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幼馴染という立場
ギリギリだった。
本当に、紙一重だった。
夜の冷たい空気が肺に刺さる。
それでも、眠れなかった。
目を閉じるたびに、あの瞬間が何度も再生される。
――アイナの瞳に、浮かんだ恐怖。
あれは、俺が初めて見た色だった。
驚きでも、不安でもない。
もっと深いところから湧き上がる、拒絶に近い感情。
胸の奥が、ぎしりと音を立てた。
(……やりすぎた)
わかっている。
理性では、はっきりと理解している。
あの状況で、これ以上踏み込めば。
一歩でも、距離を詰めれば。
アイナは、俺から逃げる。
それだけは――
それだけは、絶対に駄目だ。
寝台の上で身を起こし、乱れた前髪を掻き上げる。
外は静まり返っている。
魔の森での喧騒が嘘のような、重たい静寂。
(……眠れねぇ)
衝動に押されるように、外へ出た。
夜風が肌を撫でる。
月明かりに照らされた中庭。
――いた。
月光の下、ひとり佇む小さな影。
肩を抱くように腕を組み、俯いている。
アイナ。
胸が、きつく締め付けられた。
(……お前も、眠れなかったのか)
足音を殺し、近づく。
距離を詰めすぎないよう、慎重に。
「……アイナ」
声をかけた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。
振り返ったその表情を見て、息が止まる。
――警戒。
はっきりと、そうわかる目だった。
今まで向けられてきた、無条件の信頼。
当たり前の安心。
それが、そこにはなかった。
(……くそ)
胸の奥が、ざわつく。
焦りが、じわじわと滲み出てくる。
「……眠れなかったのか?」
できるだけ、いつも通りに。
幼馴染としての声音をなぞる。
「……うん」
短い返事。
距離は縮まらない。
昔なら、ここで笑って、他愛もない話をして。
気づけば隣に並んでいた。
今は――
見えない壁がある。
(なんでだよ)
喉の奥が、ひりつく。
俺を見ろよ。
俺の方を見てくれ。
昔みたいに。
何も疑わず、安心しきった顔で。
(……違う)
心のどこかで、わかっている。
あの視線は、もう俺だけのものじゃない。
アイナの世界に、別の男が入り込んだ。
それを、はっきりと突きつけられた。
(エルンスト……)
名を思い浮かべるだけで、胸が黒く濁る。
奪われた、という感覚。
縄張りを侵された獣の、本能的な怒り。
でも――
今、ここでそれを表に出せば。
アイナは、完全に離れていく。
それだけは、耐えられない。
「……冷えるぞ」
そう言って、自分の外套を差し出しかけて、止めた。
一瞬の迷い。
昔なら、迷わず羽織らせていた。
今は、それすら躊躇う自分がいる。
アイナは、少しだけ首を振った。
「大丈夫」
その一言が、胸に刺さる。
(……遠くなったな)
でも。
それでも。
今、踏み込めば終わる。
取り返しがつかなくなる。
だったら――
幼馴染という立場。
それは、永遠に傍にいられる場所。
誰にも咎められない。
拒絶されにくい、最も安全な距離。
(そうだ)
俺は、幼馴染だ。
それなら、離れない。
エルンストがいようが。
どれだけ想いを向けられようが。
最後に、戻ってくる場所は――
俺でいい。
あいつが、もし消えた時。
傷ついた時。
裏切られた時。
俺が、抱き締めてやれる。
それでいい。
それが、一番だ。
(……なぁ、アイナ)
喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
今は、言わない。
言えない。
ただ、隣に立つ。
それだけでいい。
夜の静寂の中、二人の影は並んでいた。
触れそうで、触れられない距離。
俺は、月を仰ぎながら、心の奥で呟く。
――はやく、消えてくれ。
エルンスト。
その時が来れば。
俺は、迷わず――
幼馴染の顔で、アイナを抱き締める。
本当に、紙一重だった。
夜の冷たい空気が肺に刺さる。
それでも、眠れなかった。
目を閉じるたびに、あの瞬間が何度も再生される。
――アイナの瞳に、浮かんだ恐怖。
あれは、俺が初めて見た色だった。
驚きでも、不安でもない。
もっと深いところから湧き上がる、拒絶に近い感情。
胸の奥が、ぎしりと音を立てた。
(……やりすぎた)
わかっている。
理性では、はっきりと理解している。
あの状況で、これ以上踏み込めば。
一歩でも、距離を詰めれば。
アイナは、俺から逃げる。
それだけは――
それだけは、絶対に駄目だ。
寝台の上で身を起こし、乱れた前髪を掻き上げる。
外は静まり返っている。
魔の森での喧騒が嘘のような、重たい静寂。
(……眠れねぇ)
衝動に押されるように、外へ出た。
夜風が肌を撫でる。
月明かりに照らされた中庭。
――いた。
月光の下、ひとり佇む小さな影。
肩を抱くように腕を組み、俯いている。
アイナ。
胸が、きつく締め付けられた。
(……お前も、眠れなかったのか)
足音を殺し、近づく。
距離を詰めすぎないよう、慎重に。
「……アイナ」
声をかけた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。
振り返ったその表情を見て、息が止まる。
――警戒。
はっきりと、そうわかる目だった。
今まで向けられてきた、無条件の信頼。
当たり前の安心。
それが、そこにはなかった。
(……くそ)
胸の奥が、ざわつく。
焦りが、じわじわと滲み出てくる。
「……眠れなかったのか?」
できるだけ、いつも通りに。
幼馴染としての声音をなぞる。
「……うん」
短い返事。
距離は縮まらない。
昔なら、ここで笑って、他愛もない話をして。
気づけば隣に並んでいた。
今は――
見えない壁がある。
(なんでだよ)
喉の奥が、ひりつく。
俺を見ろよ。
俺の方を見てくれ。
昔みたいに。
何も疑わず、安心しきった顔で。
(……違う)
心のどこかで、わかっている。
あの視線は、もう俺だけのものじゃない。
アイナの世界に、別の男が入り込んだ。
それを、はっきりと突きつけられた。
(エルンスト……)
名を思い浮かべるだけで、胸が黒く濁る。
奪われた、という感覚。
縄張りを侵された獣の、本能的な怒り。
でも――
今、ここでそれを表に出せば。
アイナは、完全に離れていく。
それだけは、耐えられない。
「……冷えるぞ」
そう言って、自分の外套を差し出しかけて、止めた。
一瞬の迷い。
昔なら、迷わず羽織らせていた。
今は、それすら躊躇う自分がいる。
アイナは、少しだけ首を振った。
「大丈夫」
その一言が、胸に刺さる。
(……遠くなったな)
でも。
それでも。
今、踏み込めば終わる。
取り返しがつかなくなる。
だったら――
幼馴染という立場。
それは、永遠に傍にいられる場所。
誰にも咎められない。
拒絶されにくい、最も安全な距離。
(そうだ)
俺は、幼馴染だ。
それなら、離れない。
エルンストがいようが。
どれだけ想いを向けられようが。
最後に、戻ってくる場所は――
俺でいい。
あいつが、もし消えた時。
傷ついた時。
裏切られた時。
俺が、抱き締めてやれる。
それでいい。
それが、一番だ。
(……なぁ、アイナ)
喉元まで出かかった言葉を、飲み込む。
今は、言わない。
言えない。
ただ、隣に立つ。
それだけでいい。
夜の静寂の中、二人の影は並んでいた。
触れそうで、触れられない距離。
俺は、月を仰ぎながら、心の奥で呟く。
――はやく、消えてくれ。
エルンスト。
その時が来れば。
俺は、迷わず――
幼馴染の顔で、アイナを抱き締める。
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