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老婆と犬
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20世紀初め、アメリカで、ある豪華客船が沈没した。
一等船室の客が優先して救出され、二等船室の客の多くが犠牲になった。特に当時の市民階級を憤らせたのは、一等船室の客が救命ボートに乗る際、犬を抱いていたことだった。
それは、ひとりの金持ちの老婆だった。老婆は犬を抱えて救命ボートに乗っていた。
犬を乗せなければ、あとひとり助けられたかもしれない。
しかし老婆は犬を抱えて離さなかった。人々は口々に罵った。 老害。忌まわしい魔女。
記者達は老婆を追おうとしたが、その後の老婆の足取りは掴めなかった。おおかた、追及されるのを恐れて雲隠れしたのだろう。
***
老婆はたしかに裕福だった。若い頃、彼女の夫は一代で財をなした。
しかし彼女は、 けっして幸せではなかった。夫は外面がよかったが、彼女につらく当たった。彼女が何をしても、どんなに努力してもけちをつけて、怒鳴りつけた。
夫がそのようだから、使用人まで彼女を軽視した。彼女が泣いていると、 メイドは黒い洞穴のような目で、冷たく彼女を見た。
「旦那様がいなければ、あなたは泣くこともできないんですよ」
メイドはそう言った。
やがて彼女は息子を生んだ。息子を生んでも、彼女の扱いは変わらなかった。息子は主人の大事な跡取りだったが、彼女はできそこないの、夫のお情けで生きている女だった。
それでも、彼女は息子がいるだけでよかった。しかし息子は成長すると、義勇兵として戦争に行くことを決めた。彼女が必死で引き留めると、息子は言った。
「母さんは勇気がないんでしょう」
そう言って、息子は戦争に行き、死んでしまった。周囲の人は口々に言った。
「育て方が悪かった」
「もっと引き止めてやればよかったのに」
彼女は、心の中に黒い穴が空いたように感じていた。その黒い穴に、人々は好き勝手に石を投げつける。
彼女は、老いていった。
ある時、彼女は夫に頼み込んで、一匹の犬を飼いはじめた。
ふかふかの毛並みの子犬。くるくると走りまわると、とても愛らしかった。夫は子犬を嫌って、蹴飛ばそうとした。彼女は子犬を抱き締めて、夫に蹴飛ばされた。
船が傾きはじめた頃、先に一等船室の乗客に声をかけられた。
彼女の夫は泥酔して寝ていた。彼女は夫を起こさずに犬を抱いて外に出て、船室に鍵をかけた。
不穏な気配を感じてか、子犬は小刻みに震えていた。彼女は子犬を強く抱きしめ、安心させてやろうとした。
そして、救命ボートの順番がやってきた。 周りの人々は、彼女の抱える子犬をじろじろ見て、あの黒い洞穴のような目で彼女を見た。しかし、彼女は子犬を離さなかった。
できそこないで、勇気もなくて、息子さえ守れない、石を投げられるべき女だった。
だからこそ、今回だけは。この子だけは。
暗く寒い海の上で、子犬の心臓の音が、 とくとくと鳴っていた。
***
港についてから、彼女はもう、彼女の夫が築いた広大な土地や屋敷に戻らなかった。
彼女は子犬を抱いて、ふらふらと歩き出した。
もう誰にも石を投げられない場所へ行こうと思った。
そして彼女は姿を消した。
〈終〉
一等船室の客が優先して救出され、二等船室の客の多くが犠牲になった。特に当時の市民階級を憤らせたのは、一等船室の客が救命ボートに乗る際、犬を抱いていたことだった。
それは、ひとりの金持ちの老婆だった。老婆は犬を抱えて救命ボートに乗っていた。
犬を乗せなければ、あとひとり助けられたかもしれない。
しかし老婆は犬を抱えて離さなかった。人々は口々に罵った。 老害。忌まわしい魔女。
記者達は老婆を追おうとしたが、その後の老婆の足取りは掴めなかった。おおかた、追及されるのを恐れて雲隠れしたのだろう。
***
老婆はたしかに裕福だった。若い頃、彼女の夫は一代で財をなした。
しかし彼女は、 けっして幸せではなかった。夫は外面がよかったが、彼女につらく当たった。彼女が何をしても、どんなに努力してもけちをつけて、怒鳴りつけた。
夫がそのようだから、使用人まで彼女を軽視した。彼女が泣いていると、 メイドは黒い洞穴のような目で、冷たく彼女を見た。
「旦那様がいなければ、あなたは泣くこともできないんですよ」
メイドはそう言った。
やがて彼女は息子を生んだ。息子を生んでも、彼女の扱いは変わらなかった。息子は主人の大事な跡取りだったが、彼女はできそこないの、夫のお情けで生きている女だった。
それでも、彼女は息子がいるだけでよかった。しかし息子は成長すると、義勇兵として戦争に行くことを決めた。彼女が必死で引き留めると、息子は言った。
「母さんは勇気がないんでしょう」
そう言って、息子は戦争に行き、死んでしまった。周囲の人は口々に言った。
「育て方が悪かった」
「もっと引き止めてやればよかったのに」
彼女は、心の中に黒い穴が空いたように感じていた。その黒い穴に、人々は好き勝手に石を投げつける。
彼女は、老いていった。
ある時、彼女は夫に頼み込んで、一匹の犬を飼いはじめた。
ふかふかの毛並みの子犬。くるくると走りまわると、とても愛らしかった。夫は子犬を嫌って、蹴飛ばそうとした。彼女は子犬を抱き締めて、夫に蹴飛ばされた。
船が傾きはじめた頃、先に一等船室の乗客に声をかけられた。
彼女の夫は泥酔して寝ていた。彼女は夫を起こさずに犬を抱いて外に出て、船室に鍵をかけた。
不穏な気配を感じてか、子犬は小刻みに震えていた。彼女は子犬を強く抱きしめ、安心させてやろうとした。
そして、救命ボートの順番がやってきた。 周りの人々は、彼女の抱える子犬をじろじろ見て、あの黒い洞穴のような目で彼女を見た。しかし、彼女は子犬を離さなかった。
できそこないで、勇気もなくて、息子さえ守れない、石を投げられるべき女だった。
だからこそ、今回だけは。この子だけは。
暗く寒い海の上で、子犬の心臓の音が、 とくとくと鳴っていた。
***
港についてから、彼女はもう、彼女の夫が築いた広大な土地や屋敷に戻らなかった。
彼女は子犬を抱いて、ふらふらと歩き出した。
もう誰にも石を投げられない場所へ行こうと思った。
そして彼女は姿を消した。
〈終〉
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