はかない宴

安野穏

文字の大きさ
上 下
6 / 21

逃亡生活

しおりを挟む
「あら、わかりませんでした?」

 紫水晶の瞳をまんまるくして、驚愕のあまり口をパクパクとしているソフィアに、チェシャが苦笑した。服を脱いだチェシャの露になった胸は平坦で、隆起したなだらかな曲線を描いているはずのものがなかったのだ。ソフィアの顔がカアァァァァァッと赤く染まった。これまでに幾度もチェシャには裸を見られていた。それどころか、詳しく身体を調べられたりもしたのだ。

「これは詐欺です」

 やっとの思いで絞り出した言葉は、それだけだった。恥かしくて、今にも顔から火が飛び出しそうなソフィアは、チェシャの服をしっかりと抱きしめて身を縮込ませていた。フフフとチェシャが顔をほころばせた。

「そういうところがかわいいのよね。殿下が惚れるはずだわ」

「えっ?」

 チェシャが足を組んで、膝の上で片肱をつき、手の甲の上に顎を乗せると、ソフィアの方へと身を乗り出した。蒼氷色の瞳が楽しそうに瞬き、ソフィアと目が合うと優美な笑顔を浮かべた。

「今までの殿下にとって、女は遊びの対象でしかなかったのよ。だから、わざわざ自分を殺しにきた暗殺者と遊んだりしていたの」

 こういう時に話す話題なのだろうかと、ソフィアは頭を抱えた。別な部屋ではフォーサスたちが暗殺者を相手にしているのだ。

「こうして話せるのも最後になるわね。私の女装はこの館にいる間だけよ。元々は殿下の案だったの。これをあげるわ。服はスリットのあるドレスが似合うわよ」

 チェシャはソフィアの手を掴むとその手の上に、自分の愛用の短剣を置いた。太ももから短剣を止めるガーターをサッと外して、ソフィアの太ももにつけた。自然な仕草にソフィアはされるままになっていたが、かがんだチェシャの胸を見て、男なのだと改めて実感したら、急に胸がドキドキと高鳴って顔が火照ってきた。

「これで戦えますね」

 背の高いチェシャの服はソフィアには大きめだったが、チェシャが手早く補整してくれたので、動く邪魔にはならなかった。チェシャはこうなることを事前に予想していたのか、室内に自分の服を隠しておいた。貫頭衣にズボンという簡素ないでたちは、かえってチェシャを際立たせ、男装の麗人ともいってもおかしくなかった。ナメシ革の簡易アーマーをつけると、ソフィアにはショルダー付きのマントを身につけさせた。

 チェシャは大剣を手にすると、ソフィアの手を掴み、窓から外を伺った。館のあちらこちらから、怒号と金属がせわしくぶつかりあう音が聞こえる。ところどころ、赤く見えるのは火矢が射かけられているせいだ。

「フォーサス様たちは?」

「分れて逃げます。皇都で落ち合う約束なのです。敵の主部隊は未だに国境を越えていません。ロスモール殿の配下の者から別に連絡が入っています」

 ロスモールは神聖ルアニス帝国時代から、情報収集のために一族や配下の者をチャイニェン大陸各地に散らばせていた。ソフィアが今まで見つからずに済んだのも、実はそういう情報ネットワークを持つロスモールのお陰だった。フォーサスはロスモールの情報収集能力を高く評価した。配下になったばかりの彼に、各国の情報を綿密に調べるようにと、即座に命じたからである。そのためにロスモールは、商人に化けて市井の中に潜り込み、集めた種々の情報は配下の者を通じて頻繁に報告されていた。

「ここを襲ったのは恐らく、殿下の異母兄であるラシェイル様でしょう。もしくはもう一人の異母兄カーディス様の母君である貴妃様かと、もしかしたら、お二人の連合かも知れません」

「なぜ?」

「殿下がソフィア様を得たからです。殿下がソフィア様を伴って皇都に戻れば、当然、皇太子の地位は殿下の物になります。皇帝陛下は殿下を第一皇位継承者に定めておりますが、若輩の殿下を未だに皇太子としては擁立していないのです」

 前に立ち塞がった幾人かの暗殺者を殺したあと、闇夜に紛れて、館を取り巻く林の中へとチェシャは素早く逃げ込んだ。辺りの気配を伺いながら、極力、音を立てないようにと気を配り、チェシャは国境の方角へと向かった。途中、川の中を下るように歩いた。少し凍りかけた冷たい川の水が、ソフィアの身体を芯から凍えさせた。ブルッと身体を震わせたが、チェシャはおかまいなく先へと歩を速めた。

「足跡を消せますからね」

 大木が川に張り出しているところで、ようやく木を伝うように川から上がった。火を熾したりできないので、ソフィアの赤くふくれ上がった両足を、チェシャが幾度もマッサージしてくれた。その間、ソフィアは気恥かしくて、終始俯いていた。

「たいていの者は、皇都へ向かうものと思うはずです。ですから、こうして見当違いの方向へ一旦逃げるのも手なのです」

 息を弾ませているソフィアのために一時休みを取ったチェシャは、敵から逃げるための手段をソフィアに教え込んだ。

「一般的には敵全逃亡は恥だとか、死ぬまで戦うことが美徳だとか言われますが、皇太后様は例え恥を忍んでも生き抜くべきだと仰られました。どんな目に合っても、生きられる可能性があれば、生き抜くことが一番なのです。人間は皆、精一杯生きるために生まれてきたのだそうです」

 珍しい考え方だった。潔く死ぬことが美徳と言われる時代なのだ。そうした世の中だからこそ、ソフィアの父は市井に生きる道を望んだのだ。勇猛な兄弟たちに、陰で臆病者と罵られても、平穏に生きることを選んだ父親をソフィアは誇りに思っていた。その父と考えを同じくする人がいる。それだけで興味をそそられた。

「皇太后様はどのようなお方なのですか?」

「直接お会いになられることが一番です」

 それっきり、チェシャは皇太后に関しては口を堅く閉ざした。余計な口をきいて、先入観を持たせないための配慮だと悟った。他人に対する印象は人それぞれである。本人の目で確かめることが一番なのだ。

 森の中を足跡に気をつけて歩いていると、先を行くチェシャの顔が緊張で強ばっていた。ソフィアの身体に覆い被さるように、茂みへと引き摺り込んだ。チェシャはソフィアの口を押さえ込み、息をひそめた。二人のすぐそばを人が行き過ぎた。近くの村人のようだったが、チェシャは油断なく辺りを伺っていた。

「人の口の戸はたてられません。例え、普通の村人でも、敵は情報源として利用します」

「人が信じられなくなってしまいます」

「厳しい言い方になりますが、それが戦争なのです」

 何かが変だ。どこかが間違っている。ソフィアは地面にペタンと座り込んだ。茂みの中にいるので、小枝がパチンと弾けて小さな音を立てた。ハッとして、二人は辺りを見回した。幸い、変な気配は感じなかった。

「ソフィア様?」

「よくわかりません。なぜ、人は争いたがるのですか?生きるべきだと言いながら、その一方では人を殺めるのです。自分の命と他人の命とどちらも同じではないのでしょうか?」

「人間とは矛盾した生き物なのです」

 ソフィアは口をつぐんだ。チェシャの意見がもっともだったからだ。二人はまた黙々と歩き始めた。チェシャが何を目指しているのかわからなかったが、少なくとも自分よりは頼りになる。



 森の中を三日間歩き通した後で、アスタロット地方にある比較的大きな街カルトーランに出た。森を出る前に二人は田舎出の村人に化けた。ソフィアはまた髪を黒く染め、やぼったく三つ編みにした。紫水晶の瞳は姿隠しの魔法で色を変える。彼女が唯一使える聖皇家のものが持つ力である。チェシャは髪を切り、やはり黒く染めて、貧相な農夫になりきった。チャイニェン大陸の約半数の者は黒髪黒目で、変装するのは大衆の平均的な姿に化けることが一番だった。

 街の中は兵士が行き来して、街全体が緊張していた。領主の館のあるこの地方最大の街アスタールが敵の夜襲でかなりのダメージを受けたために、カルトーランが一時的にアーリアン帝国軍の前線基地の代わりになるという話だった。チェシャが世間話に首を突っ込んで聞いてきた話によると、フォーサスは一時行方不明になったが、昨日皇都に無事に戻ったそうだ。改めて態勢を整え直し、兵を率いて、このカルトーランにやってくるらしい。

 イマザシェンの軍勢は、国境を越え、既に国境警備隊と交戦状態にある。戦況は後手に回ったアーリアン帝国側の分が悪く、勢いに乗ったイマザシェンの軍勢は国境沿いの砦を手中にしていた。

 カルトーランの街の者たちはパニックに陥り、親戚を頼りに街を出る者とどこへ行くあてもなく、現地採用の兵士として志願する者、自棄になって自堕落になり、昼間から酒等をあおっている者など様々であった。そうした人々の姿を間近で見て、ソフィアの心は大きく揺れるのだった。

「馬に乗れますか?」

 チェシャに尋ねられた時も、ソフィアの心はここにあらずといった調子で、ちょうど、戦闘で傷ついた兵士たちが、荷車で運び込まれ、目の前を行き過ぎたところだったのだ。

「アニサス?」

 街中ではどこに敵の間者が潜んでいるかもわからないというチェシャの言葉に従って、ソフィアは偽名を使った。アニサスという名前は、ロスモールと隠れ住んでいた頃に使っていたソフィアのもう一つの名前である。チェシャは元々自分は偽名を用いているから、通り名のままでいいということだった。

「わたくし、ここに残ります」

「馬鹿なことを言わないで下さい。ここは戦場になるんです。アニサスの身に何かあったら、私が叱られます」

 有無を言わせないぞといわんばかりに、チェシャはソフィアの腕をギュッと掴むと、通りをスタスタと歩き出した。街から逃げ出そうとする者たちの中に紛れ込むつもりだったのだ。今を逃したら、街から出られなくなる。チェシャの苦労など意に解せずに、このお姫様は何を言い出すのだと、チェシャにしては珍しく怒りを露にしていた。

「いやです!」

 ソフィアが上体を捻ったかと思うと、反動をつけて、いきなりチェシャの脇腹に肱打ちを決めた。自分で教え込んだ決め技をあっさりと許すほど、チェシャは油断していた。チェシャは腹部の痛みにガクッと膝をついた。

「ごめんなさい」

 済まなそうな顔をしてチェシャに謝ると、ソフィアは辺りを右往左往している人込みの中に消え失せた。夢中で後を追いかけたが、街中がパニック状態になっているために、たくさんの人に行く先を遮られ、結局は見失ってしまった。いまいましそうに舌打ちをすると、チェシャはすぐに次の行動に移っていた。少なくとも、ソフィアはこの街の中から外に出ることはない。チェシャはロスモール配下の者と連絡を取り、街中に網を張り巡らせた。

 世間知らずのお姫様の域を未だ出ることのできないソフィアの所在はすぐに突き止められたが、チェシャはソフィアを静観するつもりでいた。彼女が今、何をするつもりなのか、見極めようという気持ちになったからだ。まもなく、フォーサスの軍勢がカルトーランに来ることも考慮に入れてあった。皇都を目指すよりは、ここでフォーサスたちと合流する方が得策だと思えた。

 ソフィアは傷ついた兵士たちの医療所に紛れ込んでいた。看護のために急募された街の女性たちに混じって、真白のエプロンを着けたソフィアは甲斐甲斐しく立ち働いていた。隠れるように市井の中で生きてきたソフィアは、時として逞しい生活力を見せる。フォーサスに侍女として仕えていた頃も、身体をまめに動かして働いた。シーツや包帯を洗濯して、ひもを吊るし手早く干す仕草など堂に入っている。とても元神聖ルアニス帝国の皇女であるとは思えないほどだ。

 ソフィアは洗濯物を干し終えてからフゥッと一息ついて、滲んだ汗を手の甲で拭いさった。生き生きとした顔を上げてまぶしそうに空を仰いだあと、ふと怪訝そうに周囲を見回した。

「チェシャ」

 自分を見つめる視線に気付いたソフィアが、後ずさろうとした。チェシャはソフィアと同じ真白のエプロンを身につけていた。また、女装して医療所に潜り込んできたのだ。

「逃げなくてもいいですよ。私はアニサスが無事であればいいのです。何をしたいのかわかりませんがお付き合いしますよ」

 医学の心得のあるチェシャは重宝された。ソフィアはチェシャの傍らにつきっきりで、チェシャの一挙一動に敏感になった。目を皿のようにして見つめては、見様見真似で動きだす。実をいうと、チェシャはそういうソフィアの態度がかわいらしくてたまらないのだ。ソフィアは相手から投げられたボールをきちんと返してくる。ただ、同じように返すだけでなく、変化球にしてくるのだ。ソフィアの返してくる変化球をうまく受け止められるかどうかが、チェシャの細やかな楽しみになっている。

「陽が昇って周りが温かく感じられるようになったら、必ず病舎の窓を開けてちょうだい。澱んだ空気は、余計に気を滅入らせるわ」

 テキパキと指示するチェシャの態度に、最初は反発していた街の女たちも、戦況の悪化に伴い負傷者が増えてくるに従って、悠長な態度ではいられなくなった。自分の知り合いなどが運び込まれるようになったからだ。人間はやはり、赤の他人よりは自分の身内が大事なのだ。彼女たちも、チェシャの態度に神妙に従うようになった。医療所に運びこまれた者たちには一様に「軽傷だ」と言って励ましているが、動けない重傷の者が多い。少しでも動ける騎士などが、戦場で潔く散ることを目指して、戦場から離れようとしないからだ。運びこまれる者で比較的軽傷の者には、兵士や傭兵が多かった。

 フォーサスの軍がカルトーランに着いても、チェシャはのんびりと構えていた。ソフィアはフォーサスが着いたという噂を耳にして不安を覚えたが、チェシャの態度に変わりがないので、戸惑いつつも今まで通りに負傷兵の看護に当たった。

 医療所内はチェシャがうるさいくらいに騒ぐので、清潔第一をモットーにしていた。毎日のようにシーツや包帯を取り替え、室内の換気をする。寒い季節なので、暖かい時にしか換気できないが、澱んだ空気を一新してくれる風は心地好さも運んできた。

「こんな気分のいい医療所は初めてだ」

 運び込まれた騎士の一人が感慨深げに呟いた。戦を仕事とする騎士は、誰でも一度は医療所の世話になったことがある。戦場で戦って死ぬことを誇りとする騎士たちは、助けられ医療所送りにされたことを恥じる者が多く、今までの医療所の雰囲気は暗く陰気だった。看護にかりだされる女たちもいやいやながらの者が多いために、負傷兵たちはおなざりにされる場合が殆どで、軽傷で運びこまれた兵士たちでさえ生きる意欲を失い、気鬱から亡くなることもあった。

 薬草などはチェシャの知り合いの商人が毎日のように届けてくれたので、十分に足りたが、それでも、手の施しようのない重傷の者は亡くなっていく。

「ありがとう」

 手を握って励ましていた重傷の一兵士がソフィアにそう呟いてから、容体が急変し亡くなった時、ソフィアは室内から飛びだしていた。やるせない思いにかられたからだ。ソフィアと同い年のその少年兵は、ソフィアを見て愛しそうに故郷に残してきた恋人の名を呼んだ。一時小康状態に持ち直した少年は、恋人と間違えたことを照れたような顔で謝った。

 アーリアン帝国では、十五才から十八才までの男子に兵役の義務を課していた。彼らはたいてい国境警備隊の一兵士として組込まれ、何事も起きなければそのまま故郷に戻ることができた。戦国時代の常として、一般庶民も一度戦争が始まれば、兵士として当然のように徴集される。その時のために、あらかじめ兵士として訓練を受けておく必要があった。兵役の義務はそうした目的の為に設けられたのだ。

 アーリアン帝国が神聖ルアニス帝国の大公を殺して領地と地位を簒奪した後も、生き馬の目を抜くと言われる戦国時代に、二代に渡って生き延びているのは、国を支える基盤を大切に培ってきたからだ。簒奪者は一代限りと言われる数多の国が興亡する中で、アーリアン帝国は特殊なケースだといえる。

 人の死を見るのは初めてじゃなかった。カルトーランのそばで対峙しているアーリアン帝国軍とイマザシェン国軍は、幾度となく小競り合いを繰り返した。毎日、血だらけの兵士や騎士が運び込まれ、身体の一部を失った者や既に息のない者もいた。血生臭い匂が医療所にたちこめ、暑い季節でなかったことが幸いだったが、腐臭が鼻につくこともあった。チェシャも他の女たちも黙々と働いた。軽傷の兵士たちは動けるようになると、傷が完全に癒えるまで待たずに戦場に戻っていく。

 医療所で過ごす期間が長くなるに従って、次第にソフィアは込み上げてくる吐き気に耐えきれなくなってきた。身体の不調を感じるのだ。食欲も次第になくなり、今では殆ど手がつけられなくなっている。

 今日も吐きだせるものを全て吐きだしたのに、吐瀉物の鼻をつく匂に更に誘発された。胃の中に吐く物はもう何もなく、口から出るのはウグウグッという声とヨダレのようなものだけになっても、吐き気だけは残った。

 苦しそうに喘いでいると、誰かが背後から背中をゆっくりと擦ってくれた。チェシャの手だった。ソフィアが落ち着くまで、チェシャは優しく背中を撫でてくれた。地面に手をついて、肩で大きく息をしながら「大丈夫です」と、ソフィアは弱々しい声を出した。チェシャは手にしていた大きめの布でソフィアの口をきれいに拭った。顔から生気が消えていた。白く抜けるような顔で、フラフラと立ち上がった。

「休んだ方がいいわ」

「いいえ、仕事がたくさんあるのに、一人だけ抜けるわけにはいきません」

 気丈にもソフィアは病舎に戻ったが、すぐに倒れて寝込むことになった。
しおりを挟む

処理中です...