一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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48・もう一度X年7月13日

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 ──唇に熱い感触が重なって、離れる。
 旭だ。
 菜乃花は家の裏庭に立っている。
 植えられた植物のせいか、室内にいたときよりも涼しい。
 今が一昨日の日曜日だと気づき、菜乃花の瞳から涙が流れ落ちた。
 生垣の向こうで、体を離した旭が目を丸くする。

「わ、悪い。突然悪かった。ゴメン、そんな泣くほどイヤだったのか?」

 菜乃花は首を左右に振り回した。

「ちっちが違うのっ! キスがイヤだったんじゃないの。旭くんが目の前にいて、生きてて、それが嬉しいのっ!」

 理屈で考えれば、十八歳の菜乃花の体にはよっつの意識があるはずだった。
 この時間の二十八歳の菜乃花と十八歳の菜乃花と、明後日から来たふたりだ。
 しかし未来に起こった衝撃のせいか今泣いているせいか、ひとつの体にそんなに多くの意識が入っている感じはしない。元々二十八歳と十八歳の意識も、たまに記憶で分離することはあっても、ほとんどのときは交わってひとつになっている。
 これから二日間の猶予があるなんて、言っている余裕はない。
 未来のことを話して相談しようと、菜乃花が口を開いたときだった。

「姉ちゃん、どうしたっ?」

 裏口から弟の照人が飛び出してきた。
 さっきの菜乃花の叫びを聞いたらしい。
 中学で野球部に所属する照人は、手にバットを握り締めて旭を睨みつける。

「だれソイツ。痴漢? 下着泥棒?」
「……佐藤の弟?」

 名字で呼ばれて、菜乃花の心臓は締めつけられた。
 初めて『菜乃花』と呼ばれたのはキスの後だったのだ。
 変わって欲しいことは変わらないで、変わって欲しくないことは変わっていく。
 菜乃花は涙を飲み込んだ。
 旭は今、生きている。泣くより前にすることがあった。

「照人。この人は冴島旭くん。お姉ちゃんの大事な人だよ。……旭くん。大切な話があるから、もう少しつき合ってくれるかな?」
「お、おう?」
「お仕事中にゴメンね」
「いや、今日は暇だからいいけど」

 菜乃花は照人にバットを収めさせ、旭を家の中に招き入れた。
 彼の自転車も裏庭に移動させてもらった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 クーラーの効いた居間で、菜乃花と旭はローテーブルを挟んで向かい合っていた。
 机上には祖母が出してくれた麦茶が置いてある。
 祖母と弟は、菜乃花の自室と違ってクーラーのある祖母の寝室へ移動してくれていた。
 旭がコップを手に取り、喉を鳴らして麦茶を飲む。

「……で? 話ってなんだ?……キスしたの、そんなにイヤだったのか?」
「ち、違うってば。さっきも違うって言ったでしょ。キスは……嬉しかったよ」
「だったら……いいけどよ」

 頬を赤らめて、彼は視線を逸らす。いつもと同じ恥ずかしがり屋の少年だ。
 彼は信じてくれるだろうか。
 十八歳の菜乃花の体の中にふたつの意識があること、二十八歳の意識には異なるふたつの未来の記憶が付随していること──二日後に、彼が死んでしまう(確証はないが、自分が時間を遡ったという事実がそれを示していると菜乃花は思っている)こと。

(前のときと同じように、きっと歴史改変が不可能になった時間だったんだわ)

 駐輪場で襲われた旭は打ちどころが悪くて、たぶんあの呻き声を最後に死んでしまったのだろう。
 考えただけで菜乃花の全身から血の気が引いた。
 ローズの香りのリップグロスがここに導いたということは、おそらくここならまだ歴史改変のチャンスがあるということだ。そう信じたい。
 でも変えることができる未来であっても、旭の死は悲しかった。
 もう二度と繰り返したくはなかった。

「……旭くん。わたしが、未来のことわかるっていったら信じてくれる?」

 息を止めた菜乃花の前で、旭が口を開く。

「信じない。と言いたいところだが、とりあえず話を聞いてからだ。……さっきのキスで未来がわかって、それで俺と別れたいとかいう話じゃないよな?」
「! 違うよ。……旭くんと、ずっと一緒にいたいっていう話だよ」
「そうか。……菜乃花」
「な、なぁに?」
「そっちが名前で呼んできたから、呼び返しただけ。……いや、俺も菜乃花とずっと一緒にいたいから、話を聞かせてくれ」

 菜乃花は頷いて、これまでのことを話し始めた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「……話自体は信じてもいいんだが」

 もう口に出したら本当になるかもしれないなんて、怯えている場合ではない。
 菜乃花は十年後の二十八歳のときに観たニュースから、二日後の彼の電話のことまで、覚えている限りのことをすべて話した。
 聞き終わった旭は、困惑した表情で首を揺らす。

「それだけの情報じゃあ、どうすれば俺が助かるのかわかんねぇな。火曜日に裏通りに行かなければいいのかもしれないけど、父さんが……」
「うん、そうだね」

 旭が繁華街まで行かなくても、彼の父親がなにかに関わったのだとしたら、向こうのほうから押しかけてくる可能性がある。
 事件の元凶はどこにあるのか。

「月曜日に父さんが会いに行ったってのは、なんてヤツだっけ。うちの卒業生なんだよな」
「旭くんは名前を出さなかった気がするけど、旭くんを襲った人たちが、ほ……骨、骨村? って言ってたと思う」
「骨村か。それって、唇にピアスしてるヤツ?」
「姿は見てないから」
「ああ、わからないか。俺も卒業生で脱法ハーブなんかやってたバカの名前が、そうだったなって思い出しただけだ。後、前に裏通りの製菓材料の店に行ったとき絡まれたのが、唇にピアスしたヤツだったんでな」
「そのとき旭くんが逃げたから、逆恨みして?」
「父さんが会いに行ったっていうのがなー。……骨村、骨村ね。なんか最近聞いた覚えがあるんだよ」
「地上げに来たとか?」
「地上げされる価値があるほど、駅裏が流行ってるといいんだけどな。……骨村?」

 旭はなにか思い出したようだった。

「今日うちの店に来た麻宮先輩が、骨村がどうとか言ってなかったか?」
「麻宮先輩?」

 二日後の記憶が鮮明過ぎて旭の家の喫茶店へ行ったときのことは思い出せなかったが、忘れてしまったのなら聞けばいい。
 菜乃花は麻宮に電話をかけた。
 直接会うとき以外は、電話やメールは弥生経由のことが多いので、菜乃花からの電話に彼女は驚きの声を上げた。

『表示でわかってたけど、本当にナノっぺなんだ。ナノっぺの携帯借りて、ヤヨっぺがかけてきたのかと思った。どうしたの? BLに目覚めた?』
「麻宮先輩、突然すいません。今日の喫茶店で先輩、骨村って人のこと話しませんでしたか?」
『はあ? あたしがあんなクズの話……したかも。マスターに圭っぺのこと聞かれたときに』
「お知り合いなんですか?」
『知り合いっていうか、高校の先輩。ナノっぺが入学してくる前に卒業したクズ。冬月とつき合いながら、金目当てで圭っぺに近づいて……あー! 胸糞悪いっ!』

 ──骨村。
 骨村悟という男は、麻宮の親友・忍野圭子の恋人だったという。
 スピーカー機能で麻宮の声を響かせる携帯の前で、旭が呟く。

「忍野か。この辺りじゃ八木家に次ぐ名家だな」
『ん? ウェイターくんも一緒にいるの? どうしたのナノっぺ。骨村に因縁つけられてるんなら、すぐ警察に行きなさい。あのクズ、脱法ハーブ買う金のためならなんでもするわよ。圭っぺだって、それで……』

 話しているうちに思い出してきたのか、麻宮の声は熱を帯びていく。

『骨村の本命が冬月だって、もっと早くわかってれば! 親友面した冬月に煽られた圭っぺは、罪もない下級生を骨村の浮気相手と決めつけて嫌がらせしたのよ。でも元は良い子だったから罪悪感に押し潰されて、下級生が辞めた後はボロボロで、テニス部に所属してても到底試合になんか出られない状態で……それで、あの子は余計に骨村に依存していったの』

(どこかで聞いたような話……?)

『正直今日のイベントで、心臓潰れるかと思ったわ。あの子、佐々木さん? が圭っぺに嫌がらせされてたとき、あたし、なんにもできなかったから。どんなに圭っぺを止めても、あの子冬月の言葉鵜呑みにしてて、あたしの話なんか聞いてくれなかった。結局、圭っぺから離れることしかできなかったんだもの……』
「佐々木さん……?」
『そ。生徒会から助けたのは、圭っぺを止められなかったお詫びみたいなもん。全然意味ないけどね』
「そんなことないですよ。佐々木さん、麻宮先輩に感謝してました」
『……あたしがあのとき圭っぺを止められてたら、圭っぺも佐々木さんも好きなテニス続けられてたんだろうな、と思うと、ちょっとね』
「……麻宮先輩。周囲がなにをしても、ほかの人の運命は簡単には変わりません。佐々木さんは助けられたことにも先輩の同人誌にも感激してて、だから、えっと……今も、いろいろ教えてくれてありがとうございました」
『よくわかんないけど、役に立てたなら良かったわ。じゃあ……』
「麻宮先輩!」

 割り込んできたのは、もちろん旭だった。
 この部屋にはふたりしかいない。

『なぁに、ウェイターくん』
「要するに骨村ってヤツの本命は冬月って女で、脱法ハーブを買う金目当てにつき合っていた忍野さんとは最近別れた、そういうことですよね?」
『……うん。大学の講義が休講になった圭っぺが、実家を頼らずバイトで稼いだお金で借りてるアパートに戻ったら、合い鍵持ってる骨村が冬月と一緒に布団の中にいましたとさ』
「最悪ですね。つまり、骨村は今脱法ハーブを買う金を手に入れる手段がないんですね」
『冬月も貢いでると思うけど、ああいうのってどんどん量が増えていくらしいから』
「わかりました。ありがとうございます!」

 旭に見つめられて、菜乃花は自分ももう一度麻宮に礼を告げて通信を切った。

「……菜乃花。俺、帰るわ。帰って優也に電話してみる」
「八木くんに?」
「ああ。アイツがずっと好きで、卒業式に告白して振られたけど金曜日の夜からつき合い始めて、今夜ドライブデートに行く予定の相手ってのが……」

 冬月という女性なのだという。

(そういえば前に、佐々木さんから聞いた気がする)

 誤解から先輩(麻宮が話していた忍野のことだと思われる)に嫌がらせされていたとき、八木と一緒に庇ってくれた先輩なのだと、嬉しそうに語っていた。──上書きされる前の過去で。
 立ち上がった旭が、菜乃花に微笑む。

「なんとなく形が見えてきた。詳しいことは解決してから話す」
「旭くん、危ないことは……」
「しねぇよ。大人に動いてもらう。ありがとな、菜乃花。教えてくれたおかげで……もっと、一緒に過ごせそうだ」
「わたしが話したこと、全部信じてくれたの?」
「信じるよ。だって、事故以外で菜乃花とキスしたのは俺だけなんだろ? 火曜日から戻ってきたのも俺とキスした後だ。だから絶対に、今の俺以外にお前を渡さない」

 菜乃花は立ち上がり、旭を見つめた。

「……また、一緒にスモアが食べたいな」
「ああ、任せておけよ」

 ──スモア。『SOME MORE』の略。もっとちょうだい、という意味のお菓子。

(今度こそ、旭くんと過ごす時間をもっと……)

 旭を見送ろうと裏庭へ出ると、すっかり暗くなっていた。
 交通ルールの順守を誓い、彼は自転車の明かりで道を照らしながら帰っていった。
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