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第一章 狐とウサギのラブゲーム?
24・蛇の道に狐。⑤
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「あら、あなたは……」
喫茶店で相談した数日後、わたしはホテルのティーラウンジにいた。
ソファの隣には信吾さんが腰かけている。
犬養さんに付き添われてやって来た待ち人は、わたしの顔を覚えているようだった。
「この前は握手会に来ていただいて、ありがとうございました。わん担のマリーさんとご一緒でしたよね」
「はい、あの……」
「こんにちは、戌井さん。彼女は兎々村璃々さん、僕の婚約者なんです」
「そうだったんですか。よろしくお願いします、兎々村さん。狐塚さんにはいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ。信吾さんを……じゃなかった、狐塚をよろしくお願いします」
わたしは、モゴモゴ言いながら頭を下げた。
そう年齢は変わらないといっても、芸能界の荒波を渡ってきた戌井ちゃんはしっかりしている。たとえ全国区でなくってもだ。
一方引き籠りニート女子大生のわたしは、どんなに失礼がないようにと思っても、とっさに適切な単語が口から出てこない。
しかし不思議な気分だった。
今は仕事関係者の信吾さんがいて、なお且つ親戚の犬養さんにエスコートされているという状況だから普通の社会人として振る舞っているけれど、アイドルの戌井ちゃんは元気な僕っ娘なのよね。
「うん、お願いされたよ!……なんてね。素顔の私にがっかりなさいましたか?」
わたしが違和感を覚えていることを察したのか、戌井ちゃんはいつもの調子で答えてくれた。
慌てて首を左右に振る。
「と、とんでもないです。年上なのにしっかりしてない自分が恥ずかしかっただけで、戌井ちゃんは素顔も素敵です」
「璃々さんも素敵です」
「信吾さん……」
彼の頭上で、狐さんが呆れたように肩をすくめている。
でもこれからのことを考えたら、これくらいアホなカップルとして振る舞っていたほうがいいかもしれない。……黒蛇だって油断するだろう。
今日の戌井ちゃんはアイドルの衣装ではなかったけれど、首には青いマフラーを巻いていた。
吹き抜けの天井で金色のシャンデリアが輝くティーラウンジには暖房が効いているものの、ホテルの一階にあるためちょくちょく外気が吹き込んでくる。
マフラーを外さないのは不自然なことではなかった。
それに全身をコーディネイトしたオシャレの一部でもある。
着けていることが自然なそのマフラーの影には、相変わらず黒いものが蠢いていた。
犬養さんによると、戌井ちゃんの力はわたしのように見たり信吾さんのように聞いたり、美妃ちゃんのように夢で会ったりするほど強いものではないらしい。
なんとなく感じて、集めて、体調を崩す。
信吾さんの妹の梨里ちゃんに近い感じ。
今もなにかを感じながらも対応できず、首を覆うことで意識を逸らしているのに違いない。
下手に気にしたりすると黒い影は集まってくる。
これまで黒い影を見てきたわたしも、それは知っていた。
犬養さんがわざとらしい咳払いをして、話を始める。
「あー、コホン。狐塚、今日は話があるんじゃなかったのか?」
「そうでした。犬養くんに無理を言って戌井ちゃんを呼んでいただいたのに、すいません。いやー持つべきものは同級生ですね。感謝してます」
犬養さんはなんとなく、複雑な表情になった。
うん、信吾さんを知れば知るほど満面の笑顔がウソっぽく思えて、裏でなにを企んでるのかと考えちゃいますよね。……わたしにだけ見せてくれる、自然で優しい笑顔のときは違うけど。
戌井ちゃんが怪訝そうに首を傾げる。
当然です。信吾さんは元々大干支小町娘のグッズ販売を引き受けてるんだから、犬養さんに頼まなくても会う手段はいくらでもあるんだから。
「……失礼します」
ウェイトレスさんが来て、冷水とメニューを置いて去っていく。
ここは、注文を決めたらテーブルごとに置いてあるスイッチを押して店員さんを呼ぶシステムだ。この前の喫茶店は違ったけど、最近はどこもそうかな。
ウェイトレスさんが見えなくなって、わたしと信吾さんは視線を交わした。
……あー恥ずかしい。これからのことを考えるだけで恥ずかしい。
自然と顔が熱く(たぶん見た目は赤く)なっていくわたしを楽しそうに自然な笑みで見て、信吾さんが話し始める。
「戌井ちゃん、実はお願いしたいことがあるんです」
「私にできることでしたら」
「彼女、僕の璃々さんが大干支小町娘に加入できるよう鍛えていただけませんか?」
「……はい?」
戌井ちゃんが目を丸くする。
あーもう、恥ずかしい。
どうせ信吾さんが饒舌に話してくれるだろうから、わたしは俯いていよう。
変なことして黒蛇に悟られてもいけないし。
「あ、いえ、すみません。べつに兎々村さんがどうとかいうのではなくて、はい、とても可愛らしい方だとは思いますが、そういうことは私ではなく大干支小町を管轄している市の広報部におっしゃったほうが良いのではないですか? 狐塚さんならそちらのお付き合いもおありでしょうし」
「力ずくで捻じ込みたくはないんです。璃々さんも……というか、発案者は僕の母と妹なのですが……それは望んでいません。ちゃんとオーディションを受けて、それで選ばれなければ諦めるつもりです。ただ、だからといって努力をしないのは論外です。ですので、戌井ちゃんにアイドルとしての心構えを教えていただけたらと思いまして」
わたしは信吾さんの袖を引いた。
全部任せるつもりだったけど、やっぱり恥ずかしいよう。
「し、信吾さん……」
「璃々さん?」
「やっぱりやめましょう。こうして犬養さんのコネを利用して個人的に戌井ちゃんと会うこと自体、力ずくで捻じ込んでるのと同じことですよ」
「そうですか? 金や権力で捻じ込んでデビューするのと、デビューするために人事を尽くすのはべつのことだと思いますよ、璃々さん」
「そうでしょうか?」
わたしは戌井ちゃんを見た。
彼女はただでさえ大きいクリクリした目を丸くして、言葉に詰まっている。
そりゃそうだよねえ、なに言ってんだバカップル、ですよねえ。
本当にもう、なんでこの話題にすると決めたんだか。
「そ、そうですねえ。お力になりたいのは山々なのですが、私もスケジュールが詰まってて、あの、勝手にそういうことをするわけには……」
言葉を探しながら、戌井ちゃんはマフラーの結び目をいじっている。
犬養さんが教えてくれた。戌井ちゃんが小さいころからの癖だという。
巻き物をしていないときは、パーカーの紐やボタンをいじり出すそうだ。
ふっと、マフラーの結び目が解ける。
「そう言わずに、ねえ、璃々さん。犬養くんもなにか言ってくださいよ」
ああもう、この話題のまま進むのね。
戌井ちゃんにバカップルの片割れ、自意識過剰のアホ娘として覚えられてしまう。
それが悲しいってことは、わたしは結構戌井ちゃんのファンのようだ。
まあ、いいか。
ファンだからこそ彼女のことを助けたい。
犬養さんの話では、大干支小町娘がイメージカラーの巻き物を身につけるようになったのは戌井ちゃんの発案らしい。
そしてそれは、プライベートで彼女が体調を崩すようになったころからなのだと。
黒蛇は犬養さん経由で戌井ちゃんを見つけ、入れ物として選んだのだろう。
犬養さんから離れる前から、戌井ちゃんを狙ってちょっかいをかけていたようだ。
「お前、汗かいてるぞ。ここ暖房効いてるから暑いんだろ。ほら、俺が預かっておいてやるから」
「お兄ちゃん」
身内の気安さで、犬養さんが戌井ちゃんのマフラーを抜き取る。
美妃ちゃんが言っていた通り、犬養さんは黒い影のような存在を感知できないが対抗する力を持っている。
もっとも対抗できるのは本人だけなので、この前のように周囲は弱っていく。
子どものころの戌井ちゃんが病弱だったのは、犬養さんを避けて逃げた黒い影が近くにいた彼女に集まったせいではないかと、信吾さんと美妃ちゃんがふたりで声を揃えて語っていたっけ。
黒蛇は憑いている間も思い通りにならなかった犬養さんを嫌って、戌井ちゃんの首筋に残っている。
「い、戌井ちゃん、さん?」
師事をお願いしている相手を愛称で呼ぶのはおかしいよね。
なんて考えが急に浮かんで、妙な呼び方をしながら立ち上がる。
「兎々村さん?」
「あの、首、首になんか蜂? が?」
怪しい。とてつもなく怪しい。
もちろん黒蛇が伸ばしたわたしの手を待つはずがなく、しゅるしゅると戌井ちゃんの首を這いずっている。
指が届くより早く、黒蛇はどこかへ逃げた。──逃げようとした。
「ご注文はお決まりですか?」
「はい?」
背後に現れたウェイトレスさん……美妃ちゃんに、戌井ちゃんが振り返る。
「あ、すいません。話に夢中になって、間違ってスイッチを押してしまいました。まだ決まっていません」
信吾さんが微笑む。
彼はこのホテルの経営にもひと口噛んでいるので、一日、いや一時間だけ美妃ちゃんをティーラウンジのウェイトレスさんとして捻じ込むなど簡単なことだ。
わたしはソファに腰を降ろした。
……あー恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
信吾さんがこんな計画を立てたのは、なんだかんだ言いつつ、わたしが二度と黒い影に関わらなくなることを願ってだろう。
なんかもっとべつの方法なかったのかしら。
でも計画は成功したらしい。
去っていく美妃ちゃんは後ろ手でピースサインを作っていた。
隣の犬養さんにイラつき、目の前の狐の神さま夫婦を警戒していた黒蛇は、わたしの手から逃れたのはいいけれど、背後で待ち構えていた美妃ちゃんと一緒にいた白蛇さまに食べられてしまった、のである。
すべては黒蛇を油断させて、美妃ちゃんの存在に気づかせないための計画だった。
最初にウェイトレスさんに扮した美妃ちゃんが冷水とメニューを持って来たのも、黒蛇が白蛇さまを出し抜けるように、白蛇さまにも黒蛇を出し抜けるかを試すためだったのだ。
戌井ちゃんはぼんやりした表情で、自分の首を触っている。
「ゴメン、寒かったか? マフラー返すな」
「……ううん、お兄ちゃん。もうマフラーはいらない、気がする」
「そうなのか?……なら、いいけど」
犬養さんが笑顔になる。
本当は、戌井ちゃんは彼の親戚ではなく異母妹だった。
犬養製鉄の現社長、兄妹の父親は女癖の悪さで評判なのだ。
美妃ちゃんが犬養さんの力に期待したように、彼も普通の病気とは違う体調不良に苦しむ妹のため蛇沼家の力に期待しての婚約だった。
「兎々村さん……」
「あ、いきなり触ろうとしてすみませんでした。でも蜂って怖いんですよ。うちの父もお墓参りに行ったとき刺されて……」
もしかしてあれって、信吾さんのお婆さんのお墓だったのかしら。
兎々村家の墓は同じ市ながら山の中で、そうそう行ける場所にはない。
謝罪するわたしに、戌井ちゃんは言ってくれた。
「いえ、案じてくれてありがとうございます。でも兎々村さんが刺されても怖いから、気をつけてくださいね」
「そうですね」
「……ところで、アイドル修行はいつから始めますか?」
「え?」
「最近体調が悪かったのが、なぜかさっき急に元気になって。だからってわけじゃないんですけど、私で良かったらお力になりたいと思って。兎々村さんの都合に合わせてスケジュールも調整します」
「え、えー?」
もう黒蛇はいなくなったから、事情を話しても大丈夫よね?
……信じてもらえるかどうかはわからないけど。
喫茶店で相談した数日後、わたしはホテルのティーラウンジにいた。
ソファの隣には信吾さんが腰かけている。
犬養さんに付き添われてやって来た待ち人は、わたしの顔を覚えているようだった。
「この前は握手会に来ていただいて、ありがとうございました。わん担のマリーさんとご一緒でしたよね」
「はい、あの……」
「こんにちは、戌井さん。彼女は兎々村璃々さん、僕の婚約者なんです」
「そうだったんですか。よろしくお願いします、兎々村さん。狐塚さんにはいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ。信吾さんを……じゃなかった、狐塚をよろしくお願いします」
わたしは、モゴモゴ言いながら頭を下げた。
そう年齢は変わらないといっても、芸能界の荒波を渡ってきた戌井ちゃんはしっかりしている。たとえ全国区でなくってもだ。
一方引き籠りニート女子大生のわたしは、どんなに失礼がないようにと思っても、とっさに適切な単語が口から出てこない。
しかし不思議な気分だった。
今は仕事関係者の信吾さんがいて、なお且つ親戚の犬養さんにエスコートされているという状況だから普通の社会人として振る舞っているけれど、アイドルの戌井ちゃんは元気な僕っ娘なのよね。
「うん、お願いされたよ!……なんてね。素顔の私にがっかりなさいましたか?」
わたしが違和感を覚えていることを察したのか、戌井ちゃんはいつもの調子で答えてくれた。
慌てて首を左右に振る。
「と、とんでもないです。年上なのにしっかりしてない自分が恥ずかしかっただけで、戌井ちゃんは素顔も素敵です」
「璃々さんも素敵です」
「信吾さん……」
彼の頭上で、狐さんが呆れたように肩をすくめている。
でもこれからのことを考えたら、これくらいアホなカップルとして振る舞っていたほうがいいかもしれない。……黒蛇だって油断するだろう。
今日の戌井ちゃんはアイドルの衣装ではなかったけれど、首には青いマフラーを巻いていた。
吹き抜けの天井で金色のシャンデリアが輝くティーラウンジには暖房が効いているものの、ホテルの一階にあるためちょくちょく外気が吹き込んでくる。
マフラーを外さないのは不自然なことではなかった。
それに全身をコーディネイトしたオシャレの一部でもある。
着けていることが自然なそのマフラーの影には、相変わらず黒いものが蠢いていた。
犬養さんによると、戌井ちゃんの力はわたしのように見たり信吾さんのように聞いたり、美妃ちゃんのように夢で会ったりするほど強いものではないらしい。
なんとなく感じて、集めて、体調を崩す。
信吾さんの妹の梨里ちゃんに近い感じ。
今もなにかを感じながらも対応できず、首を覆うことで意識を逸らしているのに違いない。
下手に気にしたりすると黒い影は集まってくる。
これまで黒い影を見てきたわたしも、それは知っていた。
犬養さんがわざとらしい咳払いをして、話を始める。
「あー、コホン。狐塚、今日は話があるんじゃなかったのか?」
「そうでした。犬養くんに無理を言って戌井ちゃんを呼んでいただいたのに、すいません。いやー持つべきものは同級生ですね。感謝してます」
犬養さんはなんとなく、複雑な表情になった。
うん、信吾さんを知れば知るほど満面の笑顔がウソっぽく思えて、裏でなにを企んでるのかと考えちゃいますよね。……わたしにだけ見せてくれる、自然で優しい笑顔のときは違うけど。
戌井ちゃんが怪訝そうに首を傾げる。
当然です。信吾さんは元々大干支小町娘のグッズ販売を引き受けてるんだから、犬養さんに頼まなくても会う手段はいくらでもあるんだから。
「……失礼します」
ウェイトレスさんが来て、冷水とメニューを置いて去っていく。
ここは、注文を決めたらテーブルごとに置いてあるスイッチを押して店員さんを呼ぶシステムだ。この前の喫茶店は違ったけど、最近はどこもそうかな。
ウェイトレスさんが見えなくなって、わたしと信吾さんは視線を交わした。
……あー恥ずかしい。これからのことを考えるだけで恥ずかしい。
自然と顔が熱く(たぶん見た目は赤く)なっていくわたしを楽しそうに自然な笑みで見て、信吾さんが話し始める。
「戌井ちゃん、実はお願いしたいことがあるんです」
「私にできることでしたら」
「彼女、僕の璃々さんが大干支小町娘に加入できるよう鍛えていただけませんか?」
「……はい?」
戌井ちゃんが目を丸くする。
あーもう、恥ずかしい。
どうせ信吾さんが饒舌に話してくれるだろうから、わたしは俯いていよう。
変なことして黒蛇に悟られてもいけないし。
「あ、いえ、すみません。べつに兎々村さんがどうとかいうのではなくて、はい、とても可愛らしい方だとは思いますが、そういうことは私ではなく大干支小町を管轄している市の広報部におっしゃったほうが良いのではないですか? 狐塚さんならそちらのお付き合いもおありでしょうし」
「力ずくで捻じ込みたくはないんです。璃々さんも……というか、発案者は僕の母と妹なのですが……それは望んでいません。ちゃんとオーディションを受けて、それで選ばれなければ諦めるつもりです。ただ、だからといって努力をしないのは論外です。ですので、戌井ちゃんにアイドルとしての心構えを教えていただけたらと思いまして」
わたしは信吾さんの袖を引いた。
全部任せるつもりだったけど、やっぱり恥ずかしいよう。
「し、信吾さん……」
「璃々さん?」
「やっぱりやめましょう。こうして犬養さんのコネを利用して個人的に戌井ちゃんと会うこと自体、力ずくで捻じ込んでるのと同じことですよ」
「そうですか? 金や権力で捻じ込んでデビューするのと、デビューするために人事を尽くすのはべつのことだと思いますよ、璃々さん」
「そうでしょうか?」
わたしは戌井ちゃんを見た。
彼女はただでさえ大きいクリクリした目を丸くして、言葉に詰まっている。
そりゃそうだよねえ、なに言ってんだバカップル、ですよねえ。
本当にもう、なんでこの話題にすると決めたんだか。
「そ、そうですねえ。お力になりたいのは山々なのですが、私もスケジュールが詰まってて、あの、勝手にそういうことをするわけには……」
言葉を探しながら、戌井ちゃんはマフラーの結び目をいじっている。
犬養さんが教えてくれた。戌井ちゃんが小さいころからの癖だという。
巻き物をしていないときは、パーカーの紐やボタンをいじり出すそうだ。
ふっと、マフラーの結び目が解ける。
「そう言わずに、ねえ、璃々さん。犬養くんもなにか言ってくださいよ」
ああもう、この話題のまま進むのね。
戌井ちゃんにバカップルの片割れ、自意識過剰のアホ娘として覚えられてしまう。
それが悲しいってことは、わたしは結構戌井ちゃんのファンのようだ。
まあ、いいか。
ファンだからこそ彼女のことを助けたい。
犬養さんの話では、大干支小町娘がイメージカラーの巻き物を身につけるようになったのは戌井ちゃんの発案らしい。
そしてそれは、プライベートで彼女が体調を崩すようになったころからなのだと。
黒蛇は犬養さん経由で戌井ちゃんを見つけ、入れ物として選んだのだろう。
犬養さんから離れる前から、戌井ちゃんを狙ってちょっかいをかけていたようだ。
「お前、汗かいてるぞ。ここ暖房効いてるから暑いんだろ。ほら、俺が預かっておいてやるから」
「お兄ちゃん」
身内の気安さで、犬養さんが戌井ちゃんのマフラーを抜き取る。
美妃ちゃんが言っていた通り、犬養さんは黒い影のような存在を感知できないが対抗する力を持っている。
もっとも対抗できるのは本人だけなので、この前のように周囲は弱っていく。
子どものころの戌井ちゃんが病弱だったのは、犬養さんを避けて逃げた黒い影が近くにいた彼女に集まったせいではないかと、信吾さんと美妃ちゃんがふたりで声を揃えて語っていたっけ。
黒蛇は憑いている間も思い通りにならなかった犬養さんを嫌って、戌井ちゃんの首筋に残っている。
「い、戌井ちゃん、さん?」
師事をお願いしている相手を愛称で呼ぶのはおかしいよね。
なんて考えが急に浮かんで、妙な呼び方をしながら立ち上がる。
「兎々村さん?」
「あの、首、首になんか蜂? が?」
怪しい。とてつもなく怪しい。
もちろん黒蛇が伸ばしたわたしの手を待つはずがなく、しゅるしゅると戌井ちゃんの首を這いずっている。
指が届くより早く、黒蛇はどこかへ逃げた。──逃げようとした。
「ご注文はお決まりですか?」
「はい?」
背後に現れたウェイトレスさん……美妃ちゃんに、戌井ちゃんが振り返る。
「あ、すいません。話に夢中になって、間違ってスイッチを押してしまいました。まだ決まっていません」
信吾さんが微笑む。
彼はこのホテルの経営にもひと口噛んでいるので、一日、いや一時間だけ美妃ちゃんをティーラウンジのウェイトレスさんとして捻じ込むなど簡単なことだ。
わたしはソファに腰を降ろした。
……あー恥ずかしい。すごく恥ずかしい。
信吾さんがこんな計画を立てたのは、なんだかんだ言いつつ、わたしが二度と黒い影に関わらなくなることを願ってだろう。
なんかもっとべつの方法なかったのかしら。
でも計画は成功したらしい。
去っていく美妃ちゃんは後ろ手でピースサインを作っていた。
隣の犬養さんにイラつき、目の前の狐の神さま夫婦を警戒していた黒蛇は、わたしの手から逃れたのはいいけれど、背後で待ち構えていた美妃ちゃんと一緒にいた白蛇さまに食べられてしまった、のである。
すべては黒蛇を油断させて、美妃ちゃんの存在に気づかせないための計画だった。
最初にウェイトレスさんに扮した美妃ちゃんが冷水とメニューを持って来たのも、黒蛇が白蛇さまを出し抜けるように、白蛇さまにも黒蛇を出し抜けるかを試すためだったのだ。
戌井ちゃんはぼんやりした表情で、自分の首を触っている。
「ゴメン、寒かったか? マフラー返すな」
「……ううん、お兄ちゃん。もうマフラーはいらない、気がする」
「そうなのか?……なら、いいけど」
犬養さんが笑顔になる。
本当は、戌井ちゃんは彼の親戚ではなく異母妹だった。
犬養製鉄の現社長、兄妹の父親は女癖の悪さで評判なのだ。
美妃ちゃんが犬養さんの力に期待したように、彼も普通の病気とは違う体調不良に苦しむ妹のため蛇沼家の力に期待しての婚約だった。
「兎々村さん……」
「あ、いきなり触ろうとしてすみませんでした。でも蜂って怖いんですよ。うちの父もお墓参りに行ったとき刺されて……」
もしかしてあれって、信吾さんのお婆さんのお墓だったのかしら。
兎々村家の墓は同じ市ながら山の中で、そうそう行ける場所にはない。
謝罪するわたしに、戌井ちゃんは言ってくれた。
「いえ、案じてくれてありがとうございます。でも兎々村さんが刺されても怖いから、気をつけてくださいね」
「そうですね」
「……ところで、アイドル修行はいつから始めますか?」
「え?」
「最近体調が悪かったのが、なぜかさっき急に元気になって。だからってわけじゃないんですけど、私で良かったらお力になりたいと思って。兎々村さんの都合に合わせてスケジュールも調整します」
「え、えー?」
もう黒蛇はいなくなったから、事情を話しても大丈夫よね?
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