31 / 65
全部殴れば、答えは出る
しおりを挟む
二日目の闘技場は、前日とは空気が違っていた。
石壁に反響する歓声の厚みが、昨日の倍はある。朝一番だというのに、平民席はすでに満員だ。立ち見の人垣が通路にまであふれ、衛兵が何度も押し戻している。
ふと、闘技場を囲む結界が揺らいだ。淡い青の光膜に走ったのは、細い亀裂のような歪み。だが一秒と経たず修復され、誰も気づかなかった——維持術師を除いて。術師たちは互いに目配せを交わし、黙って魔力の注入量を上げた。昨日の倍は消耗が早い。
その熱気の中心にいる男は——腕立て伏せをしていた。
「九百九十八……九百九十九……千! よし、ウォームアップ完了だ!」
鉄心が立ち上がると、控え室の石畳に汗の跡が人型に残る。隣の出場者が無言で距離を取った。
「おう、今日もいい天気だな!」
闘技場の入口から差し込む朝日に目を細め、鉄心は両腕を大きく回す。肩甲骨が板チョコのように盛り上がり、控え室の空気が軋んだ。
——第三回戦の対戦相手の名が告げられる。
フェリクス・シャルマン。幻術の天才。
◇
闘技場の中央に立ったフェリクスは、細身で優雅な立ち居振る舞いの青年だった。銀縁の眼鏡の奥で、知性的な目が鉄心を値踏みする。
「噂は聞いていますよ。筋肉で魔法を破る野蛮人、でしたか」
フェリクスが指を鳴らした瞬間、景色が歪んだ。
鉄心の周囲に、五人のフェリクスが出現する。全員が同じ微笑みを浮かべ、同じ角度で腕を組んでいた。
「さて、どれが本物でしょう?」
五つの声が重なり、反響する。観客席からざわめきが広がった。幻術魔法——視覚、聴覚、さらには気配までも欺く高等技術。予選レベルでは破格の実力だ。
鉄心は腕を組み、首を傾げた。
「うーん……」
五人のフェリクスが、それぞれ異なる方向から魔法弾を放つ。鉄心は咄嗟に横に跳んだが、着地した先にも幻影が待ち構えている。背中を魔法弾が掠め、肌が焼ける匂いが鼻をつく。
二撃目が脇腹を抉った。鉄心の体が僅かによろめく。三撃目は首筋を狙い、間一髪で顎を引いて躱したが、頬に赤い線が走った。本物の魔法弾と幻影の魔法弾が入り混じり、見極めようにも手がかりがない。
鉄心の額に、初めて汗が浮いた。力任せに殴ろうにも、相手が五人いては拳の向けどころがない。
観客席の前列。リリアーナが身を乗り出す。
「あの幻術、五感全てに干渉するタイプですわ。気配で見破ることもできない……」
隣のセレナが腕を組んだまま、静かに頷く。
「……ええ。普通なら、ですが」
闘技場の中央。鉄心が足を止めた。
「なあ」
五人のフェリクスが動きを止める。
「どれが本物か、正直わかんねえ」
フェリクスの——おそらく本物の——口元が、勝利を確信した弧を描いた。
「でもさ」
鉄心が拳を握り、腰を深く落とした。星鉄鋼の拳甲が、闘技場の日差しを鈍く弾く。
「全部殴れば、一個は当たるだろ」
拳が、地面に叩き込まれた。
ドゴォッッ!
地面が同心円状に隆起し、大気ごと震わす衝撃が全方向に炸裂した。砂埃が壁のように吹き上がり、観客席の最前列まで突風が到達する。闘技場の結界が大きく波打ち、維持術師が歯を食いしばって魔力を注ぎ込んだ。
五人のフェリクスのうち四人が、陽炎が掻き消えるように消滅した。幻影は振動に耐えられない。残った一人——本物のフェリクスが体勢を崩し、膝をついている。
「な——」
その一音が終わる前に、鉄心の影がフェリクスを覆った。
「見ーっけ」
開いた掌がフェリクスの胸元を軽く押した——ように見えた。だがフェリクスの体は数歩分後方へ吹き飛び、背中から地面に叩きつけられる。眼鏡が宙を舞い、乾いた音を立てて転がった。フェリクスは仰向けのまま、天を仰いで動かない。
『勝者——剛田鉄心!』
一拍の沈黙のあと、闘技場が爆発した。平民席から割れんばかりの歓声が降り注ぐ。「全部殴る」「全部殴る」と、いつの間にかコールが生まれていた。
鉄心は頭を掻きながら、照れくさそうに手を振った。
「いや、普通じゃね?」
普通ではない。断じて。
◇
観客席の中段。セレナは膝の上に広げた記録用紙に、猛然とペンを走らせていた。
「剛田の第一試合——力任せの直線攻撃。第二試合——相手の攻撃タイミングに合わせたカウンター。そして今の第三試合——」
ペンが止まる。
「……環境攻撃への応用。たった三戦で、戦術の幅が倍以上に広がっている」
隣のリリアーナが覗き込んだ。
「セレナ先生、ずいぶん熱心に書いてらっしゃいますのね」
「記録しているだけです。あの男の——異常な学習速度を」
セレナは記録用紙の余白に、小さく注釈を書き加えた。
『無意識の体重移動の最適化——戦闘ごとに足運びが変化。重心制御が本能的に洗練されている。これは筋繊維のマナ代替導管仮説と関連する可能性あり』
「……はぁ。研究対象としては最高で、教え子としては最悪ですね」
「どういう意味ですの?」
「理論的に説明してください、と言っても、『気合いっす』しか返ってこないという意味です」
リリアーナが小さく吹き出した。セレナは溜息をついたが、その目はペンを握る手と同じくらい真剣だった。
ふと、セレナの視線が闘技場の結界に向いた。先ほどの鉄心の衝撃波で結界が波打った瞬間——修復に要した時間が、昨日より明らかに長かった。記録用紙の隅に、もう一行書き加える。
『結界維持魔力の消耗率——要観察』
◇
第四回戦。
対戦相手は土魔法の使い手——がっしりした体格の上級生で、名をドルク・エルドシュタインといった。
試合開始と同時に、鉄心の足元が沈んだ。
「おわっ!?」
地面が泥のように溶け、鉄心の脚を膝まで呑み込む。土魔法『沼地の牢獄』。地面そのものを軟化させ、相手の自由を奪う拘束系魔法だ。
「ふん。いくら力があろうと、足が使えなければ——」
鉄心が片足を引き抜こうとした。泥が持ち上がり——だが、ドルクが即座に魔法を重ねがけした。地面の密度が跳ね上がり、膝から下を石の万力が締め上げる。
ギシ、と嫌な音がした。鉄心の脛骨に、圧力が食い込んでいる。
「っ——」
鉄心の表情が、初めて歪んだ。痛みではない。骨が軋む圧迫感に、足を引き抜く力だけでは対抗できないと悟った顔だ。
観客席がざわめいた。あの鉄心が、動けない。
「三重圧縮だ。常人なら骨が粉々になっている。さっさと降参しろ」
ドルクの声に余裕がある。鉄心は足を引き抜くのをやめ、数秒間じっと地面を見つめた。
——考えている、とセレナは気づいた。力で駄目なら、別の手を。あの男が初めて、力以外の何かを探している。
鉄心が両腕を地面に突っ込んだ。足を引き抜くのではなく——地面そのものを、掘り返し始めた。
「はっ!?」
両腕が地面を掻き、えぐり、泥と岩を左右に弾き飛ばす。拘束された足の周囲の地盤ごと、力ずくで掘り崩していく。圧縮された石が足を締め付けているなら、その石ごと地面から引き剥がす——
「馬鹿な——地面を掘るだと!?」
ドルクが慌てて追加の術式を展開するが、破壊の速度が術の再構築を上回った。鉄心の両脚が、岩の塊をまとったまま地面から引き抜かれる。
だが鉄心の足取りは重かった。脛に走る鈍い痛みが、踏み込みを鈍らせている。
ドルクが石壁を三枚展開した。分厚い岩の障壁が、鉄心の前に立ちはだかる。
一枚目——拳を叩き込んだ。壁に亀裂が走り、砕けた。だが脛の痛みで踏ん張りが利かず、破片に押されてよろめいた。二枚目——助走の勢いが殺された状態で、掌底を押し当てる。壁が軋み——割れない。鉄心の腕が震えている。
観客席が息を呑んだ。リリアーナが無意識に立ち上がっていた。
鉄心は二枚目の壁の前で、一度足を止めた。深く息を吸い、痛む脚で地面を踏みしめ直す。
「……っし」
左足を軸に体を回転させ、右拳を螺旋状に叩き込んだ。回転の遠心力が、弱った踏み込みの代わりに破壊力を生む。壁が中央から放射状に砕け散った。三枚目——残った回転の勢いのまま体を捻り、裏拳で薙ぎ払う。壁が横に吹き飛んだ。
「……は?」
ドルクの間抜けな声が、闘技場に響いた。
粉塵の向こうから現れた鉄心は、しかし右足を庇うように立っていた。そして——片足で踏み出し、ドルクの懐に入った。
「降参、するか?」
拳は振り上げたまま、止まっている。
ドルクは鉄心の足元を見た。右脛が赤く腫れ上がっている。万全ではない。だが——その目を見て、理解した。この男は片足でも止まらない。
「……降参だ」
崩れ落ちた石壁の残骸に囲まれて、ドルクは力なく笑った。
「化け物め」
『勝者——剛田鉄心!』
三度目の歓声。だが今度は、貴族席の一部からも拍手が混じっていた。鉄心は右足をそっと地面につけ、小さく顔をしかめた。すぐに笑顔に戻ったが、セレナの目はそれを見逃さなかった。
観客席の片隅。マルクス・ヴァン・レーゲンスブルクは、拍手する周囲の中で唯一、手を動かしていなかった。
その目が、闘技場の鉄心を射抜くように見つめている。
あの日——鉄心の拳に敗れてから、マルクスは一つの答えを出したはずだった。筋力など所詮は蛮族の力、自分が負けたのは油断と慢心のせいだ、と。その結論で全てを収めたはずだった。
なのに、目の前の男は勝ち続けている。一人ではなく、二人、三人、四人と。偶然では説明がつかない。油断でも慢心でもなく——純粋に、圧倒している。
自分が組み上げた結論が、試合のたびにひび割れていく。
認めたくない。認めてしまえば、自分の敗北が——自分の魔法が、本当にあの拳に劣ったことになる。レーゲンスブルク侯爵家の誇りが、名もなき異邦人の筋肉に敗れたことになる。
マルクスの爪が、肘掛に食い込んだ。
◇
試合を終えた鉄心が退場口に向かう途中、甲高い声が飛んできた。
「鉄心にいちゃーん!」
柵の向こう側。ノーマジック区画の子供たちが、身を乗り出して手を振っていた。その先頭に、そばかすだらけの小さな顔がある。
「マルコ! おう、来てたのか!」
鉄心の顔が、試合中とは別の意味で輝いた。大股で柵に歩み寄り、しゃがみ込む。右脚を庇うように左膝をついて。
「見てた見てた! にいちゃん、ドガーンって地面殴ったやつ、すっげえかっこよかった!」
「あはは、そうか? あれ、ちょっとやりすぎたかなって思ったんだけど」
「ぜんぜん! もっとやって!」
マルコの後ろに控えていた子供たちも、口々に声を上げた。ボロボロの服を着た、痩せた子供たち。その目だけが、宝石のように輝いている。
鉄心が、マルコの頭をわしわしと撫でた。
「おう。次も勝つから、見ててくれよ」
「うん!」
その光景を、観客席の多くが見ていた。ノーマジックの子供と、ノーマジックの闘士。魔法のない者同士が、柵越しに交わす笑顔。
平民席の誰かが、小さく拍手をした。それが波紋のように広がり、やがてまばらな拍手が闘技場の半分を包んだ。
リリアーナは、その光景を黙って見つめていた。唇が何か言いかけて、結局何も言わずに閉じられる。
——その時、闘技場の中央に、新たな光の文字が浮かび上がった。
『準々決勝組み合わせ発表』
文字が一組ずつ刻まれていく。光が一瞬ちらついた——維持術師が額を拭う。投影の安定に、以前より集中を要するようになっていた。観客の視線が中央に集まる。
そして——
『第三試合:剛田鉄心 vs レオンハルト・ヴァン・レーゲンスブルク』
空気が変わった。
貴族席がざわめく。平民席が静まり返る。その名前の重さを、この場の全員が知っていた。
鉄心は首を傾げた。
「レオンハルト? 誰だ、それ」
隣の出場者が、引きつった顔で答える。
「レーゲンスブルク侯爵家の嫡男だよ……去年の大会準優勝者。上級魔法騎士団の最年少候補——」
「へえ。強いのか。楽しみだな」
鉄心の反応に、周囲が絶句した。
観客席では、マルクスが立ち上がっていた。その顔に浮かんでいるのは、笑み。だが目が笑っていない。
「兄上なら——証明してくれる。筋力ごときでは、レーゲンスブルクの魔法には届かないと」
呟きは誰にも聞こえなかった。自分自身にすら信じ切れていない言葉を、それでも口にせずにはいられなかった。握りしめた拳が震えている。それが確信なのか祈りなのか、マルクス自身にも分からなかった。
そしてもう一人。
リリアーナの顔から、血の気が引いていた。
「レオンハルト……」
その名を口にした瞬間、碧い瞳に走ったのは——ただの驚きではない、もっと深い何かだった。
セレナが気づいて声をかけた。
「リリアーナ? どうかしましたか」
「——いえ。なんでもありませんわ」
リリアーナは微笑んだ。完璧な、貴族の微笑み。
だが、膝の上で握られた手が——白くなるまで、きつく握り締められていた。
闘技場の外、昼下がりの空に浮かぶ左の月が——昨日よりまた僅かに、翳りを深めていた。
石壁に反響する歓声の厚みが、昨日の倍はある。朝一番だというのに、平民席はすでに満員だ。立ち見の人垣が通路にまであふれ、衛兵が何度も押し戻している。
ふと、闘技場を囲む結界が揺らいだ。淡い青の光膜に走ったのは、細い亀裂のような歪み。だが一秒と経たず修復され、誰も気づかなかった——維持術師を除いて。術師たちは互いに目配せを交わし、黙って魔力の注入量を上げた。昨日の倍は消耗が早い。
その熱気の中心にいる男は——腕立て伏せをしていた。
「九百九十八……九百九十九……千! よし、ウォームアップ完了だ!」
鉄心が立ち上がると、控え室の石畳に汗の跡が人型に残る。隣の出場者が無言で距離を取った。
「おう、今日もいい天気だな!」
闘技場の入口から差し込む朝日に目を細め、鉄心は両腕を大きく回す。肩甲骨が板チョコのように盛り上がり、控え室の空気が軋んだ。
——第三回戦の対戦相手の名が告げられる。
フェリクス・シャルマン。幻術の天才。
◇
闘技場の中央に立ったフェリクスは、細身で優雅な立ち居振る舞いの青年だった。銀縁の眼鏡の奥で、知性的な目が鉄心を値踏みする。
「噂は聞いていますよ。筋肉で魔法を破る野蛮人、でしたか」
フェリクスが指を鳴らした瞬間、景色が歪んだ。
鉄心の周囲に、五人のフェリクスが出現する。全員が同じ微笑みを浮かべ、同じ角度で腕を組んでいた。
「さて、どれが本物でしょう?」
五つの声が重なり、反響する。観客席からざわめきが広がった。幻術魔法——視覚、聴覚、さらには気配までも欺く高等技術。予選レベルでは破格の実力だ。
鉄心は腕を組み、首を傾げた。
「うーん……」
五人のフェリクスが、それぞれ異なる方向から魔法弾を放つ。鉄心は咄嗟に横に跳んだが、着地した先にも幻影が待ち構えている。背中を魔法弾が掠め、肌が焼ける匂いが鼻をつく。
二撃目が脇腹を抉った。鉄心の体が僅かによろめく。三撃目は首筋を狙い、間一髪で顎を引いて躱したが、頬に赤い線が走った。本物の魔法弾と幻影の魔法弾が入り混じり、見極めようにも手がかりがない。
鉄心の額に、初めて汗が浮いた。力任せに殴ろうにも、相手が五人いては拳の向けどころがない。
観客席の前列。リリアーナが身を乗り出す。
「あの幻術、五感全てに干渉するタイプですわ。気配で見破ることもできない……」
隣のセレナが腕を組んだまま、静かに頷く。
「……ええ。普通なら、ですが」
闘技場の中央。鉄心が足を止めた。
「なあ」
五人のフェリクスが動きを止める。
「どれが本物か、正直わかんねえ」
フェリクスの——おそらく本物の——口元が、勝利を確信した弧を描いた。
「でもさ」
鉄心が拳を握り、腰を深く落とした。星鉄鋼の拳甲が、闘技場の日差しを鈍く弾く。
「全部殴れば、一個は当たるだろ」
拳が、地面に叩き込まれた。
ドゴォッッ!
地面が同心円状に隆起し、大気ごと震わす衝撃が全方向に炸裂した。砂埃が壁のように吹き上がり、観客席の最前列まで突風が到達する。闘技場の結界が大きく波打ち、維持術師が歯を食いしばって魔力を注ぎ込んだ。
五人のフェリクスのうち四人が、陽炎が掻き消えるように消滅した。幻影は振動に耐えられない。残った一人——本物のフェリクスが体勢を崩し、膝をついている。
「な——」
その一音が終わる前に、鉄心の影がフェリクスを覆った。
「見ーっけ」
開いた掌がフェリクスの胸元を軽く押した——ように見えた。だがフェリクスの体は数歩分後方へ吹き飛び、背中から地面に叩きつけられる。眼鏡が宙を舞い、乾いた音を立てて転がった。フェリクスは仰向けのまま、天を仰いで動かない。
『勝者——剛田鉄心!』
一拍の沈黙のあと、闘技場が爆発した。平民席から割れんばかりの歓声が降り注ぐ。「全部殴る」「全部殴る」と、いつの間にかコールが生まれていた。
鉄心は頭を掻きながら、照れくさそうに手を振った。
「いや、普通じゃね?」
普通ではない。断じて。
◇
観客席の中段。セレナは膝の上に広げた記録用紙に、猛然とペンを走らせていた。
「剛田の第一試合——力任せの直線攻撃。第二試合——相手の攻撃タイミングに合わせたカウンター。そして今の第三試合——」
ペンが止まる。
「……環境攻撃への応用。たった三戦で、戦術の幅が倍以上に広がっている」
隣のリリアーナが覗き込んだ。
「セレナ先生、ずいぶん熱心に書いてらっしゃいますのね」
「記録しているだけです。あの男の——異常な学習速度を」
セレナは記録用紙の余白に、小さく注釈を書き加えた。
『無意識の体重移動の最適化——戦闘ごとに足運びが変化。重心制御が本能的に洗練されている。これは筋繊維のマナ代替導管仮説と関連する可能性あり』
「……はぁ。研究対象としては最高で、教え子としては最悪ですね」
「どういう意味ですの?」
「理論的に説明してください、と言っても、『気合いっす』しか返ってこないという意味です」
リリアーナが小さく吹き出した。セレナは溜息をついたが、その目はペンを握る手と同じくらい真剣だった。
ふと、セレナの視線が闘技場の結界に向いた。先ほどの鉄心の衝撃波で結界が波打った瞬間——修復に要した時間が、昨日より明らかに長かった。記録用紙の隅に、もう一行書き加える。
『結界維持魔力の消耗率——要観察』
◇
第四回戦。
対戦相手は土魔法の使い手——がっしりした体格の上級生で、名をドルク・エルドシュタインといった。
試合開始と同時に、鉄心の足元が沈んだ。
「おわっ!?」
地面が泥のように溶け、鉄心の脚を膝まで呑み込む。土魔法『沼地の牢獄』。地面そのものを軟化させ、相手の自由を奪う拘束系魔法だ。
「ふん。いくら力があろうと、足が使えなければ——」
鉄心が片足を引き抜こうとした。泥が持ち上がり——だが、ドルクが即座に魔法を重ねがけした。地面の密度が跳ね上がり、膝から下を石の万力が締め上げる。
ギシ、と嫌な音がした。鉄心の脛骨に、圧力が食い込んでいる。
「っ——」
鉄心の表情が、初めて歪んだ。痛みではない。骨が軋む圧迫感に、足を引き抜く力だけでは対抗できないと悟った顔だ。
観客席がざわめいた。あの鉄心が、動けない。
「三重圧縮だ。常人なら骨が粉々になっている。さっさと降参しろ」
ドルクの声に余裕がある。鉄心は足を引き抜くのをやめ、数秒間じっと地面を見つめた。
——考えている、とセレナは気づいた。力で駄目なら、別の手を。あの男が初めて、力以外の何かを探している。
鉄心が両腕を地面に突っ込んだ。足を引き抜くのではなく——地面そのものを、掘り返し始めた。
「はっ!?」
両腕が地面を掻き、えぐり、泥と岩を左右に弾き飛ばす。拘束された足の周囲の地盤ごと、力ずくで掘り崩していく。圧縮された石が足を締め付けているなら、その石ごと地面から引き剥がす——
「馬鹿な——地面を掘るだと!?」
ドルクが慌てて追加の術式を展開するが、破壊の速度が術の再構築を上回った。鉄心の両脚が、岩の塊をまとったまま地面から引き抜かれる。
だが鉄心の足取りは重かった。脛に走る鈍い痛みが、踏み込みを鈍らせている。
ドルクが石壁を三枚展開した。分厚い岩の障壁が、鉄心の前に立ちはだかる。
一枚目——拳を叩き込んだ。壁に亀裂が走り、砕けた。だが脛の痛みで踏ん張りが利かず、破片に押されてよろめいた。二枚目——助走の勢いが殺された状態で、掌底を押し当てる。壁が軋み——割れない。鉄心の腕が震えている。
観客席が息を呑んだ。リリアーナが無意識に立ち上がっていた。
鉄心は二枚目の壁の前で、一度足を止めた。深く息を吸い、痛む脚で地面を踏みしめ直す。
「……っし」
左足を軸に体を回転させ、右拳を螺旋状に叩き込んだ。回転の遠心力が、弱った踏み込みの代わりに破壊力を生む。壁が中央から放射状に砕け散った。三枚目——残った回転の勢いのまま体を捻り、裏拳で薙ぎ払う。壁が横に吹き飛んだ。
「……は?」
ドルクの間抜けな声が、闘技場に響いた。
粉塵の向こうから現れた鉄心は、しかし右足を庇うように立っていた。そして——片足で踏み出し、ドルクの懐に入った。
「降参、するか?」
拳は振り上げたまま、止まっている。
ドルクは鉄心の足元を見た。右脛が赤く腫れ上がっている。万全ではない。だが——その目を見て、理解した。この男は片足でも止まらない。
「……降参だ」
崩れ落ちた石壁の残骸に囲まれて、ドルクは力なく笑った。
「化け物め」
『勝者——剛田鉄心!』
三度目の歓声。だが今度は、貴族席の一部からも拍手が混じっていた。鉄心は右足をそっと地面につけ、小さく顔をしかめた。すぐに笑顔に戻ったが、セレナの目はそれを見逃さなかった。
観客席の片隅。マルクス・ヴァン・レーゲンスブルクは、拍手する周囲の中で唯一、手を動かしていなかった。
その目が、闘技場の鉄心を射抜くように見つめている。
あの日——鉄心の拳に敗れてから、マルクスは一つの答えを出したはずだった。筋力など所詮は蛮族の力、自分が負けたのは油断と慢心のせいだ、と。その結論で全てを収めたはずだった。
なのに、目の前の男は勝ち続けている。一人ではなく、二人、三人、四人と。偶然では説明がつかない。油断でも慢心でもなく——純粋に、圧倒している。
自分が組み上げた結論が、試合のたびにひび割れていく。
認めたくない。認めてしまえば、自分の敗北が——自分の魔法が、本当にあの拳に劣ったことになる。レーゲンスブルク侯爵家の誇りが、名もなき異邦人の筋肉に敗れたことになる。
マルクスの爪が、肘掛に食い込んだ。
◇
試合を終えた鉄心が退場口に向かう途中、甲高い声が飛んできた。
「鉄心にいちゃーん!」
柵の向こう側。ノーマジック区画の子供たちが、身を乗り出して手を振っていた。その先頭に、そばかすだらけの小さな顔がある。
「マルコ! おう、来てたのか!」
鉄心の顔が、試合中とは別の意味で輝いた。大股で柵に歩み寄り、しゃがみ込む。右脚を庇うように左膝をついて。
「見てた見てた! にいちゃん、ドガーンって地面殴ったやつ、すっげえかっこよかった!」
「あはは、そうか? あれ、ちょっとやりすぎたかなって思ったんだけど」
「ぜんぜん! もっとやって!」
マルコの後ろに控えていた子供たちも、口々に声を上げた。ボロボロの服を着た、痩せた子供たち。その目だけが、宝石のように輝いている。
鉄心が、マルコの頭をわしわしと撫でた。
「おう。次も勝つから、見ててくれよ」
「うん!」
その光景を、観客席の多くが見ていた。ノーマジックの子供と、ノーマジックの闘士。魔法のない者同士が、柵越しに交わす笑顔。
平民席の誰かが、小さく拍手をした。それが波紋のように広がり、やがてまばらな拍手が闘技場の半分を包んだ。
リリアーナは、その光景を黙って見つめていた。唇が何か言いかけて、結局何も言わずに閉じられる。
——その時、闘技場の中央に、新たな光の文字が浮かび上がった。
『準々決勝組み合わせ発表』
文字が一組ずつ刻まれていく。光が一瞬ちらついた——維持術師が額を拭う。投影の安定に、以前より集中を要するようになっていた。観客の視線が中央に集まる。
そして——
『第三試合:剛田鉄心 vs レオンハルト・ヴァン・レーゲンスブルク』
空気が変わった。
貴族席がざわめく。平民席が静まり返る。その名前の重さを、この場の全員が知っていた。
鉄心は首を傾げた。
「レオンハルト? 誰だ、それ」
隣の出場者が、引きつった顔で答える。
「レーゲンスブルク侯爵家の嫡男だよ……去年の大会準優勝者。上級魔法騎士団の最年少候補——」
「へえ。強いのか。楽しみだな」
鉄心の反応に、周囲が絶句した。
観客席では、マルクスが立ち上がっていた。その顔に浮かんでいるのは、笑み。だが目が笑っていない。
「兄上なら——証明してくれる。筋力ごときでは、レーゲンスブルクの魔法には届かないと」
呟きは誰にも聞こえなかった。自分自身にすら信じ切れていない言葉を、それでも口にせずにはいられなかった。握りしめた拳が震えている。それが確信なのか祈りなのか、マルクス自身にも分からなかった。
そしてもう一人。
リリアーナの顔から、血の気が引いていた。
「レオンハルト……」
その名を口にした瞬間、碧い瞳に走ったのは——ただの驚きではない、もっと深い何かだった。
セレナが気づいて声をかけた。
「リリアーナ? どうかしましたか」
「——いえ。なんでもありませんわ」
リリアーナは微笑んだ。完璧な、貴族の微笑み。
だが、膝の上で握られた手が——白くなるまで、きつく握り締められていた。
闘技場の外、昼下がりの空に浮かぶ左の月が——昨日よりまた僅かに、翳りを深めていた。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
追放された俺のスキル【整理整頓】が覚醒!もふもふフェンリルと訳あり令嬢と辺境で最強ギルドはじめます
黒崎隼人
ファンタジー
「お前の【整理整頓】なんてゴミスキル、もういらない」――勇者パーティーの雑用係だったカイは、ダンジョンの最深部で無一文で追放された。死を覚悟したその時、彼のスキルは真の能力に覚醒する。鑑定、無限収納、状態異常回復、スキル強化……森羅万象を“整理”するその力は、まさに規格外の万能チートだった! 呪われたもふもふ聖獣と、没落寸前の騎士令嬢。心優しき仲間と出会ったカイは、辺境の街で小さなギルド『クローゼット』を立ち上げる。一方、カイという“本当の勇者”を失ったパーティーは崩壊寸前に。これは、地味なスキル一つで世界を“整理整頓”していく、一人の青年の爽快成り上がり英雄譚!
転生幼女の国家級チート図書館~本を読むだけで技術が進化する世界で、私だけ未来知識持ちでした~
ハリネズミの肉球
ファンタジー
目が覚めたら、私は5歳の幼女だった。
しかもそこは――
「本を読むだけで技術が進化する」不思議な異世界。
この世界では、図書館はただの建物じゃない。
本を理解すればするほど、魔道具も、農業も、建築も“現実にアップデート”される。
だけど。
私が転生した先は、王都から見捨てられた辺境の廃図書館。
蔵書は散逸、予算ゼロ、利用者ゼロ。
……でもね。
私は思い出してしまった。
前世で研究者だった私の、“未来の知識”を。
蒸気機関、衛生管理、合金技術、都市設計、教育制度。
この世界の誰も知らない未来の答えを、私は知っている。
だったら――
この廃図書館、国家級に育ててみせる。
本を読むだけで技術が進化する世界で、
私だけが“次の時代”を知っている。
やがて王国は気づく。
文明を一段階進めたのは――5歳の幼女だったと。
これは、最弱の立場から始まる、知識による国家再設計の物語。
※本作品は、人工知能の生成する文章の力をお借りしつつも、最終的な仕上げにあたっては著者自身の手により丁寧な加筆・修正を施した作品です。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ゴミ捨て場領主のクラフト無双 ~最弱魔法【分解と合成】で領地を黄金郷に変えたら、俺を見下していた大貴族令嬢たちが掌を返してすり寄ってきた件~
namisan
ファンタジー
東西南北の大貴族から「毒の川」「凶暴な魔獣」「莫大な借金」を押し付けられ、王国の『ゴミ捨て場』と化したローゼンベルク領。
父と兄を謀殺され、その絶望の領地を押し付けられた無能貴族のアークは、領地の分割を企む高慢な令嬢たち(王女、公爵令嬢、姫将軍など)に嘲笑われていた。
だが、彼には現代の知識と、隠された最強チート能力があった!
触れたものを瞬時に素材に戻し、全く別のモノに作り変える神の御業――【分解と合成】。
「毒の川」を分解して『超高価な宝石と純水』へ!
「魔獣の死骸」と「瓦礫」を合成して『絶対に壊れない防壁』へ!
借金取りには新素材を高値で売りつけ、逆に敵の経済を支配していく。
圧倒的なクラフト能力で、瞬く間にゴミ捨て場を「無敵の黄金郷」へと作り変えていくアーク。
己の敗北を悟り、震え上がる悪徳貴族と高慢な令嬢たち。
さらに、アークの圧倒的な知略と底知れぬ実力は、気高い令嬢たちの本能に深く刻み込まれていく。
「どうか、私をあなたの手駒としてお使いください……っ!」
プライドを完全にへし折られた最高位の美少女たちは、いつしかアークの与える『恩恵』なしでは生きられないほど、彼に絶対の忠誠と依存を誓うようになっていく――。
最弱のゴミ捨て場から始まる、爽快クラフト内政&ざまぁファンタジー、堂々開幕!
第5皇子に転生した俺は前世の医学と知識や魔法を使い世界を変える。
黒ハット
ファンタジー
前世は予防医学の専門の医者が飛行機事故で結婚したばかりの妻と亡くなり異世界の帝国の皇帝の5番目の子供に転生する。子供の生存率50%という文明の遅れた世界に転生した主人公が前世の知識と魔法を使い乱世の世界を戦いながら前世の奥さんと巡り合い世界を変えて行く。
無限在庫チートで異世界を買い占める〜窓際おじさんが廃棄予定のカップ麺で廃村エルフと腹ペコ魔王を救済したら最強商会ができました〜
黒崎隼人
ファンタジー
物流倉庫で不良在庫の管理に追われるだけの42歳、窓際サラリーマンのタケシ。
ある日突然、彼は見知らぬ森の中へと転移してしまう。
彼に与えられたのは、地球で廃棄される運命にあったあらゆる物資を無尽蔵に引き出せる規格外のスキル「無限在庫処分」だった。
賞味期限間近のカップ麺、パッケージ変更で捨てられるレトルトカレー、そして型落ちの電動工具。
地球ではゴミとされるこれらの品々が、異世界では最強のチートアイテムと化す!
森で倒れていたエルフの少女リリアをカップ麺で救ったタケシは、領主の搾取によって滅亡寸前だった彼女の村を拠点とし、現代の物資と物流ノウハウを駆使して商会を立ち上げる。
美味しいご飯と圧倒的な利便性で異世界の人々の胃袋と生活を掴み、村は急速に発展。
さらには、深刻な食糧難で破綻寸前だった美少女魔王ルビア率いる魔王軍と「業務提携」を結び、最強の武力を物流の護衛として手に入れる!
剣も魔法も使わない。武器は段ボールと現代の知識だけ。
窓際おじさんが圧倒的な物量で悪徳領主の経済基盤をすり潰し、異世界の常識を塗り替えていく、痛快・異世界経営スローライフ、開幕!
王宮侍女は穴に落ちる
斑猫
恋愛
婚約破棄されたうえ養家を追い出された
アニエスは王宮で運良く職を得る。
呪われた王女と呼ばれるエリザベ―ト付き
の侍女として。
忙しく働く毎日にやりがいを感じていた。
ところが、ある日ちょっとした諍いから
突き飛ばされて怪しい穴に落ちてしまう。
ちょっと、とぼけた主人公が足フェチな
俺様系騎士団長にいじめ……いや、溺愛され
るお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる