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第七章
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コールダー・メイソンの屋敷は王都の西側、中産階級の商人たちが屋敷を構えている一角にあった。
周囲の屋敷に比べて取り立てて大きいわけではないが、玄関ホールと通された応接間は高価な美術品で飾り立てられている。
通された応接間で壁に掲げられた美しい模様の描かれた皿たちを眺め、ドノヴァンは酷評した。
「東方産で一つ一つは高価なものだが、ただ集めて並べればいいというものじゃない。そもそも、なぜ皿を飾るのか理解できない。皿は料理を載せるためにある。そうだろ? クリフ」
「ああ……そうだな」
クリフォードはホワイト伯爵未亡人の館で起きた大惨事を思い出し、何となく嫌な予感がして周囲を見回した。
ピーターの事情聴取を終え、暗殺者の解剖に付き合い、ハリエットの寝顔を小一時間ほど眺めてから別室でドノヴァンの服を借りて身支度を整えていた時、不届き者の猫はベッドのど真ん中で惰眠を貪っていた。
ここまで乗って来た馬車のどこにも、白い影はなかった……はずだ……たぶん。
「なあ、クリフ。コールダー・メイソンがどうやって王都で金貸しを初めたのか、気にならないか? 奴が王都で商売を始めたのは十四、五年前だが、何の伝手もなく始められる商売じゃない。同業者も多いし、元手も必要だ」
コールダー・メイソンから金を借りている常連客は世襲貴族や大商人ではないが、金を貸すにはまず金を用意する必要があるとドノヴァンは声を潜めて指摘した。
「小さな質屋の息子が運だけで稼げるはずもない。もしかしたら……」
ふいに誰かの怒鳴り声と荒い靴音、何かがぶつかり派手に割れる音が聞こえ、ドノヴァンはぴたりと口を閉じた。
ドアを開けて廊下を見渡せば、こちら側とは反対側に伸びている廊下の先、一番奥の部屋のドアが開け放たれたままになっている。
「どうやら、こちらから伺ったほうがいいようだな」
クリフォードもドノヴァンも、礼儀正しく待って時間を無駄にするつもりはなかった。
案内を待たずに部屋を出て、罵り声のする方へと歩き出す。
開きっぱなしのドアの向こうでは、コールダー・メイソンがぶつぶつと文句を言いながら机の上の書類や大きな宝石のついた指輪、金貨の詰まった革袋などを次々と床に置いたトランクへ放り込んでいた。
「なんだってこんなことに……さっさと手を切れば……」
コールダーは書棚から本を無造作に引き抜き、空になったところで棚を探るように手を伸ばす。隠し扉でもあったのか、どこからか重たげな木箱を取り出すと振り返り、ようやく見物客に気がついた。
「忙しそうだな? 手伝おうか?」
一瞬、あっけに取られた表情で固まったコールダーは、ドノヴァンが愛想よく挨拶すると慌てて笑みを取り繕った。
「これはこれは……このような粗末な屋敷にお運びいただけるとは、光栄です」
大げさなお辞儀をしたコールダーは手にした木箱を机の上に置き、乱れた髪をかき上げた。
その手は震え、目の下にはうっすらと隈があり、髭も伸びている。上着は皺だらけで、シャツはウエストコートからはみ出ており、黒いブーツも汚れが目立つ。
充血した目は、睡眠不足を物語っていた。
「取り込み中のところ申し訳ないが、急ぎの用があるんだ」
ドノヴァンが一歩進み出るとコールダーは引きつった笑みを浮かべ、後退りした。
「どのようなご用件でしょう? 私でお役に立てることでしょうか?」
「金を貸している客について、訊きたい」
「客……何百といますので、すぐに思い出せるかどうか」
「ピーター・バーンズのことは、憶えているだろう?」
「ピーター・バーンンズ?」
コールダーは首を傾げ、申し訳なさそうな表情で「記憶にない」と答えた。
「おまえが『ヴァニタス』で、ボールドウィン公爵家の舞踏会へ忍び込むには、従者になりすませばいいとそそのかした男だ」
ドノヴァンはいきなり核心を突いたが、コールダーは肩を竦めて苦笑した。
「もしそんなことを言ったとしても、賭けをしている最中に話すことなんて、どれも戯言ですよ。まさか、その男は本気にしたんじゃないでしょうね?」
「そのまさかだ。昨夜、公爵邸の舞踏会で騒ぎを起こした。問い詰めたところコールダー・メイソンという人物にそそそのかされたと白状したんでね。確かめないわけにはいかなかった。なんと言っても、襲われたのは……」
ドノヴァンの後をクリフォードが続ける。
「私の婚約者だ。彼女を撃ち殺そうとした」
「なんということを……! その男はきっと頭がおかしかったんでしょう。お怪我は?」
コールダーは眉根を寄せてピーターに憤って見せる。
「さいわい、大したことはなかった」
「それは何よりでした。しかし、なぜ伯爵さまの婚約者を狙ったのでしょう?」
「それがわからないんだ。『ヴァニタス』で勝負をしている時に、何か話していなかっただろうか? どうも、あの店で何かを聞いて犯行に及んだらしい」
「さあ……憶えていませんね。お恥ずかしい話ですが、酒が入るとどうも記憶が曖昧になってしまって。お力になれず申し訳ありません」
クリフォードはドノヴァンと目配せを交わした。
真正面から問い質しても、コールダーに話す気はないようだ。
「そうか。朝早くから、邪魔をしてすまなかった」
「とんでもありません」
ドノヴァンが差し出した手をコールダーが握り返す。
その一瞬、シャツの右の袖口に小さな赤茶けたシミが見えた。
外側にあるため、本人も気付いていないのだろう。
血痕だと断定はできないが、揺さぶっておけば後でボロを出すかもしれない。
「ところで、どこかへ旅に出る予定でも? ずいぶん急ぎのようだが」
あきらかにほっとしかけていたコールダーは、クリフォードの問いに顔を引きつらせた。
「え、ええ……実は、大きな商談が転がりこんで来まして。しばらくキルケイクを離れることに……」
「最近の王都は物騒だからな。私も婚約者と一緒に、どこか治安のいい場所へ避難したほうがいいかもしれないと考えていたところだ。昨夜、『ヴァニタス』で恐ろしい事件があったことはもう聞いただろうか? もしかして店にいたのでは?」
「えっ……ええ、いえ、その、店には立ち寄りましたが、そのあと知人の家に……」
言葉を濁すコールダーをドノヴァンがからかう。
「一睡もさせてくれないとは、ずいぶん情熱的なご婦人のようだな?」
「いえ、それほどでも……」
「ドノヴァン。一緒にいたのは、ご婦人とは限らないかもしれないぞ? それよりも、もっと刺激的なことをしていたのかもしれない。たとえば……どこかの裏路地で……」
クリフォードは、言い逃れることは許さないという脅しを込めてコールダーの目を見据え、自分の右の袖口を示してみせた。
「珍しくて高価な犬笛のネックレスを力ずくで手に入れるというような?」
周囲の屋敷に比べて取り立てて大きいわけではないが、玄関ホールと通された応接間は高価な美術品で飾り立てられている。
通された応接間で壁に掲げられた美しい模様の描かれた皿たちを眺め、ドノヴァンは酷評した。
「東方産で一つ一つは高価なものだが、ただ集めて並べればいいというものじゃない。そもそも、なぜ皿を飾るのか理解できない。皿は料理を載せるためにある。そうだろ? クリフ」
「ああ……そうだな」
クリフォードはホワイト伯爵未亡人の館で起きた大惨事を思い出し、何となく嫌な予感がして周囲を見回した。
ピーターの事情聴取を終え、暗殺者の解剖に付き合い、ハリエットの寝顔を小一時間ほど眺めてから別室でドノヴァンの服を借りて身支度を整えていた時、不届き者の猫はベッドのど真ん中で惰眠を貪っていた。
ここまで乗って来た馬車のどこにも、白い影はなかった……はずだ……たぶん。
「なあ、クリフ。コールダー・メイソンがどうやって王都で金貸しを初めたのか、気にならないか? 奴が王都で商売を始めたのは十四、五年前だが、何の伝手もなく始められる商売じゃない。同業者も多いし、元手も必要だ」
コールダー・メイソンから金を借りている常連客は世襲貴族や大商人ではないが、金を貸すにはまず金を用意する必要があるとドノヴァンは声を潜めて指摘した。
「小さな質屋の息子が運だけで稼げるはずもない。もしかしたら……」
ふいに誰かの怒鳴り声と荒い靴音、何かがぶつかり派手に割れる音が聞こえ、ドノヴァンはぴたりと口を閉じた。
ドアを開けて廊下を見渡せば、こちら側とは反対側に伸びている廊下の先、一番奥の部屋のドアが開け放たれたままになっている。
「どうやら、こちらから伺ったほうがいいようだな」
クリフォードもドノヴァンも、礼儀正しく待って時間を無駄にするつもりはなかった。
案内を待たずに部屋を出て、罵り声のする方へと歩き出す。
開きっぱなしのドアの向こうでは、コールダー・メイソンがぶつぶつと文句を言いながら机の上の書類や大きな宝石のついた指輪、金貨の詰まった革袋などを次々と床に置いたトランクへ放り込んでいた。
「なんだってこんなことに……さっさと手を切れば……」
コールダーは書棚から本を無造作に引き抜き、空になったところで棚を探るように手を伸ばす。隠し扉でもあったのか、どこからか重たげな木箱を取り出すと振り返り、ようやく見物客に気がついた。
「忙しそうだな? 手伝おうか?」
一瞬、あっけに取られた表情で固まったコールダーは、ドノヴァンが愛想よく挨拶すると慌てて笑みを取り繕った。
「これはこれは……このような粗末な屋敷にお運びいただけるとは、光栄です」
大げさなお辞儀をしたコールダーは手にした木箱を机の上に置き、乱れた髪をかき上げた。
その手は震え、目の下にはうっすらと隈があり、髭も伸びている。上着は皺だらけで、シャツはウエストコートからはみ出ており、黒いブーツも汚れが目立つ。
充血した目は、睡眠不足を物語っていた。
「取り込み中のところ申し訳ないが、急ぎの用があるんだ」
ドノヴァンが一歩進み出るとコールダーは引きつった笑みを浮かべ、後退りした。
「どのようなご用件でしょう? 私でお役に立てることでしょうか?」
「金を貸している客について、訊きたい」
「客……何百といますので、すぐに思い出せるかどうか」
「ピーター・バーンズのことは、憶えているだろう?」
「ピーター・バーンンズ?」
コールダーは首を傾げ、申し訳なさそうな表情で「記憶にない」と答えた。
「おまえが『ヴァニタス』で、ボールドウィン公爵家の舞踏会へ忍び込むには、従者になりすませばいいとそそのかした男だ」
ドノヴァンはいきなり核心を突いたが、コールダーは肩を竦めて苦笑した。
「もしそんなことを言ったとしても、賭けをしている最中に話すことなんて、どれも戯言ですよ。まさか、その男は本気にしたんじゃないでしょうね?」
「そのまさかだ。昨夜、公爵邸の舞踏会で騒ぎを起こした。問い詰めたところコールダー・メイソンという人物にそそそのかされたと白状したんでね。確かめないわけにはいかなかった。なんと言っても、襲われたのは……」
ドノヴァンの後をクリフォードが続ける。
「私の婚約者だ。彼女を撃ち殺そうとした」
「なんということを……! その男はきっと頭がおかしかったんでしょう。お怪我は?」
コールダーは眉根を寄せてピーターに憤って見せる。
「さいわい、大したことはなかった」
「それは何よりでした。しかし、なぜ伯爵さまの婚約者を狙ったのでしょう?」
「それがわからないんだ。『ヴァニタス』で勝負をしている時に、何か話していなかっただろうか? どうも、あの店で何かを聞いて犯行に及んだらしい」
「さあ……憶えていませんね。お恥ずかしい話ですが、酒が入るとどうも記憶が曖昧になってしまって。お力になれず申し訳ありません」
クリフォードはドノヴァンと目配せを交わした。
真正面から問い質しても、コールダーに話す気はないようだ。
「そうか。朝早くから、邪魔をしてすまなかった」
「とんでもありません」
ドノヴァンが差し出した手をコールダーが握り返す。
その一瞬、シャツの右の袖口に小さな赤茶けたシミが見えた。
外側にあるため、本人も気付いていないのだろう。
血痕だと断定はできないが、揺さぶっておけば後でボロを出すかもしれない。
「ところで、どこかへ旅に出る予定でも? ずいぶん急ぎのようだが」
あきらかにほっとしかけていたコールダーは、クリフォードの問いに顔を引きつらせた。
「え、ええ……実は、大きな商談が転がりこんで来まして。しばらくキルケイクを離れることに……」
「最近の王都は物騒だからな。私も婚約者と一緒に、どこか治安のいい場所へ避難したほうがいいかもしれないと考えていたところだ。昨夜、『ヴァニタス』で恐ろしい事件があったことはもう聞いただろうか? もしかして店にいたのでは?」
「えっ……ええ、いえ、その、店には立ち寄りましたが、そのあと知人の家に……」
言葉を濁すコールダーをドノヴァンがからかう。
「一睡もさせてくれないとは、ずいぶん情熱的なご婦人のようだな?」
「いえ、それほどでも……」
「ドノヴァン。一緒にいたのは、ご婦人とは限らないかもしれないぞ? それよりも、もっと刺激的なことをしていたのかもしれない。たとえば……どこかの裏路地で……」
クリフォードは、言い逃れることは許さないという脅しを込めてコールダーの目を見据え、自分の右の袖口を示してみせた。
「珍しくて高価な犬笛のネックレスを力ずくで手に入れるというような?」
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