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アンジールの成り立ちと現在

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 昔々の、そのまた昔。
 一人の男が天に祈った。

「どうか、この地に水の恵みをもたらせ給え」

 苦難の道をたどり、目的の場所へとたどり着いた後は、祈り始めて以来一かけらの食物も一滴の水すらも口にしていなかった男の体はやせ衰え、その命は今にも尽きる寸前だった。
 いや、そうでなくとも、この地で男が命を長らえることは難しかっただろう。
 その理由は、男の周囲を見ればわかる。
 緑の木々や水の気配ははどこにもなく、かろうじて枯れかかった雑草がちらほらとわずかに生えるのみの荒涼とした大地。無論、人家などどこにもあろうはずがなく、どうやって彼がここまで来たのか――それを知るためには、彼がたどった道筋を少し戻ればわかる。主と同じくやせ細り、それでも最後まで忠誠をつくした馬の亡骸が、強い日差しに干からびかけていた。
 陸(くが)の神のおわす大地の、その中央は赤茶けた地面をただ風が吹き渡るのみの荒涼とした場所だった。

「神よ、これよりこの地に住まうわれらに、水の恵みを……」

 すでに祈りの姿勢すらとる力はなく、大地に倒れ伏しながらも、ただそれだけを男は祈り続ける。熱風にひび割れた唇は、わずかに動かしただけで血をにじませる。
 しかしそれすらもすぐに乾き果てる。この地には、水の存在など決して許さぬというように。

「神よ、どうか……どうか、慈悲を……」

 誰一人として聞く者のいない祈りを、うわごとのように口にし続ける男の命の炎は、あと数瞬で燃え尽きようとしていた。
 しかし――風に紛れて消えるばかりのはずのその声を、聞く存在が、いた。




『弟神――陸(くが)の神よ。なぜ、そなたの民が、そなたの地で命を奪われようとしている?』
『姉上、灘(なだ)の神よ。それは……あの地は、わが力が強すぎるのです』


 この世界には、二柱の神がおわす。
 一柱は、水をつかさどり海原を統べる灘の女神。そしてもう一柱は火をつかさどる広大な大陸に鎮座まします陸の弟神だ。

『われらは、全てを作りたもうた父より、この世界を任された。その責務の中にはここに住まう存在(もの)たちを、はぐくみ慈しむことも含まれていたはず』
『それは我とても分かっております。現に姉上の領土に近い土地では、あれら――人は大地と大海の恵みを受け、健やかに過ごしております』
『ならば、なぜ、あの者はそこを離れ、斯様な場所でわれらに祈り、且つ、その命を終えようとしている?』
『それは……』

 陸の神は、苦悶の表情を浮かべ、姉たる灘の女神を見やる。
 弟神のその表情をうけ、姉神はその力のほんの一部のそのまた一部を割いて、この状況に至った理由を知ろうとした。
 この世界を統べる神である二柱にとって、そこでの出来事を時を遡り見通すなどたやすい。そして、そこで分かったことは――。

『……なるほど、陸は命が増えすぎたのだな』
『ええ。あれら人族に限らず、陸の命のあるものは、そのほとんどが我と姉上の領地の境目に近いところに住まっております。ですが、われらがこの地を任されてより長き時が経ち、次第にその数を増やしていった結果、そこで養える限度を超えてしまったのです。その中でも特に、あれら(人)は国なるものを作り、互いによりよく過ごせる場所を巡って争っております』
『痛ましいことよ。陸では同族同士が争うまでになっておったのか……』
『ええ、恥ずかしながら。ですが、生き残るためにはそうせざるを得ないのです。そしてあの者は敗れた一族の長の血筋でございます。そのため、直接に命を奪われることはありませなんだが、代わりに一族ともども、斯様に姉上の恵みの届かぬ陸の奥深くへと追放されたのです』

 それは、実は敗戦の折に命を奪われるよりも、惨い仕打ちであった。一瞬の苦痛と引き換えに生を終えるのではなく、飢えと渇きに長く苦しみ、その果てに命を散らすことになるのだから。

『……灘は灘、陸は陸と、今まで互いに割り切っていたのは間違いだったのかもしれぬな』
『ここまで陸の命が増えねば、それでよかったのでしょうが……』
『いや、弟よ。そなたの領土ほどではないが、我の方にも悩みはある』
『なんとっ、姉上にも?』
『ああ、見てみるがよい。我もであるが、慮るあまりに互いの領域を不可侵とした弊害がここにきて噴出したようだ』

 姉に勧められ、弟神はその力をかすかにふるう。
 そして知ったのは、灘は灘で、やはり問題を抱えていたということだった。
 驚きに目を見張る弟を見やり、姉神は深いため息をつく。

『わかったであろう? 灘に住まうものどもも、まったく陸の恵みを受けずには生きていくことはできぬのだ』

 姉神の悩みも、その本質は弟神と同じものだった。灘に住まうものたちの中でも、特に小さく数の多い生き物がいる。食物連鎖の土台となる目に見えぬほどに小さく知性のないもの――異なる世界であれば『植物性プランクトン』と呼ばれたであろうそれは、太陽の恵みとともに陸から流れ込む滋養によって増えていく。しかし、陸の中心に水の恵みが無いように、灘の中心にもまたそれらを養うための滋養を与えてくれる陸の恵みがないのである。そして、命をつなぐうえで最も基本となるものがそこにしか住めぬのならば、それらを捕食し増えるものたちもまた、その場所以外では生きていくことができなかった。

『灘は今はまだ同族相争うことはないが、先になればそうなる可能性は否定できぬ』
『ならば……姉上』
『そうよの。ここは今までの互いの領土を不可侵としていたのを止め、共に力を合わせるべきであろう――その手始めに、あの者に水の恵みを与えたいのだが、そなたはそれを許してくれるか?』
『無論でございます。ですが、場所が……あそこは陸の中心であり、その分、我が火の力が強うございます。生半な水の力では、すぐに枯れ果ててしまうかと』
『それに関しては、また考えようぞ。それよりも、今はあの者の命の炎が消えうせる前に手だてするのが急務よ』
『では、お願いいたしまする。その代わりと申し上げては僭越ながら、我は、恐れ多くも姉上のしろしめされる灘に、いくつかの陸を作りたいと思いまする』
『ああ、そのようにしてくれればありがたい』

 神々の話し合いは、長く続いたかに思えるが、実際には須臾の間であった。
 そして、姉神がその力をふるうと、この世界ができて以来、一度たりとも水の恵みを受けることがなかったその地を黒い雨雲がおおい、そこから雨粒が降り注いだのだった。そして、最初はほんの数滴だったそれは、間を置かず激しく地をたたく驟雨となる。

『雨だけでは足るまい。泉も作ってやろう――おお、そうだ。よいことを思いついた。我が領土から、その泉を見守るものを遣わそう。そして、その者を通じて、この先も我が力を注ごうぞ』



「我らに、慈悲を……神よ、わが声、聞こえ給うなら……何卒……」

 すでに目も開かず、耳は周囲の音を拾うこともできず、それでも残ったわずかな力を振り絞り、祈りの言葉を紡ぎ続けていた男。その頬に、ぽつりと当たるものがあった。

「……?」

 それが、命を賭してまで求め続けた神の慈悲であると、男は最初、気が付けなかった。
 しかし、それが瞬く間に全身へと降り注げば、さすがに異変を知る。

「ま、さか……?」

 そして、そのことが脳裏に染み渡れば、この状況が己の夢幻ではなくまぎれもない現であると確かめたいという欲求が沸き上がるのは必然であった。
 しっとりと潤った大地に手をつき、体を起こす。
 不思議なことに、指一本さえ動かすこともできなかったはずの体に力がみなぎり、さして苦労することもなく、再び両足で大地を踏みしめた男が見たものは――つい先ほどまでは、不毛の大地が広がっていたはずの視界に、早くも芽吹き始めた緑と、それを鮮やかに色づかせる空から降り注ぐ雨粒の群れだった。

「これは……このようなことがっ? ああ……」

 救われた。
 己一人の命だけではなく、離れた場所に残してきた一族の者たちの上にも、同じように注がれていることを、男は誰に教えられることもなく悟っていた。

「感謝を……心より感謝いたします」

 そう祈った相手は陸の神であったろうか、それとも灘の女神であったろうか。
 しかし、男に与えられた水の恵みはそれだけではなかった。

「もし……そこな陸のお方?」

 不意に、己以外の者の声が、男の耳を打つ。
 あり得ない事態に、驚いて振り返った男の目に映ったのは、満々と水をたたえた泉と、そこに半身を浸した女の姿だった。しかも、その女の下半身は魚の形状をしているではないか。
 それは灘人(なだびと)と呼ばれる、己と同じく知性ある存在であることは男も知ってはいた。けれど、それらが住まうのはこの地よりはるかに離れた海の中のはずだ。

「あ? ……え?」

 あり得ない状況に、男の口から呆けたような声が漏れる。しかし、女はその様子にかまうことなく、言葉を続ける。

「わたくしはこの泉を守り、あなた様の妻となるべく遣わされたものでございます。以後、良しなに」

 そう告げて、差し出されたその手を、しばし呆然と見つめていた男であったが、やがて意を決して己のそれを重ねた途端。女の下半身は魚から人のものへと変わり、さらなる驚きを男に与えた。
 後年、その時のことを男が述懐した言葉が伝わっている。
 
 ――驚きもあまりに度が過ぎると、却って肝が据わる。あり得ないと思うことすら面倒になるという弊害もあるが、自分の場合、それは良い方に転んだ。なぜならば、あの時に我が妻の言葉を素直に、ありのままに受け取り、さらにその手を取ったことにより、この年に至るまで命を長らえ、我が一族の繁栄を目にすることができたのだから。

 こうして男は、命を賭してまで願った水の恵みと、更には愛する伴侶をも手にすることができた。
 そして、生まれ変わったこの地に男とその一族は根を張り、次第にその数を増やし、やがて男の晩年には一つの国を名乗るほどになっていた。




 そして、時は流れ下り――




 男が起こした国は、陸の中でも随一を誇る大国となっていた。
 その名は『アンジール』。天より遣わされた御使い、という意味を持つ。
 王都は、かつて太祖たる男が死にかけ、また奇跡の復活を遂げた地に置かれており、更にその中心にはあの泉が、今も透明な水をたたえて存在し続けている。
 そして、今、その泉のほとりには数人の男の姿があった。


「……太祖の妻となられた灘人は、ここから現れたのですね」
「いつ見ても、清廉さに心が癒されます。しかし、この泉はどこへもつながっていないというのに、いったいどうやって……?」

 声を発した二人は年若く、片方などはまだ少年の面影を残している。

「代々の灘妃方が申されるには、あの中心に『門』があるのだそうだ。そこを通って、百年に一度、方々は灘よりこの地を訪れられる。次に開くのは、三年の後だ」

 その問いに答えるのは壮年の男。頭上に簡素ながらも王冠を戴いていることからもわかるように、当代のアンジール王である。

「三年? では、もうすぐではありませんか」
「その通りだ。その折には、そなたらも王家の血を受け継ぐものとして、我とともに出迎えねばならぬ。何しろ、その方がお前たちの妻となるやもしれぬのだからな」
「ですが、父上。灘妃とは我が王家――いえ、王国の繁栄の礎であるお方。ならば、王太子であられる兄上が娶られるのが当然では?」
「我も、そうであってほしいとは思うがな……だが、選ぶのは灘妃だ。遠き灘より、ただお一人ではるか離れたこの地に骨をうずめる覚悟でいらっしゃったお方だ。その尊い犠牲を慮れば、添い遂げる相手はご本人にこそ選んでいただくのが筋。故に、その折にはこの場にいる者たちや、それ以外も立ち会うことになる」

 なるほどそれで……と。自分たち以外にもこの場に居合わせる者がいたのかと納得する王子二人である。
 王の御前であることを憚ってか口を開く者はいないが、いずれも自分たち二人に年も身分も近い、つまりは王国の中枢を担う公、侯爵家、あるいはそれに準ずる地位にいる者の子息ばかりだ。

「いわば、そなたらは恋敵というわけだ。尚、選ばれた者が王太子であればそのまま王位に就くが、それ以外の者であった場合は、その出自にかかわらず大公として遇することとなる。一代限りの称号ではあるが、そなたらも『灘公』の名は知っておろう?」

 王が口にしたのは、数百年に一度、史実にその名が残るものの、その頭主の死とともに途絶えている『大公家』の成り立ちであった。

「灘妃となる方がここを訪れるのは三年の後だ。先に申しておくが、灘より来る方にとっては、そなたらの身分なぞ何の意味もない。陸の柵などとは無縁の、曇りなき眼によってそなたらの人品が試される。故に――励めよ?」
「はい!」

 この時ばかりは、今まで沈黙を保っていた者たちも、王子らとともに応えを返す。
 その様子に鷹揚に頷いて見せた後、王はその視線を静謐な泉の水面へと移す。
 そして、今より三年の後、そこから姿を現すであろう、もしかしたら己の義理の娘になるやもしれぬ相手を思い、満足げな笑みを浮かべるのであった。
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