勇者だった俺は死に戻りして知った――魔王を殺せば世界が滅ぶので、今度は勇者を止めることにした

ポポリーナ

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聖女の選択

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 魔王城の地下。魔力模型の間。

 セレナは三日間、ほとんど眠らずにこの部屋にいた。

 巨大な立体模型が青い光を放ち、大陸の地形を魔力で描き出している。地脈の流れ。赤い警告点。その全てが、三日前よりも悪化していた。赤い点が増え、青い光が薄くなっている。

 セレナは模型の前に膝をつき、聖印を握りしめた。白い光が手の中で揺れている。三日前に感じた共鳴——神の力と魔王の力が同じ根源であるという事実。それを確認するために、聖印の力で模型の魔力を分析し続けてきた。

 結論は、既に出ていた。

 聖印の魔力と、模型に流れる魔王の魔力。波形が同一だ。周波数も振幅も完全に一致する。聖教会が「神聖なる力」と呼んでいるものと、魔王が世界を制御するために使っている力は——同じものだった。

「同じ……本当に、同じなのですね」

 セレナの声が、地下空間に沈んだ。翡翠の瞳に涙が滲んでいる。

 聖教会で育った。幼い頃から神に仕え、祈りの力で人々を癒してきた。神の声を聞き、その導きに従って生きてきた。聖女という称号は、セレナにとって人生そのものだった。

 その人生の土台が、今崩れようとしている。

 神の力が魔王の力と同じなら——神とは何なのか。教義とは何なのか。これまで癒してきた人々に、何の力を使っていたのか。

 セレナは聖印を見つめた。掌の中で白く光る小さな紋章。これは神の証だと教えられてきた。だが今、この光が魔王の力と共鳴している。

「……嘘だった、ということですか」

 誰にも聞こえない声で呟いた。涙が頬を伝い、石の床に落ちた。

 だが——セレナは崩れなかった。

 涙を拭い、もう一度聖印を握りしめた。白い光が手の中で揺れる。この光で、何人もの人を癒してきた。病に伏せた子供の熱を下げ、傷ついた兵士の傷口を塞ぎ、絶望した人々に希望を与えてきた。

 その力の源が、魔王と同じだとしても——癒された人々は確かに救われた。笑顔は本物だった。感謝の言葉は偽りではなかった。

 力の源が何であれ、セレナが為してきたことは変わらない。

「力の名前が違っていただけ。——私がしてきたことは、嘘ではなかった」

 セレナは立ち上がった。法衣の裾についた埃を払い、乱れた髪を整えた。三日間の疲労が顔に刻まれているが、翡翠の瞳には新しい光が宿っている。

 信仰の形が変わっても——人を救う意志は変わらない。

 セレナは模型に向き直り、最後の確認作業に入った。聖印の力で、模型の魔力構造を記録していく。この記録が、アルヴィンを説得する唯一の証拠になる。


  ◇


 模型の間の外で、エドモンが壁に背を預けていた。

 三日間、セレナの警護を命じられている。だが警護だけではない。アルヴィンの目と耳として、セレナの調査の経過を監視する役割も担っていた。

 エドモンは扉の向こうから漏れる青い光を見つめていた。鉄の仮面のような無表情。だがその奥で、忠義の騎士は考えている。

 ——聖女が泣いている。

 アルヴィンに仕えて十年。セレナとも同じ年月を過ごしてきた。穏やかで聡明で、信仰に揺るぎのなかった聖女が、今——崩れかけている。

 エドモンの拳が握りしめられた。自分の役目は、アルヴィンに報告することだ。だが何を報告すればいい。セレナが発見した真実は、アルヴィンの信仰をも破壊しかねない。そしてアルヴィンの信仰が折れることは、この軍勢全体の崩壊を意味する。

 足音が近づいた。軽い、だが確かな足音。回廊の向こうから、ナージャが歩いてくる。小柄な従者が、紅い瞳でエドモンを見上げた。

「聖女は」

「……まだ中だ」

「三日間の約束は、今日で終わりだ。——結果は」

 エドモンは答えなかった。ナージャは沈黙を読み取り、目を細めた。

「真実を知ったか。——可哀想に」

 ナージャの声に、予想外の柔らかさがあった。千五百年を生きた従者が、若い聖女の苦悩に——何かを感じている。

「主も同じだった」ナージャが呟いた。「三千年前、主が柱となった時。世界を支える代わりに、全てを捨てた。——真実は、いつも残酷だ」

 エドモンはナージャを見た。魔族の従者と人間の騎士が、廊下で視線を交わす。敵であるはずの二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。

 扉が開いた。

 セレナが出てきた。蒼白な顔。だが翡翠の瞳は——泣いた跡があるにもかかわらず——澄んでいた。決意の色が宿っている。

「エドモンさん。アルヴィン様に報告があります」

「報告の内容は」

「魔王の力と神の力は、同一の根源です。教義は——事実とは異なります」

 エドモンの表情が僅かに歪んだ。聞きたくなかった言葉。だが聖女が三日間をかけて導き出した結論を、否定することはできない。

「……アルヴィン様に、そのまま伝えるのか」

「はい。嘘は、もうつきません」

 セレナの声は震えていたが、折れてはいなかった。

 その時、回廊の奥から急ぎ足が聞こえた。聖教会の紋章を付けた伝令が、息を切らして走ってくる。

「セレナ聖女! 大司教マルティウス様からの召喚命令です! 直ちに調査を中断し、王都に帰還せよとのことです!」

 セレナの顔から、一瞬だけ血の気が引いた。

 マルティウスが動いた。セレナの調査結果が教会にとって危険だと判断したのだ。召喚命令の真の意味は——口封じだ。

 伝令の手には封蝋付きの命令書が握られていた。聖教会の最高位の印が押されている。大司教の直接命令。これに背けば、聖女の資格を剥奪される可能性すらある。

 セレナは数秒間、命令書を見つめた。手が震えている。だが——顔を上げた時、その目は真っ直ぐだった。

 セレナは伝令を見つめ、それからエドモンを見た。

「エドモンさん」

「何だ」

「私は——先にアルヴィン様に報告します。召喚命令には、その後で応じます」

「しかし——大司教の命令に逆らえば」

「逆らうのではありません。順序を変えるだけです」

 セレナが微笑んだ。涙の跡が残る顔に浮かんだ、穏やかだが芯のある笑み。

 聖女は、信仰を失ったのではない。信仰の形を——変えようとしていた。

 エドモンは長い沈黙の後、頷いた。

「……案内する。アルヴィン様のところへ」

 三人が回廊を歩き出した。セレナの足取りは軽くはなかったが、確かだった。法衣が石の床を擦る音が、静かな回廊に響いている。

 エドモンが先導し、セレナが続き、伝令が困惑した顔で後ろを歩く。アルヴィンの陣地は城の外だ。結界を越え、荒野に張られたテントの群れを抜けていかなければならない。

 セレナは歩きながら、聖印を胸に当てた。白い光が微かに脈動している。その光は——もう「神の力」とは呼べないかもしれない。だが、世界を支える力の一端であることに変わりはない。

 名前が変わっても、光は光だ。

 ナージャは柱の影から、その背中を見送っている。紅い瞳に、千五百年分の感慨が揺れていた。

「——人間も、たまには信じられるかもしれない」

 小さな呟きは、誰の耳にも届かなかった。

 だが魔王城の奥の玉座で、ヴェルディアの唇が微かに動いた。千五百年を共に過ごした従者の心の変化を、主は——聞き逃さなかった。
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