魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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練筋術の真実

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 地下遺跡の空気は冷たく、湿っていた。石壁から染み出す水の匂いが、古い書庫を思わせる。

 セレナは石板の前に膝をつき、魔法光の角度を何度も変えながら、刻まれた文字を一行ずつ指でなぞっていた。爪の先が微かに震えている。それは寒さのせいではなかった。

「セレナ先生、大丈夫っすか? さっきから顔色悪いっすけど」

 鉄心が背後から声をかけた。セレナは振り返らない。

「……黙っていてください。今、集中しています」

「おう、了解」

 鉄心は素直に口を閉じた。壁に背を預け、腕を組む。拳甲が魔法光を鈍く反射していた。

 リリアーナは石板の隣に積まれた羊皮紙の束を慎重に広げていた。三千年の時を経た紙は脆く、触れるだけで端が崩れそうだった。指先に神経を集中させながら、文字を読み解いていく。

「セレナ先生、こちらの文献にも同じ記述がありますわ。『大革命以前』という表現が繰り返し——」

「ええ。石板と一致します」

 セレナの声が低くなった。魔法光が揺れる。

「この石板は、三千年前の『大魔法革命』以前の時代を記録しています。そして——学院で教えられていた歴史とは、根本的に異なる内容が刻まれている」

 リリアーナの手が止まった。


  ◇


 セレナは立ち上がり、石板の全体を見渡した。遺跡の天井から落ちる水滴が、規則的なリズムを刻んでいる。その音が、沈黙の重さを際立たせた。

「順を追って説明します」

 セレナの声は、教壇に立つときの冷静さを取り戻していた。だが、その瞳の奥には、鉄心でさえ気づくほどの揺らぎがあった。

「現在の学院では、こう教えています——『マナは生物の筋繊維にも微量に蓄積されるが、人体の筋肉で魔法を行使するのは理論上不可能である』と」

 リリアーナが頷いた。入学初日に叩き込まれる基本教義だ。

「しかし、この石板にはこう記されています」

 セレナの指が、古代文字の一節を指し示した。

「——『人は己が肉に宿りし微少なるマナを、鍛えし筋によりて増幅し、万象を動かす術を得たり。これを練筋術と称す』」

 静寂が落ちた。

「練筋……術?」リリアーナが眉をひそめた。

「はい。大魔法革命以前、人類は外部のマナを直接行使する術を持っていなかった。代わりに、肉体に内在する微量のマナを——筋力で増幅していた」

 セレナの唇が、一瞬きつく結ばれた。

「三千年前、外部マナの直接行使が可能になると、効率の差は歴然でした。練筋術は駆逐され、肉体鍛錬の文化そのものが『野蛮』として——意図的に抹消された」

「意図的に、ですの?」

「ええ。この文献の記述を見る限り、自然に廃れたのではありません。禁じられたのです」

 リリアーナの顔から血の気が引いた。学院の教義——あの絶対の真理として教え込まれた言葉が、改竄された嘘だったという意味を、彼女の聡明な頭脳は即座に理解していた。

「……嘘でしょ」

 お嬢様口調が剥がれ、素の声が漏れた。

 鉄心は壁から背を離し、一歩前に出た。

「つまり、俺がやってることって——」

「そうです」セレナが鉄心を見据えた。魔法光が二人の間で揺れる。「あなたの肉体が発揮しているあの力——私が以前『魔力に干渉する力』と名付けたもの。あれは古代の練筋術の、無意識的な発現です」

 鉄心は自分の拳を見下ろした。拳甲の下の筋肉が、言葉に応えるように微かに熱を帯びた気がした。

「おお。じゃあ俺、古代の技を自然にやってたってことか」

「……はぁ。喜ぶところではないのですが」

 セレナの溜息が、遺跡の闇に溶けた。


  ◇


 だが、本当の衝撃はその先にあった。

 セレナが羊皮紙の束から一枚を抜き出した。他の文献より保存状態が良い。誰かが意図的に保管していた形跡があった。

 蝋燭のような古い油の匂いが、紙面からかすかに立ち上る。

「この文献には、世界のマナ総量に関する記述があります」

 セレナの声のトーンが変わった。教師の冷静さではない。何かを押し殺すような、硬い声だった。

「——『世の理を成すマナは、汲めども尽きぬものにあらず。大地より湧き出づるマナの量は、消費されるマナの量に遠く及ばず。このまま外なるマナに頼りて術を行使し続くれば、やがて星は枯れ果てん』」

 水滴の音が止まった。いや、止まったように感じただけだ。鉄心の鼓動が、それを掻き消していた。

「……マナが、なくなる?」リリアーナの声が震えた。

「正確には、枯渇に向かっています。現在の消費速度では——」

 セレナは一度言葉を切った。喉が引きつるように動いた。

「——数十年以内に、魔法文明を維持できなくなります」

 沈黙が、石壁に反響した。

 リリアーナの膝から力が抜けた。壁に手をつき、かろうじて体を支える。学院の結界が揺らいだこと。エリオットの蒼雷が結界に異常な負荷をかけたこと。マナ枯死域の境界が年々拡大していること。全てが繋がった。

 あの日見た結界の揺らぎは、老朽化ではなかった。

 世界が、枯れ始めていたのだ。

「なぜ——」リリアーナの声が掠れた。唇を噛み、もう一度。「なぜこんな重要な情報が隠されていますの? 学院も、王宮も、誰も一言も——」

「知っている者がいて、意図的に隠しているからです」

 セレナの答えは、感情を排した刃のように鋭かった。だがその手は——羊皮紙を持つ手は、微かに震えていた。

「知っていて隠す。それができるのは、相応の権力を持つ者だけです」

 その言葉の先にある名前を、三人とも口にしなかった。

 鉄心が腕を組み直した。難しい話を脳内で咀嚼している。眉間に皺を寄せ、しばらく唸ってから——ぱん、と手を打った。

「つまり……魔法がなくなるから、筋肉を鍛えとけってことだな!」

「……はぁ。まあ……はい。極限まで要約すれば、そういうことです」

 セレナは額を押さえた。だが、その口元がわずかに緩んだのを、リリアーナは見逃さなかった。

「ですが鉄心くん。これは笑い事ではありません。魔法に依存した文明が崩壊するということは——」

「おう、大変なんだろ? だったらなおさら、鍛えるしかねえじゃん」

 鉄心は拳を握った。拳甲が鳴る。

「魔法がなくなっても殴れる。走れる。守れる。筋肉は裏切らねえからな」

 単純な言葉だった。理論も根拠もない。だが——この暗い遺跡の底で、その声だけが確かな熱を持っていた。

 リリアーナは唇を引き結び、目を伏せた。魔法がなければ何もできないと嘆いた自分の言葉が、胸の奥で反響している。


  ◇


 セレナは再び文献に目を落とした。残された羊皮紙の最後の一枚。

 遺跡の奥から吹き込む風が、魔法光を揺らした。冷気が首筋を撫でる。

 文献を読み進める指が、末尾で止まった。

 著者の署名があった。三千年の歳月で大半がかすれ、判読できない。だが最後の二文字——イニシャルだけが、執念のように紙面に残っていた。

 E・G。

 セレナの呼吸が止まった。

 指先が署名の上で凍りついている。魔法光に照らされたその二文字を、何度も目で追った。見間違いであってほしいと願うように。

「セレナ先生? どうしたっすか?」

 鉄心の声が遠い。

 E・G——E・グリムハルト。

 学院長ヴァルター・グリムハルトの家名。三千年前の文献に、その名が刻まれている。

 セレナの脳裏を、ヴァルターの言葉が駆け抜けた。筋力を頑なに否定し続けるあの態度。練筋術の存在を知りながら——いや、知っているからこそ、封じ込めようとしていたのではないか。

「先生?」

 リリアーナが覗き込んでくる。セレナは文献を胸に抱くように引き寄せた。

「……この文献の著者に、心当たりがあります」

 声が震えていた。自分でもわかるほどに。教壇で一度も崩したことのない冷静さが、今、音を立てて罅割れている。

「理論的に説明してください。無理ですよね、知ってます——と、いつもなら言うところですが」

 セレナは顔を上げた。その目に、恐怖と確信が同居していた。

「今回ばかりは、理論的に説明できてしまいそうで——それが一番、怖いのです」

 遺跡の闇が、三人を包み込んでいた。

 水滴が落ちる。一滴。また一滴。

 世界の秘密が、静かに目を覚まし始めていた。
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