当たり前の幸せを

紅蓮の焔

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一章 泡沫の夢に

32話 『感情』

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「昨日は、大丈夫だった……?」
「……誰も、助けて、くれなくて……。大人の人も、皆、みんな……」
「ご、ごめんなさい……。その、泣かせようとしたわけじゃ……」
「その、おにい、ちゃん……は、その傷……」
「あ、ああ……。これ、ね……。実は、その……喧嘩、しちゃって……」
「おともだち……?」
「ううん……。でも……僕の、大切な人の、友達」
「そ、の……どう、して……」
「その、ね……大切な人が、殺されちゃった、から……。ああ……ごめんね……その、勝手に涙が出てきて……。それ、で、僕が、その人を、殺した、って……噂で……喧嘩になって……」
「お兄ちゃん……、その……私の、お友達は、皆、逃げて、行っちゃったの……」アイカちゃんは鼻を啜っている。泣きそうになっている。「私が、ね……臭いって……、それで、それで……ね……」
「大丈夫。泣かなくても良いよ……。話したくなかったら、言わなくても良いの。悲しい事を無理して言っても、悲しくなるから」
「ゔ……ん……っ」ぐすっと鼻を啜って涙を拭くと、深呼吸をした「お兄ちゃんは、その……悲しくないの……?」
「大丈夫……じゃ、ないかな……。悲しい。凄く。でもね、僕の大切な人は、凄く強くて、勇気があって、僕の憧れでもあるんだ。その人の事を思い出すと、悲しい……けど、その人みたいに、強くなりたくて……」
「どんな、人……な、の……?」
「その人はね──」

 一杯話した。
 ミズキさんの事を。
 出会った時の事、助けてくれた時の事、初めての約束の事。一杯、いっぱい話した。
 アイカちゃんも笑ってくれて、僕もつい笑ってしまった。
 楽しくて、楽しくて、いつまでも話していたい気がしていた。
 だけど、ふと気が付けば夕方になっていた。
 来た時は昼になったばかりなのに。

「もう、夕方だったんだ」
「ミズキさんって、凄く、その……カッコいい……」
「そうでしょ。僕の大切な人で、憧れの人なんだ」

 つい、自慢したくなった。
 だけど、出来ない。
 出来るわけ無い。
 だって、その人を殺してしまったのは、僕なんだから……。
 直接的には殺していなくても、結果として僕が勇気を出せなかったから、止められなかったから、ミズキさんが殺された。だから、それは、僕のせいだ。僕の責任だ。
 僕は周りの人に色々と迷惑をかけた。
 かけ過ぎた。
 だけど、まだなんとかなっている。
 、だけど……。
 このまま、何もしなければ進展しない。
 だけど、何かすれば目的と真逆の方向に進む。
 これ以上は後がない。
 だから、修復よりも現状維持を先ずは試みないといけないと思う。
 あ……しまった。
 結構目頭が熱い。
 気付くのが遅れてしまった。
 深呼吸、深呼吸、しんこきゅう。

「あ、あの……だい、じょう……ぶ……?」
ん」まずい。声が裏返った。「だ、大丈夫。大丈夫だからっ」
「そ、それ……なら、良かっ、た……」
「心配させてごめんね。だけど、もう、大丈夫。ほら──」

 『ほら』とは言ってみたけど、具体的に何が大丈夫なのか。
 そう考えると……少し、違う。全然分からなくなる。
 ほら、ほら? ほらー。ほらっ。
 ……何をやってるんだろう。
 ジッと黙っている僕を見てアイちゃんも何かいぶかしそうにしている。

「と、とにかくっ、もう、大丈夫だから……!」
「は、はいっ」

 会話が途切れてしまった。
 これは、その、もう、帰る合図、みたいな……。

「じゃ、じゃあ、その、帰る……ね?」
「ぁ……その……」
「明日も、来るよ。でも、遅くなる」

 とても嬉しそうだった。
 それが、今の僕にはとても嬉しくて、笑っていた、と、思う。
 だけど、あまり笑っても居られない。
 この状況の中で、どこからか冷たく観ている気がする。
 気のせいなんだろうけど、僕は、心の底から笑う事は出来ない。
 だって、この状況があるのも、僕のせいだから。

「ぁ、あり、がと……ぅ……」

 アイカちゃんの顔をもう一度だけ見て、談話室を出た。
 まだ、この通路が怖い。
 すぐそこから稲継くんが出てきそうで怖い。
 怖くて、堪らなかった。
 早く靴を履いて出よう。そう思いつつ玄関に座って靴を足に入れる。
 開いた。ドアが。
 靴に目を向けているから、誰かは分からない。だけど、見たくない。
 ……止まっている。
 相手も、僕も……。
 心臓が物凄い音で鳴っている。
 まるで和太鼓にバチを叩き付けるかのような重低音が。
 耳が、頭が、脈を打っている。
 まずい。
 早く出て行かないと、まずい。

「お前、なんで居るんだよ」

 それは、単なる問い掛けだった。
 実際は違うのかもしれないけれど、僕にはそう聞こえた。

「……院長さんと、お話し……して、た。だけ……です」
「あっそ。んじゃ、とっとと帰れ」

 っ……!
 手が……震えている。
 ダメだ。
 バレちゃいけない。
 帰るんだ。
 僕は、もう、昔の、僕じゃ、ない! だ、だけど……震えが、止ま、ら、ない……。
 悔しい、けど、無力だ。
 何も出来やしない。
 早く、出るんだ。
 そして、やっと、出られた。

「じゃな」

 その声が怖くて、慌てて帰った。
 僕の背中には、じっとりとした汗が、染み付いていた。
 その汗は、顔にも掻いていて、顎の先からポタポタと……。
 少し、くすぐったかった。
 顎を手首で拭って帰宅する。
 家に帰った時には、空が紫色だった。
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