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50・最後のX+10年7月7日、そして──
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(……戻った、の?)
二十八歳の菜乃花の意識は、二十八歳の菜乃花の体の中にあった。
居間兼寝室のソファーに腰かけて、目の前のテーブルを見る。
一週間分の郵便物の代わりに、麦茶を注がれたガラスのカップがあった。
初夏のねっとりとした熱気は感じるけれど、風呂上りか、体はさっぱりしている。
今のところ頭の中で渦巻くみっつの記憶より、数分前の出来事のほうが鮮やかだった。
十八歳の菜乃花の体で旭からの電話を受け取ったときの記憶だ。
旭の低い声が自宅にいることと、八木の体調が回復して父であるマスターも戻ってきていることを教えてくれた。親子が行方不明になる歴史は変わったのだ。
菜乃花は麦茶の横に置いていた携帯を手に取った。
黒いスマホだ。
今につながる歴史を頭の中で手繰り寄せながら、日付を確認する。
(七夕……)
今回は過去を変えられたはずなのに、前回と同じく一週間ほど遡っている。
菜乃花はソファーから立ち上がった。
風呂場から水音がする。シャワーのノズルを締め忘れたのだろうか。
近づく間に音が止まって、風呂場の扉が開く。
バスタオルで頭を拭きながら現れたのは、
「……旭くん」
「……おう?」
彼は怪訝そうな顔で菜乃花を見つめて、頷いた。
「そうか。今やっと、全部の記憶がひとつになったってわけだ」
下着姿の彼を見るのが恥ずかしくて、俯いてしまった菜乃花の頭に、ぽん、と大きな手が置かれる。
「みっつも過去があったら混乱するよな。居間で茶でも飲みながら、ゆっくりしようぜ。でも良かった。今日じゃなかったら、この上いつまで待たなきゃいけないのかと思ってた」
あのとき、旭に事情は説明済みだ。
ふたりで居間へ向かいながら、菜乃花は改めて記憶を辿った。
前回と違い、今度は本で読んだ知識のように現実味のない十年間ではなかった。
どんな瞬間も、旭の存在が色鮮やかに染め上げている。
肌に触れる風の感触や鼻をくすぐる香りまで蘇ってくる気がした。
彼の言葉の意味とここにいる理由を思い出して、菜乃花はソファーに座って俯いた。
顔が熱い。照れくさいのだ。
隣に座った旭が、低い声で囁くように言う。
「……二十八歳のお前の意識が消えて、未来の記憶も少ししか覚えていなくて、十八歳のお前は俺に言ったんだ。大切な思い出が色褪せないように、ふたつの意識と消えた歴史の記憶が戻るだろう十年後の七夕まで、待ってくれって」
でもなあ、と溜息をついて、旭はソファーの背にもたれかかった。
「厳密に計算すると、十五日で十年だろ? 今年じゃなくて来年になるんじゃねぇかって、すっげぇドキドキしてたんだぜ。ここまで来てお預けじゃ、さすがの俺も我慢の限界だ」
「あの……」
「なんだよ」
「わたし、でいいの? 今のわたしって、本当に、これまで旭くんとつき合ってきた佐藤菜乃花と同一人物なのかな?」
色鮮やかな記憶を辿るごとに、その歴史の延長にある意識と、消えてしまった『現在』から過去へと戻り歴史を改変して戻ってきた意識は一体化していった。
十八歳の意識と違って時間軸が同じなせいか、異なる記憶に驚いて分離することもない。
違うと言われても、もうどうしようもないのだけれど。
旭は優しく微笑んで、そっと菜乃花の唇に指で触れた。
「……いつもの。バラの香りのリップグロスだな。初めてキスした日と同じだ。お前、ちゃんとあのときのこと覚えてるんだろ?」
「う、うん」
「だったらお前は、俺の菜乃花だ。それにな? 俺がお前を間違えるはずねぇんだよ」
そのまま引き寄せられて、唇を奪われる。
自宅の裏庭での初めてのキスのときめきも、十年間繰り返してきた恋人のキスの愛しさも色鮮やかだったけれど、今のこのキスが一番熱かった。
(だって、これは……)
菜乃花の知らない明日に続くキスなのだから──
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
シャラシャラと軽やかな音を立てて、喫茶店『SAE』の扉の上で、ベルが鳴る。
今日は定休日。訪れる人間は決まっていた。
入ってきた幼い子どもが、甲高い声を上げる。
「マヒマヒー」
「ゆーじろー」
同じように甲高い声を上げて、店内にいた子どもが相手に駆け寄った。
客の子どもの後ろには、男女ふたりの大人がいる。
黒髪を長く伸ばした女性が微笑む。
「マヒマヒ、こんにちは」
「弥生ちゃん、こんにちはー」
「久しぶりだな、マヒマヒ」
「……。ゆーじろー、俺のブロックで遊ぶー?」
「あしょぶー」
子どもふたりは奥の席へと走っていった。
住居部分の階段が飛び出して少々狭いその席のテーブルには、色とりどりのブロックが置かれている。今日は親しい人間しか来ないので、特別に店内で遊ぶことを許しているのだ。
ふたりはちゃんと靴を脱いでソファーに上がり、中腰でブロック遊びを始める。
挨拶をスルーされた男性のほうの客が頬を膨らませて、カウンター席に腰かけた。
「旭、息子のしつけ、ちゃんとしなくちゃ。叔父に挨拶もできないなんて」
「優也お前、いい年してこれくらいで拗ねるから、からかわれちまうんだよ」
「ご、ごめんなさい、優也くん」
菜乃花は慌てて、夫と義弟の会話に口を挟んだ。
息子のマヒマヒこと真昼は可愛いひとり息子である。
「からかってるんじゃなくて、人見知りしてるの。優也くんずっと海外遠征だったから」
「そうそう」
優也の隣に座った弥生が、呆れた様子で溜息をつく。
「家にいるときは寝てばっかりだもの。子どもに懐かれるはずがないわ。優一郎はともかく、優二郎には避けられてるでしょう?」
「さ、避けられてなんかないよ? ねえ、優二郎?」
優也は奥の席の息子に声をかけたが、従兄とのブロック遊びに夢中な子どもは振り向きもしなかった。
ううう……と、優也が情けない声を上げてカウンターに突っ伏す。
弥生の話に出てきた優一郎と優二郎は、彼女と優也の子どもたちだ。
優二郎は、菜乃花と旭の子どもで四歳の真昼より、ふたつ年下の二歳児。
優一郎は十歳で、今日は平日なので小学校に行っている。
弥生と優也は、旭に十年のお預けを強いていた菜乃花よりも結婚が早かった。
(なにがどうしてこうなったのかはわからないけど、弥生ちゃんが幸せそうだから、いいか)
実母と同じプロテニスプレイヤーになり、日々海外遠征に明け暮れている優也に代わって、妻の弥生は八木家の事業全般を取り仕切っている。駅の向こうのショッピングセンター建設に尽力したのも、この歴史上では弥生であった。
ショッピングセンターには喫茶店『SAE』の二号店もあり、菜乃花たちが高校時代に創り上げたコーヒーと紅茶のカキ氷が人気メニューとなっている。
幸いなことに駅裏商店街も寂れていない。
近くの住宅地と一緒に老齢化が進んでいた商店街にBL漫画の専門店などのマニアックな店が誘致されて、ちょっとしたオタク御用達地域となっていた。駅裏、ショッピングセンター周辺、繁華街は、棲み分けながらも互いに影響し合い、町を繁栄させている。
高校のクラスメイトとして知っていた八木優也は、だれに対してもフレンドリーな人気者だった。
けれど恋人の弟として接した彼は、ワガママで子どもっぽく甘えん坊の少年だった。
(わたしにヤキモチ妬いて突っかかってくるのを、弥生ちゃんが止めてくれたのよね)
それがふたりの馴れ初めだったのかもしれない。
この歴史で起こらなかったことの真実なんてわからないが、
(消えた歴史で優也くんが自殺したのは、ショッピングセンターを造ることで八木のご両親に恩を返してから、旭くんとお義父さんの後を追ったってことなのかな)
なんとなく、菜乃花はそう感じていた。
またシャラシャラとベルが鳴って、新しい客が入ってくる。
扉には定休日のプレートがかけられているので、今度入ってきたのも知り合いだ。
「やほー。……マヒっち、ジロっちー」
「樹里ちゃんだー」
「アンちゃんは?」
「杏里は小学校だよ」
佐々木樹里──今は井上樹里となった人気BL作家の返答に、真昼と優二郎は肩を落とした。彼女と類の娘である杏里は面倒見が良くて、小さなふたりに慕われているのである。
樹里が弥生の隣、カウンター席に座り、その横に類も腰かけた。
彼は漫画家として大成していた。初めての連載がアニメ化して、今も続いている。
(魅力的な女の子を描けるようになったのは、樹里ちゃんに恋をしたからなんだろうな)
この歴史では、類が菜乃花へ向けていた気持ちは聞いていない。
菜乃花はカウンターの中で、コーヒーカップを用意した。
旭がサイフォンからカップへとコーヒーを注いでいく。
喫茶店『SAE』に、香しい香りが広がった。
数ヶ月に一度、菜乃花たちはこうして集まって、プチ同窓会を開いている。
メンバーは菜乃花が高校三年生だったときの夏休み以降、漫研部室にたむろしていた人間とその子どもたちだ。
「コーヒー」
「いいニョイ」
真昼と優二郎が戻ってきて、カウンターの椅子によじ登った。
菜乃花は慌てて、冷蔵庫から出した果物と氷をミキサーに入れる。
「ふたりにはミックスジュース作るから、ちょっと待ってね」
「ミックスジュース」
「ジューシュ」
子どもたちは見つめ合い、嬉しそうに笑った。
仕事が忙しいのか、類が小さくアクビを漏らす。
「井上。いつもの特製ブレンド用意してるから、帰るとき持っていけ」
「ありがとうございます」
旭は類の漫画のファンだった。
喫茶店『SAE』の二代目マスターがブレンドした特製コーヒーは人気漫画家に大好評で、プチ同窓会以外のときにも買いに来る。どんなものでも飲み過ぎは良くないので、旭は類の体調を見て、たんぽぽコーヒーをサービスしたりもしていた。
「そういえば、麻宮先輩の予定日っていつだっけ?」
樹里の発言に、優也が唇を尖らせる。
飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに置き、弥生が夫を軽くつついた。
「そろそろよ、ジュジュ。……優也、もうすぐお兄さんになるのに拗ねないの」
「この年でお兄さんって」
麻宮渚は、本店を長男に譲りショッピングセンター内に開いた二号店に移った初代マスター、旭と優也の父親の後妻になっていた。現在妊娠中だ。
なにがどうしてこうなったのか、菜乃花にはさっぱりわからない。
菜乃花より麻宮と親しかった弥生も詳細は知らなかった。
とりあえず、麻宮はいつも幸せそうだ。
(麻宮先輩、BL漫画家としてもデビューしたし)
長編を途中で放り出す悪癖のあった彼女は、とあるBL漫画誌の編集に支えられて作品を完結させ、それを機にプロとなった。
そのとある編集とは鈴木、旭の友達の腐男子だ。
漫研の部室に来ることはなかったが、このプチ同窓会にはたまに顔を出す。
「菜乃花」
「あ、うん。まーちゃん、優二郎くん、お待たせ」
でき立てのミックスジュースを子どもたちの前に置き、菜乃花はカウンター内の椅子に腰かけた。夫の旭が、菜乃花の分のコーヒーを渡してくれる。
「……かーちゃん!」
「あら、まーちゃん。おヒゲだねえ。ストロー使わなかったんだ」
さっそくミックスジュースを飲んで口の周りを白くしている可愛い息子は、あの日あの七夕の夜にやって来たのではないかと、菜乃花は思っていた。
菜乃花は今日も、バラの香りのリップグロスをつけている。
亡くなる前の祖母に作り方を教わって、今は自分で作っているのだ。
この歴史での祖母はひ孫の真昼が生まれるまで長生きしてくれた。
消えたふたつの歴史のときは、もうひとりの孫である照人が幼なじみと結婚して、ひ孫が生まれた後に亡くなっていた気がする。
最初に作ってくれた柑橘系の香りのリップグロスは、ハマグリの形をしたケースに入っていた。ハマグリのような二枚貝は、対となる貝殻としか合わさらない。
(わたしには旭くんだけで、だから……おばあちゃんが奇跡を起こしてくれたのかな)
菜乃花は立ち上がり、カウンター越しに真昼の口元を拭いてやった。
(いろいろなことが変わっているけれど……)
父の再婚に拗ねている優也はべつとして、みんな幸せそうだ。
(でも……)
菜乃花はカウンター内で座り直し、隣にいる夫を見つめた。
一番幸せなのはきっと、自分だ。
これからも菜乃花は、想像もつかない未来を旭と歩んでいく。
愛する真昼や大切な友達と一緒に──
二十八歳の菜乃花の意識は、二十八歳の菜乃花の体の中にあった。
居間兼寝室のソファーに腰かけて、目の前のテーブルを見る。
一週間分の郵便物の代わりに、麦茶を注がれたガラスのカップがあった。
初夏のねっとりとした熱気は感じるけれど、風呂上りか、体はさっぱりしている。
今のところ頭の中で渦巻くみっつの記憶より、数分前の出来事のほうが鮮やかだった。
十八歳の菜乃花の体で旭からの電話を受け取ったときの記憶だ。
旭の低い声が自宅にいることと、八木の体調が回復して父であるマスターも戻ってきていることを教えてくれた。親子が行方不明になる歴史は変わったのだ。
菜乃花は麦茶の横に置いていた携帯を手に取った。
黒いスマホだ。
今につながる歴史を頭の中で手繰り寄せながら、日付を確認する。
(七夕……)
今回は過去を変えられたはずなのに、前回と同じく一週間ほど遡っている。
菜乃花はソファーから立ち上がった。
風呂場から水音がする。シャワーのノズルを締め忘れたのだろうか。
近づく間に音が止まって、風呂場の扉が開く。
バスタオルで頭を拭きながら現れたのは、
「……旭くん」
「……おう?」
彼は怪訝そうな顔で菜乃花を見つめて、頷いた。
「そうか。今やっと、全部の記憶がひとつになったってわけだ」
下着姿の彼を見るのが恥ずかしくて、俯いてしまった菜乃花の頭に、ぽん、と大きな手が置かれる。
「みっつも過去があったら混乱するよな。居間で茶でも飲みながら、ゆっくりしようぜ。でも良かった。今日じゃなかったら、この上いつまで待たなきゃいけないのかと思ってた」
あのとき、旭に事情は説明済みだ。
ふたりで居間へ向かいながら、菜乃花は改めて記憶を辿った。
前回と違い、今度は本で読んだ知識のように現実味のない十年間ではなかった。
どんな瞬間も、旭の存在が色鮮やかに染め上げている。
肌に触れる風の感触や鼻をくすぐる香りまで蘇ってくる気がした。
彼の言葉の意味とここにいる理由を思い出して、菜乃花はソファーに座って俯いた。
顔が熱い。照れくさいのだ。
隣に座った旭が、低い声で囁くように言う。
「……二十八歳のお前の意識が消えて、未来の記憶も少ししか覚えていなくて、十八歳のお前は俺に言ったんだ。大切な思い出が色褪せないように、ふたつの意識と消えた歴史の記憶が戻るだろう十年後の七夕まで、待ってくれって」
でもなあ、と溜息をついて、旭はソファーの背にもたれかかった。
「厳密に計算すると、十五日で十年だろ? 今年じゃなくて来年になるんじゃねぇかって、すっげぇドキドキしてたんだぜ。ここまで来てお預けじゃ、さすがの俺も我慢の限界だ」
「あの……」
「なんだよ」
「わたし、でいいの? 今のわたしって、本当に、これまで旭くんとつき合ってきた佐藤菜乃花と同一人物なのかな?」
色鮮やかな記憶を辿るごとに、その歴史の延長にある意識と、消えてしまった『現在』から過去へと戻り歴史を改変して戻ってきた意識は一体化していった。
十八歳の意識と違って時間軸が同じなせいか、異なる記憶に驚いて分離することもない。
違うと言われても、もうどうしようもないのだけれど。
旭は優しく微笑んで、そっと菜乃花の唇に指で触れた。
「……いつもの。バラの香りのリップグロスだな。初めてキスした日と同じだ。お前、ちゃんとあのときのこと覚えてるんだろ?」
「う、うん」
「だったらお前は、俺の菜乃花だ。それにな? 俺がお前を間違えるはずねぇんだよ」
そのまま引き寄せられて、唇を奪われる。
自宅の裏庭での初めてのキスのときめきも、十年間繰り返してきた恋人のキスの愛しさも色鮮やかだったけれど、今のこのキスが一番熱かった。
(だって、これは……)
菜乃花の知らない明日に続くキスなのだから──
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
シャラシャラと軽やかな音を立てて、喫茶店『SAE』の扉の上で、ベルが鳴る。
今日は定休日。訪れる人間は決まっていた。
入ってきた幼い子どもが、甲高い声を上げる。
「マヒマヒー」
「ゆーじろー」
同じように甲高い声を上げて、店内にいた子どもが相手に駆け寄った。
客の子どもの後ろには、男女ふたりの大人がいる。
黒髪を長く伸ばした女性が微笑む。
「マヒマヒ、こんにちは」
「弥生ちゃん、こんにちはー」
「久しぶりだな、マヒマヒ」
「……。ゆーじろー、俺のブロックで遊ぶー?」
「あしょぶー」
子どもふたりは奥の席へと走っていった。
住居部分の階段が飛び出して少々狭いその席のテーブルには、色とりどりのブロックが置かれている。今日は親しい人間しか来ないので、特別に店内で遊ぶことを許しているのだ。
ふたりはちゃんと靴を脱いでソファーに上がり、中腰でブロック遊びを始める。
挨拶をスルーされた男性のほうの客が頬を膨らませて、カウンター席に腰かけた。
「旭、息子のしつけ、ちゃんとしなくちゃ。叔父に挨拶もできないなんて」
「優也お前、いい年してこれくらいで拗ねるから、からかわれちまうんだよ」
「ご、ごめんなさい、優也くん」
菜乃花は慌てて、夫と義弟の会話に口を挟んだ。
息子のマヒマヒこと真昼は可愛いひとり息子である。
「からかってるんじゃなくて、人見知りしてるの。優也くんずっと海外遠征だったから」
「そうそう」
優也の隣に座った弥生が、呆れた様子で溜息をつく。
「家にいるときは寝てばっかりだもの。子どもに懐かれるはずがないわ。優一郎はともかく、優二郎には避けられてるでしょう?」
「さ、避けられてなんかないよ? ねえ、優二郎?」
優也は奥の席の息子に声をかけたが、従兄とのブロック遊びに夢中な子どもは振り向きもしなかった。
ううう……と、優也が情けない声を上げてカウンターに突っ伏す。
弥生の話に出てきた優一郎と優二郎は、彼女と優也の子どもたちだ。
優二郎は、菜乃花と旭の子どもで四歳の真昼より、ふたつ年下の二歳児。
優一郎は十歳で、今日は平日なので小学校に行っている。
弥生と優也は、旭に十年のお預けを強いていた菜乃花よりも結婚が早かった。
(なにがどうしてこうなったのかはわからないけど、弥生ちゃんが幸せそうだから、いいか)
実母と同じプロテニスプレイヤーになり、日々海外遠征に明け暮れている優也に代わって、妻の弥生は八木家の事業全般を取り仕切っている。駅の向こうのショッピングセンター建設に尽力したのも、この歴史上では弥生であった。
ショッピングセンターには喫茶店『SAE』の二号店もあり、菜乃花たちが高校時代に創り上げたコーヒーと紅茶のカキ氷が人気メニューとなっている。
幸いなことに駅裏商店街も寂れていない。
近くの住宅地と一緒に老齢化が進んでいた商店街にBL漫画の専門店などのマニアックな店が誘致されて、ちょっとしたオタク御用達地域となっていた。駅裏、ショッピングセンター周辺、繁華街は、棲み分けながらも互いに影響し合い、町を繁栄させている。
高校のクラスメイトとして知っていた八木優也は、だれに対してもフレンドリーな人気者だった。
けれど恋人の弟として接した彼は、ワガママで子どもっぽく甘えん坊の少年だった。
(わたしにヤキモチ妬いて突っかかってくるのを、弥生ちゃんが止めてくれたのよね)
それがふたりの馴れ初めだったのかもしれない。
この歴史で起こらなかったことの真実なんてわからないが、
(消えた歴史で優也くんが自殺したのは、ショッピングセンターを造ることで八木のご両親に恩を返してから、旭くんとお義父さんの後を追ったってことなのかな)
なんとなく、菜乃花はそう感じていた。
またシャラシャラとベルが鳴って、新しい客が入ってくる。
扉には定休日のプレートがかけられているので、今度入ってきたのも知り合いだ。
「やほー。……マヒっち、ジロっちー」
「樹里ちゃんだー」
「アンちゃんは?」
「杏里は小学校だよ」
佐々木樹里──今は井上樹里となった人気BL作家の返答に、真昼と優二郎は肩を落とした。彼女と類の娘である杏里は面倒見が良くて、小さなふたりに慕われているのである。
樹里が弥生の隣、カウンター席に座り、その横に類も腰かけた。
彼は漫画家として大成していた。初めての連載がアニメ化して、今も続いている。
(魅力的な女の子を描けるようになったのは、樹里ちゃんに恋をしたからなんだろうな)
この歴史では、類が菜乃花へ向けていた気持ちは聞いていない。
菜乃花はカウンターの中で、コーヒーカップを用意した。
旭がサイフォンからカップへとコーヒーを注いでいく。
喫茶店『SAE』に、香しい香りが広がった。
数ヶ月に一度、菜乃花たちはこうして集まって、プチ同窓会を開いている。
メンバーは菜乃花が高校三年生だったときの夏休み以降、漫研部室にたむろしていた人間とその子どもたちだ。
「コーヒー」
「いいニョイ」
真昼と優二郎が戻ってきて、カウンターの椅子によじ登った。
菜乃花は慌てて、冷蔵庫から出した果物と氷をミキサーに入れる。
「ふたりにはミックスジュース作るから、ちょっと待ってね」
「ミックスジュース」
「ジューシュ」
子どもたちは見つめ合い、嬉しそうに笑った。
仕事が忙しいのか、類が小さくアクビを漏らす。
「井上。いつもの特製ブレンド用意してるから、帰るとき持っていけ」
「ありがとうございます」
旭は類の漫画のファンだった。
喫茶店『SAE』の二代目マスターがブレンドした特製コーヒーは人気漫画家に大好評で、プチ同窓会以外のときにも買いに来る。どんなものでも飲み過ぎは良くないので、旭は類の体調を見て、たんぽぽコーヒーをサービスしたりもしていた。
「そういえば、麻宮先輩の予定日っていつだっけ?」
樹里の発言に、優也が唇を尖らせる。
飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに置き、弥生が夫を軽くつついた。
「そろそろよ、ジュジュ。……優也、もうすぐお兄さんになるのに拗ねないの」
「この年でお兄さんって」
麻宮渚は、本店を長男に譲りショッピングセンター内に開いた二号店に移った初代マスター、旭と優也の父親の後妻になっていた。現在妊娠中だ。
なにがどうしてこうなったのか、菜乃花にはさっぱりわからない。
菜乃花より麻宮と親しかった弥生も詳細は知らなかった。
とりあえず、麻宮はいつも幸せそうだ。
(麻宮先輩、BL漫画家としてもデビューしたし)
長編を途中で放り出す悪癖のあった彼女は、とあるBL漫画誌の編集に支えられて作品を完結させ、それを機にプロとなった。
そのとある編集とは鈴木、旭の友達の腐男子だ。
漫研の部室に来ることはなかったが、このプチ同窓会にはたまに顔を出す。
「菜乃花」
「あ、うん。まーちゃん、優二郎くん、お待たせ」
でき立てのミックスジュースを子どもたちの前に置き、菜乃花はカウンター内の椅子に腰かけた。夫の旭が、菜乃花の分のコーヒーを渡してくれる。
「……かーちゃん!」
「あら、まーちゃん。おヒゲだねえ。ストロー使わなかったんだ」
さっそくミックスジュースを飲んで口の周りを白くしている可愛い息子は、あの日あの七夕の夜にやって来たのではないかと、菜乃花は思っていた。
菜乃花は今日も、バラの香りのリップグロスをつけている。
亡くなる前の祖母に作り方を教わって、今は自分で作っているのだ。
この歴史での祖母はひ孫の真昼が生まれるまで長生きしてくれた。
消えたふたつの歴史のときは、もうひとりの孫である照人が幼なじみと結婚して、ひ孫が生まれた後に亡くなっていた気がする。
最初に作ってくれた柑橘系の香りのリップグロスは、ハマグリの形をしたケースに入っていた。ハマグリのような二枚貝は、対となる貝殻としか合わさらない。
(わたしには旭くんだけで、だから……おばあちゃんが奇跡を起こしてくれたのかな)
菜乃花は立ち上がり、カウンター越しに真昼の口元を拭いてやった。
(いろいろなことが変わっているけれど……)
父の再婚に拗ねている優也はべつとして、みんな幸せそうだ。
(でも……)
菜乃花はカウンター内で座り直し、隣にいる夫を見つめた。
一番幸せなのはきっと、自分だ。
これからも菜乃花は、想像もつかない未来を旭と歩んでいく。
愛する真昼や大切な友達と一緒に──
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この作品は感想を受け付けておりません。
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