魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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魔法なき手で

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 土の匂いがした。

 湿った、重い、生きた土の匂い。鉄心は両手で井戸の釣瓶を掴み、腕の筋肉を軋ませながら綱を引いた。魔法で動いていた汲み上げ機構は沈黙している。歯車は錆び、水晶の動力核はとうに光を失っていた。

 だから、手で引く。

「——よっ、と!」

 綱が軋み、木製の滑車が悲鳴を上げた。水を満たした桶が井戸の縁に姿を現す。澄んだ水が朝日を受けて光った。

「み、水だ……!」

 村人の老婆が、震える手で桶に触れた。指先が水面に沈み、冷たさを確かめるように何度も瞬きを繰り返す。

「三日ぶりじゃ……三日ぶりの、水じゃ……」

 鉄心は額の汗を腕で拭い、にかっと笑った。

「まだまだ汲むぞ。桶、もっとないか?」

 マナ枯死域に呑まれた辺境の村は、死にかけていた。

 魔法で動いていた全てが止まった。井戸も、竈も、食料保存の術式も、村を囲む防壁の結界も。住民たちは魔法のない生活を知らない。火の起こし方すら忘れていた。

 だが、鉄心にとっては違う。

 前世で体育教師をやっていた男にとって、これは日常の延長線上にあった。


  ◇


 午前中だけで、鉄心は村の景色を変えた。

 まず井戸から水を汲み上げ、村の共同水場に樽三つ分を満たした。次に村はずれの林に入り、素手で——正確には拳甲を嵌めた拳で——立ち枯れの木を叩き折った。

 ドゴォン!

 幹が裂ける音が枯死域の静寂を切り裂く。倒れた大木を担ぎ上げる鉄心の背中に、子供たちが目を丸くした。

「お、おっかあ、あの人、木を殴って倒した……」

「見ちゃいけません」

 母親が子供の目を覆うが、自分も指の隙間から覗いている。

 鉄心は薪を割り、竈に火を起こした。火打ち石を借りて、乾いた樹皮に火花を散らす。前世のキャンプ経験が活きた。赤い炎が立ち上がると、村人たちの顔が揺らめく光に照らされた。

「火だ……魔法じゃない、本物の火だ……」

 若い男が呟いた。その声には、畏怖と、それから——かすかな懐かしさが混じっていた。

 食料保存魔法が切れて腐りかけていた肉は、鉄心が薄く切って塩を揉み込み、火の上に吊るした。干し肉の作り方は体育教師時代、野外活動の授業で何度も教えた。

 リリアーナが、村の隅から鉄心の背中を見ていた。

 昨夜、自分の口から漏れた言葉が、まだ胸の奥に刺さっている。——魔法がなければ、何もできないの?

 その問いへの答えが、今、目の前で動いている。

 鉄心は何もできないどころか、一人で十人分の仕事をこなしていた。汗だくの背中は、魔法の光よりもずっと眩しく見えた。

「……悔しい」

 唇を噛んだ。誰にも聞こえない声で、リリアーナはそう呟いた。

 セレナが隣に立った。顔色はまだ悪いが、魔力を使わない分、少しずつ体調は回復しつつある。

「……動けるようになったら、手伝いますか?」

「当然ですわ」

 リリアーナは背筋を伸ばした。

「わたくしだって——薪くらい、運べますもの」

 セレナの目が、わずかに和らいだ。


 午後になると、村の防壁に取りかかった。

 結界が消えた以上、魔物——マナビーストの襲来に備えなければならない。枯死域の魔物は通常より凶暴化しているとセレナが警告していた。

 鉄心は林から丸太を担いできた。一本百キロはある丸太を両肩に二本ずつ乗せ、何往復もする。村人たちは最初、呆然と見ているだけだった。

 だが、三往復目で変化が起きた。

「……手伝う」

 白髪交じりの中年の男が、おずおずと丸太に手をかけた。腕は細く、魔法に頼りきった体では丸太を持ち上げることすらできない。だが、男は歯を食いしばり、丸太の端を引きずり始めた。

 鉄心は振り返り、その男の顔を見た。

「おう、助かる! 二人でやりゃあ早いもんな!」

 嘘だった。鉄心一人の方が圧倒的に速い。だが、その嘘を咎める者は誰もいなかった。

 一人が動くと、もう一人が続いた。若い女が薪を運び、老人が綱を結び、子供たちが石を拾い集めた。誰もが不器用だった。魔法なしで体を動かすことに慣れていない手足は、ぎこちなく、すぐに疲れた。

 それでも、誰も止めなかった。

 夕暮れ時、粗末だが確かな木柵が村を囲んでいた。鉄心は柵の杭を最後の一本打ち込み、拳の泥を払った。

「よし、こんなもんだろ」

 振り返ると、村人たちが並んで立っていた。泥だらけの顔に、疲労の色が濃い。だがその目には、朝にはなかった光があった。

「魔法がなくても」

 鉄心は、自分に言い聞かせるように呟いた。

「人間は——やっていけるんだ」

 静かだった。風の音すら止んだような一瞬。

 それから、老婆が泣き出した。若い男が天を仰いだ。子供が母親にしがみついた。

 誰も言葉にはしなかった。だが、村の空気が変わったことを、鉄心は肌で感じていた。


  ◇


 焚き火の匂いが、夜の空気に溶けている。

 薪が爆ぜる音だけが響く村の広場で、鉄心は村の長老と向かい合っていた。長老は白い髭を胸まで垂らした痩身の老人で、杖なしでは歩けないほど足が弱っている。だが、その目だけは炎のように鋭かった。

「あんた……いや、鉄心殿」

 長老は深々と頭を下げた。

「この村を救ってくれた。礼を言わせてくれ」

「いやいや、大したことしてないっすよ。薪割りと水汲みと柵作りだけだし」

 セレナが焚き火の向こうで額を押さえた。

「……それを一人でやったから驚かれているんですが。理解してますか。してませんよね、知ってます」

 長老は鉄心をじっと見つめた。焚き火の光が皺だらけの顔を照らし、影を深くする。

「……あんたを見ていて、思い出したことがある」

「っす?」

「ワシの婆さまの、そのまた婆さまの代から伝わる話じゃ」

 長老の声が低くなった。リリアーナとセレナが、自然と身を乗り出す。

「大昔——魔法の時代が始まるよりもずっと昔、この地には魔法を使わず体ひとつで生きる民がいた」

 薪が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がる。

「彼らは『地の底の民』と呼ばれておった。山の地下深くに住まいを構え、星から降る鉄で武器を鍛え、素手で獣を狩り、大地を耕した」

 星鉄鋼——ガルドが曾祖父の設計図をもとに鍛えた、あの金属。

「星の鉄……」

 鉄心は無意識に拳甲を見下ろした。焚き火の明かりが、使い込まれた甲の表面をぼんやりと照らしている。

「じゃが、ある日を境に——地の底の民は忽然と姿を消した」

 長老の声が、さらに低くなる。

「代わりに、空から光が降りてきたという。光は人々に新しい力を与えた。それが——魔法じゃ」

 リリアーナの息を呑む音が聞こえた。

「地の底の民が消えて、魔法が始まった……?」

「左様。ワシらの村では、そう伝えられておる。都の者には笑われる話じゃがな」

 セレナが立ち上がった。顔色が変わっている。体調の悪さも忘れたように、長老に詰め寄った。

「長老、その伝承——もう少し詳しく聞かせてください」

「おや、信じてくれるのかね」

「信じるもなにも——」

 セレナの脳裏に、ある言葉がよみがえっていた。入学試験の日、測定官が口走りかけた一言。

 ——古代の記録にしか……。

 あの時は遮られて最後まで聞けなかった。だが今、長老の伝承と重ね合わせれば——。

「古代の記録と……一致するんです。魔法以前の肉体戦士文明の記録が、辺境の伝承として残っていた」

 セレナはノートを取り出し、震える手で書き留め始めた。

「それだけじゃない。鉄心の拳甲を鍛えたガルドの設計図——あれは曾祖父から受け継いだものでした。その出自が、ここに繋がる」

 鉄心は難しい話についていけず、首を傾げた。

「つまり……どういうことだ?」

「つまり」セレナが溜息混じりに言った。「あなたの拳甲は、この地の古代戦士文明の技術が鍛冶師の家系に伝わったものだった可能性が高い、ということです」

「おお、すげえな! ガルドさんのじいちゃんのじいちゃん、ありがとうだな!」

「……はぁ。まあ、そういう理解でいいです」


  ◇


 夜が更けた。

 村人たちが寝静まった後、長老は鉄心とセレナ、リリアーナを村外れの崖へ案内した。松明の火が岩肌を照らし、湿った苔の匂いが鼻をつく。

「ワシの祖父が子供の頃、一度だけ見たと言っておった」

 長老が崖下の茂みをかき分ける。鉄心が太い枝を折って道を開くと、岩壁に隠された洞窟の入り口が現れた。

 冷たい風が、洞窟の奥から吹き出してくる。土と鉄の匂いが混じった、古い風だった。

「この先に、何があるかはワシも知らん。祖父は怖くて奥には入れなかったそうじゃ」

 鉄心は松明を掲げ、先頭に立った。天井の低い通路を進む。リリアーナが鉄心の背中に手を添え、暗闘の中を歩いた。魔法の明かりは使えない。頼れるのは松明の火と、鉄心の広い背中だけだった。

 通路は次第に広がり、やがて——。

「……止まれ」

 鉄心の足が止まった。

 松明の光が、洞窟の奥を照らし出す。

 そこに、扉があった。

 人の手で加工された、巨大な石の扉。表面は滑らかに磨かれ、三千年の歳月を経てなお朽ちていない。

 そして、その扉の表面に——紋様が刻まれていた。

 鉄心の拳甲が、微かに震えた。

 見覚えがある。見覚えがあるどころではない。

 拳甲の甲に刻まれた古代の紋様と——寸分違わぬ意匠が、石の扉を覆い尽くしていた。

「鉄心、あなたの拳甲と……」

 リリアーナの声が途切れた。

 鉄心は無言で、拳甲を掲げた。

 松明の光の中、拳甲を扉に並べてみせた。紋様の線が、一本の狂いもなく重なっている。

 まるで、鍵と錠前のように。

「——なあ」

 鉄心の声は、いつもの能天気な調子ではなかった。

 低く、静かで、どこか——懐かしさを含んでいた。

「この扉の向こうに、何があるんだ?」

 誰も答えなかった。

 洞窟の奥から吹く風だけが、三人の沈黙を満たしていた。
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