身代わりの花嫁は傷あり冷酷騎士に執愛される

砂城

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1巻

1-1

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   プロローグ


 大陸の南東部に位置するクレストン王国。
 安定した気候と肥沃な国土、それにいくつもの良質な港をもつこの国は、豊富な作物と貿易により栄え、文化の質も高い。おかげで大陸の華と呼ばれているが、その国力目当てに周辺の国々からたんたんと狙われていた。
 過去には幾度もの侵攻を受けたものの、そのたびに豊かな国力に裏打ちされた軍事力で撃退した上、近年は国王のたくみな外交手腕により、その頻度も下がり、国民はあんしている。
 平和をおうするクレストン王国であるものの、そんな時代においても語り継がれる一つの戦いがあった。


 それは今から二十年と少し前のことだ。
 その当時、王国の北に好戦的な国があった。
 そこは険しい山々がつらなり、いくつもの少数民族が住まう場所だったが、ある時、それらを束ねる『英雄』が現れたのだ。
 英雄は周囲の民族を次々に従え、その地で初めての統一国家を作り上げたのである。
 そこまではいい――が、以前のように農耕には向かない土地で遊牧の片手間に作るわずかな作物だけでは、とても一国を支えられない。
 だとすれば、どうするか……当然、その英雄王は豊かな隣国であるクレストン王国に侵攻の手を伸ばした。
 遊牧の民であったその国の人間は気性が荒く、戦闘ともなればすさまじい力を発揮する。
 それを迎え撃つクレストン王国の軍ももちろんよく訓練されてはいたが、機動力を駆使した英雄王の戦い方に苦戦をいられた。
 そんな中、最も激しい戦場となったのが、王国の北に位置する辺境伯領である。
 隣国との国境線を含むその地域はまさに最前線となり、幾日も激しい戦いが続いた。
 王国中からの援軍を得ていたものの、攻勢はまず、やがて指揮をる辺境伯自身も深手を負い、一時は領都を落とされかけるほどとなる。
 北の守りである辺境伯領が落ちれば、その後は王国中がじゅうりんされるのは明白だ。それだけは阻止せねばならぬと、傷を負いながらも命をして再び戦場に立った辺境伯だったが、劣勢は隠しようもない。
 その時。彼の友人であったとある侯爵家の当主が、敵軍の囲みを突破しその隣に並び立ったのだ。
 命を惜しんでできることではない。
 国のため――それ以上に、友の命を救うために武器をふるう姿とそのゆうに力づけられ再び力を得たクレストン王国軍は、激しい戦いの末に英雄王その人を打ち取った。
 その結果、旗印となる王を失った軍勢は、それまでの勢いが嘘のように、散り散りに追われ北へ逃げ帰り、クレストン王国の危機は去ったのだ。
 この功により、戦いに参加したすべての者たちに王家より褒賞が贈られた。
 特に功のあった辺境伯家も厚くむくわれたが、当主が最も感謝したのは王家ではなく、危機に駆け付けてくれた友人である。
 その感謝をどう表せばいいか――話し合いの結果、二人の間で一つの約束事が取り交わされた。
 この友情を永遠のものとするために、互いの子孫をめあわせよう、と。
 ただ、残念なことにこの時、互いの家には釣り合いのとれる未婚の男女がおらず、その約束は次代に引き継がれることとなる。
 その辺境伯の家名はラファージュ。友人である侯爵家はマチスといった。


「――わぁっ! それじゃ、お母様とお父様は、そんな昔から結婚のお約束をしていたの?」

 うららかな昼下がり。
 気持ちの良い風の吹く庭園で、両親から聞く自分の曽祖父たちの武勇伝に目を輝かせていた子どもが、無邪気に尋ねる。

「そういうわけでは……いや、確かにそうかもしれんが……」

 素直に肯定するには少々込み入った事情がある。が、それをまだ幼い我が子に話してもいいものだろうか。
 困った顔になる夫に、妻は小さく笑いながら続けた。

「ふふっ。確かに、そうとも考えられるわね。けれど、本当のところ、お父様と初めてお会いした時はね……」
「ま、待て! その話は、また今度にしようっ」

 もう何年も前のことなのに、いまだにその頃の話をすると、夫は冷や汗をかくようだ。

「ええ、どうして? 聞きたいのにぃ」
「お父様がおっしゃっているのだから、我慢しなくてはね……ね?」
「……はーい」

 好奇心おうせいな子に食い下がられ、母の威厳(?)をこめた笑顔で念押しする。
 夫はそのことに感謝しつつ、自分のかたわらで笑う妻と子を見て我が身の幸せをかみしめ、ふと過去の出来事に思いをはせた。
『あの頃』は、こんな幸せが自分に与えられるとは思ってもみなかった、と。



   第一章


「初めてお目にかかります。マチス侯爵が二女リリアン・レナ・マチスにございます。ラファージュ辺境伯家ご子息ユーグ様の妻となるために参りました。不束者ふつつかものではございますが、なにとぞよろしくお引き回しくださいますようお願いいたします」

 北の辺境にある城塞都市。その中央にある大きな屋敷は、使われている素材は上質なものだが、見た目は質素――というよりもしつじつごうけんという言葉がよく似合う。
 その来客用の応接室で、主一家に挨拶あいさつした女性は、見事なカーテシーを披露しつつ深々と頭を下げた。
 年の頃は一八、九あたりだろう。銀に輝く髪をいただく顔はせて頬骨が浮き上がり、体も少しでも乱暴に触れれば折れてしまいそうなほど細い。身につけているものも侯爵家の息女にしてはかなりつつましやかだ。
 それでもその口上こうじょうは堂々としたものであり、立ち居振る舞いも今すぐ王の前に出しても恥ずかしくない出来栄えだった。

「リリアン殿……と言われたか? マチス候の二女であられると? 確かに我が息子とマチス候のご息女とは、婚姻の約をしていたが……」

 とはいえ、そう言われた相手はまどいを隠しきれない。なぜなら――

「はい。本来でありますれば、この場にいるのは皆様がご存じの姉のテレーズのはずでございました。ですが、お知らせいたしましたとおり姉の体にさわりがおこりまして、こちらにとつぐことができなくなりました。そのため、父の命により、私が参りました」
「まぁ……」
「なんと……」

 彼女――リリアンの言葉に絶句したのは、この屋敷の主であるラファージュ辺境伯とその夫人だ。

「突然のことで、さぞや驚かれたと存じます。本当に申し訳ありません」

 再度、深々とこうべを垂れるリリアンが心底申し訳なく思っているのがよくわかるため、ラファージュ辺境伯夫妻も彼女を責めようという気にはなれなかった。
 確かに婚姻の約をしていたのは、リリアンの姉である。
 しかし、その姉の体に差しさわりができた。それがどのようなものかはわからないが、嫡子にとつぐのに不都合なものならば、代わりに妹を、というのは貴族としては理解できる話である。
 ただ、そういう事情があったとしても……

「本来であれば、我が父自らがこちらに伺い、ことの次第をおびするのが筋です。ですが、あまりに急なことでございまして、その処理のために父は王都を離れられませんでした。早馬を走らせましたが、婚姻の日時が迫っていたこともあり、お返事を待たずに私がこちらにまかり越した次第でございます」

 国内の有力な家同士が婚姻を結ぶには、王家の許可が必要だ。ラファージュ辺境伯家とマチス侯爵家の縁組ももちろん、その許可を得ているが、あくまでそれはリリアンの姉がとつぐ前提。その花嫁が代わったとなれば、新たな手続きが発生する。そのため、父親であるマチス候が王都を離れられないというのもわかるものの……

「早馬など、着いてはおらぬ」
「え……?」

 今度はリリアンが驚く番だった。

「もらっておらぬ手紙に、返事など出せようはずもない」
「で、ですが、確かに父に命じられ、侯爵夫人――義母がこちらへ……」

 そこまで言って、彼女は絶句する。
 その様子と『侯爵夫人』『義母』という言葉に、ラファージュ夫妻はマチス家に関するさして珍しくもない貴族の御家事情を思い出した。それを考えると、おおよその事情が理解できる。

「それでは、もしや……私がこちらに来ることになった事情も……?」
「ああ。今、初めて聞いた」
「大変、申し訳ありませんっ」

 同じく状況を理解したリリアンの顔色が青を通り越して、白くなる。
 それも当然。貴族の家に生まれたからには、政略結婚は当たり前。リリアンもそう教育されて育ってきた。
 今回のマチス家とラファージュ家の件は通常の政略結婚とはいささか事情が異なるが、それでも家同士の約束事に違いはない。だからこそ、父から急な花嫁の代役をおおせつかった時も、素直にその言葉にうなずき、ここへ来た。
 だが、それも花嫁の交代についての話はついているという前提で、だ。
 それが、ふたを開けてみれば、自分の来訪はこちらの家族にとってまさに寝耳に水だったというのだから、青くなるなというほうが無理だろう。
 リリアンが今更ながらに思い出すのは、先ほどこの屋敷を訪れた際のこと。侍女の一人も付き添わず、嫁入り道具を運んできたわけでもなく、文字通り身一つで――さすがに乗ってきた馬車は侯爵家のものであったが、荷は先に運んであると信じきっていた彼女は、取り次いだ執事らしい男性にろんな顔をされたのだ。
 その時は、前もっての顔合わせもできなかったので驚かれているのだろうと考えていたのだが、それどころの話ではない。
 だが――ここで追い返されるわけにはいかなかった。
『ラファージュ家とマチス家の縁組』は、祖父同士の約束事である以上に、そのいきさつが国内に広く知れ渡っている。
 ここにきてマチス家の責により破談ということにでもなれば、なまやさしいスキャンダルでは済まなかった。
 それがわかっているからこそ、父も『たんになっての花嫁の交代』などという荒業を使ってまで、自分をここによこしたのだ。
 何より、自分にはもう『帰る家』はない。
 ならば、今、リリアンが考えるべきは、いかにしてラファージュ家の面々の怒りを解くか、なのである。
 そこで、一つの声が上がった。

「……別に誰が妻になろうと、俺は構わん」

 やや低めの、それでいてよく響く美声。
 この時の室内には、入り口を背にして立ったリリアン、彼女に相対するラファージュ辺境伯夫妻、そして、もう一人が存在した。
 その人物は、かたわらにおかれた応接セットに座ったままでことの成り行きを見守っていたのだが、ここにきて初めて沈黙を破ったのである。

「ユーグ?」

 彼の声に戸惑とまどいの声を上げたのは、ラファージュ辺境伯だ。

「聞こえませんでしたか、父上?」
「いや。聞こえはしたが……」
「では、それでいいでしょう?」

 そっけなく己の父に告げた男性は、ものげに椅子から身を起こす。同時に、カツンと硬質な音がしたのは、彼が持つつえのせいだ。

「――初めてお目にかかる。リリアン殿、と言われたか?」

 カツンカツン……とつえの音を響かせて、その男性がリリアンの前に立った。
 これまでリリアンが会話をしていたのはラファージュ夫妻であり、その最中によそ見をするのは失礼にあたる。なので、半ばそのつえに体重をかけるようにして立つ男性を、リリアンはこの時初めて、さいに観察できた。

「俺はユーグ・ルイ・ラファージュ。貴女あなたの夫となる男だ」

 皮肉っぽい口調で、先ほどの彼女の口上を真似る声は、やや低めだが耳に心地良い。
 男性は背が高く、向かいあったリリアンの視線が彼のあご辺りになり、目線を合わせるには意識して見上げる必要があった。
 その顔立ちは非常に端整で、先ほどまで話をしていたラファージュ辺境伯の面影があることからも、父親似なのだと推測される。
 黒髪をやや長めに伸ばし、それが半ば顔にかかっていた。その下から覗く目は、まるで黒曜石のようだ。
 だが、彼――ユーグを見た時に最も印象に残るのは、それらではなかった。
 黒曜石の輝きを放つそうぼうの、その左には眉からぶたかすめ、頬までつながる一直線の傷があった。しゅうれいな顔立ちの中でひときわ異彩を放つそれに、リリアンの視線はとらわれる。

「……ああ、この傷が気になるか?」
「も、申し訳ありませんっ」

 淑女として、男性の顔をまじまじと見つめるなど無作法がすぎる。夫となる相手だが、まだ婚儀は挙げていないし、何よりこれが初対面だ。
 慌てて己の非礼をびるリリアンだが、ユーグは小さくわらっただけでその非礼をとがめなかった。

「構わん。気になるだろうから、もっとよく見るといい。顔に受けたのはこれだけだが、体にはもう少し傷があるし、この足も傷のせいだ。そっちは今は見せられんが、初夜の時にでも確認するといい」
「……本当に、それでいいのか、ユーグ?」
「いいも何も――俺も彼女も、爺様たちのすいきょうの犠牲者です。俺は元から覚悟していたが、話を聞けば、こちらは降ってわいた話だった様子だ。それでもけなげに文句も言わずに来てくれたのですから。それを責めるほど、俺はほうではないつもりですよ」 
「ユーグ……」
「そういうわけで、リリアン殿。どうやら俺と君は夫婦になるらしいので、リリアンと呼ばせてもらおうか。こんなポンコツな夫だが、我慢してくれ」
「い、いえっ! そのような……」

 口調も態度も皮肉っぽくはあるが、突然押し掛けた自分を責めることなく、それどころかかばっているともとれる言葉にリリアンは困惑する。

「……ユーグ、今はそのくらいになさい。それよりもリリアン様は、まだこちらに着いたばかりですよ?」

 言いたいことを言い、あとは興味なさそうにそっぽを向くユーグに対し、どう対処すれば良いのかまどうリリアンを見かねてか、辺境伯夫人が割って入る。

「母上」
「旅装をほどいていただくどころか、お茶の一杯もさしあげていないのです。貴方には貴婦人への気遣いをしっかりと教えたつもりでしたが、どこに落としてきたのですか?」
「それは、その……いや。確かにそうですね」

 おっとりした口調ながらも厳しい母の言葉に、いったんは反発しかけたユーグであったが、すぐに思い直す。

「リリアン、こちらの気遣いが足りず申し訳ない。部屋に案内させるから、まずは一休みしてほしい」
「ユーグ、そこは、貴方自身が案内するべきですよ」
「い、いえ。そのようにお手をわずらわせては……」

 母子の会話をかたわらで聞いていたリリアンだが、思わぬ方向に話が進みかけているのに気が付き、慌てて辞退する。が、その言葉が終わるよりも早く、再び夫人が口を開いた。

「リリアンさん。もう私の義娘むすめになるのですから、リリアンさんと呼ばせていただくわ。初めての場所で妻が不安になっていたとしたら、まず率先して夫が気遣うべきです。妻を大切に扱うのは夫として当然のことですもの……そうですわよね、旦那様?」
「ああ、そのとおりだ」

 いきなりほこさきが辺境伯に向かったが、そんな急な問いかけにもおうようほほみながらうなずく彼の姿から、この家の夫婦関係はとても良好なのだとリリアンは察した。

「そういうわけですから、ユーグ、案内を。それと、リリアンさんが落ち着いたのを確認したら、またこっちへ戻ってらっしゃいね。貴方には少々言い聞かせなければならないことがあります」
「はい、母上」

 ユーグも母親には頭が上がらないらしい。
 そんな家族の様子に自分の生家との差を感じ、リリアンの胸に小さな痛みが走る。けれど、そんな自分の心の動きを押し殺すのは、彼女にとってはいつものことだった。


   ★ ★ ★


「君にはこの部屋を使ってもらう」

 コツコツ……とつえの音を響かせたユーグがリリアンを案内した場所は、屋敷の中でも奥まった一角だった。
 重厚な扉を押し開けて、一歩、中に入り……今まで見てきた落ち着いた感じの内装とは全く異なるそのたたずまいに、彼女は一瞬、目を見張る。
 壁紙はをあしらった華やかなもので、窓にかかるカーテンもそれにがらを合わせているらしい。調度品のたぐいも武骨さが目立つ他の部屋とは異なり、みつせんさいな彫刻をほどこされたものばかりだ。
 全体の色調は赤、それに金の差し色。豪華というよりも、華美という表現がふさわしい。

「もしかすると、君の趣味とは違うかもしれないが、こちらとしては君の姉が来ると思っていたのでね。彼女の希望に沿った内装になっている」

 そんなユーグの言葉で「ああ……」と納得した。
 確かに、の好みそうな部屋だ。

「気に入らなければ変えればいい」
「いえ、大丈夫です」

 リリアンの様子に何かを感じたのか、ユーグがそう提案してくるが、即座にそれは辞退した。
 正直なところを言えば、こんなキラキラしい部屋では落ち着かない。が、これを変えるとなれば当たり前だが金がかかる。ただでさえ、侯爵家は『結婚直前での花嫁交代』というとんでもないことをしでかしているのだ。これ以上、辺境伯家に負担をかけるような真似はしたくなかった。

「そうか? まぁ、いい。君の世話をする者がもうすぐ来る。着替えはその者たちに頼んでくれ……そういえば、荷物はそれだけか?」

 馬車を降りてからここまで、リリアンは小さなカバンを一つをたずさえただけだった。
 この部屋に案内をするにあたり、ユーグがそれを持とうと手を伸ばしたのだが、『夫となる方をわずらわせたくない』との理由で、リリアンはかたくなに手放していない。
 か弱い貴族の令嬢が持てる程度の大きさだ。大したものが入らないそれについて、不思議そうに問いかけられ、彼女はかすかに赤面した。

「はい。荷物はすでにこちらへ届いていると言われましたので、身の回りのものだけを……」
「そうか」

 それ以上は追及されず、ほっとしていたところに、ドアをノックする音が響く。

「失礼いたします。オーラスとクロナ、参りました」
「ああ、待っていた。入ってくれ」

 ユーグの言葉に応じて室内に入ってきたのは、黒服を着た男性とメイド服の女性が一人ずつ。
 男性の年齢は三十を少し過ぎたあたり、女性のほうはもう少しとしかさだろう。

「紹介しよう。君の専属執事となるオーラスと、メイドたちを束ねる予定のクロナだ――オーラス、クロナ。こちらは私の妻となるリリアンだ。よく仕えてやってくれ」
「かしこまりました。オーラスと申します。よろしくお願いいたします」
「クロナでございます。何事でも申し付けてくださいませ、若奥様」

 しわ一つない黒の執事服を着たオーラスが、お辞儀の見本とでも呼びたくなるほどの美しい礼をる。その隣では、やはり髪の毛を一筋の乱れもなく結い上げたクロナが、軽くスカートをつかんでメイドの礼を見せていた。

「我が家では家族の一人一人に専属の執事がつく。その他に家全体を取り仕切る者もいるが、お互いの連絡は密にさせているので、オーラスの手に余るような案件でも気にせず相談するといい」

 専属のメイドはまだわかるが、まさか執事までつけられるとは思わなかった。
 実家での自分の扱いを思い出し、リリアンは思わず遠い目になる――が、自分の返事を待っていると気が付き、慌てて口を開く。

「リリアンです。あの……オーラスさん、クロナさん。よろしくお願いします」
「私共に丁寧はお言葉遣いは無用です。オーラス、クロナと呼びつけて、何なりとお申し付けください」
「は、はい」

 そうは言われても、すぐに順応できるとは到底思えない。
 リリアンのまどいを通り越した困惑を感じ取ったのか、クロナがこの場を仕切り始めた。

「それでは、若奥様にはまず湯浴みとお着替えをしていただきます。坊ちゃまとオーラスさんは、退室をお願いします」
「……坊ちゃまはやめてくれと言っただろう」
「申し訳ありません、ユーグ様。つい、癖で」

 ユーグに苦情を言われ、謝ってはいるが、その口調は少しも申し訳なさそうではない。ユーグのほうもことさら気を悪くした様子もないので、おそらくこれはこの二人の間ではよくあることなのだろう。
 そんな軽口の応酬で、リリアンの緊張が少しゆるむ。
 ここでは主と使用人たちの関係がとてもうまくいっているようだ。
 それにほっとした。

「では、クロナ。後は頼む」
「お任せくださいませ」
「夕食は呼びに来る。君もそれまで、ゆっくりしてくれ」
「ありがとうございます」

 そう言いおいてオーラスと共に、ユーグの姿がドアの向こうに消える。
 パタン、という軽い音を立てて扉が閉まり、室内にはリリアンとクロナの二人が残された。

「……さて、若奥様」
「どうぞ、リリアンと呼んでください」
「さようでございますか。では、リリアン様」

 そこでいったん口を閉じたクロナの視線は、先ほどとは異なり鋭い。
 上から下まで、しっかりと確認……というよりも、値踏みしているかのようだ。
 使用人が主一族に向けるには不躾ぶしつけまなしだが、リリアンにはなじみの深いものだった。そもそも、事前に説明されていたのとは別人が『ユーグの妻』としてやってきたのだ。
 どのようなことを言われるのだろうかと、内心で身構える。
 しかし――

「お顔のお色があまりよくありませんね。お昼はお食べになられましたか?」
「え? い、いえ」

 思いがけない質問に、思わず素直に答えてしまう。
 リリアンの実家からここまでは、馬車で三日と半日かかるため、途中で宿をとりつつの道中だった。宿で食事は出るが、昼は車内で軽いものをかじる程度。それも二日目あたりからは、慣れない馬車の旅に疲労がつのるあまり食欲がわかず、今日に至っては緊張のせいで朝から食べ物がのどを通らなかった。

「それはいけません。先に湯浴みを……と思っておりましたが、それよりも何か召しあがられたほうがよろしゅうございますね」
「いえ、そんな……お手をわずらわせては……」

 せっかくのクロナの申し出だが、そこまで気を遣ってもらうのは申し訳なさが先に立つ。
 空腹には慣れているので、夕食まで我慢するくらいは何でもない。それをどう説明しようかと言葉を探しているうちに、クロナはさっさとはずを整えてしまった。
 室内に用意されていた茶器で、まずはのどの渇きをうるおすためのお茶をれてもらう。熟練の手つきについれているうちに、薫り高い紅茶がサーブされる。一口含むと、想像以上の美味だ。

「おなかがおきでしょうが、あまり召しあがられるとお夕食が入らなくなるかもしれませんので、軽いものにさせていただきました」

 リリアンが紅茶を一杯飲み終えるかどうかという頃に部屋に届けられたのは、三段重ねのティースタンドだった。小さなサンドイッチやスコーンが見た目も美しく並べられている。
 この短時間でよくぞここまで……と、驚いているうちに、クロナがさっさとそれらを皿に並べて差し出す。

「あ、ありがとうございます」
「お心はありがたく頂戴いたしますが、これが私の仕事でございますので丁寧なお言葉は不要でございます――私がおりますとおまりかと存じますので、いったん下がらせていただきます」

 本来であれば、メイドというものは主人がお茶を飲み終えるまではサーブにつき、その後もこまごまとした世話をするために室内で控えている。
 それをあえて席をはずすというのは、リリアンが緊張しているのを感じ取ったからだろう。どこかそっけない態度ながらも、その気遣いは一流といっていい。
 これほど丁重に扱われたことのないリリアンは、ただただ、その言葉にうなずくだけだ。

「それではまた、夕食のご準備のために参りますが、それまでの間は、お疲れでございましょうからベッドでお休みください」

 そう言いおいて、クロナが退出する。ぱたん、とドアが閉まる音に、リリアンは一つ、小さなため息をついた。
 数日前に、父から『姉に代わってラファージュ家にとつぐように』と命じられて以来、溜まりに溜まった心労と緊張が込められたため息は、自分の耳にさえひどく重たく感じる。
 父であり侯爵家当主でもある相手から命じられたのだから、リリアンに拒否は許されない。
 それでも『あちらにはきちんと理由を説明し、妹が代わりに行くことも知らせる』というその言葉を信じてここまで来たのだが――まさか、それらがすべて行われていなかったと知った時には頭が真っ白になった。

「……お母様……」

 自分でも知らぬ間に口からこぼれ出たのは、もうこの世にはいない母の名、だ。


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