伯爵さまと羊飼い

唯純 楽

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第二章

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「伯爵さま、足は大丈夫ですか?」

「あ、ああ、大丈夫だ」

 鶏の反乱事件の勃発により、いつもよりだいぶ遅い朝食を取るため食堂へ赴いたクリフォードは、給仕とバーナード、そして犬と猫となぜかメイドのお仕着せを着たハリエットに出迎えられて、面くらった。

 朝食は彼女の部屋へ運ぶようバーナードに伝えたはずだった。

 さほど大きくもない十人程度が一度に座れる食卓テーブルの端、いつもの席に腰を下ろすと主人を主人と思っていないらしい執事が素知らぬ顔で新聞を差し出してくる。
 
 何か言ってやろうかと思ったが、ハリエットに尋ねられて断念した。

「歩いても痛くないですか?」

「……問題ない」

「よかった」

 にっこり笑うハリエットは、とても侍女のお仕着せが似合っているが、なぜそんな恰好をしているのか解せない。
 
 あとでアデラに確認しなくてはと思いながら、広げた新聞の陰から窓際にいる犬と猫、そしてハリエットを密かに観察する。

 優雅な仕草で毛づくろいに励んでいる猫に、今朝の一件を反省している様子は微塵も見受けられない。

 窓辺で腹ばいになって毛皮の日干しに務めている犬は、今朝の大活躍が嘘のように、のんびりと寛いでいる。

 ハリエットは、興味津々の様子で壁の風景画に見入っていた。

 クリフォードは、しばらく一文字も頭に入ってこない新聞を眺めていたが、とうとう我慢できなくなって問いかけた。

「その絵が気に入ったのか?」

 国内外の政治や社交界の噂が書き綴られた新聞記事よりも、なぜ羊飼いが風景画に夢中なのか、気になってしかたない。

「はい。ヘザートンの風景に似ている気がします」

 ハリエットは、にっこり笑って頷いた。

 野原の緩やかな起伏や小川の上にかかる石橋、赤いポピー。明るい色彩でフィッツロイの領地を描いた絵は、クリフォードのお気に入りでもあった。

「フィッツロイの風景だ。丘や小川、森や湖と変化に富んでいて、乗馬もたっぷり楽しめる」

「乗馬……楽しそうですね!」

「馬に乗ったことは?」

 ハリエットなら、馬を歩かせるよりも走らせることを楽しみそうだと思いながら尋ねたクリフォードは、返ってきた答えに目を丸くした。

「いいえ。でも、羊に乗ってみたことはあります」

「……羊?」

 羊に乗れるとは初耳だ。

 ハリエットは赤い唇をわずかにすぼめ、眉根を寄せた。

「乗り心地はあまりよくないので、おすすめはしません。子どもの頃試してみたんですけれど、すぐに振り落とされてメリンダに叱られました。頭に大きなたんこぶができたんです」

 クリフォードは噴き出しそうになるのを咳払いでごまかした。

「馬は、きちんと乗れば振り落とされたりはしない。……もちろん、羊のように集団で襲い掛かって来ることもない」

「羊たちは襲ったりしません! でも……」

 ハリエットは羊飼いらしく羊たちを擁護したものの、最後にひと言付け加えた。

「暴走することはあるけれど」

 クリフォードは、笑いを堪えようとするあまり激しく咳き込んだ。

「大丈夫ですか? 伯爵さま」

「あ、ああ……何ともない……」

 口ではそう言ったものの、腹筋が引きつりそうだ。

 どう頑張っても笑わずにはいられないと観念しかけた時、タイミングよく給仕が現れた。

 淹れたての紅茶に焼きたての数種類のパン、ベーコン、ソーセージ、ポーチドエッグ、マッシュルームにトマト、ポテト、ベイクドビーンズ。これまでの朝食で見たことがないほど盛りだくさんの料理が皿に載っている。

 途方もない量に目を疑うクリフォードの横で、ハリエットが歓声を上げた。

「すごく美味しそう! ああ、もう、どれから食べていいかわからないくらい……」

「足りなければ追加をお持ちいたしますので、遠慮なくお申し付けください」

 熱烈な賛辞に、給仕が微笑んで申し出る。

「え、あの……いえ、あの、たぶん足りると思うけれど、でも、ありがとう」

 頬を紅潮させて微笑み返すハリエットを見て、クリフォードは思わず手近にあったナイフをにやけた給仕の心臓めがけて投げつけたくなった。が、顔を背けて肩を震わせているバーナードの姿が視界に入ったので、なんとか思い止まった。

 そうして、ハリエットに釣られるようにしてとんでもない量の朝食を半ば無理やり胃に押し込めたクリフォードは、デザートのストロベリータルト(朝食なのにデザートが出た!)と共に運ばれて来たコーヒーに五杯目の砂糖を投入する彼女の様子を眺めながら、感心しきりだった。

(昨日の昼から何も口にしていなかったのだとしても、信じられないくらいよく食べたな)

 クリフォードでさえ平らげるのがやっとの量を、ハリエットはふた皿も平らげたのだ。驚くべき食欲だが、美味しそうに料理を頬張る姿は見ていて気持ちがいいものだった。

 苦手なものもどうにかして残さずにおこうと努力する姿も、好ましい。

 しかし、砂糖を五杯投入したコーヒーを啜って顔をしかめ、罪悪感にかられた顔つきで六杯目の砂糖を投入しようとしているハリエットを見かねて、声をかけた。

「ハリエット、無理しなくていい。どうしても飲めないという人も少なくないんだ。飲み干さずに残してかまわない。紅茶を持って来させよう」

 ストロベリータルトが、瞬く間に彼女の胃袋の中へ収まったことからも、甘いほうが好きなのは明白だ。クリフォードがコーヒーを好むので、給仕はハリエットにも同じように用意しただけで、頼めばすぐに紅茶を持って来るだろう。

「でも……」

「タルトも、もうひと切れ追加すればいい」

 ハリエットは「もうひと切れ?」と一瞬目を輝かせたが、すぐにしゅんとして謝った。

「はい……紅茶にしていただけると、ありがたいです。あの……嫌いじゃないんです。ただ、好きになるには……もうちょっと時間が……ごめんなさい」

「謝る必要はない。なんでもすぐに好きになれるとは限らない」

 給仕がコーヒーカップを下げると、彼女は大きな溜息を吐いた。

「そうですね。王都も、いまのところ好きになれそうにないけれど、もしかしたらそのうち好きになるかもしれないし……」

「王都でしか見られないものは、少なくない。王宮や博物館、劇場は内装を見るだけでも訪れる価値があるし、外観も各時代の建築様式のいい見本だ。異国から運ばれてきた様々な品を扱う店もあるし、社交場へ行けば、この国の貴族をじっくり観察することもできる」

 王都を好きになってもらいたいわけではないが、せっかくはるばるヘザートンからやって来たのだ。少しくらい楽しい思い出を作ってやりたい。

 それも後見人の義務のうちだ。イザドラが生きていたら、きっとそうしたはずだ。

「どれも見てみたいけれど、レヴィを連れては入れない場所ばかりですよね?」

「レヴィは、いついかなる時でも君と一緒でなくてはいけないのか?」

 主人と同じく山盛りの朝食を平らげて満足したらしい犬は、尻尾をぴんと立ててこちらを見つめている。

 ハリエットはそんなレヴィを見て肩を竦め、いたずらっぽい笑みを閃かせた。

「連れて行こうとしなくとも付いてきちゃうんだもの。でも、レヴィがいてくれれば、どこにいようと安心なんです」

「そうだろうな」

 不届き者の猫より、頼りになることは確かだ。

「伯爵さまは、王都のどんなところが好きなんですか?」

「王都には長く住んでいるから慣れているというだけで、好きなわけではない。人が多い場所は苦手だ。ここで果たさなくてはいけない義務がなければ、フィッツロイにずっと引き籠っていたいくらいだ」

 クリフォードは、うんざりする上流階級の付き合いを思い、顔をしかめた。

「それなら、きっとヘザートンがお気に召すと思います。人より羊のほうが多いから」

 にっこり笑って故郷を薦めるハリエットは、さらに小声で付け足した。

「でも、全部数えられたことはないけれど」

 クリフォードは、油断すると緩みそうになる口元を引き締め、指摘した。

「羊を数えると眠くなるからでは?」

「三十までは眠くなりません! うちの羊たちはちゃんと数えられます」

 ハリエットが大真面目な顔をして言うので、クリフォードはとうとう笑ってしまった。

「それなら、私が羊を一匹贈ろう。三十一まで数えられるかどうか、試してみなくては」

 笑いながら、結局まったく読んでいなかった新聞を手元に引き寄せようとしたところで、彼女がまだこちらを見つめていることに気が付いた。

「……ハリエット?」

「やっぱり、思ったとおり……」

 ぼうっとした様子でクリフォードを見つめていたハリエットは、給仕が二個目のストロベリータルトを運んで来ると、目を瞬いて言い訳した。

「ご、ごめんなさい、何でもないんです。ああ、やだ……何度見ても美味しそう……」

「好きなだけ食べるといい。足りなければ、もう一つ頼んでもかまわない」

 ハリエットは、ストロベリータルトをひと口食べてから答えた。

「そんなに食べられません…………いますぐには」

 クリフォードは堪え切れずに噴き出した。

「……そ、それなら、ご、午後の……お茶の時にでも、用意……させよう」

「はい。あ、でも、あの、食べた分、ちゃんと働いてお返しします! こんな立派なお屋敷に滞在させていただいて、こんな美味しいものを食べさせてもらっているのに、のんびりしているわけにはいきません! このあと、お掃除とか洗濯とか、なにかお手伝いできることをしたいと思っています」

 あっという間に半分ちかくストロベリータルトを平らげたハリエットは、真面目な顔で宣言した。

 彼女が侍女の恰好をしている理由はわかったものの、使用人として屋敷に迎え入れたわけではない。
 緑の丘で羊を追うハリエットと犬の姿を見てみたいとは思うが、それとこれとは話が別だ。

 クリフォードは、きっぱり言い渡した。

「君は客だ。働く必要はない」

 しかし、羊飼いは根っからの働き者らしく、フォークを振り回して禁止したはずの『でも』を口にして、力強く反論した。

「でも、働いたあとの食事はとても美味しく感じられるんです! あ、でも、いつもこんなには食べません。昨夜、なにも食べていなかったせいで……いつもよりちょっとだけ……ちょっとだけ、お腹が空いていたんです。私も、レヴィも」

 恥ずかしそうに頬を染めて言い訳するハリエットは、愛らしかった。

 彼女を見ているだけで緩んでしまう頬や口元を始終引き締めているのは、至難の業かもしれない。

 働く必要はないと再度言い聞かせようかとも思ったが、この屋敷に滞在している間は彼女に居心地の悪い思いをさせたくない。ちょっとした手伝いをすることで気が済むのなら、好きにさせてもかまわないだろう。

(アデラとバーナードに、上手く取り計らうよう言っておくか……。もっとも、まずは着るものが必要だ。いくら似合っていても、お仕着せを着せておくわけにはいかない。だが、服を買い与えると言っても、素直に頷くかどうか……)

 宿なしのくせに、屋敷に泊まるのを断ろうとしたハリエットのことだ。納得できる理由がなければ、受け取らないかもしれない。

(なにかいい方法はないか? 頷かざるを得ないような……)

 頑固な羊飼いを言いくるめる方法を検討し始めたクリフォードの耳に、猫を叱る声が聞こえた。

「だめよ、ジュエル。あげられないの。レヴィも我慢しているでしょう? お行儀よくして」

 図々しい猫は彼女の膝の上によじ登り、タルトのおこぼれをねだっているようだ。

 犬は何をしているのだろうと思ったところ、温かくて重みのあるものがクリフォードの太腿に乗っかった。

「あ、レヴィ! 邪魔しちゃだめよ! ごめんなさい。追い払ってください、伯爵さま」

 手触りのいい犬の頭を撫でてやりながら、猫も犬も名前で呼ばれているのに自分だけが「伯爵さま」と呼ばれているのが気になった。

「大丈夫だ。それから……伯爵さまではなく、クリフォードだ」

 ハリエットはぽかんとした顔でクリフォードを見つめた。

 言ってしまってから、あまりにも唐突だったと気づき、どうでもいい言い訳を連ねてみた。

「伯爵はこの国に数十人いるし、これまでフィッツロイを名乗った人物は、私のほかに十四人もいる」

「あの、でも……」

「ハリエット。『でも』は禁止だ。ジュエルやレヴィと同じように、私も、私だけの名前で呼ばれるほうがいい」

 羊飼いにとって犬猫よりも心を許してもらえないと思うと……なんだか面白くない。

「…………」

 ハリエットは、最後のひと口となったストロベリータルトを見つめて考え込んでいたが、意を決したように顔を上げ、頬を赤くして小さな声で呟いた。

「わかりました……クリフォードさま」

 クリフォードは口の中に、甘酸っぱい味が広がるのを感じた。

 そして、眩しさに目を細めた。

 誰かが食堂の窓を磨いたのかもしれない。

「明日、王都見物に出かける」

 クリフォードは咳払いし、いかにも伯爵らしく重々しい口調で告げた。

「え、あの……?」

「どこか行きたい場所があるのなら、そこにも立ち寄ろう」

 ぽかんとしていたハリエットは、タルトの最後のひとかけらに突き刺そうとしていたフォークを下ろし、ためらいがちに尋ねた。

「あの、実は鑑定してほしいネックレスがあるんです。安物だとは思うんですけれど……」

 クリフォードは、つい微笑みそうになるのをしかめ面で隠しながら、鷹揚に頷いた。

「信用のおける宝石商を知っているから、紹介しよう」

 鑑定してほしいネックレスとは、レヴィがいつも持ち運んでいるネックレスのことだろう。

 謎が解けるし、ドレスを買う口実にもなる。実に好都合だ。

 ドレスを着なくては宝石店には入れないことにして、店を訪ねる前に仕立屋に行けばいい。

 我ながら名案だ。

「ありがとうございます……ああっ!」

 フォークを持ち上げたハリエットが、突然悲鳴を上げた。

「ジュエルっ!」

 不届き者の猫が、テーブルの向こう端で自分の口の周りを舐め回していた。

 ストロベリータルトの最後のひとかけらは、すでにその胃袋の中らしい。

「ひどい……最後のひと口だったのに……」

 恨めしそうな表情でジュエルを睨むハリエットを見て、クリフォードは再び笑い出した。
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