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第四話 殺された女
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アラーニャ侯爵子息ハロルドにとって、メンティラは初恋の女性であった。
初めて出会ったのは十歳のとき、父の親友カバジェロ伯爵の王都邸を訪ねたときだ。
男爵家の庶子だったメンティラは、カバジェロ伯爵夫人の侍女として行儀見習いをしていたのである。
ハロルドがカバジェロ伯爵邸を訪れたのは、友好を深める父達に付き合わされたからではない。
どちらの父親もそのときは領地にいた。
最新の治療を受けるため王都にいた病弱な伯爵夫人と彼女から離れようとしない令嬢のエヴァンジェリンに気晴らしをさせようとしていた母に、無理矢理付き合わされたのだ。
思えば、そのときから両親はハロルドをカバジェロ伯爵家へ婿入りさせようと考えていたのだろう。
ハロルド自身もその空気は薄々感じていた。
爵位こそ実家の侯爵家より低いものの、行き場のない次男坊が裕福で評判も良い伯爵家へ婿入り出来れば上々だ。親同士も仲が良く、エヴァンジェリンは地味ながらも顔立ちは整っていた。
だがハロルドは不満だった。
自分が家に、アラーニャ侯爵家に必要のない存在だと言われている気がした。
病弱な母親を案じるエヴァンジェリンのことを気遣うのも面倒に感じていたし、婿入りすれば、それこそ一生彼女の機嫌を取り続けないといけないのだと思うとゾッとした。
メンティラと会ったのはそんなときだ。
母が伯爵夫人の寝室で会話に興じている間、ハロルドはエヴァンジェリンと過ごすよう言われた。
エヴァンジェリンは、母がいなくなった途端黙りこくって不愛想になったハロルドにも笑顔を向けてくれていたのだけれど、そのときの彼にはそれさえ疎ましかった。
だから中庭で、そっと彼女から離れたのだ。本人の家の中だし、侍女のホアナが一緒にいるからエヴァンジェリンは大丈夫だと思っていた。
そして、花壇の隅になにかを埋めていたメンティラに気づいた。
「なにをしているんだ?」
ハロルドが訊くと、メンティラは鈴蘭の花を埋めているのだと答えた。
美しく愛らしい花なので伯爵夫人の寝室に飾ろうとしたのだが、令嬢のエヴァンジェリンに毒花だから捨てろと怒られたのだと、悲しそうに教えてくれた。
知らなかったのだから仕方がないと、ハロルドはメンティラを慰めた。エヴァンジェリンは人の優しさがわからない冷たい少女なのだと思った。
それから、ふたりでいろいろなことを話した。
母が亡くなり男爵家に引き取られたメンティラが正妻である男爵夫人に疎まれていること、男爵家へ戻ったら年老いた商人に嫁がされること、出来たらこのまま伯爵家で侍女としてやっていきたいこと、だけど令嬢の不興を買ったからすぐにでも追い出されるかもしれないこと──
五歳年上のメンティラからは化粧の香りがして、それがハロルドの動悸を速めていた。
彫りが深い顔立ちに華やかな化粧をしたメンティラに比べると、心に浮かんだエヴァンジェリンの面影はこれまで以上に地味だと感じられた。
エヴァンジェリンに追い出されないようにしてあげると言って安心させてやりたかったが、それが無理なことも理解していた。
ここはカバジェロ伯爵家で、ハロルドは将来婿入りするかもしれないものの、今は伯爵の親友の息子でしかない。アラーニャ侯爵家で引き取ると言っても、次男のハロルドが勝手に決められるわけがなかった。
「僕になにか出来たら良いのだが……」
ハロルドの言葉に、お気持ちだけで十分です、とメンティラは微笑んだ。
大輪の花のような笑みだった。
美しく馨しいメンティラが、鈴蘭のような小さく愛らしい花を好んでいることが、なんだかとても魅力的に思えた。
いなくなったハロルドを案じるエヴァンジェリンに言われて、侍女のホアナが探しに来るまでハロルドはメンティラと一緒にいた。
メンティラを見たホアナが眉間に皺を寄せたので、ハロルドは彼女のことを嫌いになった。
やがてエヴァンジェリンの母が亡くなった。葬儀の席にメンティラの姿はなく、ハロルドの心にはしこりが残った。
──ハロルドがメンティラと再会したのは、学園に入学した年のことだった。
エヴァンジェリンとの婚約が結ばれた後だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「なにかあったのか?」
自由登校になった学園へ登校して、エヴァンジェリンがいないことに気づいたハロルドは早退して王都の商人街へ来ていた。
ここにメンティラの家があるのだ。
カバジェロ伯爵家を追い出された後で結婚させられた夫が遺してくれた家なのだと彼女から聞いている。ハロルドはその家の前に立っていた衛兵に疑問をぶつけた。少し怪訝そうな表情を浮かべたものの、学園の制服から貴族子息だと気づいたのだろう、衛兵が口を開く。
「この家で女性の遺体が見つかったので捜査中です。……関係者の方ですか?」
ハロルドは思わず視線を逸らした。
聖花祭のことではエヴァンジェリンに許可を取っていたが、メンティラとのことはだれにも秘密だった。この家に泊まるときは伯爵邸へ泊まっているのだと使用人に匂わせて、領地の両親と兄には報告しないよう頼んでいる。
エヴァンジェリンにもメンティラの名前までは教えてない。もちろん家も。
ハロルドはメンティラと体も重ねる関係だったけれど、彼女に金を貢いだりはしていなかった。
メンティラは亡くなった夫の遺産で暮らしているのだと言っていた。
もうじきそれが尽きるとも。
ハロルドは昨日もこの家へ来た。
ふたりで聖花祭を過ごしメンティラに求婚するためにだ。
彼女の気持ちさえ確認出来たなら、エヴァンジェリンとの婚約を破棄して家も捨てようと思っていた。どんな仕事でもして、生涯メンティラを養おうと考えていた。
しかし、毎年の約束事だったのにメンティラに拒まれてしまった。
どうしても外せない用事が出来たと言われて、お茶さえ出してもらえなかったのだ。
聖花祭の花束を持ったハロルドの目の前で、扉は無情に閉じられた。
(もしかしてエヴァンジェリンが押しかけて来ていたのだろうか。そして……)
頭の中で渦巻く最悪の想像に拳を握り締めながら、ハロルドは衛兵に答えた。
「いや、関係者ではないよ。通りかかったら君がいたので不思議に思っただけだ」
「そうでしたか。捜査は順調に進んでおりますのでご安心ください」
「ああ、頑張ってくれたまえ」
ハロルドは踵を返し、王都にあるカバジェロ伯爵邸へと向かった。
初めて出会ったのは十歳のとき、父の親友カバジェロ伯爵の王都邸を訪ねたときだ。
男爵家の庶子だったメンティラは、カバジェロ伯爵夫人の侍女として行儀見習いをしていたのである。
ハロルドがカバジェロ伯爵邸を訪れたのは、友好を深める父達に付き合わされたからではない。
どちらの父親もそのときは領地にいた。
最新の治療を受けるため王都にいた病弱な伯爵夫人と彼女から離れようとしない令嬢のエヴァンジェリンに気晴らしをさせようとしていた母に、無理矢理付き合わされたのだ。
思えば、そのときから両親はハロルドをカバジェロ伯爵家へ婿入りさせようと考えていたのだろう。
ハロルド自身もその空気は薄々感じていた。
爵位こそ実家の侯爵家より低いものの、行き場のない次男坊が裕福で評判も良い伯爵家へ婿入り出来れば上々だ。親同士も仲が良く、エヴァンジェリンは地味ながらも顔立ちは整っていた。
だがハロルドは不満だった。
自分が家に、アラーニャ侯爵家に必要のない存在だと言われている気がした。
病弱な母親を案じるエヴァンジェリンのことを気遣うのも面倒に感じていたし、婿入りすれば、それこそ一生彼女の機嫌を取り続けないといけないのだと思うとゾッとした。
メンティラと会ったのはそんなときだ。
母が伯爵夫人の寝室で会話に興じている間、ハロルドはエヴァンジェリンと過ごすよう言われた。
エヴァンジェリンは、母がいなくなった途端黙りこくって不愛想になったハロルドにも笑顔を向けてくれていたのだけれど、そのときの彼にはそれさえ疎ましかった。
だから中庭で、そっと彼女から離れたのだ。本人の家の中だし、侍女のホアナが一緒にいるからエヴァンジェリンは大丈夫だと思っていた。
そして、花壇の隅になにかを埋めていたメンティラに気づいた。
「なにをしているんだ?」
ハロルドが訊くと、メンティラは鈴蘭の花を埋めているのだと答えた。
美しく愛らしい花なので伯爵夫人の寝室に飾ろうとしたのだが、令嬢のエヴァンジェリンに毒花だから捨てろと怒られたのだと、悲しそうに教えてくれた。
知らなかったのだから仕方がないと、ハロルドはメンティラを慰めた。エヴァンジェリンは人の優しさがわからない冷たい少女なのだと思った。
それから、ふたりでいろいろなことを話した。
母が亡くなり男爵家に引き取られたメンティラが正妻である男爵夫人に疎まれていること、男爵家へ戻ったら年老いた商人に嫁がされること、出来たらこのまま伯爵家で侍女としてやっていきたいこと、だけど令嬢の不興を買ったからすぐにでも追い出されるかもしれないこと──
五歳年上のメンティラからは化粧の香りがして、それがハロルドの動悸を速めていた。
彫りが深い顔立ちに華やかな化粧をしたメンティラに比べると、心に浮かんだエヴァンジェリンの面影はこれまで以上に地味だと感じられた。
エヴァンジェリンに追い出されないようにしてあげると言って安心させてやりたかったが、それが無理なことも理解していた。
ここはカバジェロ伯爵家で、ハロルドは将来婿入りするかもしれないものの、今は伯爵の親友の息子でしかない。アラーニャ侯爵家で引き取ると言っても、次男のハロルドが勝手に決められるわけがなかった。
「僕になにか出来たら良いのだが……」
ハロルドの言葉に、お気持ちだけで十分です、とメンティラは微笑んだ。
大輪の花のような笑みだった。
美しく馨しいメンティラが、鈴蘭のような小さく愛らしい花を好んでいることが、なんだかとても魅力的に思えた。
いなくなったハロルドを案じるエヴァンジェリンに言われて、侍女のホアナが探しに来るまでハロルドはメンティラと一緒にいた。
メンティラを見たホアナが眉間に皺を寄せたので、ハロルドは彼女のことを嫌いになった。
やがてエヴァンジェリンの母が亡くなった。葬儀の席にメンティラの姿はなく、ハロルドの心にはしこりが残った。
──ハロルドがメンティラと再会したのは、学園に入学した年のことだった。
エヴァンジェリンとの婚約が結ばれた後だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「なにかあったのか?」
自由登校になった学園へ登校して、エヴァンジェリンがいないことに気づいたハロルドは早退して王都の商人街へ来ていた。
ここにメンティラの家があるのだ。
カバジェロ伯爵家を追い出された後で結婚させられた夫が遺してくれた家なのだと彼女から聞いている。ハロルドはその家の前に立っていた衛兵に疑問をぶつけた。少し怪訝そうな表情を浮かべたものの、学園の制服から貴族子息だと気づいたのだろう、衛兵が口を開く。
「この家で女性の遺体が見つかったので捜査中です。……関係者の方ですか?」
ハロルドは思わず視線を逸らした。
聖花祭のことではエヴァンジェリンに許可を取っていたが、メンティラとのことはだれにも秘密だった。この家に泊まるときは伯爵邸へ泊まっているのだと使用人に匂わせて、領地の両親と兄には報告しないよう頼んでいる。
エヴァンジェリンにもメンティラの名前までは教えてない。もちろん家も。
ハロルドはメンティラと体も重ねる関係だったけれど、彼女に金を貢いだりはしていなかった。
メンティラは亡くなった夫の遺産で暮らしているのだと言っていた。
もうじきそれが尽きるとも。
ハロルドは昨日もこの家へ来た。
ふたりで聖花祭を過ごしメンティラに求婚するためにだ。
彼女の気持ちさえ確認出来たなら、エヴァンジェリンとの婚約を破棄して家も捨てようと思っていた。どんな仕事でもして、生涯メンティラを養おうと考えていた。
しかし、毎年の約束事だったのにメンティラに拒まれてしまった。
どうしても外せない用事が出来たと言われて、お茶さえ出してもらえなかったのだ。
聖花祭の花束を持ったハロルドの目の前で、扉は無情に閉じられた。
(もしかしてエヴァンジェリンが押しかけて来ていたのだろうか。そして……)
頭の中で渦巻く最悪の想像に拳を握り締めながら、ハロルドは衛兵に答えた。
「いや、関係者ではないよ。通りかかったら君がいたので不思議に思っただけだ」
「そうでしたか。捜査は順調に進んでおりますのでご安心ください」
「ああ、頑張ってくれたまえ」
ハロルドは踵を返し、王都にあるカバジェロ伯爵邸へと向かった。
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