モブでいたはずの私が、ただひとりに溺愛されるまで

ChaCha

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手信号

朝の学園は、相変わらずきちんとしていて、少し冷たい。
石造りの回廊に反射する靴音、窓から差し込む柔らかな光、紙の匂い。
何も変わらないはずなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。

座学の日。
私はいつものように、無意識に窓側の席を選ぶ。

椅子に腰掛け、ノートを開き、羽ペンを置く。
――その一連の動作は、もう体が覚えている。

それでも。

(……あ)

視線が、勝手に動いた。

騎士科が見える位置。
そこに、彼はいた。

(エルンスト)

探そうとしたわけじゃない。
ただ、目に入っただけ。

でも、それが当たり前になってしまっていることに、胸がきゅっと締め付けられる。

(いつの間にか……)

以前は、遠くにいる姿を見られるだけで十分だった。
同じ学園にいる、それだけで満足できていた。

なのに。

(今までは、眺めているだけでもよかったのに)

彼は今、こちらに気づいていない。
騎士科の仲間と何かを話しながら、教壇の方へ視線を向けている。

その横顔を見つめながら、胸の奥に、じわりと広がる感情。

(……寂しい)

理由なんて、はっきりしている。

(こっちを向いて)

心の中で、そっと呼ぶ。

(あなたの声を、傍で聞きたい)

――ただ、それだけなのに。

指先が、無意識にノートの端をなぞっていた。
書くべき内容は理解している。
教官の話も、ちゃんと耳に入っている。

それでも、心が、彼の方へ引っ張られてしまう。

その瞬間だった。

ふっと。

エルンストが顔を上げた。

視線が、まっすぐこちらを捉える。

一瞬。
本当に、一瞬。

けれど、確かに――合った。

胸が、強く跳ねる。

(……っ)

言葉はない。
表情も変わらない。

けれど、次の瞬間。

彼の指が、さりげなく動いた。

手信号。

「後ほど」

続けて、わずかに強めの動きで。

「はやく」
「行け」

心臓が、どくん、と音を立てた。

私は反射的に、背筋を伸ばし、同じように指を動かす。

「了解」
「目標」

それだけで、十分だった。

エルンストは、ほんの一瞬だけ口角を緩めると、次の動作に移った。

ベルトに軽く触れ、
そのまま、地面を指す。

そして、指先で、小さく円を描く。

――場所。

(……あ)

胸の奥に、熱が走る。

私も、すぐに理解した。

「了解」

心の中で繰り返しながら、視線をノートに戻す。

その直後。

始業のベルが鳴った。

澄んだ音が、学園全体に響き渡る。

授業が始まる。
いつも通りの時間。
いつも通りのはずなのに。

ドキドキが、止まらない。

(どうして、こんなに……)

胸の奥が、ぎゅうっと痛む。

嬉しいはずなのに。
安心するはずなのに。

それ以上に、会えなかった時間が、こんなにも大きかったことを思い知らされる。

(……寂しかったんだ)

はっきりと、自覚してしまった。

彼が近くにいない時間。
声が聞こえない時間。
視線が交わらない時間。

それらが、こんなにも、私を不安にさせるなんて。

ノートに視線を落とし、羽ペンを走らせる。
文字は、少しだけ歪んでいた。

(……後ほど)

その二文字が、頭の中で何度も反響する。

信じられないほど、胸が痛い。

それでも。

(……行く)

授業が終わったら。
鐘が鳴ったら。

私は、きっと、そこへ向かう。

彼が示した円の中へ。

――胸の痛みを抱えたまま、
私は、ベルの余韻が消えるまで、静かに息を整えていた。


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