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第一話
真夜中のprime time ③
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間もなく、なのか、それともしばらくして、なのか、ひたすらに呆然としていただけのわたしにはよく分からないのだけれど、とにかくそれほど長くはない時間が経過して、恐怖や驚きから覚め遣ったらしい彼女さんが車から降りて来る。
恐怖や驚きの抜けた彼女の表情が、冷めているのか煮えたぎっているのかははっきりとしない。
一言で言い表すならば機嫌の悪そうな顔で、それ以外の言葉では言い表すことの難しそうな、無表情に近い顔だった。
わたしは彼女さんのそんな顔を見ていたくなくて、彼女の脇をすり抜けると、空っぽになった車の中へと目をやった。
開け放たれたままの、両側のドア。
さっきまで車内を暖めていたはずのほかほかとした空気は、既に全て流れ出てしまっているのに違いない。
空っぽになった箱の中には、冷めた夜の空気が循環しているのだろう。
今までわたしの見てきたものが恋愛ドラマだったのならば、この車は、画面を割られて中身が丸見えになったブラウン管だ。
わたしは特にこれといった目的もなく、ブラウン管の中に引き寄せられるようにして右手を差し入れーー
目が、離せなくなった。助手席から。
今、わたしのすぐ後ろで無表情を顔に貼りつけて立ち尽くしている彼女さんが、ほんの少し前まで座っていた場所。
わたしにはもう訪れないはずの、手に入れることのできないはずの美しい時間を、彼女さんが送っていた場所。
恋愛ドラマのヒロインが、いつも座っていた場所。
後は、引力に従うままだった。
背もたれに触れる。
ふわふわとごわごわの入り混じったような、布製のシートの感触。彼女にはわたしの姿が見えているはずもないのだけれど、なんだか、すぐ後ろに立っている彼女さんから咎められてしまいそうな気がして、そっと手を離した。
振り返る。彼女は背中を向けている。
当然なのだけれど、わたしの存在に気づいた様子はない。
向き直る。助手席が、そこには変わらず座している。
膝を曲げて、今度は腰掛け部分に触れた。
まだ、体温が残っている。シートを触るために身を乗り出したわたしは、車の中に半身を侵入させていた。
立ち入り禁止のロープを越えてしまった時のような、人気のない森林に踏み入ってしまった時のような、妙な息苦しさと淡い興奮とが全身を支配する。
身体を反らせて、再び背後を確認した。
ヒロインの背中。わたしはゆっくりと、助手席に座った。
あの助手席に座ってみたい。きっと、そういう願望が心のどこかにあったのだろう。
ヒロインのいる場所に、憬れていたのだろう。
小さな子供がヒーローの真似事をするように、小さな子供がヒロインの持ち物を欲しがるように、わたしは助手席に座ってみたかったのだろう。
そんなわたしは、そんな助手席に、座ってみてしまった。
心地の良い窮屈間。初めて見る、見慣れた風景。
隣には、誰もいない運転席。
分かってはいたけれど、これは、
残酷だった。
分かっていたはずなのに、これは、あまりにも皮肉めいていた。
分かっているつもりでいたわたしは、どうしようもなく愚かだった。
真似事は、やっぱり真似事でしかない。おもちゃのステッキを振り回しても、魔法が起こるわけじゃない。
そんなことは百も承知で、そのくせ淡いとは言いがたいほどの期待を隠し持っていた。自分自身が、あまりにも哀れだった。
孤独に耐えられなくなって車から抜け出すと、夜の硬質な空気が慰めるようにしてわたしを受け止めた。
自分のいるべき場所がどこなのか、思い知らされた気分だった。
何をやっているんだろう。
何がやりたかったんだろう。
何を望んでいたんだろう。
わたしは、どうすれば良いんだろう。
もう、助手席を見ていることができなくて、彼女さんを見ていることも申し訳なくて、夜の中へ視線を逃がした。
闇の向こうに、さっき逃げていった彼氏さんがゆっくりとこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
わたしは、動けなかった。
恐怖や驚きの抜けた彼女の表情が、冷めているのか煮えたぎっているのかははっきりとしない。
一言で言い表すならば機嫌の悪そうな顔で、それ以外の言葉では言い表すことの難しそうな、無表情に近い顔だった。
わたしは彼女さんのそんな顔を見ていたくなくて、彼女の脇をすり抜けると、空っぽになった車の中へと目をやった。
開け放たれたままの、両側のドア。
さっきまで車内を暖めていたはずのほかほかとした空気は、既に全て流れ出てしまっているのに違いない。
空っぽになった箱の中には、冷めた夜の空気が循環しているのだろう。
今までわたしの見てきたものが恋愛ドラマだったのならば、この車は、画面を割られて中身が丸見えになったブラウン管だ。
わたしは特にこれといった目的もなく、ブラウン管の中に引き寄せられるようにして右手を差し入れーー
目が、離せなくなった。助手席から。
今、わたしのすぐ後ろで無表情を顔に貼りつけて立ち尽くしている彼女さんが、ほんの少し前まで座っていた場所。
わたしにはもう訪れないはずの、手に入れることのできないはずの美しい時間を、彼女さんが送っていた場所。
恋愛ドラマのヒロインが、いつも座っていた場所。
後は、引力に従うままだった。
背もたれに触れる。
ふわふわとごわごわの入り混じったような、布製のシートの感触。彼女にはわたしの姿が見えているはずもないのだけれど、なんだか、すぐ後ろに立っている彼女さんから咎められてしまいそうな気がして、そっと手を離した。
振り返る。彼女は背中を向けている。
当然なのだけれど、わたしの存在に気づいた様子はない。
向き直る。助手席が、そこには変わらず座している。
膝を曲げて、今度は腰掛け部分に触れた。
まだ、体温が残っている。シートを触るために身を乗り出したわたしは、車の中に半身を侵入させていた。
立ち入り禁止のロープを越えてしまった時のような、人気のない森林に踏み入ってしまった時のような、妙な息苦しさと淡い興奮とが全身を支配する。
身体を反らせて、再び背後を確認した。
ヒロインの背中。わたしはゆっくりと、助手席に座った。
あの助手席に座ってみたい。きっと、そういう願望が心のどこかにあったのだろう。
ヒロインのいる場所に、憬れていたのだろう。
小さな子供がヒーローの真似事をするように、小さな子供がヒロインの持ち物を欲しがるように、わたしは助手席に座ってみたかったのだろう。
そんなわたしは、そんな助手席に、座ってみてしまった。
心地の良い窮屈間。初めて見る、見慣れた風景。
隣には、誰もいない運転席。
分かってはいたけれど、これは、
残酷だった。
分かっていたはずなのに、これは、あまりにも皮肉めいていた。
分かっているつもりでいたわたしは、どうしようもなく愚かだった。
真似事は、やっぱり真似事でしかない。おもちゃのステッキを振り回しても、魔法が起こるわけじゃない。
そんなことは百も承知で、そのくせ淡いとは言いがたいほどの期待を隠し持っていた。自分自身が、あまりにも哀れだった。
孤独に耐えられなくなって車から抜け出すと、夜の硬質な空気が慰めるようにしてわたしを受け止めた。
自分のいるべき場所がどこなのか、思い知らされた気分だった。
何をやっているんだろう。
何がやりたかったんだろう。
何を望んでいたんだろう。
わたしは、どうすれば良いんだろう。
もう、助手席を見ていることができなくて、彼女さんを見ていることも申し訳なくて、夜の中へ視線を逃がした。
闇の向こうに、さっき逃げていった彼氏さんがゆっくりとこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。
わたしは、動けなかった。
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