刑務官だった頃の思い出

安野穏

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看て守る仕事

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  刑務官という名前の看守という仕事に就いたとき、文字の通り「看て守る仕事」だと最初に彰子は言われた。

「看て守る」看守の仕事を辞めるまで、いや辞めても未だにその意味はわからない。「看て守る」ということを彰子はできたのか?その答えは簡単である。無理。見ることはできる。それはただ見ているだけだ。看るという意味が理解できずにいた。それはたぶん今も変わらない。人を見るという行為は誰にでもできる。それはただ見ていればいいからだ。看るという行為がどういう理由付けをされるのかが今でも心に燻ぶり続けている。たぶん一生彰子には理解できないことかもしれないと諦めた。

「法務事務官・看守」それが正式な名称だった頃、彰子は刑務官採用試験を受けて合格し看守になった。刑務官などというのは採用試験のときだけで実際は看守というのが当たり前だった昭和の頃。三十年も経た今はどうなのかすらわからないがあの頃は看守という言葉が当然のように使われていた。



 拘置所では「先生」と呼ばせる。刑事事件の被告を収容する施設であるために、彼女達に執行猶予がつけば、すぐに外に出さなければならない。もし、名前がわかって、逆恨みをされたときの報復を考えて本名を明かさないために、看守をそう呼ばせていた。それがお互いを守るためだと言われればそんなものかと従った。新人で間違いなく上司に嫌われていた自覚がある自分が何か言える立場ではなく、あの頃はただひたすら、早く仕事を覚えなければという強迫的な概念に怯えていた。

 今でも「使えない」のあの一言が胸を深く抉り取る。「使えない」その一言で片づけられてしまう世界は、恐怖以外の何物でもなかった。「使えない」と言われないために必死に何かをしなければとまるで強迫神経症にでもなったかのような気分だった。それくらいあの頃は毎日が怖かったのだ。毎日、事務にならなければよいとそればかり願っていた。事務所にいるのが恐怖だった。あの五十代の潔癖症の上司に無視され、ひたすらにビビりまくっていた日々。

 大奥とかお局様とか女子だけの世界には常に存在する圧倒的な絶対的存在。そういう存在から無視され続けたら、そこにいる価値もないというそういう立場に追い込まれる。それに三年縛りがあって、すぐに辞めますなんて言えるわけもなく。足掻いても足掻いても浮上できない広くて深い海に溺れていた日々。

 それでも何とか二年と半年務めたのは、年の近い先輩たちの優しさと厳しさがあったからだ。仕事も生活もほぼ一緒。当時はまだ女子寮がなかったので、女区の刑務官はみんな、先輩と官舎に同居していた。気の合う先輩なら何も問題はないが、気の合わない先輩の場合は針の筵とでもいえる。お互いに干渉しあわなければそれでいいのだが、やはり、人間には裏も表もある。一緒にいればいるほどに相手の粗が見え、どうしようもなく深い溝を作ることにもなる。

 人間関係は実に難しいとつくづく思った。一線を引いて近寄らなければ、誰も傷つくこともなく過ごせるのだろうか?いや無理だろうと今でも思う。そんな生き方ができるほど甘くなかった世界。他人事では済まされなかった世界。最後にやっとやめることで逃げられた世界。そこには彰子を必要だという人は誰もいない。単なる機械の一部品でしかなかった。感情がなかったらまだそこにいられたのかもしれない。ただし、欠陥部品としてだが。



 被収容者の中には様々な女の人生がある。

 人生のどん底、落ち込んだときは落ちて落ちて落ち込んで、どん底まで落ち込んだら後は這い上がるしかないと思っていた二十代の若さ。

 最低のどん底にまだ落ち込んだことがなかった思い上がりの気持ち。傲慢さ。

 本当に底の更にまたその底の底の奥深くまで入り込んだら、這い上がる力すらなくなるのだと思ってもみなかった。底なし沼に沈んだらもう這い上がるという気力もなくただ、ひたすら沈み込んでいくしかない。それは諦めなのか、それとも………



 人間の尊厳などあまり感じなかった。被収容者は入所したらまず服を全部脱がせてその身体に傷やあざ、入れ墨、ほくろなどを全部確認する。それは、出所する際に被収容者たちに虐待があったかどうかを確認するためらしい。それを初めて聞いた時は怖いと思った。つまり、昔は虐待があり、それは同じ被収容者同志なのか、それとも看守からなのかと。カードに書かれた人間の図に身体的特徴を認めたその個所を書き込んでいく。

 この検査の時、その昔は大きく女性の股を広げて歩かせたこともあるらしい。そこで初めて知ったのは、女性の身体というものは意外と物を隠せる身体だということ。口の中や髪の中も確認する。アウシュビッツだとそう思った。あの悪名高き収容施設の出来事が実際に起きていた。あれはナチスがユダヤ人たちの隠した財産を没収するための行為だったが、実際にはもうとうの昔に戦争と呼ばれた時代は終わったと思っていたのにまだそれと似たようなことが行われているのだと呆然としながらも、その作業を淡々と続ける自分が嫌だった。

 それでも、危険物を持ち込まれないようにすることと、所内で禁止されている嗜好品の類や薬物などやそれから脱走などに使われても仕方がないものを探すのもその仕事の一つでもある。



 人間の心の闇は思ったよりも深く、それを悲しみに変えるのか、憎しみに変えるのかは、その人次第。

 あの頃いつも思っていた。ドアを隔てて、こっち側にいる彰子と向こう側にいる彼女達との違いは何なのか?一歩道を間違えば、彰子だって、向こう側の人間になる。そうなったら怖いとひたすら思った。

 無理心中の生き残り、子供達を殺してしまった母親は、自分も死のうとして死に切れず生き残ってしまったら、殺人罪に問われる。

 精神鑑定で入ってきた母親。

 ノイローゼという言葉。

「子供達の供養をしなければいけないと後悔しています。生まれ変わったらまたあの子達の母親になりたいです」

 夜勤の時などに寝る前の薬を渡すときに、口癖のように言っていた言葉。

 その同じ口から出る面会に来た夫への激しい言葉。

「あなたが浮気したからこんなことになったのよ」

 言葉でつむぐ批難の嵐。そのことを面会担当の女性上司が事務所で話しているのを黙って聞いていた。

 人間は善にも悪にもなれると思った瞬間。

 人にはいろいろな様々な出来事が起きる。それを予見する力があったら、誰もがそれを避けられるだろうが、残念ながらそんな力を持つ人はよほどまれな人だけだ。

 ごく普通の一般人の彰子には、ただ看ているしかない。

 たくさんの女性達が入ってきては出て行く。再び戻ってくる人も多い。そんな彼女達の人生をただ看ているだけの仕事。やるせない思いがふくらんでくる。

 人は平気で嘘をつくと思い知らされたのもこの仕事に就いてからだ。

 人は自分に都合のよいことだけを話して、陰では笑っている。権力の前ではおとなしく、その裏では笑って馬鹿にしている。

 なんて情けない仕事なのだろうかとそう思わずにはいられなかったあの頃。

 たくさんの女性達の人生のほんの一部分での出会いだけ。その後彼女達がどうなっていくのかすらわからない。看ているだけ。一部を看ていただけ。

 こっちも彼女達に看られていた事実をあの頃は気づかなかった。

 

 
 土曜日と日曜日は舎房の担当さんは休みになる、代わりに入るのは夜勤者だ。夜勤は四人一組で二十四時間勤務になる。基本は夜勤、非番、日勤(休み)、日勤(休み)の四日に一度巡ってくる夜勤とその翌日の非番、その後の二日間は日勤か休みになる。それの勤務は上司である副長が決める。女区には二名だけ男性職員がいる。女区長と副長だ。それ以外はみんなが女性の看守である。

 休みの土曜日と日曜日の昼間は夜勤者が代理の舎房担当になる。初心者の看守も舎房担当になるのだ。最初は仕事を覚えるための参考になるかもと思っていた。もっともよほどのことがない限り、舎房のドアを点検以外に開錠することはないので、被収容者の様子をただ見ているだけなのがほとんどなのである。

 その頃は、死刑囚や特別な事件を起こしたものなどの処遇を定期時間ごとに日誌に時間と行動を記入しなければならなかった。

 そこで問題だったのは、ある有名な企業爆破事件で収監されていた被収容者である。彼女はいつも敷地内の野良猫にエサをやっていた。被収容者が野良猫にエサをやるのは禁止されているのをわかってわざとやっていたのである。

 毎回、そのことが悩みの種だった。

 舎房についているとき、定期的に夜勤組の班長が巡回してくる。彰子は何故か毎回あの苦手な五十代の神経質な女性上司の夜勤の組の一番下として勤務させられていた。それは嫌がらせかもと思うくらい毎回のことで、これは辞めろということかと夜勤の組が変わるたびに落胆した。

 彼女はいつも巡回に来るとまたその被収容者が野良猫にエサをやっていると怒る。それを注意しないと怒る。それでいて、こっちが神経質的に野良猫にエサをやっていると注意し、報告あるいは日誌に書くと野良猫のことばかり書いているとまた怒る。なんの嫌がらせかと思いながらも、何も言えない自分が嫌だった。

 その女性が裁判が結審して出所していった時は本音でいなくなってよかったとつくづく思ったくらいである。初心者の看守いじめだと彼女のことを恨めしく思っていたあの頃。今でも、あの女性の話を聞くたびに嫌な思いになる。

 出所してからも彼女が堂々と面会にやってきたとき南門で会って、うわあ嫌だと顔に出してしまった。彼女がどんな人物なのかは知らないし、今でも知りたくもない。あの頃の恨みは今でも胸に燻ぶっている。あのふてぶてしい態度と共に。



 看守も人間なら、被収容者も人間なのだと。互いに互いを看ている関係なのだとあの頃は思いもしなかった。仕事だから悪いことをしたら注意しなければならないと強迫観念にも似た思いでびくびくしながら舎房を回り、注意すれば文句を言われ、注意しなけらば職務怠慢と文句を言われ、本当のところは一体何をどうすればいいのかと悩みまくっていた。

 本音を言うともう面倒だった。だから、自殺とかの問題行動を起こさなければもうそれでいいよと毎回思っていた。だんだんとその気持ちが大きくなり、ただ、ぼうっと歩く。巡回という名前のただのさまよい歩き。それがいつの間にか私の基本の勤務になっていく。最低だ、自分とまた落ち込む。

 だから、今でも看て守る仕事って何?と理解できないでいる。あの頃の苦しみが今でも胸を抉る。
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