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第一章 優ちゃんと裕子ちゃん
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1
街並みが物凄い速度で後ろへと流れ、消えてゆく。
反対に、JR香取駅の駅舎がどんどんと近付いて大きくなってくる。
神社のような、奇抜な形の駅舎だ。
「寝坊したあ。遅刻するう!」
この流れゆく風景というものに、もしも意識というものがあったならば、あまりに毎度毎度のこの言葉に、さすがに辟易せずにはいられなかっただろう。
声の主は、ようやく駅へと辿り着いた。改札の向こうには、すでに電車が到着しており、扉を開けている。
発車ベルが鳴り始めた。
去年からやっと導入されたICカード自動改札に、定期券を叩き付けるようにかざすが正しく認識されず、フラップドアが開かない。慌ててもう一度かざし直すと、ようやく開いた。
制服のスカートなびかせてダッシュ。改札を抜け、青とクリームのツートンカラーの成田線車両へとまっしぐら。
発車ベルが鳴り終え、扉が閉まり始めた。
ちょっと待てやこの野郎。お前にいかれちまったら、次に来るのは三十分後なんだぞ。
などと、心で叫ぼうが声に出そうが結果が変わるはずもなく、電車の扉は遅刻常習者に情けをかけることなく閉じてしまった。
いや、これは奇跡なのか、完全に閉じ切る寸前に扉はピタリ止まり、そして、開いたのである。
よく見ると、ドアの隙間から黒い皮カバンが突き出ている。中にいる誰かがカバンを挟んで、閉まりかけたドアを開いたのだ
山野裕子は雄叫びをあげながら車両内へと、文字通りに転がり込んだ。
自宅から駅までの全力疾走に力尽きて、床の上に俯せで大の字になった。
扉が閉まった。
「王子、電車で叫んだり寝転がったり、はしたないよ。それに迷惑だし」
寝転ぶ裕子の傍らに、裕子と同じ学校の制服を着た女生徒が立っている。
足元しか見えないが、首を上げて誰だか確かめるまでもない。
「サジ、ナイスアシスト」
裕子は寝転がったまま親指を立てた。
クラスメートである佐治ケ江優が、自分のカバンを挟んで電車の扉を開けてくれたのだ。
電車がゆっくりと動き始めた。
しばらくすると、裕子は床に手を付き、立ち上がった。
ベストもスカートも埃だらけだが、本人はまったく気にしていない。仕方ないなといった表情で、佐治ケ江がはたいて落としてやっている。
「いや、今日は寝坊しちゃって、まいった」
「毎日寝坊してるくせに」
裕子と佐治ケ江は、部活が一緒であるため一年生の頃から知った仲ではあったが、口をきく機会は最低限しかなかった。
二年生になり同じクラスになったことから、話す回数が増え、同じ駅を使っていることが分かり、一緒に下校するようになり、と、どんどん親しくなっていったのだ。
登校はほとんど別々であるが。まあ、それは当然だろう。
佐治ケ江からすれば、毎日裕子になど合わせていたら、自分まで遅刻の常習者になってしまう。
2
車窓の向こうには、広がる田園風景がゆっくりと流れている。
JR成田線は、三十分に一本という少なさであるが、乗ってしまえば五分で目的駅に到着だ。
車内アナウンスが流れると、後ろへ流れる景色の速度が落ちて、電車は佐原駅に止まった。
二人は改札を通りて瓦屋根の駅舎を出ると、小さなロータリーで待機している市営バスに乗り込んだ。
バスは本年度より通勤通学時間帯の増便が行われたため、以前のような殺人的な混雑こそはないが、さすがに人が死ぬことはないだろうという程度で、密集具合は依然として凄まじかった。
なお、ここ佐原は一応の観光地である。
しかしそうなるには季節を選び、普段はかなり落ち着き枯れた雰囲気の、簡素な街である。
いまバスに乗っているのはほとんどが彼女らと同じ、千葉県立佐原南高等学校の生徒たちだ。
先日部活を引退した浜虫久樹先輩は、鍛錬のためにと入学時よりバスに頼らず駅から徒歩であったが、車内混雑が緩和されようとも、部活を引退しようとも、その習慣は続けているらしい。
裕子は素直に感心するものの、真似するつもりはまったくない。
ただでさえ朝は寝足りなくて辛いというのに、もっと早起きすることになどなったら間違いなく授業中に寝てしまうだろうからだ。
まあ、いまでも毎日間違いなく授業中によく寝ているのではあるが。
「おはようございます。王子先輩、サジ先輩」
ぎゅうぎゅう混雑を一山越えたところに、かろうじて見える梶尾花香の顔。その隣には、生山里子がいつも通りの仏頂面を浮かべている。
「ハナ、里子、うおっす!」
裕子は、ところ考えず大声を出すので、間にいる男子生徒が露骨に迷惑そうな表情だ。
花香と里子、二人とも山野裕子らと同じ佐原南高校で、同じ部活に所属する後輩である。
なお、王子というのは山野裕子のあだ名である。
彼女は顔立ちこそ整っているものの、いつも刈り込んだような非常に短い髪型で、女子というよりは美少年に見えるということから、先日引退した浜虫久樹が付けた名である。
裕子自身はこの短髪を、女らしい短髪だと思っているので、その通称は面白くない。
面白くはないけれど、誰もがそう呼ぶものだから、もう慣れてしまったが。
中学の頃などは、あだ名が「兄貴」だったから、それに比べれば遥かにマシというものだ。
後輩の梶尾花香は、無邪気な表情を浮かべながら、人混みを掻き分け裕子たちの方へとやって来た。
遅れて生山里子も。
混雑で、胸から下がどうなっているのかさっぱり見えないが、おそらく里子は、花香に強引に手を引っぱられているのだろう。
でなければ裕子の方に自ら近づくわけがない。
普段の態度から誰しも知るところであるが、里子は、王子先輩のことがあまり好きではないからだ。
花香と里子、まったく正反対の性格ながら、非常に仲が良い。
裕子と佐治ケ江も他人から同じようなことをよくいわれるが、この二人はその非ではない。
花香は小柄で、とてもお喋りで、なんだか子供のような感じ。
特に話題がなくても無理矢理になにかを話そうと、とりあえず口を開いてみるものだから、すぐに会話がおかしな方向にいってしまったり、日本語が無茶苦茶になったりする。考えてから話せと、周囲からよくいわれている。
里子は無口というわけではないが、お喋りでもない。いつまでも沈黙していることもあるし、口を開いたと思えばキツイ言葉を平然と吐く。だから、周囲にあまり人は近寄らない。体つきにしても、すらりとしながらもしっかりと筋肉がついており、大人びた印象を、見るものに与える。
さて、佐原駅を出発したバスであるが、江戸情緒の漂う古い町並みを抜け、坂を上り、さらに揺られること約十分、ようやく彼女たちの目的地である停留所へと到着した。
県立佐原南高校前。
乗客のほとんどがこの高校の生徒であり、みなぞろぞろとバスを降りていく。
すっかり軽くなったバスは、心なしか若干軽妙なエンジン音を奏でて走り去っていった。
裕子たち四人は、校門を目指してフェンス沿いの道を歩き始める。
道路の片端で、裕子と花香が楽しげにお喋りしながら歩いているので、必然的に佐治ケ江と里子の組み合わせになるが、こちらはやはりというべきかいつまでも無言のままだ。
片やぶすっとむくれたように、片やおどおどうつむいて。
別に、無口な者同士だからといって仲がいいというわけではないのである。
無口、といっても、彼女らの所属する部には、度を超越した無口が一人いるため、それと比べたら佐治ケ江も里子も無口どころかよく喋るほうになってしまうのだが。
「なんかさー、千葉県の道路って、やたらとマックスコーヒーが落ちてない? よく見るんだよね」
裕子は、道路脇に落ちている黄色いコーヒー缶に目をやった。
ちなみにマックスコーヒーとは、千葉県や茨城県で多く売られている練乳入りのやたら甘い缶コーヒーのことだ。
「そうなんですか」
「花香、見たことない? あたしがたまたま見ちゃうだけかも知れないけど。よく売れてるから捨てられてるのをよく見るのか、それともマックスコーヒー飲む奴は捨てちゃう奴が多いのか」
「うーん。犯人、フサエ先輩だったりして」
夏木フサエ、裕子たちのいる部を引退したばかりの三年生だ。彼女はマックスコーヒーが大好きで、中年サラリーマンにとってのビールのようなもので毎日のように飲んでいたものである。
「いや、世間の印象悪くなるとかいって、落ちてるマックスコーヒー缶を見ると拾ってたくらいだから、それはない」
などと裕子と花香がどうでもいい会話をしている間に、四人は学校の校門へと辿り着いた。
赤いジャージを着た中年男性教師が、頭髪や服装の乱れを見つけては注意している。
少なくとも山野裕子が頭髪で引っ掛かることはないだろう。遅刻しそうになって、閉じた校門を乗り越えようとして怒られるのはしょっちゅうのことだが。
「じゃ、先輩、部活でまた会いましょう」
花香は裕子たちに手を振り、もう片方の手で里子の手を引っ張り、一年生たちの流れに乗って消えていった。
裕子は手を振り返しながら、
「なんで仲がいいのかさっぱり分かんねーな、あの二人」
などとぶつぶつ呟いている。
裕子と佐治ケ江も周囲からは同じように思われているのだが。
今日も長いような短いような、いつも通りの学校生活が始まる。
時間の過ごしかたはそれぞれ。
佐治ケ江は勉強、
裕子は居眠りしたり廊下に立ったり、というより立たされたり。
いつもの通りに時は流れて、そして放課後になった。
3
武田晶は、佐原南高校女子フットサル部の副部長である。
今日は、というか、今日もというか、部長がまだ来ていないので、代行で全体指揮をとっている。
といっても細かな技術的指導などは、佐治ケ江優や衣笠春奈に任せてしまっている。ゴレイロの自分が、あれこれ指図しない方が良いと思うからだ。
晶はFP(フィールドプレーヤー)の心得もあるが、だからといってそちらの領分まで指導してしまっては、他の二年生たちの顔を潰すことになってしまうから。……というのは建前で、実際はただ面倒なだけだ。
その副産物として、人見知りの佐治ケ江に指導力やコミュニケーション能力、社交性といったものが身について来ているのだし、なにも悪いことはないだろう。
佐治ケ江優は幼い頃、友達と遊ぶこともせず毎日一人でサッカーボールを蹴って練習していたという。
もともとの才能もあったのか、ボールを扱う技術力は相当に高い。
いつ日本代表召集の声が掛かっても不思議でないほどだ。
そんな技術力抜群の佐治ケ江であるが、上手にボールを蹴ることは出来ても、どうすれば上手にボールを扱えるのかを言葉にすることが出来なかった。
すべてセンスでやっていたから、というのもあるが、言葉にすることが出来ても気が小さくてまともに発言をすることが出来なかったというのが一番の理由であろうか。
そうした点が、晶が技術指導を任せたことにより、少しずつ改善されてきたのである。
だから晶は、全体指揮とゴレイロ練習に専念出来るのである。
そもそも冷静に考えれば、副部長が悩むところではないのだが。部長が部長のくせに遅刻ばかりしてまともに来ないものだから、仕方がない。
「ほら、声出して声!」
篠亜由美が、大声で叫んでいる。
能力が高からず低からず、秀でた能力もなく、一年生の時はどうにもぱっとしなかった彼女だが、そんな自分とうまく向き合えるようになり、後輩も出来て、最近若干の貫禄というものが出てきていた。
技術が高くないなりに、それをも含めた経験を生かすこと、それと場のムードを盛り上げること、それが自分の役割だと思って日々頑張っている彼女である。
そのすぐそばでボールを蹴っている真砂茂美は、篠亜由美の親友である。
茂美は、性格こそ非常に積極的行動的なのだが、口を動かすことに関してだけは消極的で、凄まじいまでの無口である。
フットサルの技術は、入部してから一年間真面目に練習しただけあって、その分、しっかり上達している。
守備の要であるベッキというポジションを担当しており、チームにかかせない存在になっている。
「しっかり声出してくれれば、もっと全体が安定するのになあ」
と、武田晶はことあるごとに呟いてしまう。
ゴレイロの自分が活躍して勝てればそれは嬉しいが、失点は悔しいし、なによりチームが勝つことが一番大事。なるべく前目でゲームが進行した方が、望ましいというものだ。
晶が、佐治ケ江とともに後輩の指導を任せているのが衣笠春奈である。
春奈は、父親の転勤により、ちょうど去年の今頃に静岡県の高校から佐原南へと転入、そしてフットサル部に入部した。
生来の身体の弱さと父親の過保護が原因で、それまで運動らしき運動をしたことがなかったのだが、本人のやる気と、前部長である木村梨乃の指導により技術力はかなり上達したし、なにより体つきがしっかりとしてきている。
入部してからずっと、人員不足によりFPとゴレイロを兼任させられていたのであるが、今年は途中からゴレイロに転向する者が出たため、現在の春奈は、当初の希望がようやくかなってFP専門である。
いま紹介した部員たちに、まだ来ていない部長様を加えたのが、二年生の全員だ。
続いて一年生も紹介しておこう。
生山里子、梶尾花香、九頭葉月、友原鈴、梨本咲、の五人である。
五人とも、佐原南で入部するまでフットサルもサッカーもやったことがないという、新米ばかりだ。
能力的に一番優れているのは生山里子で、これは誰しも疑う余地のないところ。本人ですら、そう豪語しているくらいだ。
素質そのものとしては優秀すぎるくらいで、体力があり運動神経が優れているというだけでなく、飲み込みが非常に早い。
一を聞いて十を知るというほど器用ではないが、七か八程度は学んでしまう。
ただし、とにかく気が強く、負けず嫌いで、上級生もその扱いには手を焼いている。
続いて、梶尾花香。
彼女は、里子の中学時代からの親友である。
里子がフットサル部に入ったのも、花香の誘いによるものだ。
親友であることと運動能力とはなんら関係はなく、素質に関しては並である。
しかし運動すること自体は大好きで、好きこそもののなんとやらで中学三年の時にはバスケットボール部のキャプテンを任されていた。
前々からサッカーに興味があったのだが、佐原南高校には男子にすらサッカー部がない状態で、でもフットサル部はあるということで、入部を決めたのである。
部活を変えたため、キャプテンになるほどの運動経験は半ばリセットされてしまったわけだが、毎日フットサルを楽しんで、マイペースで少しずつ力をつけてきている。
九頭葉月は、中学の時に運動部に入ってはいたものの、先天的な問題なのか体力はあまりない。持久走でも、一年生の中でいつもビリだ。
運動神経自体は、鈍くはないものの器用な方でもない。
ただし、現実的な目標設定を立てて堅実かつ黙々と努力していけるという素晴らしい才能を持っている。
非常に真面目で、寡黙で、前向きな性格。故にからかわれたりもするのであるが、なんだかんだと今年の一年生の中では一番の模範生だ。
友原鈴は、一番の不器用者。
小学生の頃から様々なスポーツを経験してきているため、基礎体力はそれなりにある。しかし、長所といえる点がそこしかない。
技の覚えが遅く、身体の動かしかたなども上手ではない。いや、正確に表現するならば「下手くそ」である。
本人にもその自覚は多分にあり、それがコンプレックスになっているとのことである。
自分に向いている競技がきっとあるはずだ、と、中学時代には所属する部活を一年毎に変えてきている。
梨本咲はゴレイロである。
生山里子と犬猿の中だ。ピヴォの里子となるべく遠いところにいたいため転向志願したとか、里子より足元が上手でないのが恥ずかしくて転向志願したとか、色々といわれている。
練習態度自体はまあ真面目ではあるが、難点は里子に匹敵するような扱いにくい性格か。
と、これで一年生と二年生、部員すべての紹介が終わった。
……いや、誰か一人、忘れられていないか。
まあとりあえず、このまま話を進めよう。
現在は、FPとゴレイロとで分かれて練習をしているところである。
FPは、ボールタッチの練習だ。
コーンの間を細かなドリブルで抜け、ボールを大きく蹴ってダッシュ、ターン、細かなドリブルで戻る。
単純であるものの、一年生にはそう綺麗に出来るものでもなく、個別に佐治ケ江の技術指導が入る。
彼女たちFP組の隣では、武田晶と梨本咲が、一緒にゴレイロの練習メニューをこなしている。
梨本咲は、晶が待ちに待っていたゴレイロ専門であるが、しかし、相当にひねくれた性格で、実に扱いにくい。
中学時代を知る者の話では、学校は皆勤賞で部活(ハンドボール部)も真面目に出ていたということなので、その点だけは心配してはいないが。
他人から奇人変人扱いされることが多い武田晶であるが、それは単に感情をあまり顔に出さないからそうからかわれやすいだけ。
対して梨本咲は、表情や言動から、あきらかに反骨心旺盛といった印象を見る者に与えるところがある。
晶からいわせれば、咲の方がよほど変人だ。
でも晶には、そういう咲のひねくれたところに、なんとも愛着を感じてしまったりもするのであるが。
ただし、咲としては晶のそうした気持ちが読み取れてしまうようで、面白くないようである。
だからといって、晶の意表を突くためだけに良い子ちゃんになるだなんて、それこそバカバカしくて、と、きっと葛藤の中で困ったちゃんを続けているのだろう。そうかどうか分からないけど、晶はそう思っている。
晶と咲、ゴレイロ組がいま行っている練習は、片方がボールを蹴り、相手はそれをキャッチするというものだ。
距離を離したり近付けたり、強弱をつけるなどして、単調にならないようにしている。
片方にとってはゴレイロとしてのキャッチング練習になるし、片方にとってはFPとして足元の技術を鍛える練習になる。ゴレイロには時としてFPのように攻め上がっていくことも求められるため、このような練習も必要なのである。
「咲、もうちょっと強く蹴っていいよ」
晶からすれば、この言葉のどこが気に入らなかったのか、というところであるが、とにかくその瞬間、咲の表情が変わった。もともとむくれたような表情であるため、わずかな変化ではあったが。
そして、ならばこれは取れるか、といわんばかりに力強く蹴ってきたのである。
「お、いいね」
晶は楽々とキャッチし、咲にボールを戻した。
バカにされているとでも感じたのだろうか。咲の表情が、より険しくなった。
再度、蹴る。
晶が戻す。
ボールを蹴る勢いが、だんだんとエスカレートしてく。
咲はかなり強めに蹴っているのだが、それでも晶はなんなく受け止めてしまう。
もちろん、大きくデタラメな方へと蹴れば晶だって取れるわけないが、そんなことをしたら自分の負けだ、と意地になっているかのように、咲はひたすらに晶の身体をめがけてボールを蹴り続けた。
あまりの勢いに、さすがの晶も取りそこねて、ボールは手を弾いて真上へと飛んだ。
指を強く打ってしまったようで、痛みに顔を歪めたが、それも一瞬、落ちてきたボールを見上げると両手でキャッチした。
「なんで、全然怒らないんですか?」
咲は、晶へと突っかかった。
ルール違反をしているのは自分の方なのだ、という自覚があるのか、視線を合わせようとしない。
「なんで、っていわれても……」
返答に困っていると、突然背後から大きな声が。
「遅くなってごめんちょー!」
短髪の、すらりとした女子生徒、山野裕子がニコニコ笑顔で小走りしてくる。
山野裕子は、佐原南高校女子フットサル部の部長なのである。
遅刻常習者の彼女が来たことにより、これでようやく部員全員が揃った。
「王子さあ、部長がそうちょくちょく遅刻してどうすんの?」
晶が、きつい表情を裕子へと向ける。なお王子とは、裕子のあだ名である。
「いや、補習でさぁ。文句あるならカマバロンにいってね」
苦しいいいわけをする裕子。
「普段勉強しない自分自身の頭に、文句いった方がいいよ」
「お前だってたいして賢くないくせに、優等生ぶってんじゃねえよ!」
「そうだけど、でも少なくとも補習なんか一回も受けたことないけどね」
二人のやりとりに、梨本咲は脱力してしまったのか、無言のまま体育館の外へと水を飲みに出でいってしまった。
4
「疲れたあ」
梶尾花香は、首を少し傾けて、ぐるぐると肩を回している。
「あんな程度の練習で、だらしないなあ」
隣を歩く生山里子の言葉だ。疲労が満面に浮かんでいる花香と違って、いたって元気そうである。
「あたしは里子と違って、普通の女の子なの」
JR成田線久住駅の改札を抜け、二人は狭い道路を歩き出す。
二人は、中学時代からの親友である。
フットサル部への入部も、花香が里子を誘ったのである。
彼女たち二人は、性格どころか価値観まで正反対なのであるが、しかしとても仲がいい。
仲良しがいるから部活は楽しいけれど、でも花香は、里子がいつまでもフットサル部にはいないと思っている。
何故ならば、中学生の時から毎年部活を変えているからだ。
同じフットサル部所属の友原鈴も、やはり毎年のように部活を変えていると聞いたが、しかし里子の場合はその理由が違う。あ、いや、鈴がどういう理由で転々としているのかは知らないけど、でも、まず間違いないところだろう。里子の、部活を変える理由が、ちょっと人には考えられないようなものだからだ。
里子は、あまりにも能力がありすぎるのだ。
一年ですべてを吸収し、すべての部員の中でナンバーワンになり、その競技を「クリア」して辞めていくのだ。
いくら運動神経抜群とはいえ、「新しい環境にチャレンジしたくなった」とでもいっておけば、まだ反感を買わずにすむところを、堂々と「クリアした」などというものだから、中学時代の里子は、評判最悪だった。
花香が、「もっとみんなと仲良くしなきゃ」と、どれだけ注意しても、見解の相違として、受け入れて貰えることはなかった。
高校生になったからといって、性格が変わるわけではない。
花香としては、今年からはじめたフットサルを結構気に入っており、今後も続けていきたいと思っているのだが、里子と一緒に活動出来るのが本年度だけであろうと思うと、少し寂しい気持ちになる。
せっかく、初めて同じ部活になれたというのに。
「あ、そうだ、忘れてた、晩の仕度、スーパー寄ってかないと」
花香は、腕時計の針を見た。十八時二十分。
「え、急がないと閉まっちゃうじゃん。あそこ確か、今年から時間が少し短くなって、七時くらいに店閉めちゃうでしょ」
「うん。だからこの時間がちょうどいいんだよ。値下げの時間も早くなったから」
「なんで? というか、スーパーって、時間によって安く売ったりすんの?」
「里子、本気でいってんの? 君、いい奥さんになれんよ。小学生だって知ってることだよ。普通スーパーってのは、生鮮ものの売れ残りを出さないために、閉店が近くなると値引くんだよ」
「へえ、なるほどね。ま、そういうこと無知でいいや、あたし。結婚なんか一生するつもりないし」
「あたしは早く結婚したいなあ。でも、いつまでも相手が現れない気もする。里子の方が、絶対に運命のいい相手が現れると思うけどな。あたしなんか、チビで、顔も個性なくて普通だし、勉強も運動も中途半端で、もうなんの取り柄もない」
「そんなふうにいわれると、なんて返せばいいか困るからやめてよ。運動のことだけなら、そうだねって軽く返せるけど。……でもさ、絶対に、あたしなんかより花香のほうが魅力的だって。あたしなんかもなにも、あたし誰からも嫌われる性格だしさ。花香、性格も優しいし、誰と比べたって素敵だよ、保証する」
「ありがと。里子が嘘つきにならないよう、頑張るよ。……あと、あんまり花香花香いわないでよ。部のみんなと同じように、ハナでいいから」
「分かったよ、ハナ。って、やっぱりなんか、しっくりこないなあ。中学のときからずっと、縮めず呼んでたのに」
「あたしは中学よりもずっと前から自分の名前が嫌いだったの!」
裸に発音が似ていて嫌いなのだ。
実際に、小学生の頃は男子からよくからかわれたし。
中学の部活では、苗字の梶尾からカジと呼ぶ者もいたが、いまのフットサル部にはすでにサジと呼ばれている佐治ケ江先輩がおり、そのためか入部早々から下の名で呼ばれ、そのうち略されてハナになった。
ハナも鼻に繋がりそうで納得はいかないけれど、贅沢をいったらキリがない。ハダカなどとからかわれるよりは、遥かにマシだ。
他人に説明しても嫌さ度合いの伝わらない、花香の悩みである。
5
久住駅から少し歩くと、田んぼの広がる景色へ一変する。
そんな眺めの中、農道を二十分ほども進んだところに、小さな住宅地が存在している。
一戸建てばかりであるが、一軒だけアパートがある。といっても、他の一戸建てとさほど変わらないくらい小さな、古い木造アパートであるが。
その木造アパートが、梶尾花香の住まいである。
建物の横にある階段を、花香は上っている。
金属製のすっかり老朽化した階段で、いつも上っていて恐怖を感じる。でも、自分の体重で大丈夫な間は、弟たちも安全だろう。弟たちのためなら、この身がなんだ。と時折強がってみるものの、やはり怖い。はやく階段を作り直してくれればいいのに。
花香は、両手にスーパーのビニール袋を下げている。
特売品をたっぷり買い込んだのだ。
「里子だって優しいじゃん」
ドアの前でいったん袋を足元に置いた花香は、鍵を取り出し開錠しながら独り言。
つい先ほどまで、生山里子と一緒にいたのであるが、里子は買い物に付き合ってくれただけでなく、いまさっき別れるまで、重たいビニール袋を一つ持っていてくれた。雑談の中で、花香の性格を優しいといっていたが、里子だって充分に優しいだろう。
あの異常なまでの負けず嫌いさえ直れば、本当に良い子なのになあ。多分、わたしたち二人がうまくいっているのって、わたしが最初から負けているからだな。そう、唯一わたしが里子に勝っているのは、負け方を知っているということなんだ。
そんなことを考えながら、ドアを開いた。
廊下に灯りはついておらず真っ暗であったが、突き当たりの部屋から隙間灯りが漏れている。
「ただいま~」
花香は両手に荷物を持ったまま、両足をもぞもぞと動かして靴を脱いだ。
「姉ちゃんだ!」
という幼い声とともに、襖の向こうがドタバタと慌ただしくなった。
がらり勢いよく襖が開くと、小さな子供たちが部屋から飛び出して来た。津波のような勢いで、花香へと駆け寄る。
三人。身長が見事に階段状で、大波中波小波だ。
「姉ちゃんおかえり!」
花香は、あっという間に小さな暴れん坊三人に取り囲まれてしまった。
長男の啓太九歳、次男亮助七歳、三男健五歳。年齢の離れた、花香の弟たちだ。
「ただいま。ドタバタと走っちゃダメっていってるでしょ。下の部屋の人に迷惑でしょ」
口調は厳しいが、花香の顔は笑っている。
「はーい」
弟たちは口々に返事をするが、おそらく、また明日も同じことになるのだろう。
梶尾家の家族構成であるが、花香自身、母、三人の弟、という五人だ。
父親は、健がまだ母親のお腹にいる頃に、ガンで亡くなっている。
母親の帰りが、いつも仕事で遅いため、花香が実質上の母親になっている。
掃除、洗濯、食事の仕度、お金を稼ぐ以外の大半のことをこなしている。いわば母親が父親役で、銃後の守りはすべて花香といったところか。
家事をするため自分の自由時間を相当に奪われることになるわけであるが、花香にはまったく不満はない。本来ならば自分だって家計を支えるためにアルバイトでもしなければやっていけないところ、それを母親が夜遅くまで頑張って働いてくれているから、学校に通うどころか部活動までやっていられるのだから。
制服姿のまま、エプロンを身につけると、さっそく夕食を作りに取り掛かった。
以前は帰宅するとまずスウェットなどの部屋着に着替えていたのだが、最近どうにも面倒で、お風呂から出て寝巻きに着替えるまでずっと制服姿のままでいることが多い。
隣にある和室では、長男の啓太と三男の健が遊んでいる。本を見ながら、なぞなぞを出し合っているようだ。
花香のすぐ横には、亮助が文字通りぴったりとくっついている。
「でさ、ゴンとタッ君とね、一緒に遊んでたらさ、タッ君がうちで遊ぼうっていってきてさ」
「ああ、それで今日は隆君とこで遊んで来たんだ。なにして遊んでたの?」
話し相手をしてやりながらも、視線は真剣にまな板の上。味噌汁に入れる長ネギを、確かめるようにゆっくりと刻んでいる。
毎日料理をしているというのに、包丁を持つとどうにも怖くて、トントントンとリズムよく刻むことが出来ないのだ。話し相手をしているからというのもあるが、しておらずとも大差はない。
「はじめはずっとゲームしてた。タッ君のおばあちゃんが、お菓子作ったから食べてって出してくれて、クッキーみたいなんだけどもっと何枚か乗っけたような感じで、一番上にクリームみたいなの乗ってて、それがすっごい美味しかった」
「へえ。凄い美味しそう。いいなあ。あ、そのお皿取って。それ。ありがとう」
亮助から盛り付け用の中皿を受け取った瞬間、電話の呼び出し音が鳴った。
タオルで手を拭き、鍋の火を弱めると、壁に掛かっている受話器を取った。
やはり母親からだった。
今日は少し早く帰れるかも、と朝に話をしたが、残業で逆に遅くなってしまいそう。との、お詫びの電話だった。
「やだなあもう、そんなことで謝んないでよ。でもさぁ、そう毎日遅いと、お母さんの体が心配だよ。本当に無茶はしないでよね。体壊すくらいなら、仕事をもっと減らしなよ。それでお金に困るのなら、前からいってるけど、あたし学校やめて働いたっていいんだから。……うん。分かった。それじゃ」
花香は受話器を置くと、小さくため息をついた。
なんのため息なのかは、自分でもよく分かっていなかった。
6
「ここで、こう蹴って。いや、ここで、こうかな。……ああもう! 足がもつれる! あたしほんと最悪う!」
友原鈴、チリチリの天然パーマが印象的な女の子だ。
佐原南高校の制服姿である。
学校帰りの公園で、今日の部活練習でサジ先輩に教えてもらったことを練習しているところだ。
ドリブルや、フェイントで相手をかわす方法などについて。
しっかりイメージして取り組もうとすればするほど、なんだかたどたどしい足の動きになってしまう。
技術のない自分と、思うように蹴られてくれないボールとに、イライラしてくる。
イメージ通りに身体が動かないのは昔から。なにをやるにおいてもだ。
でも心の奥では、漠然とした自信のようなものがあり、思うようにならなければならないほど、自分がダメなのではなくて、この競技に向いてないんだ、と思ってしまう。
本当は自分に自信がないだけなのに、それを認めたくないのだ。
鈴は、いま現在も決してそうは認めていないが、しかし心の根底では、理解している。
フットサル部ならば、まだまだこのようなマイナーな競技、幼少よりずっとやってきた者など少ないだろうから、自分だって充分にやれるはずだ。
そう思い、高校に入ると同時に入部してみたわけであるが、その僅かに残っていた希望のような自信は、同期に生山里子という者がいたことにより、根底からぐらつくことになった。
生山里子は、サッカーもフットサルも未経験だというのに、入部してから様々な技術をあっという間に習得して、現在では一年生の誰よりも上手なのだから。
だからこそ意地になって、こうして秘密特訓をしているわけであるが……
「もう、ほんっとうまくいかないなあ。サジ先輩は自分がもの凄い上手だからって、同じ感覚で凡人に教えてられても困るんだよね」
結局、ただイライラしたというだけで、なんの満足も納得も得られぬまま、日も暮れて帰宅することになるのだった。
7
友原鈴の自宅はJR佐原駅の北側、広い住宅街にあるごく普通の木造二階建てだ。
近所には、同じ部活に所属している九頭葉月の自宅があり、時折ばったりと出くわすことがある。
玄関のドアを開けた。
「ただいま」
奥からの返事はない。
母親は専業主婦で家にいることが多いのだが、たぶん買い物にでも出ているのだろう。
鈴は階段を上り、二階にある自室へと向かった。
六畳間の和室である。
フローリングカーペットを敷いて、洋風調にしてある。
簡素ながらもおしゃれな装飾のついたベッドに、ピンクのカーテン、ぬいぐるみ、女の子らしいのはそれくらいだ。
床にはいろいろなスポーツの道具が散乱している。テニスラケットやバスケットボールなど特定スポーツの道具、リストウエイトやダンベル、バランスボールなどの筋トレ道具。一人練習用の紐付きテニスボールに、ドリブル練習用のカラーコーン。
押し入れの襖が開いており、その中にも様々な競技の用具が混沌とひしめきあって、いまにも崩れてきそうである。
すべてこれまでに体験してきたスポーツの道具と、その競技に必要な肉体を作るために購入したトレーニング器具だ。
中一 テニス部。
中二 バレーボール部。
中三 バスケットボール部。
また、中一の二学期から中二の三学期にかけて、町のソフトボールチームに週一で参加。
さらにさかのぼって小学生の頃は、卓球、ハンドボール、サッカー。
これまでに鈴が経験してきたスポーツだ。
球技自体はやるのも見るのも好きで、なにかを極めたいという思いは人一倍強い。
しかしその思いが強ければ強いほど、上手くいかない焦りが出てしまい、中途半端な自尊心とが相まって、結局、辞めてしまう。
現在同じ部に所属している生山里子も、ころころ部活を変えるタイプらしいが、聞くところでは彼女の場合は「制覇した」という達成感を持って辞めていくらしいではないか。
自分はどうかといえば、いくら言葉を装飾してごまかそうとしても胸の奥に残るなんともいえない敗北感をかかえたまま辞めていく。
挫折感を味わうのが嫌なものから、「向いてなかったからやめた」「先輩が意地悪だったからやめた」、と心の中で言い訳ばかりしてしまう。むなしいばかりと分かっているけど、だからといってどうしようもない。
筋トレさえしておけばどんな競技にも役立つから、とりあえず筋トレだけは真面目にやっている。
今日もこれからやる予定だけど、でもその前に、学校の宿題を片付けてしまおう。
と、制服を脱ぎスウェットに着替えると、学習机に向かった。
教科書とノートを広げ、シャープペンを手に取ったはいいが、なんだか頭がぼーっとして、ぜんぜん宿題に手がつかない。
「……骨盤が安定してないからかなあ」
なにをやってもダメなのは。
机の本棚から、ヨガや骨盤体操ダイエットなどを特集している雑誌を取って、ぱらぱらとめくりはじめた。
本棚には学校で使う教科書と、最低限の参考書、あとはいままでやってきたスポーツ関連の指導書と、健康関連の書物、自己啓発本、などが並んでいる。
雑誌を手にぼーっとしている鈴であったが、ふと気がつくと時間ばかりが経過して、いつの間にか母親が帰ってきており、夕飯の時間になっていた。
「面倒だ。今日は宿題やんない!」
授業中の答え合わせ時に、自分がさされそうな問題が分かったら、隣の席のイモッチにノート見せてもらえばいいや。
よし、ご飯食べて、筋トレだ。
8
「ほらハナ坊、へらへらしてんじゃないの。葉月を見習え」
また梶尾花香に、王子先輩こと山野裕子部長の雷が落ちた。
放課後の体育館、フットサル部の練習風景である。
「へらへらなんてしてません!」
梶尾花香はのん気な性格ではあるが、真面目にやっているのに不真面目と取られては面白くない。
これまでは自分にも非があるのかなと思って黙っていたけど、いい加減うるさくて、つい反撃してしまった。ちょっと里子の性格が移ったかな。
「じゃ、やる気が見えないからそう思えるんだよ。真面目にやってんなら真面目にやってますよってアピールしないと、損だろ」
なにいってんだか、まったく。
でも確かに、王子先輩のいうことも一理あるな。
勉強不真面目で部活に遅刻ばかりしている先輩がいっていても、説得力は皆無だけど。
わたし、ついニコニコしちゃうタイプだからな。出来るかな、真面目アピール。
真面目、といえば……
花香はちらりと、九頭葉月の方へと視線を向けた。
葉月はただ、暗いだけなんだよ。
でも、練習は人一倍真面目に取り組んでいるよな。確かにその点だけは認める。
塾にはいってないっていってたけど、成績だって良いし。きっと遅くまで勉強してんだろうな。……確かに、その点だけは認める。
なにごとにも、黙々とひたすら頑張るよな。確かに、その点は……
って、結局全部認めてんじゃん。
里子だけじゃなく、葉月にも完敗かあ。
ま、別にいいけどさ。
先輩たち、なにかにつけて手本にするもんな、葉月のこと。実際、偉いと思うよ、葉月は。わたしも、少しは見習わないとなあ。
9
などと複雑な、ちょっぴり屈折した感情から褒められていることなど、つゆにも気づいていない九頭葉月であるが、もしも花香の胸中を知ったとしても、「暗い」以外は全否定していたことだろう。
確かに「真面目」「勉強している」は、葉月自身も認めてはいる。
しかしそれはただ単に、自分への自信のなさから来るものなのだ。
余裕のなさから来るものなのだ。
そういう意味では、真面目でもなんでもない。気弱なだけ。
「黙々と」というのも間違いない。でもそれは、声を出すのが苦手だから。人と会話するのが苦手だから。ただそれだけだ。
決まったことを喋るだけでも緊張するというのに、考えながら喋らなければならないとなると、つっかえつっかえで自分でもなにをいっているのか分からなくなってしまう。だからあまり人と話しをしたくない。
会話に限らずコミュニケーション全般はとにかく苦手であり、だから一人でいる方が好きだ。
二律背反かも知れないけれど、フットサルは面白いと思っている。コミュニケーション必須の集団球技だけど、それはそれとして。
意外と向いているのか、ちょっとづつではあるけれどもやった分だけ前に進めている実感があるし。
頂点を目指すなんて、もちろん無理だろうけど、とにかくそうしてフットサルで得たことが、いろんなことへの自信に繋がればいいなと思っている。
だから頑張って練習しているのだ。
と、そのような思いから来る態度が、結局のところ周囲からは前向きだと思われるようで、よく先輩たちから「前向きなサジ」とからかわれる。入部したばかりの頃は、なにをいわれているのかさっぱり理解出来なかったけど、いまはよく分かる。
確かに、自分と佐治ケ江先輩とは共通点が幾つもある。
喋らないし。
笑わないし。
前向きか後ろ向きかは、知らないけど。似ていると思われても、不思議ではない。
わたしとサジ先輩との、傍から分かる決定的な違いは、フットサルの技術だ。
サジ先輩は、もう本当に凄い。
プレーの一つ一つが、新米の自分にとっては神業にしか見えない。
見ているだけで、時間がたつのを忘れてしまう。
絶対に真似出来るはずない。
そりゃあ経験が違うんだから仕方ないけど、そういうことではなく、きっと生まれついての能力がすでに違うんだ。
自分も毎日練習しているから、シュート、パス、リフティング、ドリブル、最低限は出来るようになってきたとは思うけど、いざ実戦となると畏縮してしまってまったく練習の成果を発揮出来ない。
まあ、わたしはわたしで頑張るだけだ。
でも、ひっそり練習させて欲しい。せめて自信がつくまでは。
先輩たちがなにかにつけて「葉月を見習え」なんていってくるのだけど、それってバカにされているみたいで嫌だな。「あいつは無能だけど態度だけは優秀だから」っていわれているようでさ。だって裏を返せば、態度が悪かったらなんにもないということじゃないか。
じゃあ、どうすればいいのか。決まっている。もっともっと、練習するしかない。頑張るしかない。
でもそうするとまた、黙々練習してて真面目だ、前向きだ、見習え、ってなるんだろうな。もう人をからかうのも、いい加減にして欲しいよ。
無口だから真面目だろうなんて、思い込みもはなはだしい。わたし、喋るのが苦手で、気が弱いだけなんだから。
そういや、無口といえば茂美先輩も、とてつもない無口だよな。あまりに喋らなすぎて、どんな声してるのかまったく覚えてないもの。
でも、わたしなんかと違って、全然おどおどしてなくて、寡黙なところがむしろ堂々と自信を持ってるようにも見えて、かっこいいなあ。
って、他人ばかりが、よく見えてしまうけど、
……結局わたしは、どうなりたいんだろう。
明るくハキハキした性格にでもなれれば満足なのか。
それとも、強くなりたいのか。
単に、楽に、自由になりたいのか。
先輩たちは、性格こそいろいろだけど、みんな自信をもっていて、楽しく生きているように見えるけど……悩み、あるんだろうか。いろんな悩み、辛いこと、乗り越えてきて、いまこうしているのだろうか。
「痛っ!」
バチッという音とともに、視界が塞がった。
右頬の、引っ叩かれるような痛みに、葉月は顔を歪めた。
ぼすん、と足元にボールが落ち、転がった。
「ごめん葉月、大丈夫?」
友原鈴が、心配そうな表情で覗き込むように見つめている。
そうだ、いま鈴とペアになってキックの練習をしていたのだった。
すっかりぼーっとしてしまっていた。
「あ、あ、だ、だいじょうぶ」
飲み込んでしまって、「うぶ」のところまでは多分発音出来ていないと思う。
「もう、葉月ったらぼーっとしてんだもん」
「ごめん」
「ほら、葉月の番。いくよ」
鈴はボールを持った両手を胸の高さに上げると、葉月へと放り投げた。
葉月は鈴の胸を目掛けて蹴り返すと、少し横にステップ。
戻ってきたボールをキャッチした鈴は、また葉月へと投げる。
葉月は反対の足で蹴り返すと、先ほどと反対方向へとステップを踏む。
鈴が受け、投げる。
浮き球を処理するための、練習メニューだ。
「葉月、すごい上手くなったじゃん」
部長の山野裕子が、すぐ後ろに立っていた。
「あ、ありがとうございます」
いつから見られていたのか、恥ずかしさに葉月は顔を赤らめた。
「もっと上級者になれる練習方法を教えてやろうか」
「……どんなのですか?」
気持ちを外に出すまいと思っても、どうしても疑心暗鬼の表情になってしまう葉月であった。
この先輩だ。こんなこといわれてこんな顔になってしまうのは、自分だけではないだろう。
「よし、鈴、投げてみな」
「はい」
友原鈴は、裕子へとボールを投げた。
「北海道! ナハッ!」
裕子は両肘を曲げた万歳をしながら、ボールを蹴り返した。
「埼玉県! ナハッ!」
また蹴り返した。
「千葉県! ナハナハッ! って、こんな感じ。集中力つくぜ。県の名前覚えるし。じゃ、やってみな。鈴、よろしく」
「え、えっ」
慌てる葉月。そんな恥ずかしいこと、急にいわれても。
「それじゃいくよ」
鈴は、葉月へとボールを投げる。
「おきなわ……」
ボールは、葉月の膝小僧にあたり、床に落ち、転がった。
「なんで蹴らないんだよ! それとちゃんと両手を上げて、ナハナハナハッって、これがキモなんだから!」
「そ、そんなこと、いわれても……」
なんだよ、キモって。
真っ赤になった顔を下に向けて、黙ってしまう葉月。
「王子先輩、遊んでないで真面目にやってください!」
通りかかった梶尾花香が、ピシャリと雷を落とした。
「ごめんなさ~い」
と小さくなってしまった裕子の姿に、花香はにっこり笑みを浮かべ、去っていった。
先ほど、へらへらするなとか、していないとか、もめていたから、きっとそのお返しをしたのだろう。
葉月は、ほっと安堵のため息。
なんとか先輩の無理難題から逃れることが出来たけど、ハナが通らなかったらどうなっていたことか。
みんなの前でいまみたいなことやらされたら、わたし、もう生きていけないよ。
10
午後六時半である。
九月も下旬であり、暦のうえでは完全に秋ではあるが、照り付けてくる太陽の日差しはまだまだ強烈であった。
「暑さ寒さもなんとやらっていうけどさあ、本当にあと数日で涼しい季節がやってくんのかよ。くそあちー」
山野裕子は、制服のベストでぱたぱたと自らをあおいだ。
佐治ケ江優は、その隣を歩いている。
木々に囲まれた、薄暗い道路。学校からの、帰り道である。
二人とも、グレーのスカートとベスト、白のブラウス、胸元には赤いリボン。佐原南高校の、女子の夏制服だ。
それぞれ、大きなスポーツバッグを背負い、手には手提げカバンをぶらさげている。
平日は部活練習があるため、早くても帰宅はこのくらいの時間になってしまうのだ。遅いと、学校を出るのが七時半を過ぎることもある。
二人が歩いている、この鬱蒼とした道路は、通学路である県道だ。高台をひたすら降りて、麓の佐原駅を目指しているところだ。
今年から増便された、駅と学校とを結ぶ市営バスだが、この時間帯は相変わらずの一時間一本ペース。だからタイミングよく乗れるときもあるし、あまりに待つなら歩いてしまうこともある。今日は後者で、ちょうどタッチの差でバスに逃げられてしまい、徒歩下山というわけである。
匝瑳|方面への抜け道に使われるため交通量こそ多いが、のどかな眺めの県道だ。
絶景とまではいえないが、木々の隙間からは山の下に広がった風景が見渡せ、気持ちの良い眺めである。
二人は、他愛のない会話をしながら歩いている。
会話といっても、ほとんど一方的に山野裕子が喋っているだけであるが。佐治ケ江は専ら頷き担当で、あとは聞かれたことに答えるくらい、自分から話題を振るようなことはほとんどない。
本当に口数の少ない佐治ケ江であるが、去年と比べて相槌打つようになってきた分だけマシというものであろうか。
歩き続け、ようやく山の麓へと辿り着いた。
正確には山というより単なる高台であるが、勾配がジグザグにいつまでも続くため、佐原南高校の生徒たちはこの一帯を山と称している。従って学校までの行きは登山、帰りは下山なのである。
麓まで下ると、単なる片田舎の山奥といった町並みが、がらりと変化した。
別に都会になったわけではないが、時代劇のセットと見まごうような、古臭い造りの建物ばかりになった。
ここ佐原は、小江戸などとも呼ばれる観光地なのである。
歩いている間に、すでに時刻は七時。太陽はほぼ沈んでしまっていた。
薄暗い小江戸を歩いていく二人。途中、九頭和菓子と書かれた看板の、店の前を通る。
後輩部員である九頭葉月の親が営んでいる店である。
「こんばんは~」
入り口のガラス戸が開いており、カウンターの向こうに葉月のお父さんが座っているのが見えたので、裕子は声をかけた。
「お、裕子ちゃん。こんばんは。葉月頑張ってる?」
寂しい頭髪を人差し指で撫でていた葉月のお父さんは、裕子たちに気が付くと、立ち上がり、カウンターに身を乗り出した。
「うん。頑張ってるよ~。じゃあね。今度お菓子買いにくるね」
裕子たちは、そのまま店の前を歩き続ける。
「買うなんて水臭い。今度学校に持ってくよ!」
背後から、お父さんの大きな声。
「葉月が困るから、やめたほうがいいって」
裕子はくるり後ろを振り返り、負けないくらいに大きな声を出した。
「面白いおじさんだよね」
くるりもう半回転し、元に戻る。
「ほうじゃねえ」
佐治ケ江は頷いた。
すっかり日の暮れた小江戸を、二人は歩き続ける。
平日の夜であるため、観光客と思われる人の姿はほとんど見られない。
「ねえ、サジ、なんかさあ、あたしの気のせいかも知れないけど、こういう遅い時間になると、観光客の外国人割合がぐんと上がるような気がしない?」
「日帰りでなく、近くのホテルに泊まるからかな」
「そういうことかああああ! 痒い背中を掻いてもらったあああああ!」
「王子、ちょっと、迷惑……」
通行人がびっくりしているのを見て、佐治ケ江は恥ずかしさに顔を赤らめた。
正面から、若い女性が歩いてきた。ここは渋谷原宿かと思わせるくらいに派手な服装だ。巨大なサングラスを、額にかけている。
「お、あの姉ちゃんすげーボディ。腰くびれてっし、おっぱいでっけー!」
人目はばからない大声と、その内容とに、佐治ケ江はさらにさらに顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
「あたしもサジもぺったん胸だからさあ、うらやましいよねえ。ああいうダイナマイトなのはさあ」
そういうと裕子は、わははと笑った。
「ああ、あたしはっ、別に、どうでもいい」
「またまたぁ。そうだ、セカンドキッチン寄ってこうよ。腹減った」
「いきなりいわれても。買い物があるけえ」
佐治ケ江優は広島県出身である。目立つのも嫌だから、とこちらでは地元の言葉を使わないよう注意しているが、油断しているとつい出てしまうとのことである。
「スーパーカトリでしょ、付き合ってあげるよ。だからちょっとだけ、電車一本遅らせてさ。おごってあげるから」
今度来る電車が約十五分後なので、一本遅らせれば四十分以上の時間が作れることになる。なにせJR成田線は、早くとも三十分に一本しか電車がこないからのだから。
「それじゃ寄ってこうか。お金は自分で出すよ」
セカンドキッチンというのは、弱小ながら全国展開しているファーストフードのチェーン店だ。
佐原駅すぐそばにファーストフード店はここしかないため、この駅を利用する中高生たちに重宝されている。
裕子としてはモスバーガーがあると嬉しいのだが、贅沢はいっていられない。千葉県に三店舗しかないというセカンドキッチンの、一店舗がこのような片田舎にあるというだけでも奇跡なのだから。
11
セカンドキッチンの店内は、中高生で賑わっている。
テーブルが一つしか空いていなかったため、裕子が場所取り、佐治ケ江が注文、と役割を分担だ。
裕子が座席について、人間観察などしながら待っていると、しばらくして佐治ケ江がトレイを持ってテーブルへとやってきた。
裕子の注文分はハバネロダブルバーガーと、ピリ辛甘ダレチキンバーガー、コールスローサラダ、アップルパイ、クリームチーズシェーキ。佐治ケ江は、アップルパイと烏龍茶だ。
佐治ケ江はテーブルに運んで来たトレイを置くと、席に着いた。
「ありがと。サジ、てきぱき注文出来るようになったじゃん」
「まだまだドキドキするよ」
二人がはじめて一緒にこの店に入ったのは半年前。その時の佐治ケ江は緊張してしまって言葉がつっかえつっかえ、しかもとにかく声が小さいものだから、なかなか店員に注文を理解してもらえず、裕子の助けでなんとか注文することが出来たのだ。
「よくそんなんでもつねえ」
裕子は佐治ケ江の、アップルパイと烏龍茶しかないトレイに視線を向けた。
「家に帰ってから、おばあちゃんとお母さんと食べるから」
「あたしだって帰ったら食うけど、それまで腹減んじゃん。帰り道に食べる予定のパン、買うの忘れてちゃってさあ」
「そういう時くらい、我慢すればいいのに」
「そういやサジって、おばあちゃんとお母さんと、女三人で暮らしてんだっけ」
「お父さんだけ仕事で広島に残っているから。でもあと、おじさん夫婦も一緒に住んでいるよ。だから、五人」
佐治ケ江優は三年前まで、広島に住んでいた。
小学生の頃からいじめを受けるようになり、中学に入ってもいじめはおさまらず、むしろエスカレートし、それが原因で中二の時に祖母のいる千葉へと越してきたのだ。
「関サル、対戦相手はやく決まんないかな」
クリームチーズシェーキを、裕子はストローで吸った。
ちょうど一年前に期間限定で販売されたことのあるシェーキで、一年ぶりに復活したものである。
「予定では来週発表だっけ?」
「そう。去年はもうとっくに決まってたはずだけど、今年は遅いんだよね。茂原藤ケ谷を、どこと当てるかで揉めてんじゃないの?」
裕子はそういうと、ガハハと下品に笑った。
関サルというのは、関東高校生フットサル大会の略称で、ここ数年、注目を集めている大会である。
去年の千葉県地区予選で、佐原南の初戦の相手が、その茂原藤ケ谷商業高等学校だったのだ。体格にものをいわせた、荒っぽいプレーで有名な高校である。
「試合日程が早く決まった方が、モツベーションにも繋がるのになあ」
「モチベーション」
「そうそう、頭いいね君ィ」
裕子は、クリームチーズシェーキの残りを一気に吸い込んだ。凄い吸引力で、裕子の頬がべこんとへこんだ瞬間、容器がくしゃっと潰れた。
「一年生で、誰が戦力になりそうかなんだけど、サジどう思う」
「どう思うと聞かれても……みんなよく頑張ってるから、誰がどうとかはいえない」
「サジ、それ優しいんじゃなくて気が弱いだけだぞ。誰かを持ち上げたからって、誰かを落とすことになんかならないって」
「そんなこといわれても」
「じゃあさ、サジから見たあいつらのいいところあげてみてよ」
「ハナはちょこちょこ動き回れるタイプ。久樹先輩と似たとこがあるかな。葉月は、全体的に無難にこなしそうだし、あと意外と視野が広い。鈴は、あたしなんか語る資格ないくらい体力がある。王子には負けるけど。どちらかといえば、守備に向いているのかな。里子は、足元の技術はとても優れている。でも、周囲が見えなくなるところがあるかな。もうちょっとコツを覚えれば、一対一は格段によくなる。でも周りを使うことを覚えないと、対応されちゃうね。咲はゴレイロだから、あたしにはよく分からない」
「うーん。それ聞くと、誰か選べなくなってくるな」
「だからいったでしょ。結局決めるのは王子と晶だよ。部長と副部長なんだから」
「晶にも聞いてみるかぁ。あのジャガイモ顔、嫌味ばっかりいってくるけど仕方ない。……って、やばい! 時間!」
店内の時計をちらり見た裕子は、驚き飛び上がる。
大声にびくり肩を震わせた佐治ケ江も、時刻を見るや慌てて立ち上がり、トレイを置き場に持っていき、分別をはじめた。
「置いときゃ店員がやってくれるよ!」
一秒でも早く店を出たい裕子であるが、佐治ケ江が持ち前の生真面目さから聞く耳を持たないので、仕方なく作業を手伝う。
「よし終わった。いこうぜ!」
二人はスポーツバッグと鞄を持つと、外へと飛び出した。
駅に向かって、走る、走る。
たかが数十メートルほどの距離なのに、もうぜいはあバテはじめる佐治ケ江。
角を曲がると、瓦屋根の駅舎が見えた。
すでに電車がとまっており、いま、発車ベルが鳴り始めた。
二人は、定期券をかざして改札を抜けた。
いや、裕子だけ、自動改札機がICカードをうまく認識出来なかったようで、フラップドアが閉じてしまった。一年前ならば有人改札なので、すんなり通れたのだろうが。
「うぉぉ、イライラするー!」
かざし直すと、今度はドアが開いた。
一足先に、佐治ケ江が電車に乗り込んだ。
続いて、裕子が雄叫びを上げながら飛び込んだ。
電車の扉が、閉じた。
「ロスタイム、奇跡の逆転ゴォォーーーーール!」
裕子は両膝を付いて、両腕を突き上げた。
ばらばらと乗っている他の乗客たちが、何事かとびっくりしている。
「王子……みっともないし、迷惑だから、やめようよ」
街並みが物凄い速度で後ろへと流れ、消えてゆく。
反対に、JR香取駅の駅舎がどんどんと近付いて大きくなってくる。
神社のような、奇抜な形の駅舎だ。
「寝坊したあ。遅刻するう!」
この流れゆく風景というものに、もしも意識というものがあったならば、あまりに毎度毎度のこの言葉に、さすがに辟易せずにはいられなかっただろう。
声の主は、ようやく駅へと辿り着いた。改札の向こうには、すでに電車が到着しており、扉を開けている。
発車ベルが鳴り始めた。
去年からやっと導入されたICカード自動改札に、定期券を叩き付けるようにかざすが正しく認識されず、フラップドアが開かない。慌ててもう一度かざし直すと、ようやく開いた。
制服のスカートなびかせてダッシュ。改札を抜け、青とクリームのツートンカラーの成田線車両へとまっしぐら。
発車ベルが鳴り終え、扉が閉まり始めた。
ちょっと待てやこの野郎。お前にいかれちまったら、次に来るのは三十分後なんだぞ。
などと、心で叫ぼうが声に出そうが結果が変わるはずもなく、電車の扉は遅刻常習者に情けをかけることなく閉じてしまった。
いや、これは奇跡なのか、完全に閉じ切る寸前に扉はピタリ止まり、そして、開いたのである。
よく見ると、ドアの隙間から黒い皮カバンが突き出ている。中にいる誰かがカバンを挟んで、閉まりかけたドアを開いたのだ
山野裕子は雄叫びをあげながら車両内へと、文字通りに転がり込んだ。
自宅から駅までの全力疾走に力尽きて、床の上に俯せで大の字になった。
扉が閉まった。
「王子、電車で叫んだり寝転がったり、はしたないよ。それに迷惑だし」
寝転ぶ裕子の傍らに、裕子と同じ学校の制服を着た女生徒が立っている。
足元しか見えないが、首を上げて誰だか確かめるまでもない。
「サジ、ナイスアシスト」
裕子は寝転がったまま親指を立てた。
クラスメートである佐治ケ江優が、自分のカバンを挟んで電車の扉を開けてくれたのだ。
電車がゆっくりと動き始めた。
しばらくすると、裕子は床に手を付き、立ち上がった。
ベストもスカートも埃だらけだが、本人はまったく気にしていない。仕方ないなといった表情で、佐治ケ江がはたいて落としてやっている。
「いや、今日は寝坊しちゃって、まいった」
「毎日寝坊してるくせに」
裕子と佐治ケ江は、部活が一緒であるため一年生の頃から知った仲ではあったが、口をきく機会は最低限しかなかった。
二年生になり同じクラスになったことから、話す回数が増え、同じ駅を使っていることが分かり、一緒に下校するようになり、と、どんどん親しくなっていったのだ。
登校はほとんど別々であるが。まあ、それは当然だろう。
佐治ケ江からすれば、毎日裕子になど合わせていたら、自分まで遅刻の常習者になってしまう。
2
車窓の向こうには、広がる田園風景がゆっくりと流れている。
JR成田線は、三十分に一本という少なさであるが、乗ってしまえば五分で目的駅に到着だ。
車内アナウンスが流れると、後ろへ流れる景色の速度が落ちて、電車は佐原駅に止まった。
二人は改札を通りて瓦屋根の駅舎を出ると、小さなロータリーで待機している市営バスに乗り込んだ。
バスは本年度より通勤通学時間帯の増便が行われたため、以前のような殺人的な混雑こそはないが、さすがに人が死ぬことはないだろうという程度で、密集具合は依然として凄まじかった。
なお、ここ佐原は一応の観光地である。
しかしそうなるには季節を選び、普段はかなり落ち着き枯れた雰囲気の、簡素な街である。
いまバスに乗っているのはほとんどが彼女らと同じ、千葉県立佐原南高等学校の生徒たちだ。
先日部活を引退した浜虫久樹先輩は、鍛錬のためにと入学時よりバスに頼らず駅から徒歩であったが、車内混雑が緩和されようとも、部活を引退しようとも、その習慣は続けているらしい。
裕子は素直に感心するものの、真似するつもりはまったくない。
ただでさえ朝は寝足りなくて辛いというのに、もっと早起きすることになどなったら間違いなく授業中に寝てしまうだろうからだ。
まあ、いまでも毎日間違いなく授業中によく寝ているのではあるが。
「おはようございます。王子先輩、サジ先輩」
ぎゅうぎゅう混雑を一山越えたところに、かろうじて見える梶尾花香の顔。その隣には、生山里子がいつも通りの仏頂面を浮かべている。
「ハナ、里子、うおっす!」
裕子は、ところ考えず大声を出すので、間にいる男子生徒が露骨に迷惑そうな表情だ。
花香と里子、二人とも山野裕子らと同じ佐原南高校で、同じ部活に所属する後輩である。
なお、王子というのは山野裕子のあだ名である。
彼女は顔立ちこそ整っているものの、いつも刈り込んだような非常に短い髪型で、女子というよりは美少年に見えるということから、先日引退した浜虫久樹が付けた名である。
裕子自身はこの短髪を、女らしい短髪だと思っているので、その通称は面白くない。
面白くはないけれど、誰もがそう呼ぶものだから、もう慣れてしまったが。
中学の頃などは、あだ名が「兄貴」だったから、それに比べれば遥かにマシというものだ。
後輩の梶尾花香は、無邪気な表情を浮かべながら、人混みを掻き分け裕子たちの方へとやって来た。
遅れて生山里子も。
混雑で、胸から下がどうなっているのかさっぱり見えないが、おそらく里子は、花香に強引に手を引っぱられているのだろう。
でなければ裕子の方に自ら近づくわけがない。
普段の態度から誰しも知るところであるが、里子は、王子先輩のことがあまり好きではないからだ。
花香と里子、まったく正反対の性格ながら、非常に仲が良い。
裕子と佐治ケ江も他人から同じようなことをよくいわれるが、この二人はその非ではない。
花香は小柄で、とてもお喋りで、なんだか子供のような感じ。
特に話題がなくても無理矢理になにかを話そうと、とりあえず口を開いてみるものだから、すぐに会話がおかしな方向にいってしまったり、日本語が無茶苦茶になったりする。考えてから話せと、周囲からよくいわれている。
里子は無口というわけではないが、お喋りでもない。いつまでも沈黙していることもあるし、口を開いたと思えばキツイ言葉を平然と吐く。だから、周囲にあまり人は近寄らない。体つきにしても、すらりとしながらもしっかりと筋肉がついており、大人びた印象を、見るものに与える。
さて、佐原駅を出発したバスであるが、江戸情緒の漂う古い町並みを抜け、坂を上り、さらに揺られること約十分、ようやく彼女たちの目的地である停留所へと到着した。
県立佐原南高校前。
乗客のほとんどがこの高校の生徒であり、みなぞろぞろとバスを降りていく。
すっかり軽くなったバスは、心なしか若干軽妙なエンジン音を奏でて走り去っていった。
裕子たち四人は、校門を目指してフェンス沿いの道を歩き始める。
道路の片端で、裕子と花香が楽しげにお喋りしながら歩いているので、必然的に佐治ケ江と里子の組み合わせになるが、こちらはやはりというべきかいつまでも無言のままだ。
片やぶすっとむくれたように、片やおどおどうつむいて。
別に、無口な者同士だからといって仲がいいというわけではないのである。
無口、といっても、彼女らの所属する部には、度を超越した無口が一人いるため、それと比べたら佐治ケ江も里子も無口どころかよく喋るほうになってしまうのだが。
「なんかさー、千葉県の道路って、やたらとマックスコーヒーが落ちてない? よく見るんだよね」
裕子は、道路脇に落ちている黄色いコーヒー缶に目をやった。
ちなみにマックスコーヒーとは、千葉県や茨城県で多く売られている練乳入りのやたら甘い缶コーヒーのことだ。
「そうなんですか」
「花香、見たことない? あたしがたまたま見ちゃうだけかも知れないけど。よく売れてるから捨てられてるのをよく見るのか、それともマックスコーヒー飲む奴は捨てちゃう奴が多いのか」
「うーん。犯人、フサエ先輩だったりして」
夏木フサエ、裕子たちのいる部を引退したばかりの三年生だ。彼女はマックスコーヒーが大好きで、中年サラリーマンにとってのビールのようなもので毎日のように飲んでいたものである。
「いや、世間の印象悪くなるとかいって、落ちてるマックスコーヒー缶を見ると拾ってたくらいだから、それはない」
などと裕子と花香がどうでもいい会話をしている間に、四人は学校の校門へと辿り着いた。
赤いジャージを着た中年男性教師が、頭髪や服装の乱れを見つけては注意している。
少なくとも山野裕子が頭髪で引っ掛かることはないだろう。遅刻しそうになって、閉じた校門を乗り越えようとして怒られるのはしょっちゅうのことだが。
「じゃ、先輩、部活でまた会いましょう」
花香は裕子たちに手を振り、もう片方の手で里子の手を引っ張り、一年生たちの流れに乗って消えていった。
裕子は手を振り返しながら、
「なんで仲がいいのかさっぱり分かんねーな、あの二人」
などとぶつぶつ呟いている。
裕子と佐治ケ江も周囲からは同じように思われているのだが。
今日も長いような短いような、いつも通りの学校生活が始まる。
時間の過ごしかたはそれぞれ。
佐治ケ江は勉強、
裕子は居眠りしたり廊下に立ったり、というより立たされたり。
いつもの通りに時は流れて、そして放課後になった。
3
武田晶は、佐原南高校女子フットサル部の副部長である。
今日は、というか、今日もというか、部長がまだ来ていないので、代行で全体指揮をとっている。
といっても細かな技術的指導などは、佐治ケ江優や衣笠春奈に任せてしまっている。ゴレイロの自分が、あれこれ指図しない方が良いと思うからだ。
晶はFP(フィールドプレーヤー)の心得もあるが、だからといってそちらの領分まで指導してしまっては、他の二年生たちの顔を潰すことになってしまうから。……というのは建前で、実際はただ面倒なだけだ。
その副産物として、人見知りの佐治ケ江に指導力やコミュニケーション能力、社交性といったものが身について来ているのだし、なにも悪いことはないだろう。
佐治ケ江優は幼い頃、友達と遊ぶこともせず毎日一人でサッカーボールを蹴って練習していたという。
もともとの才能もあったのか、ボールを扱う技術力は相当に高い。
いつ日本代表召集の声が掛かっても不思議でないほどだ。
そんな技術力抜群の佐治ケ江であるが、上手にボールを蹴ることは出来ても、どうすれば上手にボールを扱えるのかを言葉にすることが出来なかった。
すべてセンスでやっていたから、というのもあるが、言葉にすることが出来ても気が小さくてまともに発言をすることが出来なかったというのが一番の理由であろうか。
そうした点が、晶が技術指導を任せたことにより、少しずつ改善されてきたのである。
だから晶は、全体指揮とゴレイロ練習に専念出来るのである。
そもそも冷静に考えれば、副部長が悩むところではないのだが。部長が部長のくせに遅刻ばかりしてまともに来ないものだから、仕方がない。
「ほら、声出して声!」
篠亜由美が、大声で叫んでいる。
能力が高からず低からず、秀でた能力もなく、一年生の時はどうにもぱっとしなかった彼女だが、そんな自分とうまく向き合えるようになり、後輩も出来て、最近若干の貫禄というものが出てきていた。
技術が高くないなりに、それをも含めた経験を生かすこと、それと場のムードを盛り上げること、それが自分の役割だと思って日々頑張っている彼女である。
そのすぐそばでボールを蹴っている真砂茂美は、篠亜由美の親友である。
茂美は、性格こそ非常に積極的行動的なのだが、口を動かすことに関してだけは消極的で、凄まじいまでの無口である。
フットサルの技術は、入部してから一年間真面目に練習しただけあって、その分、しっかり上達している。
守備の要であるベッキというポジションを担当しており、チームにかかせない存在になっている。
「しっかり声出してくれれば、もっと全体が安定するのになあ」
と、武田晶はことあるごとに呟いてしまう。
ゴレイロの自分が活躍して勝てればそれは嬉しいが、失点は悔しいし、なによりチームが勝つことが一番大事。なるべく前目でゲームが進行した方が、望ましいというものだ。
晶が、佐治ケ江とともに後輩の指導を任せているのが衣笠春奈である。
春奈は、父親の転勤により、ちょうど去年の今頃に静岡県の高校から佐原南へと転入、そしてフットサル部に入部した。
生来の身体の弱さと父親の過保護が原因で、それまで運動らしき運動をしたことがなかったのだが、本人のやる気と、前部長である木村梨乃の指導により技術力はかなり上達したし、なにより体つきがしっかりとしてきている。
入部してからずっと、人員不足によりFPとゴレイロを兼任させられていたのであるが、今年は途中からゴレイロに転向する者が出たため、現在の春奈は、当初の希望がようやくかなってFP専門である。
いま紹介した部員たちに、まだ来ていない部長様を加えたのが、二年生の全員だ。
続いて一年生も紹介しておこう。
生山里子、梶尾花香、九頭葉月、友原鈴、梨本咲、の五人である。
五人とも、佐原南で入部するまでフットサルもサッカーもやったことがないという、新米ばかりだ。
能力的に一番優れているのは生山里子で、これは誰しも疑う余地のないところ。本人ですら、そう豪語しているくらいだ。
素質そのものとしては優秀すぎるくらいで、体力があり運動神経が優れているというだけでなく、飲み込みが非常に早い。
一を聞いて十を知るというほど器用ではないが、七か八程度は学んでしまう。
ただし、とにかく気が強く、負けず嫌いで、上級生もその扱いには手を焼いている。
続いて、梶尾花香。
彼女は、里子の中学時代からの親友である。
里子がフットサル部に入ったのも、花香の誘いによるものだ。
親友であることと運動能力とはなんら関係はなく、素質に関しては並である。
しかし運動すること自体は大好きで、好きこそもののなんとやらで中学三年の時にはバスケットボール部のキャプテンを任されていた。
前々からサッカーに興味があったのだが、佐原南高校には男子にすらサッカー部がない状態で、でもフットサル部はあるということで、入部を決めたのである。
部活を変えたため、キャプテンになるほどの運動経験は半ばリセットされてしまったわけだが、毎日フットサルを楽しんで、マイペースで少しずつ力をつけてきている。
九頭葉月は、中学の時に運動部に入ってはいたものの、先天的な問題なのか体力はあまりない。持久走でも、一年生の中でいつもビリだ。
運動神経自体は、鈍くはないものの器用な方でもない。
ただし、現実的な目標設定を立てて堅実かつ黙々と努力していけるという素晴らしい才能を持っている。
非常に真面目で、寡黙で、前向きな性格。故にからかわれたりもするのであるが、なんだかんだと今年の一年生の中では一番の模範生だ。
友原鈴は、一番の不器用者。
小学生の頃から様々なスポーツを経験してきているため、基礎体力はそれなりにある。しかし、長所といえる点がそこしかない。
技の覚えが遅く、身体の動かしかたなども上手ではない。いや、正確に表現するならば「下手くそ」である。
本人にもその自覚は多分にあり、それがコンプレックスになっているとのことである。
自分に向いている競技がきっとあるはずだ、と、中学時代には所属する部活を一年毎に変えてきている。
梨本咲はゴレイロである。
生山里子と犬猿の中だ。ピヴォの里子となるべく遠いところにいたいため転向志願したとか、里子より足元が上手でないのが恥ずかしくて転向志願したとか、色々といわれている。
練習態度自体はまあ真面目ではあるが、難点は里子に匹敵するような扱いにくい性格か。
と、これで一年生と二年生、部員すべての紹介が終わった。
……いや、誰か一人、忘れられていないか。
まあとりあえず、このまま話を進めよう。
現在は、FPとゴレイロとで分かれて練習をしているところである。
FPは、ボールタッチの練習だ。
コーンの間を細かなドリブルで抜け、ボールを大きく蹴ってダッシュ、ターン、細かなドリブルで戻る。
単純であるものの、一年生にはそう綺麗に出来るものでもなく、個別に佐治ケ江の技術指導が入る。
彼女たちFP組の隣では、武田晶と梨本咲が、一緒にゴレイロの練習メニューをこなしている。
梨本咲は、晶が待ちに待っていたゴレイロ専門であるが、しかし、相当にひねくれた性格で、実に扱いにくい。
中学時代を知る者の話では、学校は皆勤賞で部活(ハンドボール部)も真面目に出ていたということなので、その点だけは心配してはいないが。
他人から奇人変人扱いされることが多い武田晶であるが、それは単に感情をあまり顔に出さないからそうからかわれやすいだけ。
対して梨本咲は、表情や言動から、あきらかに反骨心旺盛といった印象を見る者に与えるところがある。
晶からいわせれば、咲の方がよほど変人だ。
でも晶には、そういう咲のひねくれたところに、なんとも愛着を感じてしまったりもするのであるが。
ただし、咲としては晶のそうした気持ちが読み取れてしまうようで、面白くないようである。
だからといって、晶の意表を突くためだけに良い子ちゃんになるだなんて、それこそバカバカしくて、と、きっと葛藤の中で困ったちゃんを続けているのだろう。そうかどうか分からないけど、晶はそう思っている。
晶と咲、ゴレイロ組がいま行っている練習は、片方がボールを蹴り、相手はそれをキャッチするというものだ。
距離を離したり近付けたり、強弱をつけるなどして、単調にならないようにしている。
片方にとってはゴレイロとしてのキャッチング練習になるし、片方にとってはFPとして足元の技術を鍛える練習になる。ゴレイロには時としてFPのように攻め上がっていくことも求められるため、このような練習も必要なのである。
「咲、もうちょっと強く蹴っていいよ」
晶からすれば、この言葉のどこが気に入らなかったのか、というところであるが、とにかくその瞬間、咲の表情が変わった。もともとむくれたような表情であるため、わずかな変化ではあったが。
そして、ならばこれは取れるか、といわんばかりに力強く蹴ってきたのである。
「お、いいね」
晶は楽々とキャッチし、咲にボールを戻した。
バカにされているとでも感じたのだろうか。咲の表情が、より険しくなった。
再度、蹴る。
晶が戻す。
ボールを蹴る勢いが、だんだんとエスカレートしてく。
咲はかなり強めに蹴っているのだが、それでも晶はなんなく受け止めてしまう。
もちろん、大きくデタラメな方へと蹴れば晶だって取れるわけないが、そんなことをしたら自分の負けだ、と意地になっているかのように、咲はひたすらに晶の身体をめがけてボールを蹴り続けた。
あまりの勢いに、さすがの晶も取りそこねて、ボールは手を弾いて真上へと飛んだ。
指を強く打ってしまったようで、痛みに顔を歪めたが、それも一瞬、落ちてきたボールを見上げると両手でキャッチした。
「なんで、全然怒らないんですか?」
咲は、晶へと突っかかった。
ルール違反をしているのは自分の方なのだ、という自覚があるのか、視線を合わせようとしない。
「なんで、っていわれても……」
返答に困っていると、突然背後から大きな声が。
「遅くなってごめんちょー!」
短髪の、すらりとした女子生徒、山野裕子がニコニコ笑顔で小走りしてくる。
山野裕子は、佐原南高校女子フットサル部の部長なのである。
遅刻常習者の彼女が来たことにより、これでようやく部員全員が揃った。
「王子さあ、部長がそうちょくちょく遅刻してどうすんの?」
晶が、きつい表情を裕子へと向ける。なお王子とは、裕子のあだ名である。
「いや、補習でさぁ。文句あるならカマバロンにいってね」
苦しいいいわけをする裕子。
「普段勉強しない自分自身の頭に、文句いった方がいいよ」
「お前だってたいして賢くないくせに、優等生ぶってんじゃねえよ!」
「そうだけど、でも少なくとも補習なんか一回も受けたことないけどね」
二人のやりとりに、梨本咲は脱力してしまったのか、無言のまま体育館の外へと水を飲みに出でいってしまった。
4
「疲れたあ」
梶尾花香は、首を少し傾けて、ぐるぐると肩を回している。
「あんな程度の練習で、だらしないなあ」
隣を歩く生山里子の言葉だ。疲労が満面に浮かんでいる花香と違って、いたって元気そうである。
「あたしは里子と違って、普通の女の子なの」
JR成田線久住駅の改札を抜け、二人は狭い道路を歩き出す。
二人は、中学時代からの親友である。
フットサル部への入部も、花香が里子を誘ったのである。
彼女たち二人は、性格どころか価値観まで正反対なのであるが、しかしとても仲がいい。
仲良しがいるから部活は楽しいけれど、でも花香は、里子がいつまでもフットサル部にはいないと思っている。
何故ならば、中学生の時から毎年部活を変えているからだ。
同じフットサル部所属の友原鈴も、やはり毎年のように部活を変えていると聞いたが、しかし里子の場合はその理由が違う。あ、いや、鈴がどういう理由で転々としているのかは知らないけど、でも、まず間違いないところだろう。里子の、部活を変える理由が、ちょっと人には考えられないようなものだからだ。
里子は、あまりにも能力がありすぎるのだ。
一年ですべてを吸収し、すべての部員の中でナンバーワンになり、その競技を「クリア」して辞めていくのだ。
いくら運動神経抜群とはいえ、「新しい環境にチャレンジしたくなった」とでもいっておけば、まだ反感を買わずにすむところを、堂々と「クリアした」などというものだから、中学時代の里子は、評判最悪だった。
花香が、「もっとみんなと仲良くしなきゃ」と、どれだけ注意しても、見解の相違として、受け入れて貰えることはなかった。
高校生になったからといって、性格が変わるわけではない。
花香としては、今年からはじめたフットサルを結構気に入っており、今後も続けていきたいと思っているのだが、里子と一緒に活動出来るのが本年度だけであろうと思うと、少し寂しい気持ちになる。
せっかく、初めて同じ部活になれたというのに。
「あ、そうだ、忘れてた、晩の仕度、スーパー寄ってかないと」
花香は、腕時計の針を見た。十八時二十分。
「え、急がないと閉まっちゃうじゃん。あそこ確か、今年から時間が少し短くなって、七時くらいに店閉めちゃうでしょ」
「うん。だからこの時間がちょうどいいんだよ。値下げの時間も早くなったから」
「なんで? というか、スーパーって、時間によって安く売ったりすんの?」
「里子、本気でいってんの? 君、いい奥さんになれんよ。小学生だって知ってることだよ。普通スーパーってのは、生鮮ものの売れ残りを出さないために、閉店が近くなると値引くんだよ」
「へえ、なるほどね。ま、そういうこと無知でいいや、あたし。結婚なんか一生するつもりないし」
「あたしは早く結婚したいなあ。でも、いつまでも相手が現れない気もする。里子の方が、絶対に運命のいい相手が現れると思うけどな。あたしなんか、チビで、顔も個性なくて普通だし、勉強も運動も中途半端で、もうなんの取り柄もない」
「そんなふうにいわれると、なんて返せばいいか困るからやめてよ。運動のことだけなら、そうだねって軽く返せるけど。……でもさ、絶対に、あたしなんかより花香のほうが魅力的だって。あたしなんかもなにも、あたし誰からも嫌われる性格だしさ。花香、性格も優しいし、誰と比べたって素敵だよ、保証する」
「ありがと。里子が嘘つきにならないよう、頑張るよ。……あと、あんまり花香花香いわないでよ。部のみんなと同じように、ハナでいいから」
「分かったよ、ハナ。って、やっぱりなんか、しっくりこないなあ。中学のときからずっと、縮めず呼んでたのに」
「あたしは中学よりもずっと前から自分の名前が嫌いだったの!」
裸に発音が似ていて嫌いなのだ。
実際に、小学生の頃は男子からよくからかわれたし。
中学の部活では、苗字の梶尾からカジと呼ぶ者もいたが、いまのフットサル部にはすでにサジと呼ばれている佐治ケ江先輩がおり、そのためか入部早々から下の名で呼ばれ、そのうち略されてハナになった。
ハナも鼻に繋がりそうで納得はいかないけれど、贅沢をいったらキリがない。ハダカなどとからかわれるよりは、遥かにマシだ。
他人に説明しても嫌さ度合いの伝わらない、花香の悩みである。
5
久住駅から少し歩くと、田んぼの広がる景色へ一変する。
そんな眺めの中、農道を二十分ほども進んだところに、小さな住宅地が存在している。
一戸建てばかりであるが、一軒だけアパートがある。といっても、他の一戸建てとさほど変わらないくらい小さな、古い木造アパートであるが。
その木造アパートが、梶尾花香の住まいである。
建物の横にある階段を、花香は上っている。
金属製のすっかり老朽化した階段で、いつも上っていて恐怖を感じる。でも、自分の体重で大丈夫な間は、弟たちも安全だろう。弟たちのためなら、この身がなんだ。と時折強がってみるものの、やはり怖い。はやく階段を作り直してくれればいいのに。
花香は、両手にスーパーのビニール袋を下げている。
特売品をたっぷり買い込んだのだ。
「里子だって優しいじゃん」
ドアの前でいったん袋を足元に置いた花香は、鍵を取り出し開錠しながら独り言。
つい先ほどまで、生山里子と一緒にいたのであるが、里子は買い物に付き合ってくれただけでなく、いまさっき別れるまで、重たいビニール袋を一つ持っていてくれた。雑談の中で、花香の性格を優しいといっていたが、里子だって充分に優しいだろう。
あの異常なまでの負けず嫌いさえ直れば、本当に良い子なのになあ。多分、わたしたち二人がうまくいっているのって、わたしが最初から負けているからだな。そう、唯一わたしが里子に勝っているのは、負け方を知っているということなんだ。
そんなことを考えながら、ドアを開いた。
廊下に灯りはついておらず真っ暗であったが、突き当たりの部屋から隙間灯りが漏れている。
「ただいま~」
花香は両手に荷物を持ったまま、両足をもぞもぞと動かして靴を脱いだ。
「姉ちゃんだ!」
という幼い声とともに、襖の向こうがドタバタと慌ただしくなった。
がらり勢いよく襖が開くと、小さな子供たちが部屋から飛び出して来た。津波のような勢いで、花香へと駆け寄る。
三人。身長が見事に階段状で、大波中波小波だ。
「姉ちゃんおかえり!」
花香は、あっという間に小さな暴れん坊三人に取り囲まれてしまった。
長男の啓太九歳、次男亮助七歳、三男健五歳。年齢の離れた、花香の弟たちだ。
「ただいま。ドタバタと走っちゃダメっていってるでしょ。下の部屋の人に迷惑でしょ」
口調は厳しいが、花香の顔は笑っている。
「はーい」
弟たちは口々に返事をするが、おそらく、また明日も同じことになるのだろう。
梶尾家の家族構成であるが、花香自身、母、三人の弟、という五人だ。
父親は、健がまだ母親のお腹にいる頃に、ガンで亡くなっている。
母親の帰りが、いつも仕事で遅いため、花香が実質上の母親になっている。
掃除、洗濯、食事の仕度、お金を稼ぐ以外の大半のことをこなしている。いわば母親が父親役で、銃後の守りはすべて花香といったところか。
家事をするため自分の自由時間を相当に奪われることになるわけであるが、花香にはまったく不満はない。本来ならば自分だって家計を支えるためにアルバイトでもしなければやっていけないところ、それを母親が夜遅くまで頑張って働いてくれているから、学校に通うどころか部活動までやっていられるのだから。
制服姿のまま、エプロンを身につけると、さっそく夕食を作りに取り掛かった。
以前は帰宅するとまずスウェットなどの部屋着に着替えていたのだが、最近どうにも面倒で、お風呂から出て寝巻きに着替えるまでずっと制服姿のままでいることが多い。
隣にある和室では、長男の啓太と三男の健が遊んでいる。本を見ながら、なぞなぞを出し合っているようだ。
花香のすぐ横には、亮助が文字通りぴったりとくっついている。
「でさ、ゴンとタッ君とね、一緒に遊んでたらさ、タッ君がうちで遊ぼうっていってきてさ」
「ああ、それで今日は隆君とこで遊んで来たんだ。なにして遊んでたの?」
話し相手をしてやりながらも、視線は真剣にまな板の上。味噌汁に入れる長ネギを、確かめるようにゆっくりと刻んでいる。
毎日料理をしているというのに、包丁を持つとどうにも怖くて、トントントンとリズムよく刻むことが出来ないのだ。話し相手をしているからというのもあるが、しておらずとも大差はない。
「はじめはずっとゲームしてた。タッ君のおばあちゃんが、お菓子作ったから食べてって出してくれて、クッキーみたいなんだけどもっと何枚か乗っけたような感じで、一番上にクリームみたいなの乗ってて、それがすっごい美味しかった」
「へえ。凄い美味しそう。いいなあ。あ、そのお皿取って。それ。ありがとう」
亮助から盛り付け用の中皿を受け取った瞬間、電話の呼び出し音が鳴った。
タオルで手を拭き、鍋の火を弱めると、壁に掛かっている受話器を取った。
やはり母親からだった。
今日は少し早く帰れるかも、と朝に話をしたが、残業で逆に遅くなってしまいそう。との、お詫びの電話だった。
「やだなあもう、そんなことで謝んないでよ。でもさぁ、そう毎日遅いと、お母さんの体が心配だよ。本当に無茶はしないでよね。体壊すくらいなら、仕事をもっと減らしなよ。それでお金に困るのなら、前からいってるけど、あたし学校やめて働いたっていいんだから。……うん。分かった。それじゃ」
花香は受話器を置くと、小さくため息をついた。
なんのため息なのかは、自分でもよく分かっていなかった。
6
「ここで、こう蹴って。いや、ここで、こうかな。……ああもう! 足がもつれる! あたしほんと最悪う!」
友原鈴、チリチリの天然パーマが印象的な女の子だ。
佐原南高校の制服姿である。
学校帰りの公園で、今日の部活練習でサジ先輩に教えてもらったことを練習しているところだ。
ドリブルや、フェイントで相手をかわす方法などについて。
しっかりイメージして取り組もうとすればするほど、なんだかたどたどしい足の動きになってしまう。
技術のない自分と、思うように蹴られてくれないボールとに、イライラしてくる。
イメージ通りに身体が動かないのは昔から。なにをやるにおいてもだ。
でも心の奥では、漠然とした自信のようなものがあり、思うようにならなければならないほど、自分がダメなのではなくて、この競技に向いてないんだ、と思ってしまう。
本当は自分に自信がないだけなのに、それを認めたくないのだ。
鈴は、いま現在も決してそうは認めていないが、しかし心の根底では、理解している。
フットサル部ならば、まだまだこのようなマイナーな競技、幼少よりずっとやってきた者など少ないだろうから、自分だって充分にやれるはずだ。
そう思い、高校に入ると同時に入部してみたわけであるが、その僅かに残っていた希望のような自信は、同期に生山里子という者がいたことにより、根底からぐらつくことになった。
生山里子は、サッカーもフットサルも未経験だというのに、入部してから様々な技術をあっという間に習得して、現在では一年生の誰よりも上手なのだから。
だからこそ意地になって、こうして秘密特訓をしているわけであるが……
「もう、ほんっとうまくいかないなあ。サジ先輩は自分がもの凄い上手だからって、同じ感覚で凡人に教えてられても困るんだよね」
結局、ただイライラしたというだけで、なんの満足も納得も得られぬまま、日も暮れて帰宅することになるのだった。
7
友原鈴の自宅はJR佐原駅の北側、広い住宅街にあるごく普通の木造二階建てだ。
近所には、同じ部活に所属している九頭葉月の自宅があり、時折ばったりと出くわすことがある。
玄関のドアを開けた。
「ただいま」
奥からの返事はない。
母親は専業主婦で家にいることが多いのだが、たぶん買い物にでも出ているのだろう。
鈴は階段を上り、二階にある自室へと向かった。
六畳間の和室である。
フローリングカーペットを敷いて、洋風調にしてある。
簡素ながらもおしゃれな装飾のついたベッドに、ピンクのカーテン、ぬいぐるみ、女の子らしいのはそれくらいだ。
床にはいろいろなスポーツの道具が散乱している。テニスラケットやバスケットボールなど特定スポーツの道具、リストウエイトやダンベル、バランスボールなどの筋トレ道具。一人練習用の紐付きテニスボールに、ドリブル練習用のカラーコーン。
押し入れの襖が開いており、その中にも様々な競技の用具が混沌とひしめきあって、いまにも崩れてきそうである。
すべてこれまでに体験してきたスポーツの道具と、その競技に必要な肉体を作るために購入したトレーニング器具だ。
中一 テニス部。
中二 バレーボール部。
中三 バスケットボール部。
また、中一の二学期から中二の三学期にかけて、町のソフトボールチームに週一で参加。
さらにさかのぼって小学生の頃は、卓球、ハンドボール、サッカー。
これまでに鈴が経験してきたスポーツだ。
球技自体はやるのも見るのも好きで、なにかを極めたいという思いは人一倍強い。
しかしその思いが強ければ強いほど、上手くいかない焦りが出てしまい、中途半端な自尊心とが相まって、結局、辞めてしまう。
現在同じ部に所属している生山里子も、ころころ部活を変えるタイプらしいが、聞くところでは彼女の場合は「制覇した」という達成感を持って辞めていくらしいではないか。
自分はどうかといえば、いくら言葉を装飾してごまかそうとしても胸の奥に残るなんともいえない敗北感をかかえたまま辞めていく。
挫折感を味わうのが嫌なものから、「向いてなかったからやめた」「先輩が意地悪だったからやめた」、と心の中で言い訳ばかりしてしまう。むなしいばかりと分かっているけど、だからといってどうしようもない。
筋トレさえしておけばどんな競技にも役立つから、とりあえず筋トレだけは真面目にやっている。
今日もこれからやる予定だけど、でもその前に、学校の宿題を片付けてしまおう。
と、制服を脱ぎスウェットに着替えると、学習机に向かった。
教科書とノートを広げ、シャープペンを手に取ったはいいが、なんだか頭がぼーっとして、ぜんぜん宿題に手がつかない。
「……骨盤が安定してないからかなあ」
なにをやってもダメなのは。
机の本棚から、ヨガや骨盤体操ダイエットなどを特集している雑誌を取って、ぱらぱらとめくりはじめた。
本棚には学校で使う教科書と、最低限の参考書、あとはいままでやってきたスポーツ関連の指導書と、健康関連の書物、自己啓発本、などが並んでいる。
雑誌を手にぼーっとしている鈴であったが、ふと気がつくと時間ばかりが経過して、いつの間にか母親が帰ってきており、夕飯の時間になっていた。
「面倒だ。今日は宿題やんない!」
授業中の答え合わせ時に、自分がさされそうな問題が分かったら、隣の席のイモッチにノート見せてもらえばいいや。
よし、ご飯食べて、筋トレだ。
8
「ほらハナ坊、へらへらしてんじゃないの。葉月を見習え」
また梶尾花香に、王子先輩こと山野裕子部長の雷が落ちた。
放課後の体育館、フットサル部の練習風景である。
「へらへらなんてしてません!」
梶尾花香はのん気な性格ではあるが、真面目にやっているのに不真面目と取られては面白くない。
これまでは自分にも非があるのかなと思って黙っていたけど、いい加減うるさくて、つい反撃してしまった。ちょっと里子の性格が移ったかな。
「じゃ、やる気が見えないからそう思えるんだよ。真面目にやってんなら真面目にやってますよってアピールしないと、損だろ」
なにいってんだか、まったく。
でも確かに、王子先輩のいうことも一理あるな。
勉強不真面目で部活に遅刻ばかりしている先輩がいっていても、説得力は皆無だけど。
わたし、ついニコニコしちゃうタイプだからな。出来るかな、真面目アピール。
真面目、といえば……
花香はちらりと、九頭葉月の方へと視線を向けた。
葉月はただ、暗いだけなんだよ。
でも、練習は人一倍真面目に取り組んでいるよな。確かにその点だけは認める。
塾にはいってないっていってたけど、成績だって良いし。きっと遅くまで勉強してんだろうな。……確かに、その点だけは認める。
なにごとにも、黙々とひたすら頑張るよな。確かに、その点は……
って、結局全部認めてんじゃん。
里子だけじゃなく、葉月にも完敗かあ。
ま、別にいいけどさ。
先輩たち、なにかにつけて手本にするもんな、葉月のこと。実際、偉いと思うよ、葉月は。わたしも、少しは見習わないとなあ。
9
などと複雑な、ちょっぴり屈折した感情から褒められていることなど、つゆにも気づいていない九頭葉月であるが、もしも花香の胸中を知ったとしても、「暗い」以外は全否定していたことだろう。
確かに「真面目」「勉強している」は、葉月自身も認めてはいる。
しかしそれはただ単に、自分への自信のなさから来るものなのだ。
余裕のなさから来るものなのだ。
そういう意味では、真面目でもなんでもない。気弱なだけ。
「黙々と」というのも間違いない。でもそれは、声を出すのが苦手だから。人と会話するのが苦手だから。ただそれだけだ。
決まったことを喋るだけでも緊張するというのに、考えながら喋らなければならないとなると、つっかえつっかえで自分でもなにをいっているのか分からなくなってしまう。だからあまり人と話しをしたくない。
会話に限らずコミュニケーション全般はとにかく苦手であり、だから一人でいる方が好きだ。
二律背反かも知れないけれど、フットサルは面白いと思っている。コミュニケーション必須の集団球技だけど、それはそれとして。
意外と向いているのか、ちょっとづつではあるけれどもやった分だけ前に進めている実感があるし。
頂点を目指すなんて、もちろん無理だろうけど、とにかくそうしてフットサルで得たことが、いろんなことへの自信に繋がればいいなと思っている。
だから頑張って練習しているのだ。
と、そのような思いから来る態度が、結局のところ周囲からは前向きだと思われるようで、よく先輩たちから「前向きなサジ」とからかわれる。入部したばかりの頃は、なにをいわれているのかさっぱり理解出来なかったけど、いまはよく分かる。
確かに、自分と佐治ケ江先輩とは共通点が幾つもある。
喋らないし。
笑わないし。
前向きか後ろ向きかは、知らないけど。似ていると思われても、不思議ではない。
わたしとサジ先輩との、傍から分かる決定的な違いは、フットサルの技術だ。
サジ先輩は、もう本当に凄い。
プレーの一つ一つが、新米の自分にとっては神業にしか見えない。
見ているだけで、時間がたつのを忘れてしまう。
絶対に真似出来るはずない。
そりゃあ経験が違うんだから仕方ないけど、そういうことではなく、きっと生まれついての能力がすでに違うんだ。
自分も毎日練習しているから、シュート、パス、リフティング、ドリブル、最低限は出来るようになってきたとは思うけど、いざ実戦となると畏縮してしまってまったく練習の成果を発揮出来ない。
まあ、わたしはわたしで頑張るだけだ。
でも、ひっそり練習させて欲しい。せめて自信がつくまでは。
先輩たちがなにかにつけて「葉月を見習え」なんていってくるのだけど、それってバカにされているみたいで嫌だな。「あいつは無能だけど態度だけは優秀だから」っていわれているようでさ。だって裏を返せば、態度が悪かったらなんにもないということじゃないか。
じゃあ、どうすればいいのか。決まっている。もっともっと、練習するしかない。頑張るしかない。
でもそうするとまた、黙々練習してて真面目だ、前向きだ、見習え、ってなるんだろうな。もう人をからかうのも、いい加減にして欲しいよ。
無口だから真面目だろうなんて、思い込みもはなはだしい。わたし、喋るのが苦手で、気が弱いだけなんだから。
そういや、無口といえば茂美先輩も、とてつもない無口だよな。あまりに喋らなすぎて、どんな声してるのかまったく覚えてないもの。
でも、わたしなんかと違って、全然おどおどしてなくて、寡黙なところがむしろ堂々と自信を持ってるようにも見えて、かっこいいなあ。
って、他人ばかりが、よく見えてしまうけど、
……結局わたしは、どうなりたいんだろう。
明るくハキハキした性格にでもなれれば満足なのか。
それとも、強くなりたいのか。
単に、楽に、自由になりたいのか。
先輩たちは、性格こそいろいろだけど、みんな自信をもっていて、楽しく生きているように見えるけど……悩み、あるんだろうか。いろんな悩み、辛いこと、乗り越えてきて、いまこうしているのだろうか。
「痛っ!」
バチッという音とともに、視界が塞がった。
右頬の、引っ叩かれるような痛みに、葉月は顔を歪めた。
ぼすん、と足元にボールが落ち、転がった。
「ごめん葉月、大丈夫?」
友原鈴が、心配そうな表情で覗き込むように見つめている。
そうだ、いま鈴とペアになってキックの練習をしていたのだった。
すっかりぼーっとしてしまっていた。
「あ、あ、だ、だいじょうぶ」
飲み込んでしまって、「うぶ」のところまでは多分発音出来ていないと思う。
「もう、葉月ったらぼーっとしてんだもん」
「ごめん」
「ほら、葉月の番。いくよ」
鈴はボールを持った両手を胸の高さに上げると、葉月へと放り投げた。
葉月は鈴の胸を目掛けて蹴り返すと、少し横にステップ。
戻ってきたボールをキャッチした鈴は、また葉月へと投げる。
葉月は反対の足で蹴り返すと、先ほどと反対方向へとステップを踏む。
鈴が受け、投げる。
浮き球を処理するための、練習メニューだ。
「葉月、すごい上手くなったじゃん」
部長の山野裕子が、すぐ後ろに立っていた。
「あ、ありがとうございます」
いつから見られていたのか、恥ずかしさに葉月は顔を赤らめた。
「もっと上級者になれる練習方法を教えてやろうか」
「……どんなのですか?」
気持ちを外に出すまいと思っても、どうしても疑心暗鬼の表情になってしまう葉月であった。
この先輩だ。こんなこといわれてこんな顔になってしまうのは、自分だけではないだろう。
「よし、鈴、投げてみな」
「はい」
友原鈴は、裕子へとボールを投げた。
「北海道! ナハッ!」
裕子は両肘を曲げた万歳をしながら、ボールを蹴り返した。
「埼玉県! ナハッ!」
また蹴り返した。
「千葉県! ナハナハッ! って、こんな感じ。集中力つくぜ。県の名前覚えるし。じゃ、やってみな。鈴、よろしく」
「え、えっ」
慌てる葉月。そんな恥ずかしいこと、急にいわれても。
「それじゃいくよ」
鈴は、葉月へとボールを投げる。
「おきなわ……」
ボールは、葉月の膝小僧にあたり、床に落ち、転がった。
「なんで蹴らないんだよ! それとちゃんと両手を上げて、ナハナハナハッって、これがキモなんだから!」
「そ、そんなこと、いわれても……」
なんだよ、キモって。
真っ赤になった顔を下に向けて、黙ってしまう葉月。
「王子先輩、遊んでないで真面目にやってください!」
通りかかった梶尾花香が、ピシャリと雷を落とした。
「ごめんなさ~い」
と小さくなってしまった裕子の姿に、花香はにっこり笑みを浮かべ、去っていった。
先ほど、へらへらするなとか、していないとか、もめていたから、きっとそのお返しをしたのだろう。
葉月は、ほっと安堵のため息。
なんとか先輩の無理難題から逃れることが出来たけど、ハナが通らなかったらどうなっていたことか。
みんなの前でいまみたいなことやらされたら、わたし、もう生きていけないよ。
10
午後六時半である。
九月も下旬であり、暦のうえでは完全に秋ではあるが、照り付けてくる太陽の日差しはまだまだ強烈であった。
「暑さ寒さもなんとやらっていうけどさあ、本当にあと数日で涼しい季節がやってくんのかよ。くそあちー」
山野裕子は、制服のベストでぱたぱたと自らをあおいだ。
佐治ケ江優は、その隣を歩いている。
木々に囲まれた、薄暗い道路。学校からの、帰り道である。
二人とも、グレーのスカートとベスト、白のブラウス、胸元には赤いリボン。佐原南高校の、女子の夏制服だ。
それぞれ、大きなスポーツバッグを背負い、手には手提げカバンをぶらさげている。
平日は部活練習があるため、早くても帰宅はこのくらいの時間になってしまうのだ。遅いと、学校を出るのが七時半を過ぎることもある。
二人が歩いている、この鬱蒼とした道路は、通学路である県道だ。高台をひたすら降りて、麓の佐原駅を目指しているところだ。
今年から増便された、駅と学校とを結ぶ市営バスだが、この時間帯は相変わらずの一時間一本ペース。だからタイミングよく乗れるときもあるし、あまりに待つなら歩いてしまうこともある。今日は後者で、ちょうどタッチの差でバスに逃げられてしまい、徒歩下山というわけである。
匝瑳|方面への抜け道に使われるため交通量こそ多いが、のどかな眺めの県道だ。
絶景とまではいえないが、木々の隙間からは山の下に広がった風景が見渡せ、気持ちの良い眺めである。
二人は、他愛のない会話をしながら歩いている。
会話といっても、ほとんど一方的に山野裕子が喋っているだけであるが。佐治ケ江は専ら頷き担当で、あとは聞かれたことに答えるくらい、自分から話題を振るようなことはほとんどない。
本当に口数の少ない佐治ケ江であるが、去年と比べて相槌打つようになってきた分だけマシというものであろうか。
歩き続け、ようやく山の麓へと辿り着いた。
正確には山というより単なる高台であるが、勾配がジグザグにいつまでも続くため、佐原南高校の生徒たちはこの一帯を山と称している。従って学校までの行きは登山、帰りは下山なのである。
麓まで下ると、単なる片田舎の山奥といった町並みが、がらりと変化した。
別に都会になったわけではないが、時代劇のセットと見まごうような、古臭い造りの建物ばかりになった。
ここ佐原は、小江戸などとも呼ばれる観光地なのである。
歩いている間に、すでに時刻は七時。太陽はほぼ沈んでしまっていた。
薄暗い小江戸を歩いていく二人。途中、九頭和菓子と書かれた看板の、店の前を通る。
後輩部員である九頭葉月の親が営んでいる店である。
「こんばんは~」
入り口のガラス戸が開いており、カウンターの向こうに葉月のお父さんが座っているのが見えたので、裕子は声をかけた。
「お、裕子ちゃん。こんばんは。葉月頑張ってる?」
寂しい頭髪を人差し指で撫でていた葉月のお父さんは、裕子たちに気が付くと、立ち上がり、カウンターに身を乗り出した。
「うん。頑張ってるよ~。じゃあね。今度お菓子買いにくるね」
裕子たちは、そのまま店の前を歩き続ける。
「買うなんて水臭い。今度学校に持ってくよ!」
背後から、お父さんの大きな声。
「葉月が困るから、やめたほうがいいって」
裕子はくるり後ろを振り返り、負けないくらいに大きな声を出した。
「面白いおじさんだよね」
くるりもう半回転し、元に戻る。
「ほうじゃねえ」
佐治ケ江は頷いた。
すっかり日の暮れた小江戸を、二人は歩き続ける。
平日の夜であるため、観光客と思われる人の姿はほとんど見られない。
「ねえ、サジ、なんかさあ、あたしの気のせいかも知れないけど、こういう遅い時間になると、観光客の外国人割合がぐんと上がるような気がしない?」
「日帰りでなく、近くのホテルに泊まるからかな」
「そういうことかああああ! 痒い背中を掻いてもらったあああああ!」
「王子、ちょっと、迷惑……」
通行人がびっくりしているのを見て、佐治ケ江は恥ずかしさに顔を赤らめた。
正面から、若い女性が歩いてきた。ここは渋谷原宿かと思わせるくらいに派手な服装だ。巨大なサングラスを、額にかけている。
「お、あの姉ちゃんすげーボディ。腰くびれてっし、おっぱいでっけー!」
人目はばからない大声と、その内容とに、佐治ケ江はさらにさらに顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
「あたしもサジもぺったん胸だからさあ、うらやましいよねえ。ああいうダイナマイトなのはさあ」
そういうと裕子は、わははと笑った。
「ああ、あたしはっ、別に、どうでもいい」
「またまたぁ。そうだ、セカンドキッチン寄ってこうよ。腹減った」
「いきなりいわれても。買い物があるけえ」
佐治ケ江優は広島県出身である。目立つのも嫌だから、とこちらでは地元の言葉を使わないよう注意しているが、油断しているとつい出てしまうとのことである。
「スーパーカトリでしょ、付き合ってあげるよ。だからちょっとだけ、電車一本遅らせてさ。おごってあげるから」
今度来る電車が約十五分後なので、一本遅らせれば四十分以上の時間が作れることになる。なにせJR成田線は、早くとも三十分に一本しか電車がこないからのだから。
「それじゃ寄ってこうか。お金は自分で出すよ」
セカンドキッチンというのは、弱小ながら全国展開しているファーストフードのチェーン店だ。
佐原駅すぐそばにファーストフード店はここしかないため、この駅を利用する中高生たちに重宝されている。
裕子としてはモスバーガーがあると嬉しいのだが、贅沢はいっていられない。千葉県に三店舗しかないというセカンドキッチンの、一店舗がこのような片田舎にあるというだけでも奇跡なのだから。
11
セカンドキッチンの店内は、中高生で賑わっている。
テーブルが一つしか空いていなかったため、裕子が場所取り、佐治ケ江が注文、と役割を分担だ。
裕子が座席について、人間観察などしながら待っていると、しばらくして佐治ケ江がトレイを持ってテーブルへとやってきた。
裕子の注文分はハバネロダブルバーガーと、ピリ辛甘ダレチキンバーガー、コールスローサラダ、アップルパイ、クリームチーズシェーキ。佐治ケ江は、アップルパイと烏龍茶だ。
佐治ケ江はテーブルに運んで来たトレイを置くと、席に着いた。
「ありがと。サジ、てきぱき注文出来るようになったじゃん」
「まだまだドキドキするよ」
二人がはじめて一緒にこの店に入ったのは半年前。その時の佐治ケ江は緊張してしまって言葉がつっかえつっかえ、しかもとにかく声が小さいものだから、なかなか店員に注文を理解してもらえず、裕子の助けでなんとか注文することが出来たのだ。
「よくそんなんでもつねえ」
裕子は佐治ケ江の、アップルパイと烏龍茶しかないトレイに視線を向けた。
「家に帰ってから、おばあちゃんとお母さんと食べるから」
「あたしだって帰ったら食うけど、それまで腹減んじゃん。帰り道に食べる予定のパン、買うの忘れてちゃってさあ」
「そういう時くらい、我慢すればいいのに」
「そういやサジって、おばあちゃんとお母さんと、女三人で暮らしてんだっけ」
「お父さんだけ仕事で広島に残っているから。でもあと、おじさん夫婦も一緒に住んでいるよ。だから、五人」
佐治ケ江優は三年前まで、広島に住んでいた。
小学生の頃からいじめを受けるようになり、中学に入ってもいじめはおさまらず、むしろエスカレートし、それが原因で中二の時に祖母のいる千葉へと越してきたのだ。
「関サル、対戦相手はやく決まんないかな」
クリームチーズシェーキを、裕子はストローで吸った。
ちょうど一年前に期間限定で販売されたことのあるシェーキで、一年ぶりに復活したものである。
「予定では来週発表だっけ?」
「そう。去年はもうとっくに決まってたはずだけど、今年は遅いんだよね。茂原藤ケ谷を、どこと当てるかで揉めてんじゃないの?」
裕子はそういうと、ガハハと下品に笑った。
関サルというのは、関東高校生フットサル大会の略称で、ここ数年、注目を集めている大会である。
去年の千葉県地区予選で、佐原南の初戦の相手が、その茂原藤ケ谷商業高等学校だったのだ。体格にものをいわせた、荒っぽいプレーで有名な高校である。
「試合日程が早く決まった方が、モツベーションにも繋がるのになあ」
「モチベーション」
「そうそう、頭いいね君ィ」
裕子は、クリームチーズシェーキの残りを一気に吸い込んだ。凄い吸引力で、裕子の頬がべこんとへこんだ瞬間、容器がくしゃっと潰れた。
「一年生で、誰が戦力になりそうかなんだけど、サジどう思う」
「どう思うと聞かれても……みんなよく頑張ってるから、誰がどうとかはいえない」
「サジ、それ優しいんじゃなくて気が弱いだけだぞ。誰かを持ち上げたからって、誰かを落とすことになんかならないって」
「そんなこといわれても」
「じゃあさ、サジから見たあいつらのいいところあげてみてよ」
「ハナはちょこちょこ動き回れるタイプ。久樹先輩と似たとこがあるかな。葉月は、全体的に無難にこなしそうだし、あと意外と視野が広い。鈴は、あたしなんか語る資格ないくらい体力がある。王子には負けるけど。どちらかといえば、守備に向いているのかな。里子は、足元の技術はとても優れている。でも、周囲が見えなくなるところがあるかな。もうちょっとコツを覚えれば、一対一は格段によくなる。でも周りを使うことを覚えないと、対応されちゃうね。咲はゴレイロだから、あたしにはよく分からない」
「うーん。それ聞くと、誰か選べなくなってくるな」
「だからいったでしょ。結局決めるのは王子と晶だよ。部長と副部長なんだから」
「晶にも聞いてみるかぁ。あのジャガイモ顔、嫌味ばっかりいってくるけど仕方ない。……って、やばい! 時間!」
店内の時計をちらり見た裕子は、驚き飛び上がる。
大声にびくり肩を震わせた佐治ケ江も、時刻を見るや慌てて立ち上がり、トレイを置き場に持っていき、分別をはじめた。
「置いときゃ店員がやってくれるよ!」
一秒でも早く店を出たい裕子であるが、佐治ケ江が持ち前の生真面目さから聞く耳を持たないので、仕方なく作業を手伝う。
「よし終わった。いこうぜ!」
二人はスポーツバッグと鞄を持つと、外へと飛び出した。
駅に向かって、走る、走る。
たかが数十メートルほどの距離なのに、もうぜいはあバテはじめる佐治ケ江。
角を曲がると、瓦屋根の駅舎が見えた。
すでに電車がとまっており、いま、発車ベルが鳴り始めた。
二人は、定期券をかざして改札を抜けた。
いや、裕子だけ、自動改札機がICカードをうまく認識出来なかったようで、フラップドアが閉じてしまった。一年前ならば有人改札なので、すんなり通れたのだろうが。
「うぉぉ、イライラするー!」
かざし直すと、今度はドアが開いた。
一足先に、佐治ケ江が電車に乗り込んだ。
続いて、裕子が雄叫びを上げながら飛び込んだ。
電車の扉が、閉じた。
「ロスタイム、奇跡の逆転ゴォォーーーーール!」
裕子は両膝を付いて、両腕を突き上げた。
ばらばらと乗っている他の乗客たちが、何事かとびっくりしている。
「王子……みっともないし、迷惑だから、やめようよ」
応援ありがとうございます!
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