勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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均衡の柱

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 玉座の間には、低い振動音が満ちていた。

 骨の奥にまで染みるような重い響き。それは音というよりも、世界そのものの鼓動に似ていた。レイドは無意識に足元を見下ろした。玉座の下、黒い石の床を透かすように、淡い青光が脈動している。

 魔法陣だ。

 一周目では気にも留めなかった。魔王城の装飾程度にしか思っていなかった。だが今、間近で見れば分かる。この光は飾りではない。呼吸するように明滅を繰り返す青い輝きは、何かを制御している——何か、途方もなく巨大なものを。

「座るがいい」

 ヴェルディアの声が、広い空間に静かに落ちた。玉座に腰掛けた彼女は、闇の中で浮かび上がる蒼白い彫像のようだった。漆黒の髪が床に届くほど長く垂れ、紅い瞳だけが炎のように揺れている。

 レイドは示された石段に腰を下ろした。冷たい石の感触が、薄い衣越しに伝わる。

「……お前は知っている、と言った」

 ヴェルディアの紅い瞳が、真っ直ぐにレイドを射抜いた。

「何を知っている。何を見た」

 問いかけではなかった。確認だった。この存在は、レイドが死に戻ったことを、既に見抜いている。

「全部だ」

 レイドは短く答えた。声が玉座の間に反響し、沈黙に吸い込まれていく。

「世界が崩壊するところを見た。魔王を——お前を殺した後に、何が起こるかを」

 ヴェルディアの表情は変わらなかった。だが、その瞳の奥で何かが揺れたのを、レイドは見逃さなかった。

「ならば問おう」

 ヴェルディアが立ち上がった。長い髪が揺れ、玉座の下の魔法陣が一際強く脈動する。

「この光が何か、分かるか」

 レイドは首を横に振った。

「一周目では——気づかなかった」

「当然だ。気づく者などいない」

 ヴェルディアが足元を見下ろした。青い光が、彼女の蒼白い肌を冷たく照らしている。

「これは世界の血管だ。大陸全土を巡る魔力の循環——その制御装置。私はこれを管理するために創られた」

 創られた。その言葉に、レイドの指先が微かに痺れた。

「……創られた?」

「世界が生まれた時、神々は均衡を保つための仕組みを必要とした」

 ヴェルディアの声は淡々としていた。数千年の歳月を経て擦り切れたような、感情を削ぎ落とした声。

「魔力の循環、魔物の制御、古代封印の維持、自然法則の安定。それらすべてを束ねる存在——『均衡の柱』。それが、お前たちが魔王と呼ぶものの正体だ」

 足元の魔法陣が、言葉に呼応するように輝きを増した。青い光の筋が、石の床を走り、壁を伝い、天井へと伸びていく。玉座の間全体が、巨大な魔法装置の中心核なのだと、レイドはようやく理解した。

「……『均衡の柱を砕きし時、光は永遠に』」

 レイドの唇から、あの神託の言葉が零れた。

「柱とは——お前自身のことだったのか」

 ヴェルディアは答えなかった。だがその沈黙が、肯定だった。


  ◇


 空気が変わった。

 玉座の間を満たしていた青い光が、僅かに揺らいでいる。ヴェルディアは再び玉座に腰を下ろし、レイドを見下ろしていた。

「お前は世界の崩壊を見たと言った」

「ああ」

「語れ。何が起きた」

 レイドは目を閉じた。瞼の裏に、あの光景が蘇る。忘れようとしても忘れられない——一周目の終わり。

「最初に空が割れた」

 声が、思ったよりも平坦に出た。感情を込めれば、喉が詰まることが分かっていた。

「お前を倒して、三日目だった。魔物が一斉に暴走を始めた。街が焼かれ、人が逃げ惑い——誰も理由が分からなかった。勇者が魔王を倒したはずなのに、なぜ世界が壊れていくのか」

 玉座の間の振動音が、一瞬だけ高くなった気がした。

「五日目に、大地が裂けた。地鳴りが止まなくなって、封印されていた古代の魔物が次々と這い出してきた。光属性の魔法が暴走を始めて、勇者の紋章を持つ者が——」

 レイドの右手が、無意識に震えた。握り込んで、止める。

「——紋章が暴走した。アルヴィンが最初だった。光の奔流に飲まれて、自分のパーティーごと消し飛ばした。本人にも制御できなかった」

 沈黙が落ちた。

 ヴェルディアの紅い瞳に、玉座の横に灯る炎の揺れが映っていた。その表情は動かない。だが——瞳の奥に、かすかな翳りが差したのをレイドは見た。

「お前を殺した俺たちが、結局は世界を殺した」

 レイドは自嘲の笑みを浮かべた。唇が引き攣るだけの、笑みとも呼べないもの。

「一周目の俺は、お前が悪だと信じて疑わなかった。聖剣を突き立てた時、世界を救ったと本気で思っていた」

 右手を開く。あの時の感触が蘇る。刃が肉を裂き、骨を断ち、命を絶つ感覚。

「——馬鹿だった。何も知らないまま、正義だと信じて世界を壊した」

 ヴェルディアが、初めて視線を逸らした。

 長い沈黙の後、彼女の唇がゆっくりと動いた。

「……責めているわけではない」

 その声には、レイドが予想しなかった色があった。

「知らぬのは当然だ。知られてはならなかった。柱の存在が知られれば、柱を利用しようとする者が現れる。だから代々の魔王は沈黙を守り——そして、討たれ続けてきた」

「お前の前にも、いたのか」

「私で九代目だ」

 九代。途方もない時間の重みが、その短い言葉に凝縮されていた。

「先代が討たれた時にも、世界は揺れた。だが当時はまだ——世界に余力があった。均衡が崩れても、新たな柱が継承されるまで持ちこたえた」

「今は違う、ということか」

 ヴェルディアは小さく頷いた。

「世界は疲弊している。九度の継承を経て、柱の力は磨り減った。私が倒れれば——次はない」

 レイドの背筋を、冷たいものが走り抜けた。

「次の柱が現れない——つまり、世界が持たないと」

「そうだ」

 その一言が、玉座の間の空気を凍らせた。


  ◇


 レイドが次の言葉を探している時だった。

 ヴェルディアの体が、不意に傾いだ。

「——っ」

 短い呻きとともに、彼女の右手が玉座の肘掛けを掴んだ。蒼白い肌に、黒い筋が走る。血管のように這う、禍々しい紋様。

 足元の魔法陣が——赤く明滅した。

 青だったはずの光が、一瞬だけ鮮烈な赤に変わる。空間全体がびりびりと震え、レイドの肌を圧迫するような重圧が膨れ上がった。石段に座ったまま、思わず腕で顔を庇う。

「ヴェルディア——!」

 レイドは駆け寄ろうとして、見えない壁に弾かれた。魔力の奔流が、玉座の周囲に渦巻いている。

 ヴェルディアの呼吸が荒い。蒼白い唇が微かに開き、そこから漏れるのは声にならない苦悶だった。黒い紋様が首筋から頬へと這い上がり、紅い瞳の光が不安定に瞬く。

 ——これは。

 一周目でも見た。魔王を討つ直前、彼女の体に同じ紋様が浮かんでいた。あの時は戦闘の傷だと思っていた。違う。これは——。

 魔法陣の赤い明滅が、不規則に繰り返される。青に戻り、また赤に変わる。制御を失いかけた装置のように。

「近づくな」

 ヴェルディアの声が、苦痛の合間から絞り出された。

「今の私に触れれば、お前の体が持たない」

 レイドは拳を握ったまま、弾かれた場所に立ち尽くした。何もできない。ただ見ているしかない。助けに来たはずの存在が、目の前で崩れかけているのに。

 ——一周目では、気づかなかった。

 この苦しみを。数千年、たった一人で世界を支え続けてきた代償を。

 やがて、紋様が薄れていった。赤い明滅が収まり、魔法陣が再び青い光を取り戻す。だが先ほどよりも、その輝きは弱い。確実に弱くなっている。

 ヴェルディアの額に、汗が滲んでいた。乱れた黒髪の隙間から覗く紅い瞳が、レイドを捉える。

 彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、玉座に深く身を預けた。

「驚かせたな」

 その声は再び平坦だった。だが先ほどまでの揺るぎない静けさとは違う。消耗を隠しきれない、薄い皮膜のような平静。

「……あれが、衰弱の正体か」

「柱としての機能が劣化している。魔力の制御が、時折——こうして乱れる」

「一周目より進行が早い」

 ヴェルディアの瞳が、僅かに見開かれた。

「……気づいているのか」

「魔王領の瘴気が、前より濃い。ここに来るまでに分かった」

 ヴェルディアは長い沈黙の後、小さく息を吐いた。それが笑みの名残であることに気づくまで、レイドには数瞬かかった。

「聡い勇者だ。一周目のお前は、何も見えていなかったというのに」

「……見えていたら、お前を殺したりしなかった」

 再び、沈黙が落ちた。

 魔法陣の青い光が、弱々しく脈動を続けている。その間隔が以前より長くなっていることに、レイドは気づいていた。

 ヴェルディアが口を開いた。

「私の命は——」

 紅い瞳が、真っ直ぐにレイドを見据えた。そこに感情はなかった。ただ事実を述べるように、彼女は言った。

「あと一年も持たない」

 足元の魔法陣が、また一瞬だけ赤く明滅した。

 レイドの思考が、止まった。

 一年。

 勇者パーティーを止め、聖教会の欺瞞を暴き、世界の真実を人々に知らしめ——そしてこの存在を救う方法を見つける。そのすべてを、たった一年で。

 玉座の間の振動音が、心臓の鼓動と重なった。

「——なぜ、今まで黙っていた」

 搾り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 ヴェルディアは答えなかった。ただ紅い瞳を伏せ、長い睫毛が蒼白い頬に影を落とした。

 その沈黙の中に、レイドは答えを聞いた。

 ——言って、どうなる。誰が、救えるというのだ。

 数千年、そう思い続けてきた存在の、凍りついた諦め。

 レイドは唇を引き結んだ。奥歯が軋むほど強く噛み締め、拳を握る。指の関節が白くなるまで。

「俺が救う」

 声は低く、だが確かに玉座の間に響いた。

 ヴェルディアの瞳が、ゆっくりと上がった。紅い光の奥に、微かな揺らぎ。

「一年あれば——十分だ」

 それが嘘であることを、レイド自身が一番よく分かっていた。だが、言わなければならなかった。

 この場所で。この存在の前で。

 足元の魔法陣が、赤く——三度目の明滅を刻んだ。壊れかけた世界の、残り時間を刻むように。
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