行きて帰りし物語

鷲見

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一章

へんか

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 勇大ゆうだい、と名の付けられている日本人の子供は、とても愛らしい子供でありました。
 まだよっつであるらしい彼が笑うと家の中が花開くようで、普段表情の乏しい勇者もこのときばかりは口角を上げて笑うのです。
 勿論、育児というものが大変でないわけはありません。
 毎日決まった時間に食事を摂らねばなりませんし、お昼寝だって必要です。
 ですが、彼一人にかまけていられるほど勇者が暇であるわけではなく、学校もあれば魔物退治もあります。
彼は育児のために学校を近場のものに選び、昼には必ず戻って食事や昼寝の相手をしているわけですが、大変そうだと思うことは多々とあります。
 普段は保育園に通っている勇大ですが、保育園に毎日いけるわけでもありません。
 その理由は、勇大が保育園に行けるのは闇の気配が無い場合に限られてしまっているからです。
 勇大は基本的には土日以外は保育園に通っているのですが、勇者からして「闇の気配が濃い」と判断された日には保育園をお休みして結界を張ってある家の中でお留守番をしなければならないのです。
 闇の気配は、夜に魔物が出現する兆候があったりする日のことを示しています。
 闇というものは、人間に忍び寄りその精神や肉体を蝕みます。
 その気配に鈍感な人間も居れば敏感な人間も居り、ほとんどの人間は闇に対して鈍感で、その気配に気付きすらしません。
 しかし勇大はその気配にはとても敏感で、闇に触れてしまうと必ず体調を崩してしまうのです。
 そもそも子供は総じて闇の気配には敏感なものらしく、子供が突然熱を出したり夜泣きをしたりというのはほとんどにおいて闇の魔物の気配が原因とも言われています。
これでは、保育園になんかは連れてはいけません。
 なのでそういう日は、わたしと勇大は二人でお留守番、なのです。
 ですが今日からは、もう一人留守番の供が出来ました。
 もう一人、というのは、勿論魔王エードラムの事です。
 魔王としての力を取り戻すための情報を提供する、という条件でこの家に留まることになったエードラムは、まさに勇者が言ったとおりに気の細かい男であったのか、勇者が彼の部屋を用意するや早速バタバタと家の中を飛び回りはじめました。
 まず最初に始めたのは、家の中の掃除でした。
 勇者はあまり掃除というものをしません。
勿論適度に掃除はするのですが、大体にして稼動しているのは自動的に床を掃除してくれるお掃除ロボットくらいのものです。
 彼自身が掃除をするのは週に一回程度でしょうか、どうしても溜まってしまう家具の上の埃を落としてロボットに吸わせる程度ですが、住んでいる人数の少ないこの家では十分な掃除ではございました。
 しかし勇者よりもずっと背の高い魔王から見るとこの家の上部は随分汚かったのでしょうか、エードラムはバケツと雑巾とはたきを持って家中の天井に近い壁を徹底的に掃除しておりました。
 勇大との付き合いはどうかと言えば、最初こそ驚いてぎゃーぎゃー泣いていた勇大も、エードラムとの生活が三日経過した頃にはもうすっかり慣れて掃除に奔走する魔王の後ろを短い足で楽しげにくっ付いて歩いていたのでした。
 なんとも、子供の順応力というものには驚かされます。
 留守がちな勇者に対してエードラムはこれからはどうしてもずっと家に居るものですから、それが嬉しかったというのもあるのかもしれません。
 けれど、困ったのは保育園のお迎えでございました。
 最初の日は、勇者が迎えに来る人の追加を申請するためにエードラムも(バッグの中に潜んだわたしも)一緒に保育園へ足を向けたのですが、それがまぁ大変な大騒ぎになってしまいました。
 今ではすっかり慣れた勇大ですが最初は大泣きをしましたものですし、当然他の子供たちもエードラムの容姿にびっくりして大泣きしてしまったのです。
 その時の声量ったらありませんでした。
 わたしの音量センサーが振り切れてしまうのではないかというくらいの声量で泣き喚く子供と、反射的に逃げ出す子供と、それを追う保護者たちと。
 あぁ、日本で言う阿鼻叫喚とはこのことを言うのですね!
と、家に帰ってからつい言ってしまいましたらエードラムに思い切り壁に叩きつけられたのも、わたしにとっては修羅場で御座いました。
 それでもまぁ、子供の順応力はやはり高いもの。
 一緒に暮らし始めて六日目、エードラムが勇大の迎えにいくようになって四回目には、エードラムの身体によじ登る子供たちでおかしなツリーが出来上がっていたのでございました。
『順応出来てるみたいですな』
「だろうね」
『分かっておられたので?』
「まぁね」
 勇者の口数はそう多くありません。
 けれど、慣れない日本語の練習をするために裏面の白いチラシにメモをしつつ学習をしているエードラムと、一緒にひらがなの練習をしている勇大を見守る眼差しは、見たことがないくらいには穏やかで御座いました。
 そもそも、勇者は何故エードラムを迎え入れる事にしたのでしょうか。
 ふと、そんなことを考えます。
 エードラムにはここに住むメリットというものは沢山存在しています。
しかし、勇者には彼をここに住まわせるメリットというのは、勇大の子守をしてもらえるという部分以外にはないように思えるのです。
 万一彼が裏切ったらとか、そういう事を考えるとリスキーであるとも暴挙であるとも言える行為です。
 今のところは落ち着いているようには見えますが、いつまた魔王としての本性を現さないとも限らないわけです。
 わたしは勇者の剣でありますので、勇者に意見をするという事は基本的にはありません。
ですので、今回の事に関しても勇者がいいと言うのであればいい、というスタンスで見守ってきました。
 しかしいざ一緒に暮らし始めてみると、どうしても不安になってしまうのは仕方がありません。
 これは一度真剣に勇者に意見をするべきなのかと、ついつい考えてしまいます。
 しかし、
「大丈夫だよ」
『……はい?』
「エドは大丈夫。心配する事は何もない」
 ひとくち、あたためたワインを飲みながら勇者が言います。
 勇者はあまり飲酒を好む人ではないはずですが、どうやら今日は少しばかり飲みたい気分のようです。
 しかし、わたしの考えが見通されていた事に驚きました。
わたしは剣でありますので勿論表情というものは御座いません。それだというのに、何故勇者にはわかってしまったのでしょうか。
 思わず無言でいると、勇者が小さく笑ったのが、鞘ごしに伝わって参りました。
 珍しい、勇者の笑顔でした。
「お前は分かりやすい」
『そう、でしょうか……?』
「そうだよ」
 言い切られてしまえば「そうですか」と返すしかなく、それがまた面白かったのか勇者は珍しく笑い続けました。
 勇者は、驚くくらいに感情の起伏のない人でした。
 常に薄く笑みを浮かべているようでありながら、実際には笑い声をたてることも、本当に笑う事もない。涙を流す事もなければ勝利にも喜ぶこともない。
 それでありますので、勇者の笑顔は本当に本当に貴重に思えました。
 一日中張り詰めていた糸をやっと緩めたかのようにも見えて、その糸を緩めたのはあのエードラムなのだろうと思うとどうにも面白くないものはあります。
 まぁ、分からないでもないのです。
 魔力の源を失ったとはいえエードラムは元魔王でありますので普通の人間よりもずっと強いですし、子供の扱いも下手ではないようです。
 そんな存在が常時家に居るというのは勇大の子守的にも家の警備的にも上手い事回ったギアのようでもあったのでしょう。
 何となく面白くないものはありますが、勇者の心に余裕が出来るのであれば歓迎すべき事、なのでしょう。
 心底に不本意ではありますが。
「おい、ガキが寝そうだ」
「あぁ……勇大おいで。寝よう」
 確かに、幼子の世話というものは未婚の男性ひとりでは大変なものなのでしょう。
その手間が二人に分散したとなれば、気持ちにも余裕が出来てくるのも納得が出来ます。
 分かってはいるのです。
理屈では当然の事であるとは理解出来るのです。
 しかしやはり、わたくしは太古の戦いで闇の魔物と戦い続けていた勇者の剣です。その余裕を与えているのが魔王であると思うと、面白くないし釈然ともしません。
 そもそも勇者はひとりで育児をしていたわけではないのです。
わたしだって居りました。
 そりゃあ、まぁ、肉体はありませんし出来た事といえば勇者の話し相手とまだ何も分からなかった赤子に子守唄を歌ってやった程度です。
 あぁ、太古の人々よ。何故わたしに人間の肉体を与えてくださいませなんだか。
 すでに何度目かもわからぬ恨み言をつい胸に抱いてしまいます。
 肉体があれば、もっと早くに、もっと沢山勇者の手伝いを出来たというのに。
 そうすれば、魔王になぞ与える隙は無かったというのに。
「……何か言いたそうだな?」
『お前と話すことなどありません』
「その割には、じーっとこっちを見てんじゃねぇか」
『気のせいでしょう。わたしには目は御座いません』
「眼球代わりのセンサーこっちに向けといてよく言うぜ」
 勇者が幼子を連れてベッドルームに消えると、待ってましたとばかりにエードラムが床のクッションに転がされているわたしを足でつつきました。
何という奴なのでしょうか、いくら床に転がっているとはいえ勇者の剣を足蹴にするとは。
「言いたいことがあるなら言やいいじゃねぇか。まぁ、何が言いたいのかは大体分かるけどよ」
『お前と話すと舌が腐ります』
「ねぇんだろ?舌」
 ニヤリと牙を見せつつ笑う魔王に、なんとも言えないムカつきが沸き上がって来ます。
 揚げ足を取って笑うとは、本当に何と憎たらしい男で御座いましょうか。
「まぁいい。言いたいことがあんのはお互い様だ。それよりお前、あの勇者とは長いのか?」
『長い、とは?』
「付き合いに決まってんだろうが」
 アイツは若い割りに戦い方が老成されすぎている。
魔王はそう言いながら、私の隣に座りました。
 魔王が何を言いたいのか、わたしにはいまいちよく分かりませんでした。
戦い方が老成されていると言われましても、基本的に勇者に使われるだけでしかないわたしには何が何だか。
 勇者とわたしの付き合いは、それこそ勇大の年齢くらいでしかありません。
 まだ十代だった勇者がわたしを入手し、振るい始めた時にはまだ勇大は赤子であったはずです。
 それを言うと、エードラムは「ふぅん」と鼻を鳴らしてから何かを考え込むように窓の外に視線を投げました。
『何が言いたいのです?』
「さっき言った通りだ。アイツの戦い方は年齢に似合わない」
『意味が分かりません』
「アイツは本当に見た目通りの年齢なのかって事だ」
 はぁ?としか、わたしには返せる言葉はありませんでした。
 エードラムの言葉を飲み込み切れなくて、エードラム本人としても自分の言葉に疑問を持っているような表情をしていて要領を得ません。
 勇者が人間であるのは間違いがありません。ですから、見た目通りの年齢以外にどういう経過年齢があるというのでしょうか。
 そもそも、長命の種族というものは、この世界には存在していないはずです。
 それこそエードラムのように闇の種族か、太古の人々以外には有り得ないのです。
「……だよな。おかしな事を言った」
『えぇ、実におかしな話です』
 そうは言いつつもまだ釈然としていないような表情で、エードラムは立ち上がりわたしをソファまで移動させました。
 このソファは、夜間に勇者と勇大が眠っている間のわたしの定位置です。
ここは丁度家中心でありますもので、ここに居れば外の何処からの侵入でも察知出来るのです。
 ここに住んで少しは経過しているのですから魔王がそれを知っていて当然なのですが、柔らかくソファに落とされるとなんとも言えないむず痒さがあります。
 なんだか、逆に魔王という肩書きの似合わない男にすら感じてしまいます。
『魔王よ』
「あん?」
『わたしはお前を信用してはいません』
「……だろうよ」
『えぇ。では、お前は勇者を信用しているのですか?』
 ふかふかと、わたし用に誂えてあるクッションを投げてくるエードラムに、わたしは問い掛けました。
 本当に気の細かい男です。
わたしのことが気に入らないのであれば、わたしには触れずに床に転がしたままにしておいたり、クッションなんか無視してしまえばいいというのに。
「……信用、は、完全にはしてねぇな」
『……そうですか』
「だが……居心地は悪くねぇと思っている」
 勇者は、エードラムの行動を制限してはいませんでした。
 家事の分担なんかは予めエードラムに指示を出して撤回しようとはしませんでしたが、それ以外の彼の行動には一切何も言いませんでした。
 それは彼を信用しているからなのか、それとも面倒臭いからなのか。それは我々からは図り知る事は出来ません。
 エードラムがそれに戸惑い、最初の数日間はとても悩んでいたのも、わたしは知っています。
 彼の言う居心地のよさというのは、そこを経過しての今があるからこそのそれなのかも、しれません。
 その言葉を信じていいのか、そもそもどういう風に受け取っていいのか、やはりわたしにはまだ分かりません。
 けれど確かにその言葉の中には、勇者や勇大を害するつもりはないという気持ちが混じっているようには感じました。
 なんとも奇妙な心地です。
    とても複雑です。
 彼が心から信用出来るようになり、勇者の仲間となってくれたならばこれ以上嬉しい事はない。
 けれど、そうなりはしないだろうという確信めいたものもあります。彼は、勇者と共に並び立つ存在ではないのだと。
 この胸のもやもやはそれが原因なのでしょうか。
 まだ彼がここで暮らすようになってほんの数日でありますので、結論がすぐに出るわけではありません。もしかしたら、彼は闇の世界に戻っていくかもしれないのです。
 なのにわたしは、早く彼が信用できるようになればいいと、そう思い始めておりました。
 勇者が孤独な戦いを続けなくていいようになればいいと、ずっとそう思っていたものですから尚更です。
 勇者は言葉が少なく、感情の起伏も少ない人です。
 ですがそれはもしかしたらずっと一人で戦っていたからなのかもしれないと思うことがあるのです。
 最近のエードラムとのやり取りを見ていると余計にその気持ちは強くなってまいります。
 やはり対等に、目と目を見て会話が出来る相手というのはどんな状況でも必要なのではないのかと。
 ですが、何もその貴重な相手が魔王でなくったっていいではないかとつい思ってしまうのも否めません。
 あぁ、彼が普通の人間だったならと、一日一回は思っている事をまた一回、考えてしまいました。
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