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プロローグ
紳士転生
しおりを挟む紳士の朝は早い。
朝日の昇る前、まだ暗闇に包まれている時間に起きねばならない。
起きたらまず、下着のチェックである。紳士たるもの粗相などするべきではないが、真に恥ずべきはそれを誤魔化そうとすることだ。
人間誰しも生きていれば失敗を経験するものだが、重要なのは失敗をどう受け止め、フォローするかである。紳士に限らず社会人であれば、『報・連・相』に従い失敗の報告と穴埋めをした上で改善策を考え、実行するのが当たり前にできなければならない。だが人間は得てして弱く、楽な方へと流されやすい。時には自分から報告できないこともあるだろうが、それは誰しも経験する仕方のないことだと思う。ただしその場合、失敗は他人から指摘されることとなる。この時、多くの人は狼狽えたり、逆上したり、ウソを付くことで誤魔化そうとするが、それを素直に受け止め自分を正す事ができるかが紳士と一般人との違いであると私は考えている。
さて、長々と持論を展開してしまったが早く下着のチェックを済ませねば。
(…………。うむ、異物感や湿り気が感じられない、幸先のいい一日だ)
確認を終えた私は気分良く彼女を呼ぶが、もちろん紳士たるもの夜中に大声は出さない。
彼女にだけ聞こえる程度の、節度ある上機嫌な喃語が部屋に響く。
「アーウー」
真っ暗闇の中、すぐ側で人の動く気配がする。
「あら、ご飯かしら? 今差し上げますからね~。あ、でもその前におしめを見ておきましょうね」
そう言いつつランプに火を灯してこちらにやってくるのは、乳母のセザンヌさんだ。
三つ編みの長い髪を手前に垂らした彼女の、眠そうな優しい笑顔が揺り籠の縁から覗く。
「ウー」
「ふふ、本当に坊ちゃまは不思議な子ね」
私の返事を聞いた彼女は、面白そうに笑う。
始めの頃はさすがに驚いていたが、今では慣れたものである。本当に信じているわけではないだろうが、最近では私との“会話”を楽しむようになっていた。
私を優しく抱き上げた彼女の身体は柔らかく、温かい。ほんのりと香る良い匂いもあって、また夢の国へと誘われそうになるのを必死に堪える。
(うぐぐ。この体になってからというもの、睡魔に抗うことが難しいな。 やはり身体に精神が引っ張られているのだろうか)
おしめ交換台に寝かされた私は、チェックをされながら何とはなしにセザンヌを見る。
二十にも満たない彼女は、まだ幼さが残るものの目鼻立ちの整った美しい女性である。来ている服は持ち込みで、決して仕立ての良いものではないが彼女によく似合っている。
この少女と言っても差し支えない乳母には、両親共々頭が上がらない。
穏やかかつ寛容ながら、物怖じしない性格には本当に色々と救われていると思う。
私がこの家の子供として生まれて間もない頃に救われて以来、彼女は我が家の一員となっている。
◆ ◆ ◆
私は初め、赤子とは言え紳士たる自分が女性の前で節操なく振る舞うことに自己嫌悪し、絶望していた。昼夜問わず腹が空いたと喚き散らし、糞尿を垂れ流す様は、私の最も嫌悪する獣のそれだったのだ。
私は食事を我慢し、粗相の度自分を叩くようになる。それは自分への戒めであると同時に、精神の安定を保つために必要なことだった。当然ながら痩せていき、顔や手が頻繁に赤くなるが一向に気にならなかった。否、気にすることができなかった。自己嫌悪の渦に飲まれていた私は、自分の行動が周囲に与える影響など考えても見なかったのだ。
最初の乳母は私の異常性を伝えたが虐待を疑われて解雇され、次からの乳母は赤子らしからぬ行動を気味悪がりすぐに辞めていく始末。異常に気づいた両親は聖職者や魔術師などに頼ったが、改善しないことに気をすり減らしていった。
そんな時、エクソシスムを行った神父に紹介されてやってきたのがセザンヌだ。
その頃には私の噂はかなり広がっており、乳母を探すだけでも一苦労な上、賃金を上げても数日で辞めていくのが常だった。
“またすぐに辞めるだろう”
“何日持つだろうか”
そんなことを屋敷の使用人どころか雇い主たる両親も口にする中、彼女は何事もないかのように乳母として過ごしていく。
一日、二日、一週間、一月と過ぎていく中で、辞める様子もなく私を愛おしそうに世話する彼女は次第に変人扱いされていった。
そしてついに両親が彼女に聞いた。
「君はなぜ辞めないのかね?」
私とセザンヌを除いた屋敷の人間全員が思っていたことである。
「この子が気味悪がられているのも、影で悪魔憑きなどと言われているのも知っている。もし辞めることによって心象を損なうのを気にしているなら大丈夫だ。むしろこんなに長く続けてくれた君にはお礼を言いたいくらいだからね」
そう言って疲れた笑いを漏らす両親に対し、彼女はとんと意味がわからないと言った様子で終始困惑していた。腕を組んで首を捻る様は年相応で可愛らしく、本当にわからないと言った感じで逆に両親の方が困惑してしまうほどだ。
「その、なんだ……乳を飲むのを嫌がったり、自分を傷つけたり、色々と赤子らしくないだろう?」
「ああ、なるほど。そのことですか」
得心がいったという顔でセザンヌが手の平をポンと合わせ、そのままなんでもないことのように「あれならもう随分前にやらなくなりましたよ?」と続ける。
当然それを聞いた両親は「え!?」と言って固まってしまう。自分たちの知らぬ間に何をするでもなく解決していたことで、疑問や確認よりも先に驚き呆ける二人。
「ほら見て下さい、健康そうなふっくらモチモチ肌でとっても可愛いですよ」
「キャッキャッ!」
セザンヌが私を抱き上げながら頬を指で突付くので、私は笑いながら元気アピールをしておいた。
それを見た両親が暫く私の顔を見つめ、彼女の言葉が本当であることを理解する。母様は嬉しそうに口に手を当てて涙をこぼし、父様がその肩を抱いて泣き笑いのような顔で「よかった……本当に……」と言っていた。
その時の私は申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、只々両親を安心させるためだけに、年も忘れて元気な赤子のように振る舞い続けることしかできなかった。
暫くして両親が落ち着くと、セザンヌは「よく見てあげて下さい」と言って私を母様に抱かせた。
「あらあら、本当に健康そうだわ。肌が雪のように白くてぷにぷにで可愛い……。ほんと、今までのが嘘みたい。なんで気づかなかったのかしら……本当にダメね、ごめんなさい……ごめんね」
「ォウアゥーアアーゥアウア……」
全て私の愚かさが招いてしまったことだと言うのに、申し訳なさそうに謝る母様が本当に不憫で、申し訳なかった。どうにも謝りたくなり返事をすると、母様の身体がビクッと震えた。
「今……」
「はい、慰めてくれたんじゃないですか? きっと、大丈夫、気にしないで、すみませんでしたって言ってますよ」
若干青ざめた両親にセザンヌが説明する。二人と違って彼女はとてもにこやかだ。
「セザンヌ、あなたさっき治ったって言ったわよね?」
「? はい」
「ならなぜ今言葉を話すように鳴いたの? 悪魔はこの子から離れたんじゃない、の……?」
そこまで言うと母様は今にも泣きそうな顔で私を見た。
「奥様、悪魔など初めから憑いてはおりません。坊ちゃまはただ、とても賢いのです」
セザンヌは主の言を否定する。とても真剣な顔で、まっすぐに二人を見つめながら。
「彼がおかしかったのは“恥ずかしかった”からだと思います。想像してみて下さい、ご自分が赤ん坊として糞尿を垂れ流し、その世話をされる姿を。夜通し泣いて若い人妻の乳房にしゃぶりつく姿を。耐えられますか? 私なら羞恥心でどうにかなってしまいます。この子は賢いのです。自分の行いを恥じれば恥じただけ迷惑をかけまいと、夜は自分の食事を我慢して昼しかお乳を飲まず、粗相をしてはご自分を叩いて戒めようとされたのです。そうしなければご自身を保てないから」
そこまで一息に言い切ると、「差し出口を致しました、申し訳ありません」と言って一歩引く。彼女は私の心境を代弁するのに夢中で、いつの間にか両親の眼前まで迫っていた。
父様と母様は彼女の勢いに面食らったようになっていたが、顔を見合わせると私の方を見た。
「アウー」
首が座っておらず頷けないので、私は目線と声で肯定を表現する。
「「!?」」
二人は私のことをじっと見つめた後、セザンヌを、そして互いを見た。
普通、赤子が成人と同等の知能を持っていると言われて信じる親はいないだろう。子煩悩だったとてあまりに非現実的なそれは、たとえセザンヌという理解者からの口添えがあったとて、馬鹿馬鹿しい戯言と一蹴されても仕方のないことだ。悪魔付きのほうが幾分か説得力がある。
だからこそ私は期待しなかった。これまで散々迷惑をかけてきた両親に期待を裏切られたイメージを持ちたくなかったのだ。
「「………………」」
「あなた」
「ああ」
父様と母様が私の顔を覗き込む。
「すまなかった」「ごめんね」
「気づいてやれなかった」「もっとよく見てあげればよかった」
「悪魔憑きなどと……」「辛かったでしょう?」
「私は馬鹿だな」「私も、駄目な母親だわ」
「だが安心した」「ええ、つっかえが取れたみたい」
「私達のことでも心配をかけたな」「もう大丈夫よ」
「だが」「でも」
「お前はもっと甘えていい」「もっと甘えてちょうだい」
(!?)
「まだ生まれたばかりなんだから、少しくらい周りを困らせるくらいでいいのよ。でないと私達が世話を焼いてあげられないもの」
「暫くは恥ずかしいかもしれんがな」
「おしめだけでも誰か探す? 乳母経験のあるご老人とか」
「だが、今はセザンヌでも普通にできているのだろう?」
「そういえばそうだったわね」
(いやはや……彼らの子供でよかった、ということだろうか。いや、親故か。親とはかくも偉大なのだな)
チラとセザンヌを確認すると、優しげに微笑んで頷いている。
「旦那様、奥様、大丈夫でございます。彼とお話してからは気を許して頂いているようですので」
「そうか。いやしかしどうやったのだ? 男親だからか見当もつかんよ」
セザンヌが笑みを深くする。
「そんなことはありません。私がしたことなど、お二人が先程坊ちゃまにかけられたお言葉を、時間をかけて納得してもらったに過ぎませんので」
「あんなことで良かった、のか?」
「あれでいいんです。甘えることを恥じているようでしたので、甘えて甘えて甘え倒すくらいで丁度いいのだと説明したのです。周りにいっぱい迷惑をかけて食っちゃ寝するのが赤ちゃんの仕事で、健康にすくすく育って笑ってくれたら、全部ひっくるめて愛おしいのだと」
(うぅ……なんだか自分の黒歴史をおっぴろげにされているようで、ムズムズする)
ふと気がつくと母様父様とセザンヌが私を見ていた。
(分かっていますとも)
私は目一杯嬉しそうに笑うのだった。
◆ ◆ ◆
「あら……」
ウトウトしていた私は、セザンヌの声で現実に引き戻された。
なぜだろうか、セザンヌが生暖かい目でこちらを見つめている。
「ふふ、眠っちゃうなんて珍しいですね。それにいつもはおしめの自己申告なさるのに……まあ、そんなこともありますよね」
彼女は何を言っているのだろうか? 船を漕いでいたのは認めるが、粗相はしてないはずである。
そう思って彼女の持つおしめを見ると、真新しい小便の跡が付いていた……。
(どんとうぉーりー、かむだうん。まだ、焦る年齢じゃあない)
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