【完結】ひだまり療育園にいらっしゃい

野々 さくら

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母の苦しみ

20話 告知

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『一度、相談してみませんか?』
 とうとうこの日が来た。来てしまった。

 十二月、年末の初雪。白く舞う雪は音もなく地面に落ちていくのに、胸の奥では何かがざわめいて止まなかった。
 一歳八ヶ月健診。
 会場に入るなり走って逃げる。静止すれば甲高く叫ぶ。床に寝転び、ひっくり返って泣く。いつもの光景。
 もう驚かない。心が麻痺しているのだろう。

 名前を呼ばれて、保健師さんに案内されるままミニ机が並べられてある健診場所に向かう。するとそこには、積み木、犬やチューリップの絵が書かれたイラスト。
 何これ?
 血の気が引いていく。事前に区から送られてきた、問診票。そこに記入されていた。
「積み木が積めますか?」
「物の名前が分かりますか?」
「指差し出来ますか?」
 その問いに直面する。

 手をパチパチさせる音に目を向けると、目の前にはミニ机の前でお母さんの膝元に座り、積み木を乗せている子がいた。
「ワンワンは?」と保健師さんが尋ねれば、笑顔で指差す子もいた。
「ママ、だいすき」と言い、保健師さんに褒められている女の子もいた。

 まるで別の世界だ。
 私たちだけ、また異次元に迷い込んでしまったのだろうか。
 自分の子を見下ろし、胸が冷たくなる。
 問診票に記された問いが、心の表面を容赦なく叩く。

「積み木を積めますか?」
「言葉は出ますか?」
「指差しできますか?」

 ──できない。

 わかってる。でもこうして言語化されると、目を背けていた現実が、鮮明に形を持って押し寄せてくる。
 その私達に、保健師さんが穏やかに、けれど真っ直ぐに告げた。

『一度、相談してみませんか?』
 ずっと避けてきた言葉だった。
 だけどそれを言われたら、もう逃げないって決めていた。

『……はい』
 床に寝転び、激しく手足をばたつかせる凛を横目に、私は小さく、けれど確かに頷いた。
 自分では開けられなかった扉を、他人の手で開けられたような感覚。
 扉の向こうには、誰もいない長い廊下が続いている気がした。


 数週間後、発達相談で紹介されたのは、児童精神科のある大学病院だった。
 凛は、一つの検査も受けられなかった。
 泣き叫び、積み木を投げ、クルクル回り、他人の手を使って物を取らせる。それが「クレーン現象」という名前だと、そこで初めて知った。
 人を、人として見ていない。物と区別できていない。
 私を母親として認識していない。それが一番、胸に突き刺さった。


 三月。昼と夜の寒暖差が強くなってきた春の始まり。診断を受ける日が来た。
 本来なら、半年以上待たされると言われる大学病院の児童精神科。
 この早さで診てもらえるのは、凛がそれほど緊急性が高いと判断されたからだろう。
 大学病院の静かな一室で、私と同世代ぐらいの女性医師は言った。

『まだ二歳前なので正式な診断はできませんが、自閉傾向が見られます。知的な遅れも併発していると思われますね』
 その言葉を聞いても、私は泣かなかった。
 嘆きもしなかった。
 怒りも、否定も、湧いてこなかった。
 心が、動かなかった。

 凛は、私の声を理解しない。
 名前を呼んでも、目が合わない。
 凛にとって私は、母親ではない。それを、もう分かっていた。

 ただ、凛が生まれてきてからのことを思い返していた。
 妊娠が分かって、女の子だと分かって、オシャレさせたり、話をしたり、楽しみにしていた。私みたいに化粧品に興味を持ったりとか、そんな夢まで。
 だけど、そんな未来はない。この子に未来なんて。


 病院の帰り道。バス停に向かい、桜の並木道をバギーを押して歩く。
 春になったら、桜が咲く。
 そのことがやけに現実味を持って思えた。
 すれ違った親子連れ。
 紺色の帽子、同色のスカート。幼稚園の制服だろうか。
 凛が通う予定の保育園も、三歳児から制服になるはずだ。
 着られるだろうか?
 その前に、通えるのだろうか?

『どうして、私達だけ?』
 何度も喉元まで出かかった言葉を、ようやく口に出した。
 私は努力で、今まで何でも手に入れてきた。
 なのに、子供だけはどうしようもない。
 未来に、ただ冷たい風が吹いていた。
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