。いつの間にか止まっていた涙が再び湧き上がった。
それは、直後に顔を支配する熱によって、再び力が込められる。
「ふざ、けないで……」
「人を傷付けるのは、ダメなことなんだよ?」
「……は?」
「だから、傷付けない」
冷たい風が、部屋の中にびゅおうと吹き込んで来た。
その場の空気が一変する。
背後で男達が獣のような唸り声を上げながら、エミリを睨みつけていた。それを肩越しに開閉する瞳孔で一瞥したエミリは、唸り声を背負いながら再び前を向いて愛香に告げる。
「ボクは愛香を死なせない。悪い事は、しちゃいけないから」
それを言い切った瞬間、電撃に貫かれたような頭痛が走る。
一瞬だったその頭痛にエミリは眉をひそめる。
そして次の瞬間には、靄の拘束を解かれた背後の男達が自分達へ、正確には愛香へとこれまでの屈辱を、雪辱を、恨みを晴らすため迫って来ていた。
「…………」
何も言わず、エミリは無表情のまま呆然とする愛香を抱き抱える。エミリを通り越して愛香に殴り掛かろうと殺到していた男達はたじろぐ。
その隙にエミリは愛香を抱きかかえたまま引き摺り、浅い呼吸を繰り返す。
エミリを見上げた愛香は眉をひそめて、エミリの体を切り裂くような声を上げながら突き放した。──と、その後ろに開けていた窓枠があって、愛香は目を見開きながら振り返る。
そこにあるのは遠くに見える真っ白な地面。
「──ぁ」
死ぬんだ、と愛香は確信した。
そして、ようやく死ねると、救われたように頬を綻ばせた。
ずるりと滑り落ちるように窓の外へと頭から落ちる。
満足だった。地獄のような日々を送るのも、うんざりだったのだ。これでようやく、この日々は終わりを迎えると思うと、愛香は心の底から安堵した笑みを浮かべた。だが。
「ああああああああああああああああああッッ‼」
叫ぶ声は、生存本能の最後の悪あがき。命の最後に燃やし尽くされる僅かな灯火。
しわがれたはずの喉の奥から絞られる声に応える者は誰一人としていない。
──その足をぐっと掴んだエミリ以外は、確かに誰もいなかったのだ。
自分の足を掴む少女の姿を視界に入れた途端、彼女に強い蹴りを放つ。力も弱い小さな少女の手は簡単に剥がれるはずだった。しかし、それは簡単には剥がれない。
死人のようなその黒と白の瞳に愛香はその手を何度も蹴って引き剥がそうとする。
「離れろ! 離れろ離れろ離れろ!」
「死なせ──」
突如、ぐりんと瞳が上を向き、瞼の向こう側へと隠れた。白目。
それと同時に彼女の手はふわりと離れ、少しだけ二人の間に距離が生まれる。
もう一度、頭の上を見る。
そこには真っ白な地面がすぐ目の前にまで迫っていて──
「大丈夫か?」
衝突する直前、二人を左右それぞれの手で抱えていたのはレイカだった。
※※※
窓を割って外に飛び出したレイカ。
涙が浮かぶその目を大きく見開いて、宙を浮かんでいた。
その目に映るのは、窓から落ちている二人の少女の姿。一人は見知った少女愛香で、もう一人は、髪の色こそ変わっているが、顔と服装を見ればエミリだという事は一目瞭然だった。
その瞬間、超人的な脚力で飛び出した市役所の壁を蹴って地面と平行に、落ちていく二人の少女に向かって飛んでゆく。途中、階段を上るかのように空気を蹴って加速していったレイカはいとも簡単に二人に追いつき、地面に衝突する直前に愛香を抱きかかえ、そこから身を回してエミリを反対側の腕で抱きかかえる。
「大丈夫か?」
校舎の中をその勢いのまま駆け抜け、正面に立つ柱へと足裏を着け、そこから持て余した勢いを使って天井を走り、もと来た方向へと突っ走る。
「この街から出るよ、良いね?」
どこか一点を見つめながら唇を引き結ぶ愛香と、背中の方で気を失っているエミリ。返事ができるような状態でない二人の返事は期待しない。
いつの間にか、コートを落としていたレイカは薄いブラウス越しに感じる凍えるような寒さに一瞬だけ身震いして、変わり果てた二人の返事を待たずに拠点へと戻って行った。
※※※
斯くして、それぞれに起こった事件が一応の決着を見せた時、まほまほくん、もとい川田ゆうは一人、雪の上を歩いていた。はらはらと小さな粉雪が降りしきる一面の光景には目もくれず、自分の足下をだらしなく見つめながら、ぽつぽつと歩いていた。
指を赤く染め上げた包帯で巻き、疲れ果てた顔の川田ゆう。彼は数刻前の事を思い起こす。
『──全て話していただけるのなら、解放しましょう』
運命を変える力を持つ少女、エミリ。もし本当にそんな能力があるのだとすれば、今日こんなにも災難に見舞われたのは彼女のせいなのではないか、と邪推が脳裏を駆け巡る。
益体も無く、思い返される苦痛。
最初に始まったのは周囲への攻撃。『姉』が眠っているあの建物へと、ヴィジターを送り込んだと。見ようとするのは怖くもあったが、見なければ、延々と恐怖と戦い続ける事になる。それならば、見て、罪悪感に苛まれた方が幾らかマシに思えた。
「ああ、痛い……」
零れた声は掠れ、疲れ果てていた。
泣いた後なのか目元は少しばかり湿っている。
ふと、顔を上げれば見えるはずの建物を、下を向いて頑なに見ようとしないのは最後の足掻きなのかどうか、彼自身、分かってはいなかった。ただ、脅迫めいた何かが頭からぶら下がり、どうしても顔を上げることは叶わずにいた。
「おーい! まほまほくーん! もう皆さん帰ってますよー!」
そう、川田ゆうを呼ぶ声がしてぴくりと動きを止める。しかし一瞬間後には再び歩き出した。手を挙げて返事する事も億劫で、何も返さずにとぼとぼと歩を進める。
「無視しないでくださいよー! あと、お話があるので駆け足で帰ってきてくださーい!」
無視。歩き続ける。指に突き刺される痛み。無視。歩き続ける。足に纏わりつく凍傷の予兆。無視。歩き続ける。無視、無視、無視。歩き、歩いて、進み続ける。
「どうしたんですか?」
肩を掴まれて弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは『人造人間』で、人が大好きな少女だった。
目的地からは少し離れているようでいつの間にやら外に出て迎えに来ていたらしかった。
彼の瞳は少女の顔を映しながら、少しずつその像をゆらゆらと歪ませてしまう。
ああ、ダメだなと、彼は腹の底に呟いた。
「……ごめん」
「え?」
唐突な謝罪に、るんちゃんは何を言われているのかが分からず、特徴的なまろ眉を上げて、金色の瞳を瞬かせた。そんな、何も知らないその顔を見る事ができずに川田ゆうは目を伏せて、ぽつり、ぽつりと、
「俺は、お前達を……」
顔を伏せて、掠れていた声を湿らせて、彼は肩を震わせる。
ただならぬその様子に、るんちゃんはただ彼の様子を見つめ続ける。
「ぅ──」
「何か、あったんですね?」
普段を想像できなくなるほど、彼女の口調には重みがあった。
その声に、川田ゆうは大きく目を見開いて、しかし、顔を上げることは叶わない。
「…………」
黙り続ける彼に、ため息の後にるんちゃんは一言付け加える。
「七つの大罪の一人を見つけました」
「ぇ……」
驚きのあまり顔を伏せる事を体がやめてしまった。彼女をその見開いた目で見れば、るんちゃんはいつもの愛らしさよりも、少しの鋭さを覚える瞳で川田ゆうを見つめていた。
「色々と、話があるんです」
「…………」
石化したかのように、体が動かない。
繋がったかのように、視線が動かない。
「中で、話しましょう。良いですね?」
「…………」
彼はただの一言も返すことができず、下を向いて、自分に問いかける。
アレは恐怖を克服する戦いだった。
ならば、克服できたのか。
「……ああ」
るんちゃんにはそう返事をして、彼女の後を追う形で彼は帰路についた。
[あとがき]
また遅れてすみませんでした。
来年はしっかりと気を引き締めていきます。
次回は8日です。よろしくお願いします。
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