魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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真実の著者、偽りの学院長

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 焚き火の匂いが、まだ湿った朝の空気に混じっていた。

 村の集会所を借りた仮の宿営地。石壁に染みついた古い煤の匂いと、窓から吹き込む草原の風が交互にセレナの鼻をくすぐる。

 眠れなかった。正確に言えば、眠る気になれなかった。

 机の上には、遺跡から持ち出した文献の写しと、あの金属板——「練筋術・正伝」が並んでいる。蝋燭の炎が揺れるたびに、金属板の表面が鈍く光った。星鉄鋼に似た、あの独特の青みがかった銀色。

 セレナは指先で金属板の刻印をなぞった。ひんやりとした感触が、指の腹から腕を伝って背筋に届く。

「E・G……」

 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 禁書庫で見た、あの本。『肉体練成論・異端の軌跡』——著者名は「E・グリムハルト」。そして今、手元にある金属板の著者イニシャルは「E・G」。

 偶然の一致と片付けるには、あまりにも符合が多すぎる。

 セレナは椅子の背にもたれ、天井の染みを見つめた。教師として十年以上、魔法理論を教えてきた。魔法こそが文明の礎であり、肉体の力は過去の遺物——そう信じて疑わなかった。

 だが今、その確信を根底から覆す証拠が目の前にある。

 そして最も厄介なのは、その証拠が指し示す人物が——

「……考えるのはやめましょう。まずは事実を積み上げます」

 セレナは自分に言い聞かせるように呟き、再び文献に目を落とした。


  ◇


 昼過ぎ、村の広場で復旧作業を手伝っていた鉄心とリリアーナを、セレナは集会所に呼んだ。

 鉄心は崩れかけた石壁を片手で支えながら、もう片方の手で村人の子供を肩車していた。子供がきゃっきゃと笑い声を上げている。

「剛田さん。お子さんを下ろして、こちらに来てください」

「おう、セレナ先生! ちょっと待ってくれ、この壁だけ——」

 鉄心が壁を軽く押すと、崩れかけていた石組みが元の位置にきれいに収まった。魔法の構築術なら三人がかりの作業を、この男は片手でやってのける。

 ——もう驚きません。慣れました。……いえ、慣れてはいけないのですが。

 セレナは小さく溜息をつき、集会所の扉を開けた。

 リリアーナは既に中で待っていた。銀髪を耳の後ろにかけ、机の上の文献を興味深そうに眺めている。

「セレナ先生、お呼びとのことですけれど。何か分かりましたの?」

「ええ。座ってください。剛田さんも」

 鉄心が椅子に腰を下ろすと、木の脚がぎしりと悲鳴を上げた。セレナは気にせず、金属板と文献の写しを二人の前に並べた。

「単刀直入に言います」

 セレナは一度、唇を引き結んだ。次に口を開けば、もう後戻りはできない。教え子を、かつての恩師を——巻き込むことになる。

 だが、黙っている方が罪だ。

「この金属板の著者『E・G』と、禁書庫にあった『肉体練成論・異端の軌跡』の著者——同一人物です」

 リリアーナの碧い瞳が細まった。

「禁書庫の著者は……確か」

「E・グリムハルト」

 その姓が室内に落ちた瞬間、空気が変わった。蝋燭の炎が一度大きく揺れ、セレナの影が壁に長く伸びる。

「グリムハルト……って」鉄心が首を傾げた。「それ、学院長と同じ——」

「はい」

 セレナは机の上に、一枚の紙を広げた。遺跡で見つけた文献から書き写した年代記録と、学院の公式資料から覚えている情報を並べたものだ。

「学院長の書斎にあった肖像画を覚えていますか。痩せ細った青年が描かれていたもの」

「……ええ。あの時は気にも留めませんでしたけれど」リリアーナの声が低くなった。

「あの肖像画の青年の体格は、魔導士のそれではありません。むしろ——」

「鍛えていた人間の体、ですの?」

 セレナは頷いた。喉の奥が乾いている。水を飲みたかったが、ここで間を空けたくなかった。

「さらに、書斎の引き出しにあった手甲の欠片。あれは星鉄鋼と同じ金属光沢を持っていました。そしてヴァルター学院長は、鉄心さんの力を初めて目にした時——『練筋の光』という名称を口にしています」

「あー、そういえば言ってたな。あのジイさん」

 鉄心の気楽な相槌が、張り詰めた空気に小さな穴を開けた。だがセレナは表情を崩さなかった。

「初見の現象に、名前をつけられる人間は二種類です。研究者か、経験者か」

 沈黙が降りた。窓の外で、村の子供たちが走り回る足音が遠く聞こえる。

「学院長は……全てを知っていた可能性があります」

 セレナの声は平坦だった。努めてそうした。感情を乗せれば、教師としての冷静さを失う。それだけは避けたかった。

 ——でも本当は。

 拳を膝の上で握りしめていることに、セレナ自身は気づいていなかった。爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて思考を繋ぎ止めている。

 十年間、あの人の下で教壇に立ってきた。魔法の素晴らしさを説き、生徒たちに魔法こそが人類の到達点だと教えてきた。その全てが——もし学院長が真実を知りながら隠していたのなら。

「……私たちの学んだ全てが嘘だったことになりますわ」

 リリアーナの声が震えていた。唇を噛み、白い指が机の縁を掴んでいる。

「嘘、とまでは断定できません」セレナは慎重に言葉を選んだ。「ですが、重大な隠蔽があったことは——」

「いや」

 鉄心が口を開いた。腕を組み、珍しく真剣な顔をしている。

「あのジイさんさ。俺と初めて会った時、すげぇ複雑な顔してたんだよ」

「複雑な顔?」

「なんつうか……怒ってるんだけど、怒ってるだけじゃない感じ。懐かしいもん見ちまった、みたいな」

 セレナの指先が止まった。

 ——この人は。理論も論理も苦手なくせに、人の感情だけは正確に読み取る。

「……それは重要な証言ですね」

「そうか? まあ、難しい話はよく分かんねぇけど」鉄心は頭を掻いた。「つまり——学院長も昔は筋トレしてたってことだろ? だったら話は早えぇ。一緒に筋トレすりゃ分かり合えるって」

「話が飛躍しすぎですわ!」

 リリアーナの叫びに、セレナは思わず口元が緩みそうになった。——いけない。今は笑っている場合ではない。

 だが、この男の底抜けの楽観が、今この瞬間どれほど救いになっているか。セレナの胸の奥で、何かが軋みながらも形を保っている。


  ◇


 午後、セレナは一人で集会所に残り、文献の整理を続けた。

 窓から差し込む西日が、金属板の表面を琥珀色に染めている。鉄心とリリアーナは村の復旧作業に戻っていた。遠くから鉄心の豪快な笑い声と、崩れた壁が元に戻る轟音が交互に聞こえてくる。

 ペンを走らせる手が、ふと止まった。

 セレナは自分の手を見下ろした。細い指。魔法使いの手。力仕事などしたことのない、白い掌。

 ——私は何のために教壇に立っていたのでしょう。

 学院長の秘密を暴くために? 違う。生徒に真実を教えるために? それも違う。

 ただ、知りたかった。世界の仕組みを。魔法の本質を。なぜこの世界は魔法だけを正しいとするのか——その「なぜ」に、教師になってからずっと向き合ってきた。

 「筋肉では魔法に勝てない」。何度そう言っただろう。何度それを証明しようとして、何度失敗しただろう。

 そして今、その失敗の全てが——正しかったのだ。

「……はぁ」

 溜息が漏れた。何度目か、もう数えていない。

 ペンを置き、金属板を丁寧に布で包んだ。学院に戻れば、この発見を報告しなければならない。だが、報告先が問題だ。学院長に? それとも——

 集会所の扉が開き、リリアーナが顔を覗かせた。頬に土埃がついている。

「セレナ先生。出発の準備が整いましたわ」

「ええ。今行きます」

 セレナは荷物をまとめながら、さりげなく言った。

「リリアーナさん。王都に戻ったら、学院長に会う前に——まず私に相談してください」

「……分かっていますわ」

 リリアーナの碧い目が、一瞬だけ揺れた。だがすぐに、いつもの毅然とした表情に戻る。

「先生こそ、一人で抱え込まないでくださいまし」

 セレナは答えなかった。ただ小さく頷いて、集会所の扉をくぐった。


  ◇


 帰路は穏やかだった。秋の夕暮れが街道を赤く染め、収穫を終えた畑の土の匂いが風に乗って漂ってくる。馬車の車輪が石畳を叩くリズムが、心地よい眠気を誘う。

 鉄心は馬車の荷台に座り、道中ずっと村でもらった干し肉を噛んでいた。リリアーナは文献の写しを読み返し、時折ペンで書き込みを加えている。

 セレナは御者台の隣に座り、前方の街道を見つめていた。

 王都まであと半日。着いたら何をすべきか、頭の中で順序を組み立てる。まず文献を安全な場所に——

「セレナ先生」

 鉄心の声が、思考を断ち切った。だがいつもの能天気な調子ではない。

「前方、なんか来る」

 セレナが目を凝らした。

 街道の先、丘の稜線を越えて——黒い影が近づいてくる。一つではない。五つ、十、それ以上。

 黒い鎧。黒い馬。隊列を組んで、こちらに向かっている。

 先頭の騎士が掲げる旗が、夕日を受けて翻った。紫地に銀の結晶——セレナはその紋章を知っている。

 胃の底が冷えた。

「止まって」

 御者に声をかけた。声が震えていないことだけが、今の自分に残された矜持だった。

「セレナ先生? あの旗、見覚えがありますの」リリアーナが身を乗り出した。

「魔力至純派の紋章ですわ。でも、あんな武装した部隊なんて——」

「粛清騎士団」

 セレナの唇から、その名が零れ落ちた。

 貴族議会の直属でもない。魔法騎士団の管轄でもない。魔力至純派が独自に組織した、非公式の武力集団。存在は噂程度にしか知られていなかったはずだ。

 それが今、調査隊の帰路を塞ぐように展開している。

「おう、なんだあいつら。黒くてカッコいいな」

「カッコいい場合じゃないですわ!」

 リリアーナの悲鳴に近い声を背に、セレナは荷物の中から金属板を取り出し、自分の外套の内側に押し込んだ。冷たい金属の感触が、肋骨の下に当たる。

 ——この文献だけは、渡すわけにはいきません。

 黒い騎士団が、じりじりと距離を詰めてくる。先頭の騎士が剣を抜いた。夕日を受けた刃が、血のように赤く光った。
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