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第二話
二人の死霊 ①
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静かだった。
チヒロが言葉を休めたせいだった。
どこを見ているのか見当もつかない運転手の顔は、まるで写真のように沈黙している。
直前に聞いたばかりのほう、という発音の良い声は、思い出せば思い出すほどに、ただの思い違いだったかのではないかと感じられる。
呼吸音が聞こえる。チヒロ自身のものだった。
大きく吸い込む音。細い目の中で黒い色が動いた。
「おばけが出てきて、彼、わたしを置いて一人で逃げ出しちゃったんです」
運転手の目が、見開かれたように見えた。それでもその目はなお細く、これももしかすると思い違いだったのかも知れない。
「ちょっとしたら戻って来たんですけどね。戻って来たらそいつ、わたしの顔を見るなり、大丈夫だったかって聞くんですよ」
笑い話のような明るさを交えて、直前までのたどたどしさを払拭するかのごとく駆け足で。
「なんだかそれが、気に障っちゃったんですよね。まずは謝りなよって、そう思って」
運転手は、動かない。何の音も発しない。
「謝られたって、どうせ気に障ったんでしょうけどね」
チヒロが短く笑ってみせても、運転手に反応はない。
口を開くタイミングを黙して待っているのだろうと、チヒロは判じた。
彼を困らせている自覚がないわけではなく、むしろ、わざわざこの話をしている胸中には少なからず悪戯心が渦巻いている。
「それでわたし、思わず彼を引っぱたいて、どうするあてもなく一人で歩き出して……ちょうどそこを通りかかったのが」
シートの背にでかでかと記されている文字へ目をやる。
浦町。角のないやわらかな書体で記されたそれには、漢字と同じぐらいの大きさでルビが振られている。うらまち。
「ウラマチさんだったんです」
名前を呼ばれたせいか、運転手の目がチヒロのいる方向へ少し動いた。
それでもまだ、チヒロのことを真っ直ぐには見ていない。
「まあ、そんなことがあって、なんだか気が滅入ってたんですけど、話を聞いてもらって、ちょっと気持ちが晴れました」
カバンを持ち上げると、チヒロは少し腰を上げてドアに手をかけた。
「話につき合わせてしまって、すみません。なんだか、早くこのことを誰かに言いたくて」
「その」
やっと、ウラマチはチヒロの方へ黒目を向けた。
ドアから手を離して、チヒロも運転手の顔を見る。
緊張したその顔を見ながら、チヒロは内心で、タクシーのドアは自分で開ける必要がないんだっけ、とぼんやりと考えていた。
「おばけというのは、どんな」
このタクシーに乗った時のことを思い出す。そういえば、このタクシーのドアは自分で開けた記憶がある。
「女の子でしたよ」
そうだ。すみませんが開かないんですよ、と最初に運転手は謝っていた。
あの時も、彼の言葉の意味をあまり頭には入れていなかったらしい。
「小さな、女の子です」
運転手の表情が固くなったような気がした。
それもチヒロの思い違いなのかも分からない。
ありがとうございました、おやすみなさい。
その二言を口にする間、チヒロは彼の顔を見ていたはずなのだけれども、その顔がどんな表情をしているのか、あまり意識をしてはいなかった。
車外に出てドアを閉める。
歩き出したチヒロが振り向きざまに頭を下げると、ウラマチの乗るタクシーはぐるん、とエンジンを鳴らし、すいすいと走り去って行く。
よく見る乗用車にランタンを載せただけの、なんだか愛嬌のあるタクシーだった。
チヒロが言葉を休めたせいだった。
どこを見ているのか見当もつかない運転手の顔は、まるで写真のように沈黙している。
直前に聞いたばかりのほう、という発音の良い声は、思い出せば思い出すほどに、ただの思い違いだったかのではないかと感じられる。
呼吸音が聞こえる。チヒロ自身のものだった。
大きく吸い込む音。細い目の中で黒い色が動いた。
「おばけが出てきて、彼、わたしを置いて一人で逃げ出しちゃったんです」
運転手の目が、見開かれたように見えた。それでもその目はなお細く、これももしかすると思い違いだったのかも知れない。
「ちょっとしたら戻って来たんですけどね。戻って来たらそいつ、わたしの顔を見るなり、大丈夫だったかって聞くんですよ」
笑い話のような明るさを交えて、直前までのたどたどしさを払拭するかのごとく駆け足で。
「なんだかそれが、気に障っちゃったんですよね。まずは謝りなよって、そう思って」
運転手は、動かない。何の音も発しない。
「謝られたって、どうせ気に障ったんでしょうけどね」
チヒロが短く笑ってみせても、運転手に反応はない。
口を開くタイミングを黙して待っているのだろうと、チヒロは判じた。
彼を困らせている自覚がないわけではなく、むしろ、わざわざこの話をしている胸中には少なからず悪戯心が渦巻いている。
「それでわたし、思わず彼を引っぱたいて、どうするあてもなく一人で歩き出して……ちょうどそこを通りかかったのが」
シートの背にでかでかと記されている文字へ目をやる。
浦町。角のないやわらかな書体で記されたそれには、漢字と同じぐらいの大きさでルビが振られている。うらまち。
「ウラマチさんだったんです」
名前を呼ばれたせいか、運転手の目がチヒロのいる方向へ少し動いた。
それでもまだ、チヒロのことを真っ直ぐには見ていない。
「まあ、そんなことがあって、なんだか気が滅入ってたんですけど、話を聞いてもらって、ちょっと気持ちが晴れました」
カバンを持ち上げると、チヒロは少し腰を上げてドアに手をかけた。
「話につき合わせてしまって、すみません。なんだか、早くこのことを誰かに言いたくて」
「その」
やっと、ウラマチはチヒロの方へ黒目を向けた。
ドアから手を離して、チヒロも運転手の顔を見る。
緊張したその顔を見ながら、チヒロは内心で、タクシーのドアは自分で開ける必要がないんだっけ、とぼんやりと考えていた。
「おばけというのは、どんな」
このタクシーに乗った時のことを思い出す。そういえば、このタクシーのドアは自分で開けた記憶がある。
「女の子でしたよ」
そうだ。すみませんが開かないんですよ、と最初に運転手は謝っていた。
あの時も、彼の言葉の意味をあまり頭には入れていなかったらしい。
「小さな、女の子です」
運転手の表情が固くなったような気がした。
それもチヒロの思い違いなのかも分からない。
ありがとうございました、おやすみなさい。
その二言を口にする間、チヒロは彼の顔を見ていたはずなのだけれども、その顔がどんな表情をしているのか、あまり意識をしてはいなかった。
車外に出てドアを閉める。
歩き出したチヒロが振り向きざまに頭を下げると、ウラマチの乗るタクシーはぐるん、とエンジンを鳴らし、すいすいと走り去って行く。
よく見る乗用車にランタンを載せただけの、なんだか愛嬌のあるタクシーだった。
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