魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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全部殴れば、答えは出る

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 二日目の闘技場は、前日とは空気が違っていた。

 石壁に反響する歓声の厚みが、昨日の倍はある。朝一番だというのに、平民席はすでに満員だ。立ち見の人垣が通路にまであふれ、衛兵が何度も押し戻している。

 ふと、闘技場を囲む結界が揺らいだ。淡い青の光膜に走ったのは、細い亀裂のような歪み。だが一秒と経たず修復され、誰も気づかなかった——維持術師を除いて。術師たちは互いに目配せを交わし、黙って魔力の注入量を上げた。昨日の倍は消耗が早い。

 その熱気の中心にいる男は——腕立て伏せをしていた。

「九百九十八……九百九十九……千! よし、ウォームアップ完了だ!」

 鉄心が立ち上がると、控え室の石畳に汗の跡が人型に残る。隣の出場者が無言で距離を取った。

「おう、今日もいい天気だな!」

 闘技場の入口から差し込む朝日に目を細め、鉄心は両腕を大きく回す。肩甲骨が板チョコのように盛り上がり、控え室の空気が軋んだ。

 ——第三回戦の対戦相手の名が告げられる。

 フェリクス・シャルマン。幻術の天才。


  ◇


 闘技場の中央に立ったフェリクスは、細身で優雅な立ち居振る舞いの青年だった。銀縁の眼鏡の奥で、知性的な目が鉄心を値踏みする。

「噂は聞いていますよ。筋肉で魔法を破る野蛮人、でしたか」

 フェリクスが指を鳴らした瞬間、景色が歪んだ。

 鉄心の周囲に、五人のフェリクスが出現する。全員が同じ微笑みを浮かべ、同じ角度で腕を組んでいた。

「さて、どれが本物でしょう?」

 五つの声が重なり、反響する。観客席からざわめきが広がった。幻術魔法——視覚、聴覚、さらには気配までも欺く高等技術。予選レベルでは破格の実力だ。

 鉄心は腕を組み、首を傾げた。

「うーん……」

 五人のフェリクスが、それぞれ異なる方向から魔法弾を放つ。鉄心は咄嗟に横に跳んだが、着地した先にも幻影が待ち構えている。背中を魔法弾が掠め、肌が焼ける匂いが鼻をつく。

 二撃目が脇腹を抉った。鉄心の体が僅かによろめく。三撃目は首筋を狙い、間一髪で顎を引いて躱したが、頬に赤い線が走った。本物の魔法弾と幻影の魔法弾が入り混じり、見極めようにも手がかりがない。

 鉄心の額に、初めて汗が浮いた。力任せに殴ろうにも、相手が五人いては拳の向けどころがない。

 観客席の前列。リリアーナが身を乗り出す。

「あの幻術、五感全てに干渉するタイプですわ。気配で見破ることもできない……」

 隣のセレナが腕を組んだまま、静かに頷く。

「……ええ。普通なら、ですが」

 闘技場の中央。鉄心が足を止めた。

「なあ」

 五人のフェリクスが動きを止める。

「どれが本物か、正直わかんねえ」

 フェリクスの——おそらく本物の——口元が、勝利を確信した弧を描いた。

「でもさ」

 鉄心が拳を握り、腰を深く落とした。星鉄鋼の拳甲が、闘技場の日差しを鈍く弾く。

「全部殴れば、一個は当たるだろ」

 拳が、地面に叩き込まれた。

 ドゴォッッ!

 地面が同心円状に隆起し、大気ごと震わす衝撃が全方向に炸裂した。砂埃が壁のように吹き上がり、観客席の最前列まで突風が到達する。闘技場の結界が大きく波打ち、維持術師が歯を食いしばって魔力を注ぎ込んだ。

 五人のフェリクスのうち四人が、陽炎が掻き消えるように消滅した。幻影は振動に耐えられない。残った一人——本物のフェリクスが体勢を崩し、膝をついている。

「な——」

 その一音が終わる前に、鉄心の影がフェリクスを覆った。

「見ーっけ」

 開いた掌がフェリクスの胸元を軽く押した——ように見えた。だがフェリクスの体は数歩分後方へ吹き飛び、背中から地面に叩きつけられる。眼鏡が宙を舞い、乾いた音を立てて転がった。フェリクスは仰向けのまま、天を仰いで動かない。

『勝者——剛田鉄心!』

 一拍の沈黙のあと、闘技場が爆発した。平民席から割れんばかりの歓声が降り注ぐ。「全部殴る」「全部殴る」と、いつの間にかコールが生まれていた。

 鉄心は頭を掻きながら、照れくさそうに手を振った。

「いや、普通じゃね?」

 普通ではない。断じて。


  ◇


 観客席の中段。セレナは膝の上に広げた記録用紙に、猛然とペンを走らせていた。

「剛田の第一試合——力任せの直線攻撃。第二試合——相手の攻撃タイミングに合わせたカウンター。そして今の第三試合——」

 ペンが止まる。

「……環境攻撃への応用。たった三戦で、戦術の幅が倍以上に広がっている」

 隣のリリアーナが覗き込んだ。

「セレナ先生、ずいぶん熱心に書いてらっしゃいますのね」

「記録しているだけです。あの男の——異常な学習速度を」

 セレナは記録用紙の余白に、小さく注釈を書き加えた。

『無意識の体重移動の最適化——戦闘ごとに足運びが変化。重心制御が本能的に洗練されている。これは筋繊維のマナ代替導管仮説と関連する可能性あり』

「……はぁ。研究対象としては最高で、教え子としては最悪ですね」

「どういう意味ですの?」

「理論的に説明してください、と言っても、『気合いっす』しか返ってこないという意味です」

 リリアーナが小さく吹き出した。セレナは溜息をついたが、その目はペンを握る手と同じくらい真剣だった。

 ふと、セレナの視線が闘技場の結界に向いた。先ほどの鉄心の衝撃波で結界が波打った瞬間——修復に要した時間が、昨日より明らかに長かった。記録用紙の隅に、もう一行書き加える。

『結界維持魔力の消耗率——要観察』


  ◇


 第四回戦。

 対戦相手は土魔法の使い手——がっしりした体格の上級生で、名をドルク・エルドシュタインといった。

 試合開始と同時に、鉄心の足元が沈んだ。

「おわっ!?」

 地面が泥のように溶け、鉄心の脚を膝まで呑み込む。土魔法『沼地の牢獄』。地面そのものを軟化させ、相手の自由を奪う拘束系魔法だ。

「ふん。いくら力があろうと、足が使えなければ——」

 鉄心が片足を引き抜こうとした。泥が持ち上がり——だが、ドルクが即座に魔法を重ねがけした。地面の密度が跳ね上がり、膝から下を石の万力が締め上げる。

 ギシ、と嫌な音がした。鉄心の脛骨に、圧力が食い込んでいる。

「っ——」

 鉄心の表情が、初めて歪んだ。痛みではない。骨が軋む圧迫感に、足を引き抜く力だけでは対抗できないと悟った顔だ。

 観客席がざわめいた。あの鉄心が、動けない。

「三重圧縮だ。常人なら骨が粉々になっている。さっさと降参しろ」

 ドルクの声に余裕がある。鉄心は足を引き抜くのをやめ、数秒間じっと地面を見つめた。

 ——考えている、とセレナは気づいた。力で駄目なら、別の手を。あの男が初めて、力以外の何かを探している。

 鉄心が両腕を地面に突っ込んだ。足を引き抜くのではなく——地面そのものを、掘り返し始めた。

「はっ!?」

 両腕が地面を掻き、えぐり、泥と岩を左右に弾き飛ばす。拘束された足の周囲の地盤ごと、力ずくで掘り崩していく。圧縮された石が足を締め付けているなら、その石ごと地面から引き剥がす——

「馬鹿な——地面を掘るだと!?」

 ドルクが慌てて追加の術式を展開するが、破壊の速度が術の再構築を上回った。鉄心の両脚が、岩の塊をまとったまま地面から引き抜かれる。

 だが鉄心の足取りは重かった。脛に走る鈍い痛みが、踏み込みを鈍らせている。

 ドルクが石壁を三枚展開した。分厚い岩の障壁が、鉄心の前に立ちはだかる。

 一枚目——拳を叩き込んだ。壁に亀裂が走り、砕けた。だが脛の痛みで踏ん張りが利かず、破片に押されてよろめいた。二枚目——助走の勢いが殺された状態で、掌底を押し当てる。壁が軋み——割れない。鉄心の腕が震えている。

 観客席が息を呑んだ。リリアーナが無意識に立ち上がっていた。

 鉄心は二枚目の壁の前で、一度足を止めた。深く息を吸い、痛む脚で地面を踏みしめ直す。

「……っし」

 左足を軸に体を回転させ、右拳を螺旋状に叩き込んだ。回転の遠心力が、弱った踏み込みの代わりに破壊力を生む。壁が中央から放射状に砕け散った。三枚目——残った回転の勢いのまま体を捻り、裏拳で薙ぎ払う。壁が横に吹き飛んだ。

「……は?」

 ドルクの間抜けな声が、闘技場に響いた。

 粉塵の向こうから現れた鉄心は、しかし右足を庇うように立っていた。そして——片足で踏み出し、ドルクの懐に入った。

「降参、するか?」

 拳は振り上げたまま、止まっている。

 ドルクは鉄心の足元を見た。右脛が赤く腫れ上がっている。万全ではない。だが——その目を見て、理解した。この男は片足でも止まらない。

「……降参だ」

 崩れ落ちた石壁の残骸に囲まれて、ドルクは力なく笑った。

「化け物め」

『勝者——剛田鉄心!』

 三度目の歓声。だが今度は、貴族席の一部からも拍手が混じっていた。鉄心は右足をそっと地面につけ、小さく顔をしかめた。すぐに笑顔に戻ったが、セレナの目はそれを見逃さなかった。

 観客席の片隅。マルクス・ヴァン・レーゲンスブルクは、拍手する周囲の中で唯一、手を動かしていなかった。

 その目が、闘技場の鉄心を射抜くように見つめている。

 あの日——鉄心の拳に敗れてから、マルクスは一つの答えを出したはずだった。筋力など所詮は蛮族の力、自分が負けたのは油断と慢心のせいだ、と。その結論で全てを収めたはずだった。

 なのに、目の前の男は勝ち続けている。一人ではなく、二人、三人、四人と。偶然では説明がつかない。油断でも慢心でもなく——純粋に、圧倒している。

 自分が組み上げた結論が、試合のたびにひび割れていく。

 認めたくない。認めてしまえば、自分の敗北が——自分の魔法が、本当にあの拳に劣ったことになる。レーゲンスブルク侯爵家の誇りが、名もなき異邦人の筋肉に敗れたことになる。

 マルクスの爪が、肘掛に食い込んだ。


  ◇


 試合を終えた鉄心が退場口に向かう途中、甲高い声が飛んできた。

「鉄心にいちゃーん!」

 柵の向こう側。ノーマジック区画の子供たちが、身を乗り出して手を振っていた。その先頭に、そばかすだらけの小さな顔がある。

「マルコ! おう、来てたのか!」

 鉄心の顔が、試合中とは別の意味で輝いた。大股で柵に歩み寄り、しゃがみ込む。右脚を庇うように左膝をついて。

「見てた見てた! にいちゃん、ドガーンって地面殴ったやつ、すっげえかっこよかった!」

「あはは、そうか? あれ、ちょっとやりすぎたかなって思ったんだけど」

「ぜんぜん! もっとやって!」

 マルコの後ろに控えていた子供たちも、口々に声を上げた。ボロボロの服を着た、痩せた子供たち。その目だけが、宝石のように輝いている。

 鉄心が、マルコの頭をわしわしと撫でた。

「おう。次も勝つから、見ててくれよ」

「うん!」

 その光景を、観客席の多くが見ていた。ノーマジックの子供と、ノーマジックの闘士。魔法のない者同士が、柵越しに交わす笑顔。

 平民席の誰かが、小さく拍手をした。それが波紋のように広がり、やがてまばらな拍手が闘技場の半分を包んだ。

 リリアーナは、その光景を黙って見つめていた。唇が何か言いかけて、結局何も言わずに閉じられる。

 ——その時、闘技場の中央に、新たな光の文字が浮かび上がった。

『準々決勝組み合わせ発表』

 文字が一組ずつ刻まれていく。光が一瞬ちらついた——維持術師が額を拭う。投影の安定に、以前より集中を要するようになっていた。観客の視線が中央に集まる。

 そして——

『第三試合:剛田鉄心 vs レオンハルト・ヴァン・レーゲンスブルク』

 空気が変わった。

 貴族席がざわめく。平民席が静まり返る。その名前の重さを、この場の全員が知っていた。

 鉄心は首を傾げた。

「レオンハルト? 誰だ、それ」

 隣の出場者が、引きつった顔で答える。

「レーゲンスブルク侯爵家の嫡男だよ……去年の大会準優勝者。上級魔法騎士団の最年少候補——」

「へえ。強いのか。楽しみだな」

 鉄心の反応に、周囲が絶句した。

 観客席では、マルクスが立ち上がっていた。その顔に浮かんでいるのは、笑み。だが目が笑っていない。

「兄上なら——証明してくれる。筋力ごときでは、レーゲンスブルクの魔法には届かないと」

 呟きは誰にも聞こえなかった。自分自身にすら信じ切れていない言葉を、それでも口にせずにはいられなかった。握りしめた拳が震えている。それが確信なのか祈りなのか、マルクス自身にも分からなかった。

 そしてもう一人。

 リリアーナの顔から、血の気が引いていた。

「レオンハルト……」

 その名を口にした瞬間、碧い瞳に走ったのは——ただの驚きではない、もっと深い何かだった。

 セレナが気づいて声をかけた。

「リリアーナ? どうかしましたか」

「——いえ。なんでもありませんわ」

 リリアーナは微笑んだ。完璧な、貴族の微笑み。

 だが、膝の上で握られた手が——白くなるまで、きつく握り締められていた。

 闘技場の外、昼下がりの空に浮かぶ左の月が——昨日よりまた僅かに、翳りを深めていた。
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