黒田茶花

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『湯のみち』

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 甲府の家に帰るまで、宮川は夢から覚めたばかりのように、現実離れした不思議な気分だった。家に着くと暗い室内の明かりをつけて手を洗う。何か作業をしていたほうが落ち着けると思ったので、ひとまず机に向かうことにした。論文を書かなければと思い、パソコンの電源を入れて資料を開く。
『私は湯本へ向かう電気鉄道で、盲目の女とその兄の二人連れに出会った。兄のほうは周りをきょろきょろ見まわして、愛想笑いを浮かべてへこへこと頭を下げていた。妹のほうは盲目なれど、動じることなく背をピンとのばしてじっとしていた。物映さぬ目を半眼にし、穏やかな面持ちなれど人に媚びることもなく、救いを垂れる観世音菩薩のようであった』
 錫川哲の『湯のみち』で、主人公は目のかすみを感じるようになり、眼病に効くという箱根の姥子温泉へ向かうことにする。その道中で、盲目の女に出会う話だ。
 主人公は盲目の女に畏敬を覚えるが、電車の中で女が切符を落としたのを見て、見ないふりをしてしまう。しかしその後、兄とはぐれた女が所在なさげに立っているのに親しみをおぼえて、しばらく一緒にいてやる。美しい女を見て妻として迎えたいと思うものの、盲目であれば家事などができないのではないかと思い、主人公は逡巡するが、間もなく兄が二人を見つけたため、主人公は兄妹と別れる。少し残念に思いつつも、いずれにせよ目的地は同じであるからまた会えるであろうと主人公は思い直す。
(そうだ、また機会はある)
 宮川は本を閉じると、目を瞑って眉間やこめかみのあたりを揉みながら、花笠奏のことを思った。ふと、高校の同級生の西村葵のことが頭に浮かんだ。今は松本の妻になっている。
 西村は大人しい女子生徒だった。他の女子生徒たちとつるまず、教室でいつも小説を読んでいた。宮川は最初、西村葵のことが気になっていた。仲良くなったら文学のことを語れるかもしれない、自分の思想を分かってくれるかもしれないと思ったのだ。西村は坂口安吾の小説をよく読んでいたので、宮川も教室で坂口安吾を読み始めた。
 だが、すぐに宮川は西村に失望した。あの通りおしゃべりな松本が西村に話しかけ始め、西村は甲高い声で笑いながら松本と話すようになった。大人しくて知的だった最初の印象はなくなってしまったし、同じ価値観を持っていたかもしれないのに、宮川を見ることもなかった。
 それから宮川は何人かの女性と付き合い、疎遠になっていった。いつも「この女に決めていいのか」と迷い、やめてしまった。男は何歳になっても結婚できるし、就職さえすれば、いくらでも女が寄ってくると思っていた。実際、吉良は宮川に懐いていて、うまくやれば結婚できそうだ。
 それでも、まだ宮川は躊躇っていた。吉良は宮川の言葉をよく聞いて、宮川に合わせてくれる。でもそれでは物足りない気もした。花笠奏は美しく知的で、どんな相手にも決して折れないが、心の中には繊細で純粋な感性を持っている。宮川は彼女となら分かり合えるような気がした。
(また機会はある)
宮川は心の中で繰り返し、自分に言い聞かせた。
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