モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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きっかけ

空気が、張りつめていた。
魔の森の奥――光の入りにくい場所。
木々は不自然なほど静かで、風すら息を潜めている。

討伐戦は、表向きは順調だった。
指示は通り、陣形も崩れていない。
魔物の数も、想定内。

――それでも。

アイナは、胸の奥に小さな違和感を抱えていた。

(……静かすぎる)

剣の音、魔術の衝撃、怒号。
さっきまで耳を塞ぎたくなるほどだったそれらが、
まるで“間”を作るために引いたかのように、途切れている。

「治癒魔術科、位置確認!」
「B地点、異常なし!」
「前線、魔力残量報告!」

声が飛び交う中で、
アイナは無意識に視線を巡らせた。

――エルンスト。

少し離れた場所で、剣を構え、周囲を見渡している。
血の跡はあるが、致命傷ではない。
治癒も間に合っている。

(よかった……)

ほっと息をついた、その瞬間。

――視線が、絡んだ。

エルンストと、ヴィル。
ほんの一瞬。
言葉もなく、合図もなく。

けれど確かに、
二人の間で、何かがぶつかった。

アイナは、理由もなく背筋が寒くなる。

(……今の、なに?)

ヴィルの表情は、いつもと変わらない。
冷静で、仲間を守る騎士の顔。
けれど――
その奥に、澱んだものが見えた気がした。

エルンストは、眉をわずかに寄せる。
違和感を覚えた者の目だ。

「――前方、魔物の動きがおかしい」
低く、短い声。

次の瞬間。

「左翼、空いた!?」
「なぜそこに――っ」

本来、処理されているはずの個体が、
“そこにいるはずのない場所”から現れた。

陣形が、わずかにずれる。

ほんの一瞬。
致命には足りない、だが――
“きっかけ”としては、十分すぎるほどの歪み。

アイナの心臓が、嫌な音を立てた。

(……違う)

訓練だから。
実戦だから。
想定外は起きる。

そう、頭では理解している。

それでも。

ヴィルの背中が、
ほんの少しだけ――
エルンストから、アイナへと向いた。

守る位置。
距離。
動線。

無意識のはずがないほど、正確だった。

「アイナ!」
ヴィルの声が、いつもより低く響く。

「俺のそばを離れるな」

有無を言わせない響き。
反射的に、頷いてしまう。

その一方で、
エルンストは前に出る。

「俺が抑える」

短い言葉。
覚悟の色。

二人の間に、目に見えない線が引かれた。

――この戦場で。
――この瞬間に。

何かが、確実に動き始めている。

アイナは、強く杖を握りしめた。

(……嫌な予感がする)

理由はわからない。
でも、はっきりと感じる。

これはただの訓練では終わらない。
誰かの感情が、
誰かの判断を、
“越えさせようとしている”。

森の奥で、
低く、不気味な咆哮が響いた。

その音が、
すべての始まりになることを――
まだ、誰も口にはしなかった。


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