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前編 たぶん貴方
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メイドが公爵殿下の先触れを伝えてきたのは、私が新式の治療魔法についての研究報告書をまとめていたときだった。
殿下が訪れる前に準備を整えて、王都にある侯爵邸の応接室で待つ。
元婚約者の彼と会うのは三年ぶりのことだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こんなに近くにいたのか……」
私との婚約を破棄し、王位継承権を棄てて臣下に降った公爵殿下は、私の顔を見て意外そうに言った。
「王都へ戻ったのは一年前ですわ。それまでは侯爵領で研究をしていたのですけれど、魔法大学の特別研究生となったので、こちらで生活したほうが都合が良くて」
「そうか……」
呟くように言いながら、殿下が自分の前に置かれたお茶を手に取る。
ひと口含んで、ふっと彼の表情が和らいだ。
「美味い。君のメイドは今も僕の好みを覚えていてくれているんだな。……彼女は、あまりお茶が好きではなくて」
「あちらの国ではお茶以外の飲み物のほうが好まれるそうですものね」
「……」
私との婚約破棄の原因となった彼女は、異国からの留学生だった。
今私が特別研究生として数日置きに通っている魔法大学に併設された魔法学園で、王太子だったころの彼は彼女と出会い、幼いころからの婚約者だった私より彼女を選んだのだ。
しばらく沈黙した後で、公爵殿下は声を絞り出すようにして尋ねてきた。
「……こんなことになったのは、だれのせいなのだろうか」
たぶん貴方のせいですわ。
私は心の中で思ったが、それを口に出すことはなかった。
本当は彼自身もわかっているのだろう。
私の答えを待たずに言葉を続ける。
「すまない、礼がまだだったな。ありがとう、侯爵令嬢。君の研究のおかげで、彼女は一命を取り留めた」
「それはなによりですわ」
「ただ……いや、なんでもない」
彼が口籠った理由は想像出来た。
治療魔法は万能ではない。
彼女は一命を取り留めたものの、全身を滅多刺しにされた傷は残ってしまったのだろう。刺された場所によっては、寝台から起き上がれるようになるかもわからない。
犯人はどうなるのかと、私は考えた。
殺人と殺人未遂では罪の重さが異なる。
それに陪審員による情状酌量もあるかもしれない。なにしろ犯人は目の前の彼に妻を奪われた、彼女の前の夫なのだから。
我が国では彼と彼女の恋は美談とされた。だって殿下は王族なのだ。王位継承権を棄てて王室を離れたといっても、民の意識は変わらない。
しかし身分制度のない彼女の祖国では、犯人のほうが妻を奪われた哀れな被害者として見られている。
そもそも身分制度がなかろうと自由恋愛の国だろうと、婚約や結婚という制度がある以上、彼と彼女の関係は不貞でしかなかった。
「……ひとつお聞きしても良いでしょうか」
「なんだい?」
「どうして彼女とあの国へ行かれたのですか? 歓迎されないことはわかっていたでしょう?」
「彼女の家族を……救いたかったんだ」
彼女の前の夫は富豪で、彼女とは親子以上に年が離れていた。
そのため我が国では、金にものを言わせて若い娘を後妻にした色情狂だと貶められていた。
目の前の殿下は苦しむ彼女を救い出した英雄だとされている。
──そんなわけがない。
不貞は不貞だし、若い娘を金に飽かせて弄んでいたのではなく正式に妻にしていたのだ。
前の夫には誠意があった。前妻が遺した息子よりも若い娘に入れあげた助平男に変わりはないけれど。
我が国に留学して生活するための資金だって、当然前の夫が出していた。
彼女の祖国では、彼と彼女が悪党だ。
国に認められた正式な夫を裏切ったのだから、そう言われても仕方がない。
前の夫の会社に勤めていた彼女の父親は、周囲の冷たい視線に耐え切れずに辞職したそうだ。殿下と彼女が誘っても、彼女の家族が我が国へ来ることはなかった。
「救えましたか?」
殿下は首を横に振る。
彼女の姉は浮気女の血筋だと蔑まれ、恋人に別れを告げられて自害していた。
両親は離婚して、ふたりともどこへ行ったのかもわからなくなっていたのだという。自由恋愛の国のせいか、離婚も簡単に出来るのだ。
「私と彼女の結婚式の後、彼女の姉の死が伝えられるまで、家族とは連絡がつかなかった。死を伝えてきたのも家族ではなく、姉が葬られた墓地がある神殿の聖職者からで……」
家族の行方を知りたかったのか、罪悪感があったのか──未練があったのか、彼女は殿下に内緒で前の夫に面会を申し込んだ。
そして、前の夫が隠し持っていた短刀で滅多刺しにされた。
彼女の行動を怪しんで護衛とともに後をつけていた殿下が強引に侵入し、私が発表した新式の治療魔法を使わなければ、彼女は死んでいたに違いない。先ほど研究報告書をまとめていたのは、それの改良形についてだ。
犯人の動機は恨みだ。
妻を奪われたことだけではない。
若い妻を留学させたくらいだから、前の夫の商売は我が国と深い関係があったのだ。自国では哀れまれていても、我が国では悪役にされていた前の夫の会社は潰れ、もとから彼女との再婚を良く思っていなかった前妻の子ども達に縁を切られて浮浪者となっていた。彼女と前の夫が面会していたのは浮浪者の保護施設だ。
「……殿下。私ね、今でもときどき学園の卒業パーティで貴方が私との婚約破棄を宣言したときの光景を思い出すんですの」
「……」
「最初は鏡を見ているのかと思いましたわ」
「?……鏡?」
「はい。殿下の隣に立って腰を抱かれていた彼女は、驚きに目を見開いた私とまったく同じ表情をなさっていたのですもの」
「……君と婚約破棄をすることは、彼女にも秘密にしていた」
私は目の前にある自分用に用意されたお茶に手を伸ばした。
ひと口含んで、思う。
彼が婚約破棄の計画を彼女に伝えていたら、彼女はどうしたのだろうか。ひとりで燃え上がっている王太子殿下から逃れて、祖国の夫のところへ逃げ帰っていたのだろうか。
わからない。
わからないけれど、どちらにしろ悪いのは、幼いころからの婚約者だった私を捨てて、愛しているはずの異国からの留学生に相談もせずに婚約破棄を強行した貴方。
前の夫の転落も彼女の家族の末路も、たぶん全部貴方のせい。
だからといって、彼女に罪がないわけではない。
悪いのは貴方。そして──
殿下が訪れる前に準備を整えて、王都にある侯爵邸の応接室で待つ。
元婚約者の彼と会うのは三年ぶりのことだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「こんなに近くにいたのか……」
私との婚約を破棄し、王位継承権を棄てて臣下に降った公爵殿下は、私の顔を見て意外そうに言った。
「王都へ戻ったのは一年前ですわ。それまでは侯爵領で研究をしていたのですけれど、魔法大学の特別研究生となったので、こちらで生活したほうが都合が良くて」
「そうか……」
呟くように言いながら、殿下が自分の前に置かれたお茶を手に取る。
ひと口含んで、ふっと彼の表情が和らいだ。
「美味い。君のメイドは今も僕の好みを覚えていてくれているんだな。……彼女は、あまりお茶が好きではなくて」
「あちらの国ではお茶以外の飲み物のほうが好まれるそうですものね」
「……」
私との婚約破棄の原因となった彼女は、異国からの留学生だった。
今私が特別研究生として数日置きに通っている魔法大学に併設された魔法学園で、王太子だったころの彼は彼女と出会い、幼いころからの婚約者だった私より彼女を選んだのだ。
しばらく沈黙した後で、公爵殿下は声を絞り出すようにして尋ねてきた。
「……こんなことになったのは、だれのせいなのだろうか」
たぶん貴方のせいですわ。
私は心の中で思ったが、それを口に出すことはなかった。
本当は彼自身もわかっているのだろう。
私の答えを待たずに言葉を続ける。
「すまない、礼がまだだったな。ありがとう、侯爵令嬢。君の研究のおかげで、彼女は一命を取り留めた」
「それはなによりですわ」
「ただ……いや、なんでもない」
彼が口籠った理由は想像出来た。
治療魔法は万能ではない。
彼女は一命を取り留めたものの、全身を滅多刺しにされた傷は残ってしまったのだろう。刺された場所によっては、寝台から起き上がれるようになるかもわからない。
犯人はどうなるのかと、私は考えた。
殺人と殺人未遂では罪の重さが異なる。
それに陪審員による情状酌量もあるかもしれない。なにしろ犯人は目の前の彼に妻を奪われた、彼女の前の夫なのだから。
我が国では彼と彼女の恋は美談とされた。だって殿下は王族なのだ。王位継承権を棄てて王室を離れたといっても、民の意識は変わらない。
しかし身分制度のない彼女の祖国では、犯人のほうが妻を奪われた哀れな被害者として見られている。
そもそも身分制度がなかろうと自由恋愛の国だろうと、婚約や結婚という制度がある以上、彼と彼女の関係は不貞でしかなかった。
「……ひとつお聞きしても良いでしょうか」
「なんだい?」
「どうして彼女とあの国へ行かれたのですか? 歓迎されないことはわかっていたでしょう?」
「彼女の家族を……救いたかったんだ」
彼女の前の夫は富豪で、彼女とは親子以上に年が離れていた。
そのため我が国では、金にものを言わせて若い娘を後妻にした色情狂だと貶められていた。
目の前の殿下は苦しむ彼女を救い出した英雄だとされている。
──そんなわけがない。
不貞は不貞だし、若い娘を金に飽かせて弄んでいたのではなく正式に妻にしていたのだ。
前の夫には誠意があった。前妻が遺した息子よりも若い娘に入れあげた助平男に変わりはないけれど。
我が国に留学して生活するための資金だって、当然前の夫が出していた。
彼女の祖国では、彼と彼女が悪党だ。
国に認められた正式な夫を裏切ったのだから、そう言われても仕方がない。
前の夫の会社に勤めていた彼女の父親は、周囲の冷たい視線に耐え切れずに辞職したそうだ。殿下と彼女が誘っても、彼女の家族が我が国へ来ることはなかった。
「救えましたか?」
殿下は首を横に振る。
彼女の姉は浮気女の血筋だと蔑まれ、恋人に別れを告げられて自害していた。
両親は離婚して、ふたりともどこへ行ったのかもわからなくなっていたのだという。自由恋愛の国のせいか、離婚も簡単に出来るのだ。
「私と彼女の結婚式の後、彼女の姉の死が伝えられるまで、家族とは連絡がつかなかった。死を伝えてきたのも家族ではなく、姉が葬られた墓地がある神殿の聖職者からで……」
家族の行方を知りたかったのか、罪悪感があったのか──未練があったのか、彼女は殿下に内緒で前の夫に面会を申し込んだ。
そして、前の夫が隠し持っていた短刀で滅多刺しにされた。
彼女の行動を怪しんで護衛とともに後をつけていた殿下が強引に侵入し、私が発表した新式の治療魔法を使わなければ、彼女は死んでいたに違いない。先ほど研究報告書をまとめていたのは、それの改良形についてだ。
犯人の動機は恨みだ。
妻を奪われたことだけではない。
若い妻を留学させたくらいだから、前の夫の商売は我が国と深い関係があったのだ。自国では哀れまれていても、我が国では悪役にされていた前の夫の会社は潰れ、もとから彼女との再婚を良く思っていなかった前妻の子ども達に縁を切られて浮浪者となっていた。彼女と前の夫が面会していたのは浮浪者の保護施設だ。
「……殿下。私ね、今でもときどき学園の卒業パーティで貴方が私との婚約破棄を宣言したときの光景を思い出すんですの」
「……」
「最初は鏡を見ているのかと思いましたわ」
「?……鏡?」
「はい。殿下の隣に立って腰を抱かれていた彼女は、驚きに目を見開いた私とまったく同じ表情をなさっていたのですもの」
「……君と婚約破棄をすることは、彼女にも秘密にしていた」
私は目の前にある自分用に用意されたお茶に手を伸ばした。
ひと口含んで、思う。
彼が婚約破棄の計画を彼女に伝えていたら、彼女はどうしたのだろうか。ひとりで燃え上がっている王太子殿下から逃れて、祖国の夫のところへ逃げ帰っていたのだろうか。
わからない。
わからないけれど、どちらにしろ悪いのは、幼いころからの婚約者だった私を捨てて、愛しているはずの異国からの留学生に相談もせずに婚約破棄を強行した貴方。
前の夫の転落も彼女の家族の末路も、たぶん全部貴方のせい。
だからといって、彼女に罪がないわけではない。
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