ぼくの受難の日々

安野穏

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レンダークさんとの別れ

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 アザレイはほうほうの体で逃げ出した敵軍に、追い討ちをかける真似をしなかった。周囲に最低限度の駐留部隊を配備した後は、あっさりと兵をまとめて王都ファルデアに戻り、援軍の労をねぎらうために南エリシュオーネ同盟軍をもてなした。南エリシュオーネ同盟軍の代表はマース国将軍のノブユキさんで、ぼくは久しぶりに会ったノブユキさんに甘えることができて上機嫌だった。同盟軍には、なぜかフェルまでくっついてきていた。

「モエギさん、本当にこのまま残るんですか?もう、マース国には帰ってこないんですか?」

「うん、いずれ、ゼニス国が落ち着いたら、正式に同盟条約が交わされる。そしたら、フェルもぼくの結婚式には出席してよね」

「嫌です!ぼくは、ぼくのモエギさんが他の男と結婚するなんて嫌です」

「フェルには、アリカがいるよ。アリカはぼくの親友なんだからね。不幸にしたら許さないからね」

「モエギさん」

 南エリシュオーネに帰る間際まで、フェルは未練たっぷりにぼくに泣きついた。子犬が耳と尻尾をだらんと垂らして、泣きついてくる姿は流石に心に響いたが、ぼくは心を鬼にしてフェルを諫めたつもりだ。こいつが国王になって、マース国がつぶれたらどうしようと本気で考えたのは内緒だ。まあ、あとはアリカの手腕に期待しよう。彼女はあれでも一応一国の王女、それなりに世情を見る力もあるし、フェルにはもったいなくらいだ。

 国王としての公務に忙しかったアザレイは、南エリシュオーネ同盟軍の代表者のノブユキさんの前でいつも身体を硬直させていた。本当にノブユキさんが苦手なのだ。ぼくはおかしくて笑いだしたいのをこらえるのに苦労した。

「モエギを頼む。私はきみが嫌いだ。だが、元始の神様との約束でもある。仕方ないから、かわいいモエギをきみに嫁がせるんだ。もし、モエギを不幸にしたら、私はきみを絶対に許さない。これだけは覚えておけ」

 後で聞いたら、ノブユキさんは娘を取られる父親の心情丸出しで、アザレイにすごんだそうだ。ノブユキさんらしくて、ぼくは目に涙を浮かべた。

 その後、アザレイは戦争の残務処理と国内の再建に忙しくて、ぼくと顔を会わせる暇もなかった。アザレイは捕虜となった者を解放したばかりでなく、敵軍の残党にも寛大な処置を示した。つまり、降伏する気なら、罪は不問に処すと各地に伝令させた。そばで見ていて、アザレイがエリシュオーネに囚われなければ、確かに聡明で慈悲深い国王なのだとぼくは実感している。




「モエちゃん、お別れに来ました」

 全てが落ち着いたころになり、レンダークさんが一人でぼくを尋ねてきた。ぼくを一人残して、マース国に帰ったレンダークさんはぼくが前世で見慣れたグレイのローブ服に身を包んでいた。胸には水晶球が光っている。狼狽えてぼくは夢中でレンダークさんのローブをぎゅっと掴んだ。

「嫌だ!ぼくを一人で置いていかないで!」

 ぼくは直感した。レンダークさんは元始の神様の元に戻るのだと。ぼくとアザレイの結婚が決まったので役目を終えたレンダークさんはきっとエルシュラン兄様に戻ることができるのだ。ぼくはまた一人置いて行かれる。そう思うとぼくの心は冷えた。

「モエちゃん、私たちは一つのところに留まることを許されていないのです。モエちゃんがこの世界に留まるのは、エリシュオーネの魂の再生のためです。わかりますね」

「嫌だ!ぼくは置いて行かれたくない。ぼくを連れてって、ぼくはもう二度と世界を創りたいと願わない。ずっと、エルシュラン兄様のそばで見ているだけでいい。だから、置いて行かないで!」

 ぼくはレンダークさんに必死になってしがみついた。顔が涙でグチャグチャになっている。レンダークさんがぼくの髪を優しくかき上げた。ぼくが顔を上げるとレンダークさんはいつもの穏やかな笑みをぼくに向けていた。

「モエちゃん、きみにはアザレイがいます」

 レンダークさんの手の指した方向に、アザレイが壁に寄り掛かってぼくたちを見ていた。レンダークさんが来たと連絡を受けて、仕事の合間をぬって駆けつけてきたらしい。アザレイは、レンダークさんが元始の神様の元に戻ることを既に知っていた。知らなかったのはぼくだけだった。

「嫌だ。ぼくはエルシュラン兄様もずっとここにいると思っていた。エルシュラン兄様がいなくなるのは嫌だ」

「モエちゃん、私たちが離れるのはほんの一時です。モエちゃんとアザレイが結婚して、いつか、二人の子孫にエリシュオーネは一つの魂を持って生まれ変わるのです。それは神の一族からすれば、そんなに遠い未来ではありませんよ」

「でも、ぼくは、ぼくの記憶はまた失われてしまうよ!」

「モエちゃん、きみたちが一つの魂を持って生まれ変わった時には、必ず迎えに来ます。約束です」

 レンダークさんは、ぼくの右手の小指に自分の右手の小指を絡ませた。それから、アザレイを見つめた。

「私はもう、きみたちについていて上げられません。アザレイ、モエちゃんをお願いします」

「ああ」

 アザレイがぶっきらぼうに返事をすると、レンダークさんはぼくたちに微笑んだ。レンダークさんが行っちゃうって思ったら、ぼくは頭の中がますますグチャグチャになった。涙が滂沱のごとくこぼれ落ちる。自分がどんなにわがままを言っているのかわかっている。それでも、レンダークさんとはなれるのは嫌だった。ずっとぼくを見守っていてくれると信じていた。エルシュラン兄様の様に。

「いや!いや!ぼくはレンダークさんが好きなんだ!レンダークさんじゃなきゃ、嫌なんだ。ぼく、ぼく、ぼくはやっぱりレンダークさんじゃないとダメなんだ」

「おい、言ってやれよ。俺、知ってるぜ。死の壁山脈が消えない理由。それはモエギがエルシュランに拘ってるからだ」

 ぼくは自分が石になるのを感じた。心がカチンコチンと固まり、冷えきっていく。ぼくは自分の身体を抱きしめて床に座り込んだ。歯がガチガチと鳴り、身体が震え出した。ぼくがエルシュラン兄様に拘っている?ぼくのせい?ぼくのせいでこの世界は元に戻らないの?ぼくがいけなかったの?

「モエちゃん?………アザレイ、余計なことを言わないで下さい」

「ハン、余計なことだと、事実じゃないか。エルシュラン、ついでに本音を言ったらどうだ。自分はモエギが好きだとな」

 ぼくはビクッンとして、肩を揺らした。ぼくは恐る恐るレンダークさんを見た。レンダークさんが蒼ざめている。

「アザレイ、それ以上言ったら怒りますよ」

「エルシュランはいつもそうだった。自分の胸の中に何でも押し込んで、何を考えているかわからない元始の神様の優等生」

 アザレイは吐き捨てるように言った。バシンと大きな音がした。レンダークさんがアザレイの頬を叩いたのだ。ぼくは硬直した。指先すら、ピクリとも動かせなかった。エリシュオーネだった頃も、モエギでいる今でも、ぼくはエルシュラン兄様が怒ったところなど見たことがない。いつもあの穏やかな笑みでぼくを見ていた。ぼくが何をしても苦笑しながら、ぼくの仕出かした数々の不始末の後始末をしてくれた。

「アザレイ、エリシュオーネは一つに戻らなければならないのです。そのためにきみたちは男と女で生まれてきたのです。巫女姫だったモエギが男で生まれたのも、アザレイを諦めさせるためです」

「一つ、計算違いがあった」

 アザレイが抑揚のない声で呟いた。ええとレンダークさんはぼくを見た。

「モエちゃんが、もう一人のエリシュオーネが私を好きになるとは思ってもみないことでした」

「エルシュラン、そして、あんたもだ」

「ええ、そうですね。認めます。私はいつのまにか、モエちゃんに惹かれていました」

 レンダークさんはアッサリと頷いた。レンダークさんはぼくに近付いて、ぼくの顔をハンカチで拭いてくれた。

「かわいい顔が台無しですよ。モエちゃん、私はもう一度、魂が一つになったエリシュオーネが生まれてくるのを待つつもりです。エリシュオーネは私のパートナーとなるのですよ。神の一族も人間もなんら変わるところはありません。ただ、永遠なる生命を与えられたために、種を保存するための性殖機能がありませんでした」

「レンダークさん?」

「元始の神様はエリシュオーネの件で深くお考えになられたのです。私たちの感情についても考察なされました。そして、神の一族も決して一人で生きるべきではないと悟られたのです。私たちは人間ほど短命ではありませんが、生命に期限を与えられました」

 レンダークさんがぼくにニッコリと微笑んだ。アザレイがチッと舌打ちをする。

「エリシュオーネ、今度生まれてきた時には、ずっとそばにいます。例え、エリシュオーネが記憶を失っても私たちはまた、惹かれ合うことができます。今、モエちゃんが私を好きだと言ってくれたようにです」

「本当に?」

「ええ、そうです。エリシュオーネ、待っています。どうやら、今度もモエちゃんは女の子で生まれてくるようですね」

「俺は嫌だ。エルシュランとなんか、一緒になんねえよ」

「エリシュオーネは、きみたち二人で一人です。諦めなさい」

 レンダークさんはクスッと笑った。アザレイが心底嫌そうな顔をした。そんなアザレイを見ながら、ぼくはぼんやりとしていた。

「アザレイ、私はきみも愛してますよ」

 アザレイがゲッというような何か不味いものを食べたような顔になる。レンダークさんはアザレイを優しく抱きしめた。その仕草はぼくに対するのと同じだ。ああとぼくは思う。エルシュラン兄様にとってはぼくもアザレイもどっちも大切なエリシュオーネなのだと。

「アザレイ、きみは我がままを言っては、私を困らせていたエリシュオーネそのままです。変わりませんね」

「フン」

 ふてくされた態度をとる割に、アザレイの顔が赤く染まっていた。

「今度出会う時には、エリシュオーネ本人ですね。生命は一つの流れの中に輪になって存在します。私たちは生まれ変わることで幾度でも出会えますよ」

 最後にレンダークさんはそう言うと、フッと大気に融けるように消え失せた。ぼくはアザレイに飛びついて、ワンワンと子供みたいに大泣きした。アザレイはぼくを抱きしめたまま床に座ると、ぼくの好きなだけ泣かせといてくれた。背中をさする彼の手の温もりがうれしかった。

「ガキ!………モエギ、おまえ、婚約式を終えたら、国に帰れ。俺、しばらく、おまえとは結婚しねえ。ガキなんか、相手してられねえよ」

 ぼくが泣き止むのを待って、アザレイはぼくに言い放った。ぼくは泣きすぎて、真っ赤にはれた目でアザレイを見た。彼はぼくに時間をくれるらしい。

「ひどい顔だ。本当におまえはガキだな。しばらく、あの恐い父ちゃんと母ちゃんのところで暮らせよ。今のおまえじゃ、この国の王妃は務まらねえ」

 ぼくはアザレイの申し出を喜んで受けた。今のぼくではとてもアザレイの隣にいられない。ぼくたちは一つにならなければならない。それは今のぼくにはとても無理な話だった。情けないとぼくは思う。元始の神様はこんなぼくでも許してくれるのだろうか?心が痛くてたまらない。
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