モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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アイナの日記

夜の寮は、いつもより静かだった。
窓の外では風が木々を揺らしているのに、その音さえ遠く感じる。

ランプに灯りをともして、机に向かう。
日記帳を開く指先が、少しだけ迷った。

今日は――
行かなかった。

行けなかった、の方が正しいのかもしれない。

エルンストが待っているだろう場所へ。
いつものように、何気ない顔で歩いていくことが、どうしても出来なかった。

(……ヴィルの、あの視線)

腕を掴まれた瞬間の、ぞくりとした感覚が、まだ皮膚に残っている。
問い詰められたわけじゃない。
責められたわけでもない。

ただ、覗き込まれただけ。

それなのに――
胸の奥が、冷たくなった。

私は、何か悪いことをしているんだろうか。
恋人でもないのに。
約束もしていないのに。

それでも。

エルンストのことを考えると、胸が苦しくなる。
声を思い出す。
指が触れた感触を思い出す。
あの、何も言わずに見つめてくる瞳を。

(……会いたかった)

今日、行かなかったことを後悔している。
きっと、待っていた。
そう思うだけで、胸が締めつけられる。

日記帳に、ゆっくりと文字を書きつける。

――今日は、行けなかった。
――理由は、うまく言葉にできない。
――でも、行かなかった自分を、少し嫌いになった。

ペン先が止まる。

(……怖いのは、ヴィル?)

違う。
それだけじゃない。

(……エルンストを失うかもしれない、って思った)

その可能性が、はっきり浮かんだ瞬間。
身体が、動かなくなった。

私は、逃げた。
今日は、確かに。

でも――

ページの下に、少し強くペンを走らせる。

――それでも、会いたい。
――触れたい。
――声を聞きたい。

――この気持ちは、もう誤魔化せない。

日記帳を閉じて、胸に抱きしめる。
心臓の音が、やけに大きい。

エルンストは、今、何を思っているんだろう。
怒っている?
不安になっている?
それとも……何も感じていない?

(……それは、いやだ)

枕に顔を埋める。
布越しに、声にならない息が漏れた。

「……ごめんなさい」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

ただひとつ、はっきりしているのは――
今日、行かなかったことで。

私の中の何かが、
静かに、でも確実に、軋み始めているということだった。

ランプの灯を落とす。
暗闇の中で、目を閉じても。

眠りは、なかなか訪れてくれなかった。



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