アマービレ・ブリオーソ・アモローソ amabile,brioso,amoroso.

椎葉ユズル

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18章

18章①

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 この家に足を踏み入れるのは、何年ぶりだろうか。
 生まれ育った家。鬱蒼とした木立の中、佇む洋館。両開きの玄関のドアを開けると、軋むこともなくすんなり開いた。

「中学卒業以来?」
 車を出してくれた龍生りゅうせいが尻ポケットに手を突っ込んだまま尋ねてくる。
「……そうだな」
 お化け屋敷みたいに埃まみれになっているかと思っていたのに、掃除が行き届いているのに驚いて、隣で天井を仰ぐ龍生を見る。
「まさか……」
「管理してたのは颯だからな。ちゃんと礼言っとけよ」

『明後日には戻るから。絶対、家にいて。絶対だよ』
 くどいくらいに念押しして、電話を切った光希の声が蘇る。

 ――家に、帰る。もう何年も帰っていない。家族三人の、思い出のつまった家。
 カウンター越し、縋るように、柊吾と岳大の顔を見上げる。二人とも、穏やかな顔で智弥を見返してきた。――鍵なら、ずっと持っている。


 二階への階段を上がって広間を抜けるとサンルームが見えてくる。燦燦と降り注ぐ陽射しの中。それは主を待っていた。――長い、長い間。

 エマの――母の白いピアノ。

 智弥がサンルームに入ると、ちょうどエプロン姿の柊吾がすぐ横に立って、大屋根を綺麗に拭きあげているところだった。

「……柊吾さん」
「今なら、弾けるんじゃないか。小犬のワルツ」

 普段なかなか表情を崩さない柊吾が、にっこりと微笑み、どうぞと言うように椅子を引いてくれた。

 鍵盤を前に、目を閉じる。母の面影が脳裏をよぎる。優しい笑み。軽やかな指先。――私の宝物。そう言って抱きしめてくれた細い腕。

 すう、と息を吸って、指を鍵盤に置いた。
 ショパン、ワルツ第六番変ニ長調作品六十四の一、「小犬のワルツ」。

 小犬がくるくると自分のしっぽを追いかけて遊んでいる様子から生まれたというこの曲。楽し気な、軽快なワルツ。中間部には華やかなメロディーラインが色を添える。二つが合わさって優雅な雰囲気を醸し出す。

 ――ほら、この曲、智弥みたいでしょ。

 エマのピアノを弾く姿を見るのが好きだった。嬉しくて、ピアノの周りをくるくると走り回っていると、そう言って楽し気に笑ってくれた。
 エマがピアノを弾きだすと、決まって和鷹がバイオリンを手に現れ、二重奏が始まる。智弥はますます嬉しくなって、もっともっと跳ね回る。

 悲しくなると思っていた。この曲を弾くと、もう戻ってこないあの頃を思い出して。

 自分がこのピアノを弾くことで、和鷹を悲しませると思っていた。和鷹は自分を恨んでいる。そう思うこともあった。――智弥を産むことで、病弱だったエマの死期を早めてしまった。そのことを恨んでいるのではないかと。

『たとえそうだとしても、子どもを望んだのはエマだよ。その気持ちを尊重してあげて……ってなんで和鷹には分かんないかなあ。ほんっとに独りよがりなんだから』

 酒が入ると、颯がいつも口癖のように言う。男しか愛せないと言う颯が唯一、女性で心を寄せる相手。

『エマは僕の天使なんだよ』
 優しい微笑み。病魔に侵され、苦しいときもあっただろう。だが思い出すのはいつも楽しげなエマの微笑みだった。

『僕だって生きがいを失くしたのに、一人だけ不幸を背負ったようなカオしてさ』
 和鷹のバカ、と肩を震わす颯を何度見てきただろう。

『私、幸せよ。和鷹もいて、智弥が生まれてきてくれて。私を幸せにしてくれてありがとう。だから――』
 悲しみを突き抜けて、光を見つけて。……私がいなくなったとしても。
 見つけようと思えば、きっと探し出せるから。

 ――智弥。

 突然、霧が晴れたようにエマの顔が鮮明に蘇った。
 ああ、そうだな。母さんの顔、俺に似てるな。
 ――うふふ。ピアノの弾き方は全然違うのにね。
 と、エマが笑った気がした。


 

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