魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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壊れた人間たちの街角

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 石畳の冷たさが、背中から全身に染みていた。

 剛田鉄心は薄く目を開けた。視界に映るのは、朝焼けに染まり始めた空と、二つの月の残像。片方の月がまた、微かに明滅している。昨夜見つけた鍛冶場の近く、路地裏の壁に背を預けたまま夜を明かしたらしい。あの小さな影——炉の前で鉄を打っていた誰か——は、もう姿を消していた。

 鉄心は首を鳴らしながら立ち上がった。冷えた筋肉が軋む。だが、それがいい。

「よし」

 両手を頭上に伸ばし、大きく深呼吸する。路地裏の空気は煤と鉄の残り香が混じっていたが、その奥にパンを焼く匂いがかすかに漂っている。

 朝のルーティンだ。

 腕立て伏せ百回。腹筋百回。スクワット百回。前世から一日も欠かしたことがない。異世界に転移しようが、魔力がゼロだろうが、関係ない。体は裏切らない。

 ドスッ、ドスッ、と鉄心の腕立て伏せが石畳を揺らすたびに、路地の壁から砂が落ちた。

「なっ——なにあれ」

「朝から何やってんだ、あのデカいの」

 早朝の通行人が足を止め、信じられないものを見る目で鉄心を凝視している。母親が子供の目を覆い、早足で去っていく。まるで危険生物を見たかのような反応だった。

 鉄心は汗を拭い、爽やかに手を振った。

「おう! おはようさん!」

 通行人たちは無言で目を逸らし、足早に去っていった。

「……あれ?」

 首を傾げたが、気にしても仕方ない。腹が減った。まずは街を回ってみよう。


  ◇


 カルデンの街は、朝の光の中でもやはり魔法に満ちていた。

 鉄心は大通りを歩きながら、改めてこの世界の常識を目の当たりにしていった。水道の蛇口から流れる水は青い魔法陣から湧き出している。街灯は炎ではなく光の結晶が浮遊している。荷物を運ぶ荷車は、馬の代わりに浮遊魔法で地面から浮いていた。

 どこを見ても、肉体を使っている人間がいない。

「すげえなあ。便利っちゃ便利だけど……」

 鉄心は荷車の横を通り過ぎながら呟いた。浮遊する荷車を操作している商人は、指先に魔法陣を灯しているだけで、額に汗一つかいていない。

「体、なまらねえのかな」

 素朴な疑問だった。だが、この世界では誰もそんなことを気にしないのだろう。昨日の市場で見た住民たちの細い腕。魔力測定所の職員の青白い顔。鉄心の前世の生徒たちのほうが、よほど健康的な体格をしていた。

 大通りから一本、また一本と脇道に逸れていくうちに、街の雰囲気が変わっていった。

 石畳が途切れ、剥き出しの土の道になる。建物の壁は罅割れ、浮遊する街灯もない。代わりに、煤けた松明が等間隔に刺さっている。魔法ではなく、火。原始的な明かり。

 そして——人の気配が、急に増えた。

「ここは……」

 痩せた老人が、壁にもたれて座り込んでいる。擦り切れた衣服を纏った女性が、井戸——手動の、魔法でない井戸——から水を汲んでいる。子供たちが土の上を裸足で走り回っている。

 誰もが、華奢だった。骨と皮だけの腕。窪んだ頬。しかし目だけは生きている。必死に、今日を生き延びようとしている目。

 区画の入口に、錆びた看板が掲げられていた。

『ノーマジック居住区域——一般市民の立入はご遠慮ください』

 鉄心の足が止まった。ノーマジック。魔力を持たない者たち。昨日、あの測定器が示した「0」と同じ——。

「おい、にいちゃん。ここに何の用だ」

 声をかけてきたのは、杖をついた老人だった。片足を引きずっている。腰は曲がり、顔には深い皺が刻まれていたが、目つきだけは鋭かった。

「あんた、見ない顔だな。こっちの人間じゃないだろう」

「おう、昨日こっちに来たばっかりでさ。俺もノーマジックなんだ」

 老人の目が見開かれた。鉄心の体を、頭のてっぺんからつま先まで見つめる。

「……あんた、その体は」

「ん? ああ、毎日鍛えてっからな。じいちゃんもどうだ、スクワットくらいなら——」

「馬鹿言うんじゃねえ」

 老人が、苦い顔で首を振った。

「筋力なんぞ鍛えてどうする。この街じゃ魔力がなけりゃ水も買えねえ、飯も買えねえ。体がでかかろうが強かろうが、ノーマジックはノーマジックだ。壊れた人間なんだよ、俺たちは」

 壊れた人間。

 その言葉が、鉄心の胸に刺さった。前世で何度も聞いた言葉と重なる。「運動なんかできても意味ない」「勉強のほうが大事」「体育なんて将来役に立たない」——そう言って体を動かすことを諦めた生徒たちの顔が、脳裏をよぎった。


  ◇


 区画の奥に進むと、荷運びをしている住民たちが見えた。

 木箱を三人がかりで持ち上げようとしている。だが、誰もが痩せ細った腕で、箱はびくともしない。

「手伝うぜ」

 鉄心は声をかけるが早いか、木箱を片手で持ち上げた。

 住民たちが凍りついた。

「ど、どこに運べばいい?」

「……あ、あっちの、倉庫に……」

 鉄心は木箱を肩に担ぎ、指差された方向に歩き出した。残りの木箱も、一つずつ軽々と運んでいく。住民たちは口を開けたまま、その光景を見ていた。

「おっちゃんすげー!」

 最初に声を上げたのは、子供だった。六つか七つくらいの少年が、鉄心の足元に駆け寄ってきた。

「ねえねえ、魔法なしでどうやるの!?」

「魔法? 使ってねえよ。これは筋肉だ」

 鉄心が力瘤を作って見せると、子供たちが集まってきた。目を輝かせて、鉄心の腕を触ろうとする。

「かってえ! 石みたい!」

「いやー、石よりは柔らかいと思うけどな。ハハハ」

「マルコ、お前も触ってみろよ!」

 仲間に押されて前に出てきたのは、そばかすだらけの少年だった。おずおずと鉄心の腕に触れ、目を丸くする。

「……おじいちゃんが言ってた。昔はみんなこうだったって」

「ん?」

「昔の人は、魔法がなくても力持ちだったんだって。おじいちゃんのおじいちゃんも、すごく力が強かったって」

 マルコの言葉に、鉄心は膝を折って目線を合わせた。

「そうか。じいちゃんのじいちゃんも、鍛えてたんだな」

「うん。でも、もう誰もやらないって。意味ないから、って」

 鉄心の喉の奥で、何かが詰まった。飲み込んで、笑顔を作る。

「意味なくねえよ。——よし、お前ら、体操やるか!」

 元教師の血が騒いだ。

 鉄心は子供たちを集め、簡単なストレッチから教え始めた。前屈、屈伸、腕回し。前世の体育の授業そのままだ。

「ほら、腕をぐるっと回して——そうそう、いいぞ!」

「えー、これ何の意味があるのー?」

「体を動かすと気持ちいいだろ? それだけで充分だ!」

 子供たちがきゃあきゃあと笑いながら真似をする。下手くそな前屈。ふらつくバランス運動。だが、その顔には確かに笑顔が浮かんでいた。

 大人たちは遠巻きに見ていた。その目は——冷ややかだった。

「やめときな、にいちゃん」

 先ほどの老人が、杖で地面を突きながら近づいてきた。

「子供に変な期待を持たせるもんじゃない。筋力なんざ何の役にも立たねえんだから」

 鉄心は答えず、子供たちに声をかけ続けた。

「次はジャンプな! せーの!」

 老人は黙って、去っていった。

 区画の壁に、古い壁画が描かれていた。色褪せ、罅割れ、ほとんど判別できないほど劣化している。だが鉄心の目には見えた——鎧を纏わず、素手で巨大な獣と戦う人間の姿。筋骨隆々とした、巨人のような体躯。

 誰も気に留めていない。壁画の前にゴミが積まれ、半分以上が隠れている。

 だが鉄心は、しばらくその絵を見つめていた。

「……やっぱ、昔はいたんだな。俺みたいなやつが」

 呟きは、誰の耳にも届かなかった。

 ——そのとき。区画の外れの建物の影から、小さな視線が鉄心を捉えていた。ずんぐりとした体躯。炉焼けした太い腕。昨夜、路地裏の鍛冶場で鉄を打っていた影と、同じ輪郭だった。


  ◇


 夕方になり、鉄心の腹が盛大に鳴った。

 子供たちに手を振って別れ、大通りに戻る。市場の屋台から焼き肉の匂いが漂ってきて、唾が湧いた。

 ポケットの中には、昨日の冒険者登録でもらった僅かな支度金がある。これで何か買えるはずだ。

 一軒の食料店に入ろうとした。

「お客様」

 店主が、鉄心の前に手を突き出した。

「当店はノーマジック——」

 店の入口に貼られた札が目に入る。

『ノーマジックお断り』

 店主の目は、鉄心を見ていなかった。鉄心の腕に刻印された——昨日の測定所で押された、魔力ゼロの証明印を見ていた。

「……悪いな」

 鉄心は踵を返した。

 隣の店にも、同じ札。その隣にも。大通りの店は、ほぼ全てが同じだった。

 空腹を抱えてノーマジック区画に戻ると、日はもう暮れかけていた。子供たちに体操を教えた広場の隅で、腰の曲がった老婆が鍋をかき混ぜていた。

「にいちゃん、あんた今日子供らと遊んでくれたろう」

「あ、ばあちゃん。いや、遊んでたってか、体操を——」

「食べな」

 差し出されたのは、木の椀に注がれた薄いスープだった。具はほとんどない。干した根菜のかけらが二つ三つ浮いているだけ。

「いいのか?」

「年寄りは食わんでも平気さ。若いもんが倒れちゃ困る」

 鉄心は椀を受け取り、一口すすった。

 薄い。味もほとんどない。

 だが——温かかった。

 腹の底に、じわりと熱が広がる。

「……うめえ」

「嘘おっしゃい」

 老婆が笑った。歯の欠けた、皺だらけの笑顔。

 鉄心は椀を空にし、膝の上に置いた。空を見上げる。二つの月が昇り始めていた。片方は明るく、もう片方はやはり——かすかに、暗く瞬いている。

 拳を握った。

 怒りじゃない。

 前世で保健室登校の生徒を体育館に連れ出したとき、「先生と一緒なら走れる気がする」と言われたことがある。あのときと同じものが、胸の底で燃えていた。

「ばあちゃん」

「なんだい」

「俺、この街のこと、まだ全然わかんねえけどさ」

 拳を、もう一度握り直した。骨が白く浮くほど、強く。

「壊れた人間なんて、いねえよ。絶対に」

 老婆は何も言わず、鍋の火を見つめていた。


  ◇


 翌朝。

 まだ日が昇りきらない薄闇の中、怒号がノーマジック区画に響いた。

「家賃の支払いだ! 今月分、耳を揃えて出しな!」

 派手なローブを纏った男が、住民の前に立ちはだかっている。その指先には、青白い魔法陣が回転していた。
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