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吐息で溢れる訓練所
宿に着いた瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。
雪を割って進んできた高揚感が、ふっと削がれる。
迎えが、ない。
いつもなら、息を弾ませて駆けてくる足音。
名前を呼ぶ声。
少し驚いて、それから嬉しそうに見上げてくる瞳。
それが、ない。
「……アイナは?」
受付のスタッフが一瞬だけ言葉を探し、答えた。
「訓練所にいらっしゃいますよ」
訓練所。
その一語が、胸の奥に沈んだ。
冷たい水を注がれたように、熱が一段、別の形に変わる。
足が、自然と速くなる。
歩く、ではない。
追っている。
廊下の先。
雪を踏みしめる音。
木造の床が軋む感触。
近づくほど、空気が変わる。
——音だ。
吐息。
擦れる衣服。
床を打つ衝撃。
そして。
「あっ……はぁ……ふぅ……もう……」
耳に届いた、その声。
間違えようがない。
喉の奥が、ぎり、と鳴った。
息が上がり、言葉にならない音。
必死に堪えながら、それでも漏れてしまう声。
「……っ」
頭の中が、一瞬、真っ白になる。
「もっと動けるだろ?」
続いて聞こえた、男の声。
余裕がある。
楽しんでいる。
「ほら、頑張れ」
その一言で、何かが、はっきりと切れた。
——何を、見せている?
——誰に、その声を聞かせている?
訓練だ。
分かっている。
理屈では、理解している。
だが、身体は違った。
胸の奥から、どろりとした感情が湧き上がる。
焦燥。
苛立ち。
そして、焼け付くような独占欲。
見たくない。
聞きたくない。
それなのに、足は止まらない。
ドアの前に立つ。
中から溢れる熱気。
汗と、息と、体温の混ざった匂い。
——この空間に、俺のいない時間がある。
その事実が、耐えがたかった。
考えるより先に、身体が動いた。
蹴り。
鈍い音を立てて、扉が内側へ弾け飛ぶ。
一瞬の静寂。
視界に飛び込んできた光景。
床。
絡み合う影。
馬乗りになっているヴィル。
その下で、荒い呼吸を繰り返すアイナ。
汗で濡れた髪。
紅潮した頬。
潤んだ瞳。
——近い。
近すぎる。
胸の奥で、何かが暴れ出す。
理性が、警鐘を鳴らす。
だが、もう遅い。
視線が、離れない。
アイナが、こちらを見た。
息が止まったように、目を見開く。
「……エルンスト?」
その声。
俺の名前を呼ぶ、その響きだけが、世界を繋ぎ止めた。
だが同時に、別の感情が噴き上がる。
——触れられていた。
——押さえつけられていた。
——俺の知らない時間に。
胃の奥が、ひっくり返る。
ヴィルが、ゆっくりと体を起こす。
視線が、ぶつかる。
何も言わない。
だが、分かる。
奪い合いの視線だ。
空気が、凍りつく。
エルンストの胸の内で、低い声が囁く。
(……違う)
(これは、違う)
彼女は、弱っていた。
毒。
訓練。
疲労。
分かっている。
それでも。
(俺の前で、そんな顔をしろ)
(他の誰にも、見せるな)
喉の奥が、熱を帯びる。
拳が、無意識に強く握られていた。
——踏み込め。
——今なら、奪える。
そんな声が、確かにあった。
だが、同時に、別の声も聞こえる。
——ここで壊せば、戻らない。
——彼女は、逃げる。
そのせめぎ合いが、全身を引き裂く。
エルンストは、ゆっくりと息を吐いた。
視線を、アイナから外さない。
守る。
奪う。
その境界線が、今、足元で軋んでいる。
吐息で満たされた訓練所。
汗と熱と、張り詰めた沈黙。
——これは、偶然じゃない。
確信だけが、静かに、深く、胸に沈んでいった。
エルンスト視点
雪を割って進んできた高揚感が、ふっと削がれる。
迎えが、ない。
いつもなら、息を弾ませて駆けてくる足音。
名前を呼ぶ声。
少し驚いて、それから嬉しそうに見上げてくる瞳。
それが、ない。
「……アイナは?」
受付のスタッフが一瞬だけ言葉を探し、答えた。
「訓練所にいらっしゃいますよ」
訓練所。
その一語が、胸の奥に沈んだ。
冷たい水を注がれたように、熱が一段、別の形に変わる。
足が、自然と速くなる。
歩く、ではない。
追っている。
廊下の先。
雪を踏みしめる音。
木造の床が軋む感触。
近づくほど、空気が変わる。
——音だ。
吐息。
擦れる衣服。
床を打つ衝撃。
そして。
「あっ……はぁ……ふぅ……もう……」
耳に届いた、その声。
間違えようがない。
喉の奥が、ぎり、と鳴った。
息が上がり、言葉にならない音。
必死に堪えながら、それでも漏れてしまう声。
「……っ」
頭の中が、一瞬、真っ白になる。
「もっと動けるだろ?」
続いて聞こえた、男の声。
余裕がある。
楽しんでいる。
「ほら、頑張れ」
その一言で、何かが、はっきりと切れた。
——何を、見せている?
——誰に、その声を聞かせている?
訓練だ。
分かっている。
理屈では、理解している。
だが、身体は違った。
胸の奥から、どろりとした感情が湧き上がる。
焦燥。
苛立ち。
そして、焼け付くような独占欲。
見たくない。
聞きたくない。
それなのに、足は止まらない。
ドアの前に立つ。
中から溢れる熱気。
汗と、息と、体温の混ざった匂い。
——この空間に、俺のいない時間がある。
その事実が、耐えがたかった。
考えるより先に、身体が動いた。
蹴り。
鈍い音を立てて、扉が内側へ弾け飛ぶ。
一瞬の静寂。
視界に飛び込んできた光景。
床。
絡み合う影。
馬乗りになっているヴィル。
その下で、荒い呼吸を繰り返すアイナ。
汗で濡れた髪。
紅潮した頬。
潤んだ瞳。
——近い。
近すぎる。
胸の奥で、何かが暴れ出す。
理性が、警鐘を鳴らす。
だが、もう遅い。
視線が、離れない。
アイナが、こちらを見た。
息が止まったように、目を見開く。
「……エルンスト?」
その声。
俺の名前を呼ぶ、その響きだけが、世界を繋ぎ止めた。
だが同時に、別の感情が噴き上がる。
——触れられていた。
——押さえつけられていた。
——俺の知らない時間に。
胃の奥が、ひっくり返る。
ヴィルが、ゆっくりと体を起こす。
視線が、ぶつかる。
何も言わない。
だが、分かる。
奪い合いの視線だ。
空気が、凍りつく。
エルンストの胸の内で、低い声が囁く。
(……違う)
(これは、違う)
彼女は、弱っていた。
毒。
訓練。
疲労。
分かっている。
それでも。
(俺の前で、そんな顔をしろ)
(他の誰にも、見せるな)
喉の奥が、熱を帯びる。
拳が、無意識に強く握られていた。
——踏み込め。
——今なら、奪える。
そんな声が、確かにあった。
だが、同時に、別の声も聞こえる。
——ここで壊せば、戻らない。
——彼女は、逃げる。
そのせめぎ合いが、全身を引き裂く。
エルンストは、ゆっくりと息を吐いた。
視線を、アイナから外さない。
守る。
奪う。
その境界線が、今、足元で軋んでいる。
吐息で満たされた訓練所。
汗と熱と、張り詰めた沈黙。
——これは、偶然じゃない。
確信だけが、静かに、深く、胸に沈んでいった。
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