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弥生の章
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しおりを挟む雨だった。わたしが大嫌いな霧雨だ。
もうすぐ花が咲きそうなくらい桜の蕾は膨らんでいるのに、今日は寒い。吐く息が白かった。
今日は中等部の卒業式だった。
うちの学校は行事には全員参加がモットーなので一年のわたしたちも参加した。
卒業式の日に雨が降るというのも珍しいことらしい。
そういえば、卒業式とか入学式とか、大抵晴れてることの方が多いような気がする。
わたしは公園の真ん中で振り返った。
後ろからついてきていた、今日卒業したての先輩方三人が驚いているのが判る。
(どうする?)
(つけてたの、ばれたのかな)
(今日で見納めか)
(かわいい)
(こっちは弥生ちゃんの方か? いや、百合香ちゃんか? どっちだろう)
(誰もいない)
(周りには誰もいない)
(今がチャンスだ)
(やってしまおうか)
わたしの頭の中はいつもうるさい。
なぜ、そうなのかわからないけれど、他人の考えることが洪水のように押し寄せてくるからだ。
いつも、いつも、なんでも。
それを意識し始めたのは何時だったか、はっきりと覚えている。
三歳の時だ。誕生日だった。
百合香が泣いていて、兄の透ちゃんがおろおろしていたから、わたしは彼女が泣いている理由を教えてあげた。
透ちゃんはまだ、百合香とわたしの見分けがつかなかったから、それも教えてあげたら、何故だか泣き出した。
何も言っていないのに全部判るのはおかしいって泣き出したのだ。
お母さんたちは兄妹だからわかるのよって笑っていたけれど、その時わたしは相手の口が動いていないときには返事をしなくていいってことを初めて知った。
それからもときどきうっかり忘れたりしたけど、にこにこ笑ってたらカンがいいってことでごまかせた。
まだ小さかったし、今はもうそんな間違いはしなくなったし、心にドアを閉めることもきちんと出来るようになったのだ。
「何かご用ですか」
わたしはにっこり笑って見せた。彼らはじわじわと近寄って来る。この顔は見覚えがある。わたしの教室にいつも顔を出していた、野球部の先輩たちだ。
「その、君は…藤島百合香、ちゃん?」
百合香は双子の妹だ。見分けるのは家族にも困難なことらしいので間違われても仕方がないし、今後この人たちとおつきあいする気もなかったので訂正しなかった。
わたしは首を傾げて見せた。
この仕草は男の人たちにかなりうけがいいようだ。清楚な感じがするらしい。これで邪な考えを思いとどまってくれることも多かった。
だけど、魚のように目が離れた先輩がごくんと唾を飲んだ。逆効果だったようだ。
全員、わたしより頭一つは背が高い。ハンデはもらえるだろうか。
「弥生、ちゃんかな?」
(どっちでもいい)
(あっちの林に連れ込んで…)
(いや、雨だからカラオケボックスに)
(こいつら出し抜いて俺一人で)
(こんなチャンスはもう二度とないかも)
(写真に撮って…)
莫迦らしくなってわたしは心を遮断した。
「先輩方は高等部に進まれるんですか?」
「え? あ、うん」
「兄と同じですね。クラスが同じになったらよろしくお願いします」
三人は顔を見合わせた。将来のことを考えたのだろう。いいかげん、後先考えずに行動するのも卒業して欲しい。
「そうだね、そうだ、俺たちこれから卒業祝いにカラオケに行くんだ。よかったら君も行かない?」
魚が言った。眼球が忙しなく動いている。わたしは心の中で溜息を吐いた。
「すみません。わたしこれから用事があるんです」
これは本当だった。
うちにも今日卒業の大切な透ちゃんがいるのだ。
帰ったら家族でお食事に行くことになっている。
「ちょっとくらい、いいじゃん」
三人の中で一番見た目がマシなツリ目の先輩がにやりと笑った。
そういえば、このツリ目にはわたしのクラスにファンがいたのを思い出した。ショートを守っていて夏の大会もいいところまでいったとか。本人は自信ありげだが、こっちは生まれて十三年間、キュートな透ちゃんを毎日見て育ってて、そんじょそこらの、そこそこマシな程度の男の笑顔くらいで心が動くはずがない。
「ごめんなさい。本当に急ぐんです」
わたしは後ずさりした。距離をおいて反転して駆け出せばまさか追いかけては来ないだろう。
「逃げないでよ」
魚がすかさずわたしの背後に回っていた。見た目に寄らず知恵はまわるらしい。マユゲのやたら太い男がにたにたと笑っている。こんなことなら振り返ったりせずにさっさと通り抜ければよかった。
「通してください。急ぐんです」
「そんな顔しないでよ。カラオケくらい、いいじゃない」
マユゲが手を伸ばし、わたしの傘を持つ手を掴んだ。湿った手は気持ち悪い。魚が言った。
「やっぱ、藤島より本物の女の方がいいよなぁ」
「そうか? 俺はいっぺんくらい藤島が本当に男か確かめたいと思ってるぜ。高校に行ったらやってみるかなあ」
「へっ、俺は女の方がいいや。行こうぜ」
マユゲがにたりと笑って掴んでいる手に力を込めた瞬間、ピシリと音がしてその手は弾かれたようにわたしを解放した。
あと三秒それが遅かったらわたしは爆発していたかもしれない。
水飛沫が顔に飛び、畳んだ黒い傘がぶん、と視界に入った。この傘がマユゲの手首を一撃したのだ。
「な…?」
驚いた三人が見た先には憮然とした表情の男の人が立っていた。
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