魔法至上主義の世界で『筋力』だけカンストした男が拳一つで全てを覆す

ポポリーナ

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失われた鍛錬場

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 石が軋む音がした。

 重い扉の隙間から漏れ出す、何千年も封じられていた空気が動く振動。セレナは無意識に足を止めた。古い書庫の軋みとも、遺跡の崩落音とも違う。もっと原始的な——汗と鉄と、打ち込まれた熱の残響。

 都市中心部にそびえる建造物は、外から見れば円形闘技場のようだった。だが内部に足を踏み入れた瞬間、その認識は覆される。

「すげえ……」

 鉄心の声が、高い天井に反響した。

 広大な空間に、異様な器具が整然と並んでいる。直径二メートルはある石の円盤。鈍く光る金属製の握り具。滑車と鎖を組み合わせた、全身を追い込むための複合器具。

 どれも、現代のエルドラには存在しないものだった。

「最高のジムじゃねえか!」

 鉄心が駆け出す。石の円盤に両手をかけ、軽々と持ち上げた。推定三トン。セレナの魔力計測では、同等の質量を浮遊させるのに中級魔導士三人分の魔力が必要になる。

 それを、この男はただの筋力で。

 眼鏡の奥で、目を細めた。もう驚くまいと決めたのは何度目かわからない。だが、その視線に含まれる成分が、数ヶ月前とは明らかに変質していることを、セレナ自身が一番よく知っていた。

「セレナ先生、見てくださいっす! この器具、握ると手がビリビリする!」

「触る前に確認を取ってください。三千年前の遺物ですよ」

「大丈夫大丈夫、壊れねえって!」

 ガキン、と金属が軋む音。

「……壊しましたね」

「いや、これは元から——」

「言い訳は結構です」

 リリアーナが呆れた顔で近づいてくる。

「あなた、遺跡に来るたびに何かしら壊しますわよね。学習能力という概念をご存知?」

「おう、知ってるぞ! 筋肉は同じ刺激に慣れるから、負荷を変えないと成長しないってやつだろ!」

「……それは筋トレの話ですわ」

 リリアーナの的確なツッコミを背景に、セレナは壁面に刻まれた文字列に目を向けた。古代エルドラ語。禁書庫で研究した文献と同じ書体だが、保存状態が桁違いに良い。

 指先が、無意識に文字の溝をなぞる。冷たい石の感触が、指の腹から腕を伝って胸の奥まで染み込んでくるようだった。


  ◇


 壁の文字を追ううちに、セレナの足は自然と訓練施設の奥へ向かっていた。

 松明の魔法光が届かない暗がりの中、壁面の古代文字そのものが淡い光を放っている。鉄心が近づくと、その光が微かに強まった。都市が「継承者」を認識している証拠が、ここにもある。

「セレナ先生、読めるっすか?」

 鉄心が隣に立つ。巨大な体躯が放つ体温が、ひんやりとした遺跡の空気を押しのけた。

「……ええ。読めます」

 セレナは眼鏡の位置を直し、壁に刻まれた一節を声に出した。

「『肉体を鍛え、生命の力を練り、筋の中に宿る微かな光を解き放て』」

 一拍、間を置く。

「これが『練筋術』の根幹思想です。外部マナを操作する現代魔法とは真逆の発想——体内に眠る微量マナを、肉体の鍛錬によって増幅し、放出する技術体系」

 鉄心が腕を組んだ。珍しく真剣な顔をしている。

「それ——俺がたまに拳に感じるやつだ」

 セレナの呼吸が止まった。

 知っていた。とっくに気づいていた。拳甲の完成時、障壁を破壊した時、鉄心の拳に宿った光。あの現象を自分は「魔力に干渉する力」と名付けた。学術的に未知の現象だと、そう思い込もうとした。

 だが。

「三千年前の人間は、これを体系化していたわけですね」

 声は平坦だった。そうあるように努めた。だが手帳を持つ指先が震えていることを、セレナは隠せなかった。

「先生?」

「……何でもありません。続きを読みます」

 壁の奥へ進むと、修練の段階が図解されていた。人体の絵に、マナの流れを示す線が無数に描き込まれている。第一段階——肉体の限界を超える鍛錬。第二段階——体内マナの知覚。第三段階——マナの意識的な制御と放出。

 セレナは一つ一つを丹念に書き写しながら、胸の奥で何かが軋むのを感じていた。

 自分が半生をかけて積み上げた魔法理論。それは三千年前に意図的に消された知識の、残骸の上に建てられた砂の城だった。

「リリアーナさん」

「はい?」

「あなたの手の甲、見せてくださいますか」

 リリアーナが怪訝な顔で手を差し出す。枯死域での岩登りで硬くなったタコが、白い肌の上で小さく主張していた。

「……古代の図解では、練筋術の修行者の手にも、同じような硬化が描かれています」

 リリアーナが自分の手を見下ろした。その目に浮かんだ感情を、セレナは読み取った。恥じらいではない。静かな誇り。

 数ヶ月前なら、名門貴族の令嬢がタコを誇るなど考えられなかった。この旅が変えたのは、世界の見方だけではない。


  ◇


「こっちじゃ! こっちを見ろ!」

 ガルドの興奮した声が、隣接する区画から響いた。

 駆けつけると、ガルドは金属の塊を両手で抱え、目を血走らせていた。矮躯の全身が、小刻みに震えている。

「星鉄鋼と同じ合金じゃ! しかも純度が桁違いに高い」

 ガルドが金属片を掲げる。松明の光を受けて、青みがかった銀色が鈍く輝いた。

「儂の曾祖父の設計図にあった加工法と、一致する部分があるだぞい」

 セレナの目が細くなった。ガルドの曾祖父——肉体労働による鍛冶を「時代遅れ」と嘲笑されながらも、技術を守り続けた鍛冶師の家系。その源流が、ここにある。

「ガルドさん。あなたの家系に伝わる鍛冶技術は、この古代都市の技術体系の末裔だったということですね」

「そういうことじゃ!」ガルドが鼻を鳴らした。「親父も爺さんも、魔法鍛冶なんぞに負けん腕を持っとった。それが——三千年前から受け継がれた本物の技術じゃったとは」

 古代の鍛冶工房が、訓練施設に併設されていた。炉の跡。鋳型の残骸。壁に掛けられた武器の輪郭。武器製造と肉体鍛錬が、切り離せない一つの文明として存在していた痕跡。

「つまり——」鉄心が顎に手を当てた。「筋トレしながら武器も作る。最高の文明じゃねえか」

「あなたの感想は予想通りですわ」リリアーナが額を押さえた。

 セレナはその会話を聞きながら、黙々と記録を続けていた。ペンを走らせる手が止まらない。止められない。

 壁の一角に、特に丁寧に刻まれた文章があった。


  ◇


「『三つの試練を超えし者に、筋聖の道が開かれる』」

 セレナが読み上げた言葉に、全員の動きが止まった。

「筋聖……?」リリアーナが眉をひそめる。

「練筋術の到達点を示す称号のようです。ただの戦士の上位概念ではなく、体内マナの完全な制御者——現代魔法でいう大魔導士に匹敵する、あるいはそれを超える存在」

 セレナの声は淡々としていた。だが、手帳に書き写した文字の筆圧が、先ほどまでとは明らかに違っていた。インクが紙の裏まで滲んでいる。

「私が名付けた『魔力に干渉する力』——あの現象を、古代人はとっくに体系化していたんですね」

 言葉にした瞬間、唇を噛んだ。

 悔しい。それは間違いない。自分が「発見」だと信じていたものは、三千年前の常識に過ぎなかった。だが同時に、胸の底から湧き上がるものがある。

 正しかったのだ。

 鉄心の力を「理論的に説明不可能」と切り捨てなかった自分の直感は。「魔法の枠組みでは説明できない力がある」と仮説を立てた自分の判断は。

「先生、めちゃくちゃ嬉しそうっすね」

「嬉しくなどありません。学術的に興奮しているだけです」

「同じじゃねえっすか?」

「違います」

 鉄心が笑った。その屈託のない笑顔に、セレナは目を逸らした。

 訓練施設の最奥。ガルドが「ここから先は構造が違うぞい」と声を上げた場所に、それはあった。

 封じられた扉。

 周囲の壁とは異なる、黒い星鉄鋼で鋳造された重厚な両開きの扉。表面に刻まれた古代文字が、鉄心の接近に呼応するように青白く脈動している。

 セレナが文字を読んだ。

「『練筋の道を極めし者のみ開く』」

 沈黙が落ちた。

 鉄心がゆっくりと扉に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、文字の光が一段と強くなり——そして、消えた。

 扉は、開かなかった。

「……まだ、足りないということですか」

 セレナが呟いた。視線は扉に向けたまま、手帳のペンだけが走り続けている。

 三つの試練。筋聖への道。そしてこの扉の向こうに眠るもの。

「よっしゃ」

 鉄心が拳を打ち鳴らした。その音が、古代の訓練施設に木霊する。

「つまり——もっと鍛えればいいんだな」

 セレナは溜息をついた。だが、その口元がわずかに緩んでいることを、誰にも気づかれないよう横を向いた。
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