魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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前夜の鼓動

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 朝靄が晴れきらぬ訓練場に、掲示板を囲む人だかりができていた。

 羊皮紙に墨で記された出場者名簿。その一番上に刻まれた名前を見て、周囲の空気が変わった。

「エリオット・ヴァン・クレスト——『蒼雷』が出るぞ!」

「前年覇者じゃないか。今年も優勝確定だろ」

「あの人の雷撃魔法、見たことあるか? 詠唱完了まで〇・三秒だぞ。目で追えない」

 生徒たちの声が重なり合い、興奮が波紋のように広がっていく。名簿の横には過去の大会記録が貼り出され、エリオットの戦績が異彩を放っていた。出場三回、全試合一撃決着。対戦相手が攻撃魔法を放つ前に、蒼い稲妻が勝負を終わらせてきた。

「おい、見ろよ。剛田鉄心って——あの筋肉野郎も出るのか」

「無属性が武闘大会? 正気かよ」

「いや、ルール変更があっただろ。力の種別制限なしって——」

 囁き声が笑い声に変わる。しかし、その笑いにはどこか引きつったものが混じっていた。教室棟を素手で砕いた男の噂は、もう学院中に広まっている。

 名簿の中程に、もうひとつ——リリアーナ・フォン・アルカディアの名があった。


  ◇


 午後の訓練場。人払いの結界が淡く光を放ち、リリアーナは一人で氷魔法の精度を追い込んでいた。

 指先から生まれた氷の刃が、十メートル先の的を正確に穿つ。だが、彼女は首を横に振った。

「遅い」

 呟いて、もう一度。今度は三本同時に生成し、それぞれ異なる角度から的を狙う。氷が空気を裂く鋭い音。三本とも的の中心から五ミリ以内に着弾した。

 それでも満足しない。額に浮いた汗を袖で拭い、もう一度詠唱を始めようとして——ふと、周囲を見回した。

 誰もいない。

 リリアーナは訓練場の隅に移動すると、おもむろに両手を地面について——腕立て伏せを始めた。

 一回。二回。三回。華奢な腕が震え、銀髪が石畳に垂れる。吐く息が白い。秋の風が訓練場の砂埃を舞い上げ、汗ばんだ首筋を撫でていった。

「……十三、十四——っ」

 十五回で腕が限界を訴えた。ぺたりと地面に伏せ、荒い息をつく。石畳の冷たさが頬に心地よかった。

 身体を起こし、自分の掌を見た。

 指の付け根に、小さなタコができ始めている。貴族の令嬢として手入れされた白い肌に、不釣り合いな硬い突起。一月前なら、悲鳴を上げて治癒魔法をかけていたはずだ。

 リリアーナは親指でそのタコをそっと撫でた。唇の端がわずかに持ち上がる。

 ——野蛮ですわ。まったく。

 けれど手袋をはめ直す手つきは、何かを隠すというより、何かを守るようだった。

 再び魔法訓練に戻る。氷の刃を生成し——今度は五本同時に。

 指先に集まる魔力の感覚が、以前とは微妙に違った。制御が滑らかになっている。魔力の通り道が太く、安定している。腕立て伏せで腕が震えた直後だというのに、魔法の精度はむしろ上がっていた。

 五本の氷刃が的を貫く。全弾、中心。

「……あら」

 小首を傾げたが、それ以上は深く考えなかった。


  ◇


 セレナ・ミスティカの研究室は、紙の山に埋もれていた。

 机の上に広げられた羊皮紙には、鉄心のこれまでの戦闘記録が数値化されて並んでいる。打撃速度、衝撃波の伝播範囲、魔法障壁との接触時に発生した異常数値。インクの染みがいくつもある——何度も書き直した痕跡だった。

「……はぁ」

 溜息をひとつ。温くなった茶を啜り、セレナは羽根ペンの先を噛んだ。

 窓から差す西日が、机上の数値群を琥珀色に染めている。階下の中庭からは、生徒たちの喧騒が微かに届いていた。

 セレナが注目しているのは、鉄心の拳が魔法障壁に触れた瞬間のデータだった。通常、物理的な衝撃は魔法障壁に吸収される。それが魔法と物理の絶対的な差だと、三千年の常識が証明してきた。

 だが、鉄心の打撃は障壁を「揺らした」。

 吸収されるはずのエネルギーが、障壁の魔力構造そのものに干渉し、共振を起こしている。まるで——魔力の周波数に合わせた振動を、拳が自然に生み出しているかのようだった。

「魔力に干渉する力」

 セレナが仮に名付けたこの現象は、既存の魔法理論では説明がつかない。魔力を持たない人間が、なぜ魔力構造に影響を与えられるのか。

 新しい羊皮紙を引き寄せ、仮説を走り書きする。

 ——筋力の極限値が、魔力とは別の「力の位相」に到達している可能性。あるいは、魔法以前の時代に存在した「原初の力」の再現か。

 ペン先が止まった。

「……理論的に、と言いたいところですが」

 セレナは羽根ペンを置き、背もたれに身を預けた。理論で語れるなら、とうに論文にしている。あの男の拳は、学問の枠組みそのものを壊しにかかっているのだ。

 明日の大会で、あの男はまた常識を壊すのだろう。そのデータを取り損ねるわけにはいかない。

 溜息をもうひとつ。立ち上がり、戸棚から新しい計測用の魔道具を取り出した。


  ◇


 中庭の大樫の下で、鉄心は懸垂をしていた。

 太い枝が悲鳴を上げるたびに、木の葉がはらはらと散る。夕暮れの光が葉の隙間から降り注ぎ、汗に濡れた褐色の肌を照らしていた。土と草の匂いが濃い。秋の虫が、どこかで鳴き始めている。

「——九十八、九十九、百っ! よし!」

 ひらりと地面に降り立ち、首を回す。枝が目に見えて撓んでいた。

「おい、その木は樹齢三百年だぞ。折るなよ」

 石段に腰かけたカイルが、呆れた声を投げた。手には大会のルールブックが開かれている。

「おう、カイル。で、ルールはどうなってんだ?」

「簡単に言うぞ。トーナメント方式、一対一。相手が戦闘不能になるか、場外に出るか、降参すれば勝ち。制限時間は一試合十五分。時間切れの場合は審判の判定」

「つまり——殴って倒せばいいんだな?」

 カイルの眉が跳ねた。

「……まあ、間違ってはいないが。問題はそこじゃない」

 ルールブックを閉じ、カイルは声を落とした。風が変わり、焚き火の煙の匂いが中庭に流れ込んでくる。

「いいか、鉄心。お前が出場を許可された時点で、これは罠だ」

「罠?」

「ルール変更——力の種別制限なし。普通なら、魔法以外の力で戦う奴なんかいない。この世界にはお前しかいないんだからな。つまり、このルールはお前のために作られた」

 カイルの碧い瞳が鉄心を真っ直ぐに射抜く。

「出場させて、衆人環視の中で叩き潰す。『やはり筋力では魔法に勝てない』——それを証明するための舞台装置だよ、お前は」

 男爵家の三男として宮廷の裏を見てきた者の言葉だった。軽い口調の奥に、経験に裏打ちされた確信がある。

 鉄心は腕を組んで、少し考えた。

「……なるほどな」

「分かったか? なら——」

「罠でも楽しそうだからいいじゃん」

 カイルの言葉が途切れた。

 鉄心は満面の笑みを浮かべていた。夕日を背にしたその姿は、巨大な影を中庭に落としている。

「誰かが俺を潰そうとしてるってことは、俺がそれだけ目障りってことだろ? 上等じゃねえか。正面からぶっ飛ばしてやるよ」

「……お前、本当に人の話を聞いてるのか?」

「聞いてるって。罠なんだろ? でもさ、罠を仕掛けた奴の目の前で罠を踏み抜いたら——そいつが一番困るだろ」

 カイルは口を開きかけ、閉じた。それから——短く笑った。

「……はっ。確かにな」

 石段から立ち上がり、ルールブックを鉄心の胸に押し付ける。

「せめてルールは全部読んでおけ。反則負けだけは勘弁してくれ」

「おう! サンキュー、カイル」

 カイルが去った後、鉄心はルールブックをめくり始めた。三ページで飽きて、また懸垂を始め——ようとして、枝に手をかけたまま止まった。

 夕日が中庭を赤く染めている。前世で見た最後の夕焼けも、こんな色だった気がする。

 体育教師・剛田鉄心。三十二歳。トラックから生徒を庇って——それきりだ。

 あの時、腕の中にいた生徒の顔は覚えている。けれど、その子が無事だったのかは分からない。確かめる術がない。ここにいる限り、永遠に。

 拳を握った。枝の樹皮が掌に食い込む。

 ——守れたのか、俺は。

 その問いに答えは出ない。前世でも、この世界でも。ただ一つ確かなのは、あの瞬間に身体が動いたことを後悔していないということだけだ。

 だから——明日も、そうする。目の前の誰かのために身体が動くなら、罠だろうが何だろうが関係ない。

 鉄心は大きく息を吐いた。感傷を振り払うように首を振り、枝を掴み直す。

「……よし」

 懸垂を再開する。今度はゆっくりと、一回一回を噛みしめるように。枝が、今度こそ限界を訴えるように軋んだ。


  ◇


 訓練場の結界を解除し、リリアーナは汗を拭った。

 窓際に歩み寄ると、中庭が一望できた。夕闇が迫る中、大樫の枝にぶら下がる巨大な影が目に入る。規則正しく身体を持ち上げては降ろす、単純な反復運動。

 剛田鉄心。

 魔法の欠片もない、ただの筋肉。それなのに、この学院の誰よりも真っ直ぐに——迷いなく強くなろうとしている。

 手袋の下で、タコが疼いた。

「あなたに負けるつもりはありませんわ」

 声は静かだった。敵意ではなく、もっと熱い何かが胸の奥で燃えている。対等に立ちたいという、生まれて初めての——闘志。

 窓ガラスに映る自分の顔が、かつての「首席の天才」とは別人のように見えた。

 中庭の鉄心が不意に顔を上げ、訓練場の窓を見た。リリアーナは咄嗟に身を引いたが、一瞬だけ——目が合った気がした。

 心臓が一つ、大きく跳ねる。

 明日、闘技場で。

 リリアーナは拳を握りしめた。手のひらのタコが、硬く、確かに——その決意を受け止めていた。
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