一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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18・X年7月13日①

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 菜乃花は一学年上の麻宮渚が苦手だった。
 漫研の部長になったとき、部室に並べられたBL漫画のうち、高校に置いておくには相応しくないと思われる何冊かの撤去を頼んだことで、向こうも菜乃花を嫌っていると思っていた。
 顧問が任命した部長とはいえ、後輩に指示を受けるのは嫌だろう。
 麻宮は弥生と同じ、いや、弥生以上の腐女子だった。
 読むほう専門の弥生と違って麻宮は描きもする。
 類ほどではないものの、かなり上手だ。
 ネットで漫画を公開していて、結構人気もあるらしい。
 ショートヘアーで、よく言えばさっぱりした、悪く言えば乱暴な性格の女性である。
 菜乃花は、BL漫画が嫌いというわけではなかった。
 弥生たちのようにのめり込んではいないけれど、面白ければ読む。
 そう、菜乃花は面白い漫画ならジャンルにこだわりはなかった。
 新聞紙に掲載されている一コマの風刺漫画や素朴な四コマ漫画も、弥生が怖くて読めないというリアル志向のホラー漫画も、麻宮が映画化を機に揃えたものの文字が多過ぎると放り出したマニアックな人気漫画も菜乃花は読む。
 面白いか面白くないかの基準は、菜乃花の場合会話である。
 軽妙洒脱とまでいかなくても、登場人物の関係性が描かれている会話があれば面白いと思う。Wデートで観た海外のアクション映画も、軽快な会話が気に入っている。
 ミステリー小説に出てくる、真相を誤魔化すためのダラダラとした会話も結構好きだ。

 ──卒業式の日、菜乃花は麻宮に呼び出された。
 お礼参りとやらかと怯えながら弥生と一緒に会いに行くと、麻宮は菜乃花に頭を下げてきた。BL漫画が好きだからと、部室に溜め込みまくっていた彼女は生徒会に睨まれていて、菜乃花による撤去がなければ漫研自体消えていたかもしれなかったのだという。
 以来菜乃花は弥生とともに、麻宮の同人活動をたまに手伝っている。
 高校を卒業して大学へ進学した彼女は漫画執筆のためのバイトに明け暮れていて、いつも同人誌即売会の後で奢ってくれた。
 ちなみに彼女が発行しているものは、全年齢向けの健全なものである。
 今の麻宮のブームは洋菓子×和菓子(擬人化)だ。
 BL漫画だということだけは、どんなテーマでも変わらない。

「ナノっぺの審査厳しかったから。最初はムカつくだけだったけど、そのうち範囲内で工夫して描くことが楽しくなってきて。こう……なんてことないシーンに色気を含ませるみたいな」
「ナノナノのおかげで新境地が開けたんですね」
「そういうこと。ナノっぺさまさまだわ」

 みんな菜乃花のことを好きなように呼ぶ。

(……べつにいいけど)

 日曜日、繁華街に建つ会場での同人誌即売会を終えた菜乃花たちは電車で帰路につき、高校のある町の駅で降りた。菜乃花も弥生も麻宮も、この町に住んでいるのだ。高校を選んだ理由は三人とも同じ、徒歩で通えるから、である。

(わあ、開いてるんだ。……そうなんだ)

 駅裏の商店街を歩いていたら、久しぶりに二十八歳の意識が浮かんだ。
 毎朝毎夕通っていたシャッター街の店が開いていて、人の声がする。
 当たり前のはずのことが、なんだかとても嬉しい。
 シャッターが並ぶ光景を知らない十八歳の菜乃花も、今の商店街が愛しく思えた。
 その看板を見つけて、菜乃花は足を止めた。

「……えっと、麻宮先輩。このお店でお茶してもいいですか?」
「いーよー」
「私もナギナギ先輩も自分の欲しい本を買うのに夢中だったから、ほとんどナノナノに店番させちゃったものね。好きなお店で……あら、喫茶『SAE』? これって外国語じゃなくてローマ字よねえ?」
「ん? どういうこと?」

 菜乃花は素知らぬ振りをして、喫茶店の扉を開けた。
 扉の上につけられたベルが、シャラシャラと軽やかな音を立てる。

「いらっしゃいませ。……佐藤?」

 カウンターの中で、黒いウェイター姿の冴島が目を丸くする。
 彼の後ろに立ってコーヒーを淹れていたマスターらしき男性は、あまり冴島には似ていなかった。メガネの奥の瞳が優しく微笑む。柔らかそうな髪は、おでこの上のほうにまで後退していた。
 サイフォンの中で、コポコポとお湯が沸き上がっている。

「いらっしゃい。今はだれもいないから、お好きな席へどうぞ」

 菜乃花はカウンター席に腰かけた。
 弥生に肘でつつかれなくても、最初からそのつもりだったのだ。
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