モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

文字の大きさ
58 / 209

踏み越えそうになる瞬間

夜は、残酷なほど静かだった。

魔の森の喧騒が嘘のように消え、焚き火の爆ぜる音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが残っている。
血と土と魔力の匂いがまだ空気に溶けているのに、世界は強制的に「終わった顔」をしていた。

アイナは、簡易幕舎の外で膝を抱えて座っていた。
治癒魔術師としての役目は終わっている。
身体も、魔力も、限界を越えているはずなのに――頭だけが冴えていた。

(……眠れない)

瞼を閉じると、浮かぶのは切り裂かれた地面、倒れる人、そして――
分断されたあの瞬間。

自分の名を呼ぶ声。
必死で、焦りを隠しきれていなかった声。

――エルンスト。

安心したはずなのに、胸の奥がざわついている。
それと同時に、もう一つの視線も、確かに覚えていた。

すぐ近くで、ずっと離れなかった気配。
守るようで、囲うようで。
一歩、判断が違えば――と思わせる距離。

「……アイナ」

低く抑えた声が、夜を割った。

振り向くと、そこに立っていたのはヴィルだった。
焚き火の明かりを背にして、表情は半分、影に沈んでいる。

「起きてたのか」

「……うん」

それ以上の言葉が出てこない。
沈黙が、妙に重い。

ヴィルは数歩近づき、アイナの前に腰を下ろした。
近い。
いつもと同じ距離のはずなのに、今日は違って感じた。

「無事でよかった」

その声は、優しかった。
だからこそ、胸がきゅっと締まる。

「……怖かったか?」

一瞬、答えに詰まる。

嘘をつくべきか。
本当を言うべきか。

「……少し」

絞り出すように答えると、ヴィルの喉が、ごくりと鳴った。

「そっか」

短い一言。
その直後、ヴィルの手が伸びてきて、アイナの手首を掴んだ。

びくり、と身体が跳ねる。

「ヴィ、ル……?」

掴む力は強くない。
逃げようと思えば、振りほどける程度。
けれど、その手は熱を持っていた。

「……なぁ」

声が、低い。

「今日みたいなこと、もう二度と起きてほしくない」

視線が絡む。
焚き火の揺らめきの中で、ヴィルの瞳が異様に濃く見えた。

「俺が傍にいれば……」

言葉が、途切れる。
その続きを、アイナは直感的に理解してしまった。

(だめ)

心臓が早鐘を打つ。

「ヴィル、それは――」

一歩、距離が詰まる。
呼吸が、近い。

このまま、夜と疲労と恐怖に流されれば。
きっと、越えてしまう。

幼馴染という境界線を。
戻れない一線を。

その瞬間。

ふっと、脳裏に浮かんだ。

青い髪。
静かな眼差し。
「大丈夫だ。俺が必ず君を守る」

――帰る、と手信号を送った先。

「……ごめん」

アイナは、はっきりとそう言っていた。

ヴィルの手から、するりと抜ける。
距離を取る。

「ヴィルは、大切な幼馴染だよ」

その言葉は、優しくも、残酷だった。

一瞬、ヴィルの表情が凍る。
次の瞬間、ゆっくりと、笑った。

「……だよな」

乾いた笑い。

「変なこと言った。忘れてくれ」

立ち上がる背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。

「休め。明日も早い」

それだけ言って、ヴィルは闇の中へ戻っていく。

アイナは、その背中を見送ったまま、しばらく動けなかった。

(……踏み越えかけた)

恐怖と、安堵と、罪悪感が混ざり合う。

夜は静かだ。
けれど、人の心だけが、こんなにも騒がしい。

アイナは胸に手を当て、深く息を吐いた。

(私は……)

誰の傍へ帰りたいのか。

答えは、もう――
静かに、はっきりと、心の中にあった。

闇の向こう、別の場所で。

ヴィルは、拳を握りしめていた。
そしてエルンストは、まだ眠れずに、夜を見つめていた。

それぞれが、同じ静寂の中で。
違う一線を、見つめながら。



感想 28

あなたにおすすめの小説

せっかく転生したのにモブにすらなれない……はずが溺愛ルートなんて信じられません

嘉月
恋愛
隣国の貴族令嬢である主人公は交換留学生としてやってきた学園でイケメン達と恋に落ちていく。 人気の乙女ゲーム「秘密のエルドラド」のメイン攻略キャラは王立学園の生徒会長にして王弟、氷の殿下こと、クライブ・フォン・ガウンデール。 転生したのはそのゲームの世界なのに……私はモブですらないらしい。 せめて学園の生徒1くらいにはなりたかったけど、どうしようもないので地に足つけてしっかり生きていくつもりです。 少しだけ改題しました。ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします。

治療係ですが、公爵令息様がものすごく懐いて困る~私、男装しているだけで、女性です!~

百門一新
恋愛
男装姿で旅をしていたエリザは、長期滞在してしまった異国の王都で【赤い魔法使い(男)】と呼ばれることに。職業は完全に誤解なのだが、そのせいで女性恐怖症の公爵令息の治療係に……!?「待って。私、女なんですけども」しかも公爵令息の騎士様、なぜかものすごい懐いてきて…!? 男装の魔法使い(職業誤解)×女性が大の苦手のはずなのに、ロックオンして攻めに転じたらぐいぐいいく騎士様!? ※小説家になろう様、ベリーズカフェ様、カクヨム様にも掲載しています。

転生したら乙女ゲームの主人公の友達になったんですが、なぜか私がモテてるんですが?

山下小枝子
恋愛
田舎に住むごく普通のアラサー社畜の私は車で帰宅中に、 飛び出してきた猫かたぬきを避けようとしてトラックにぶつかりお陀仏したらしく、 気付くと、最近ハマっていた乙女ゲームの世界の『主人公の友達』に転生していたんだけど、 まぁ、友達でも二次元女子高生になれたし、 推しキャラやイケメンキャラやイケオジも見れるし!楽しく過ごそう!と、 思ってたらなぜか主人公を押し退け、 攻略対象キャラからモテまくる事態に・・・・ ちょ、え、これどうしたらいいの!!!嬉しいけど!!!

記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】

かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。 名前も年齢も住んでた町も覚えてません。 ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。 プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。 小説家になろう様にも公開してます。

前世の記憶しかない元侯爵令嬢は、訳あり大公殿下のお気に入り。(注:期間限定)

miy
恋愛
(※長編なため、少しネタバレを含みます) ある日目覚めたら、そこは見たことも聞いたこともない…異国でした。 ここは、どうやら転生後の人生。 私は大貴族の令嬢レティシア17歳…らしいのですが…全く記憶にございません。 有り難いことに言葉は理解できるし、読み書きも問題なし。 でも、見知らぬ世界で貴族生活?いやいや…私は平凡な日本人のようですよ?…無理です。 “前世の記憶”として目覚めた私は、現世の“レティシアの身体”で…静かな庶民生活を始める。 そんな私の前に、一人の貴族男性が現れた。 ちょっと?訳ありな彼が、私を…自分の『唯一の女性』であると誤解してしまったことから、庶民生活が一変してしまう。 高い身分の彼に関わってしまった私は、元いた国を飛び出して魔法の国で暮らすことになるのです。 大公殿下、大魔術師、聖女や神獣…等など…いろんな人との出会いを経て『レティシア』が自分らしく生きていく。 という、少々…長いお話です。 鈍感なレティシアが、大公殿下からの熱い眼差しに気付くのはいつなのでしょうか…? ※安定のご都合主義、独自の世界観です。お許し下さい。 ※ストーリーの進度は遅めかと思われます。 ※現在、不定期にて公開中です。よろしくお願い致します。 公開予定日を最新話に記載しておりますが、長期休載の場合はこちらでもお知らせをさせて頂きます。 ※ド素人の書いた3作目です。まだまだ優しい目で見て頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。 ※初公開から2年が過ぎました。少しでも良い作品に、読みやすく…と、時間があれば順次手直し(改稿)をしていく予定でおります。(現在、146話辺りまで手直し作業中) ※章の区切りを変更致しました。(9/22更新)

主人公の義兄がヤンデレになるとか聞いてないんですけど!?

玉響なつめ
恋愛
暗殺者として生きるセレンはふとしたタイミングで前世を思い出す。 ここは自身が読んでいた小説と酷似した世界――そして自分はその小説の中で死亡する、ちょい役であることを思い出す。 これはいかんと一念発起、いっそのこと主人公側について保護してもらおう!と思い立つ。 そして物語がいい感じで進んだところで退職金をもらって夢の田舎暮らしを実現させるのだ! そう意気込んでみたはいいものの、何故だかヒロインの義兄が上司になって以降、やたらとセレンを気にして――? おかしいな、貴方はヒロインに一途なキャラでしょ!? ※小説家になろう・カクヨムにも掲載

【完結済】私、地味モブなので。~転生したらなぜか最推し攻略対象の婚約者になってしまいました~

降魔 鬼灯
恋愛
マーガレット・モルガンは、ただの地味なモブだ。前世の最推しであるシルビア様の婚約者を選ぶパーティーに参加してシルビア様に会った事で前世の記憶を思い出す。 前世、人生の全てを捧げた最推し様は尊いけれど、現実に存在する最推しは…。 ヒロインちゃん登場まで三年。早く私を救ってください。

心が読める私に一目惚れした彼の溺愛はややヤンデレ気味です。

三月べに
恋愛
古川七羽(こがわななは)は、自分のあか抜けない子どもっぽいところがコンプレックスだった。 新たに人の心を読める能力が開花してしまったが、それなりに上手く生きていたつもり。 ひょんなことから出会った竜ヶ崎数斗(りゅうがざきかずと)は、紳士的で優しいのだが、心の中で一目惚れしたと言っていて、七羽にグイグイとくる! 実は御曹司でもあるハイスペックイケメンの彼に押し負ける形で、彼の親友である田中新一(たなかしんいち)と戸田真樹(とだまき)と楽しく過ごしていく。 新一と真樹は、七羽を天使と称して、妹分として可愛がってくれて、数斗も大切にしてくれる。 しかし、起きる修羅場に、数斗の心の声はなかなか物騒。 ややヤンデレな心の声!? それでも――――。 七羽だけに向けられるのは、いつも優しい声だった。 『俺、失恋で、死んじゃうな……』 自分とは釣り合わないとわかりきっていても、キッパリと拒めない。二の足を踏む、じれじれな恋愛模様。 傷だらけの天使だなんて呼ばれちゃう心が読める能力を密かに持つ七羽は、ややヤンデレ気味に溺愛してくる数斗の優しい愛に癒される? 【心が読める私に一目惚れした彼の溺愛はややヤンデレ気味です。】『なろうにも掲載』