モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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踏み越えそうになる瞬間

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夜は、残酷なほど静かだった。

魔の森の喧騒が嘘のように消え、焚き火の爆ぜる音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが残っている。
血と土と魔力の匂いがまだ空気に溶けているのに、世界は強制的に「終わった顔」をしていた。

アイナは、簡易幕舎の外で膝を抱えて座っていた。
治癒魔術師としての役目は終わっている。
身体も、魔力も、限界を越えているはずなのに――頭だけが冴えていた。

(……眠れない)

瞼を閉じると、浮かぶのは切り裂かれた地面、倒れる人、そして――
分断されたあの瞬間。

自分の名を呼ぶ声。
必死で、焦りを隠しきれていなかった声。

――エルンスト。

安心したはずなのに、胸の奥がざわついている。
それと同時に、もう一つの視線も、確かに覚えていた。

すぐ近くで、ずっと離れなかった気配。
守るようで、囲うようで。
一歩、判断が違えば――と思わせる距離。

「……アイナ」

低く抑えた声が、夜を割った。

振り向くと、そこに立っていたのはヴィルだった。
焚き火の明かりを背にして、表情は半分、影に沈んでいる。

「起きてたのか」

「……うん」

それ以上の言葉が出てこない。
沈黙が、妙に重い。

ヴィルは数歩近づき、アイナの前に腰を下ろした。
近い。
いつもと同じ距離のはずなのに、今日は違って感じた。

「無事でよかった」

その声は、優しかった。
だからこそ、胸がきゅっと締まる。

「……怖かったか?」

一瞬、答えに詰まる。

嘘をつくべきか。
本当を言うべきか。

「……少し」

絞り出すように答えると、ヴィルの喉が、ごくりと鳴った。

「そっか」

短い一言。
その直後、ヴィルの手が伸びてきて、アイナの手首を掴んだ。

びくり、と身体が跳ねる。

「ヴィ、ル……?」

掴む力は強くない。
逃げようと思えば、振りほどける程度。
けれど、その手は熱を持っていた。

「……なぁ」

声が、低い。

「今日みたいなこと、もう二度と起きてほしくない」

視線が絡む。
焚き火の揺らめきの中で、ヴィルの瞳が異様に濃く見えた。

「俺が傍にいれば……」

言葉が、途切れる。
その続きを、アイナは直感的に理解してしまった。

(だめ)

心臓が早鐘を打つ。

「ヴィル、それは――」

一歩、距離が詰まる。
呼吸が、近い。

このまま、夜と疲労と恐怖に流されれば。
きっと、越えてしまう。

幼馴染という境界線を。
戻れない一線を。

その瞬間。

ふっと、脳裏に浮かんだ。

青い髪。
静かな眼差し。
「大丈夫だ。俺が必ず君を守る」

――帰る、と手信号を送った先。

「……ごめん」

アイナは、はっきりとそう言っていた。

ヴィルの手から、するりと抜ける。
距離を取る。

「ヴィルは、大切な幼馴染だよ」

その言葉は、優しくも、残酷だった。

一瞬、ヴィルの表情が凍る。
次の瞬間、ゆっくりと、笑った。

「……だよな」

乾いた笑い。

「変なこと言った。忘れてくれ」

立ち上がる背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。

「休め。明日も早い」

それだけ言って、ヴィルは闇の中へ戻っていく。

アイナは、その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。

(……踏み越えかけた)

恐怖と、安堵と、罪悪感が混ざり合う。

夜は静かだ。
けれど、人の心だけが、こんなにも騒がしい。

アイナは胸に手を当て、深く息を吐いた。

(私は……)

誰の傍へ帰りたいのか。

答えは、もう――
静かに、はっきりと、心の中にあった。

闇の向こう、別の場所で。

ヴィルは、拳を握りしめていた。
そしてエルンストは、まだ眠れずに、夜を見つめていた。

それぞれが、同じ静寂の中で。
違う一線を、見つめながら。



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