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第四話 貴方のいない日々
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卒業パーティの三ヶ月前に申し出て、正式に認められたのが二ヶ月前、一ヶ月前にすべての手続きが終わって、私とヨアニス殿下は婚約を解消した。
女友達と談笑したり、妹に当主教育の話を聞いたり、これまでとは違う日々を私は送っている。
侍女と護衛を伴って王都で噂の菓子店を訪ねたのは学園が休みの日だった。女友達を誘っても良かったのだけれど、私がいると卒業後に結婚予定の婚約者の惚気を話せないようなので今日はひとりで来ることにした。
私の新しい縁談は、学園卒業後に本格的に探す。
妹と立場を入れ替えたといっても、第二王子殿下の婚約者は妹のままだ。ふたりはとても仲の良い婚約者同士だもの。
私がヨアニス殿下との婚約を解消してスクリヴァ公爵家を継いで、第二王子殿下がヨアニス殿下の代わりに王太子となり、妹は王太子に嫁ぐという算段になった。
ヨアニス殿下は卒業後、ハジダキス男爵家に婿入りする。
ご自分でそうお決めになったのだ。
そうはいっても第一王子殿下の婿入り先である。ハジダキス男爵家は陞爵されて伯爵家となっていた。
私の新しい相手を見つけるのは難しいだろう。
高位貴族の家の次男三男坊は婿入り先を見つけるのに必死だが、さすがに元王太子殿下の婚約者だった妻では荷が重過ぎる。学園で同世代だった男性だと、私がプセマ様を苛めていたと、本気で信じている人間もいそうだし。
ああ、でも武芸に励み過ぎて結婚適齢期を逃した我が家の家臣なら私と結婚してくれるかもしれない。私へ向ける気持ちのほとんどが忠誠心のような気がするけれど。
「申し訳ありません、相席よろしいでしょうか」
この店で大人気だというふわふわパンケーキの焼き上がりを待っていたら、店員に聞かれた。
首肯して迎えた相席相手は近衛騎士のアカマースだった。
いつもは油で撫でつけている黒い前髪を降ろし、王家支給の黒銀の鎧も着ていないが、大柄で逞しい彼は普段着でも熊のように見える。いや、なにより表情が悪い。今日の彼も厳つい仏頂面だ。
「……殿下もご一緒なのですか?」
「いいえ、俺は非番です」
「貴方にも非番があるのね」
「あるに決まってるじゃないですか。休みなしで働いて疲れ切っていたら、いざというときに殿下をお守り出来ません」
「それはそうね。でも、私が殿下とお会いするときはいつも貴方がいた気がするわ」
「そうかもしれませんね。四年前の避暑地のときもご一緒していました。……あのとき、俺が殿下を止められていれば良かったのですが」
「貴方のせいではないわ。殿下と彼女は運命だったのよ」
最初私は、円満にとはいえヨアニス殿下との婚約を解消した私が店内にいるのを見て、心配してきてくれたのかと思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
お互いのパンケーキが届くと、アカマースは相好を崩して赤いソースをパンケーキにかけたのだ。体が大きいのはどうしようもないけれど、笑うと顔の造作の良さが明らかになる。彼の厳つさがかなり緩和される気がした。
「アカマース……貴方、笑えたのね」
「当たり前でしょう。笑いますよ」
「……今の言い方は失礼だったわね、ごめんなさい」
「いえ、まあ、殿下方のお側にいるときは仕事でしたから、確かにリディア様に笑顔をお見せしたことはないかもしれませんね。……そちらのソースも美味しそうですね」
私達は自分のパンケーキにかけた後の半分くらい中身が残ったソース入れを交換した。
アカマースは真っ赤な木苺のソースで、私は黄金色の蜂蜜のソースだ。
侍女と公爵家の護衛は仕事中なので分けてあげることは出来ない。帰りに持ち帰りのクッキーを買って、使用人仲間と食べるように言って渡そう。
目の前で美味しそうにパンケーキを食べているアカマースを見つめる。
彼は私達よりもいつつ年上で、私が殿下の婚約者となったときはすでに見習いとして近衛騎士の任についていた。
とある貴族家の三男坊の彼が学園に通っていた三年間を除いて、この十二年間のほとんどを一緒に過ごしていた人間だ。三男坊の彼が実家を継ぐことはないが、近衛騎士として働いてきた報奨の一部として子爵位を授かったと聞いている。
「ねえアカマース。私と殿下の婚約が解消されたせいで貴方が責められたりしなかった?」
「……男爵令嬢のことは、殿下付きの近衛騎士全員が上に報告していましたし、殿下にも苦言を呈してきていましたから」
「そう。貴方が涙を流すほど喜んだという子爵位を返上するようなことにならなかったのなら良いわ」
「授爵は嬉しかったですが、泣きはしなかったですね」
「そうなの」
ごくんとパンケーキを飲み込んで、アカマースは少し遠くを見るような目になった。
「……俺が泣いたのは、大切な人を救えなかったときだけです」
私は言葉を失った。
だれにでもその人だけの人生がある。
ちゃんと知っていたはずなのに、いつも一緒にいたアカマースにそんな劇的な出来事があったなんて思ってもみなかったのだ。
「ごめんなさい、悲しいことを思い出させてしまったわね」
「ええ、あのときは悲しかったです。子どものころ蜂蜜を採りに行って蜂に刺されても泣かなかった俺が、目が覚めたら顔が涙でびしょ濡れだったほどなんですから」
「目が覚めたら?」
「はい、夢の話です」
「夢の話……」
怒るところなのか笑うところなのか、反応に困っている私の前で、彼は独り言のように言葉を続けた。
「救えなかった役立たずの俺が独りよがりの涙を流しているのを、彼女は俺の頭を撫でて慰めてくれたんです。……夢の中なので、相手の顔は覚えていませんが」
「そう」
夢とはいえ、アカマースにとっては大事な想い出なのだろう。
とりあえず私は自分のパンケーキの続きを食べた。
それから大切なことを思い出して、彼に告げる。
「アカマース。蜂蜜を採るのは専門家に任せたほうが良くってよ」
彼はいつものような厳つい顔に戻って、重々しく頷いた。
うん、今後は気をつけてね。
いくらその琥珀の瞳が蜂蜜色でも、大柄で逞しい貴方が熊に似ていても、蜂に刺されたら命の危険もあるのだからね。
女友達と談笑したり、妹に当主教育の話を聞いたり、これまでとは違う日々を私は送っている。
侍女と護衛を伴って王都で噂の菓子店を訪ねたのは学園が休みの日だった。女友達を誘っても良かったのだけれど、私がいると卒業後に結婚予定の婚約者の惚気を話せないようなので今日はひとりで来ることにした。
私の新しい縁談は、学園卒業後に本格的に探す。
妹と立場を入れ替えたといっても、第二王子殿下の婚約者は妹のままだ。ふたりはとても仲の良い婚約者同士だもの。
私がヨアニス殿下との婚約を解消してスクリヴァ公爵家を継いで、第二王子殿下がヨアニス殿下の代わりに王太子となり、妹は王太子に嫁ぐという算段になった。
ヨアニス殿下は卒業後、ハジダキス男爵家に婿入りする。
ご自分でそうお決めになったのだ。
そうはいっても第一王子殿下の婿入り先である。ハジダキス男爵家は陞爵されて伯爵家となっていた。
私の新しい相手を見つけるのは難しいだろう。
高位貴族の家の次男三男坊は婿入り先を見つけるのに必死だが、さすがに元王太子殿下の婚約者だった妻では荷が重過ぎる。学園で同世代だった男性だと、私がプセマ様を苛めていたと、本気で信じている人間もいそうだし。
ああ、でも武芸に励み過ぎて結婚適齢期を逃した我が家の家臣なら私と結婚してくれるかもしれない。私へ向ける気持ちのほとんどが忠誠心のような気がするけれど。
「申し訳ありません、相席よろしいでしょうか」
この店で大人気だというふわふわパンケーキの焼き上がりを待っていたら、店員に聞かれた。
首肯して迎えた相席相手は近衛騎士のアカマースだった。
いつもは油で撫でつけている黒い前髪を降ろし、王家支給の黒銀の鎧も着ていないが、大柄で逞しい彼は普段着でも熊のように見える。いや、なにより表情が悪い。今日の彼も厳つい仏頂面だ。
「……殿下もご一緒なのですか?」
「いいえ、俺は非番です」
「貴方にも非番があるのね」
「あるに決まってるじゃないですか。休みなしで働いて疲れ切っていたら、いざというときに殿下をお守り出来ません」
「それはそうね。でも、私が殿下とお会いするときはいつも貴方がいた気がするわ」
「そうかもしれませんね。四年前の避暑地のときもご一緒していました。……あのとき、俺が殿下を止められていれば良かったのですが」
「貴方のせいではないわ。殿下と彼女は運命だったのよ」
最初私は、円満にとはいえヨアニス殿下との婚約を解消した私が店内にいるのを見て、心配してきてくれたのかと思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
お互いのパンケーキが届くと、アカマースは相好を崩して赤いソースをパンケーキにかけたのだ。体が大きいのはどうしようもないけれど、笑うと顔の造作の良さが明らかになる。彼の厳つさがかなり緩和される気がした。
「アカマース……貴方、笑えたのね」
「当たり前でしょう。笑いますよ」
「……今の言い方は失礼だったわね、ごめんなさい」
「いえ、まあ、殿下方のお側にいるときは仕事でしたから、確かにリディア様に笑顔をお見せしたことはないかもしれませんね。……そちらのソースも美味しそうですね」
私達は自分のパンケーキにかけた後の半分くらい中身が残ったソース入れを交換した。
アカマースは真っ赤な木苺のソースで、私は黄金色の蜂蜜のソースだ。
侍女と公爵家の護衛は仕事中なので分けてあげることは出来ない。帰りに持ち帰りのクッキーを買って、使用人仲間と食べるように言って渡そう。
目の前で美味しそうにパンケーキを食べているアカマースを見つめる。
彼は私達よりもいつつ年上で、私が殿下の婚約者となったときはすでに見習いとして近衛騎士の任についていた。
とある貴族家の三男坊の彼が学園に通っていた三年間を除いて、この十二年間のほとんどを一緒に過ごしていた人間だ。三男坊の彼が実家を継ぐことはないが、近衛騎士として働いてきた報奨の一部として子爵位を授かったと聞いている。
「ねえアカマース。私と殿下の婚約が解消されたせいで貴方が責められたりしなかった?」
「……男爵令嬢のことは、殿下付きの近衛騎士全員が上に報告していましたし、殿下にも苦言を呈してきていましたから」
「そう。貴方が涙を流すほど喜んだという子爵位を返上するようなことにならなかったのなら良いわ」
「授爵は嬉しかったですが、泣きはしなかったですね」
「そうなの」
ごくんとパンケーキを飲み込んで、アカマースは少し遠くを見るような目になった。
「……俺が泣いたのは、大切な人を救えなかったときだけです」
私は言葉を失った。
だれにでもその人だけの人生がある。
ちゃんと知っていたはずなのに、いつも一緒にいたアカマースにそんな劇的な出来事があったなんて思ってもみなかったのだ。
「ごめんなさい、悲しいことを思い出させてしまったわね」
「ええ、あのときは悲しかったです。子どものころ蜂蜜を採りに行って蜂に刺されても泣かなかった俺が、目が覚めたら顔が涙でびしょ濡れだったほどなんですから」
「目が覚めたら?」
「はい、夢の話です」
「夢の話……」
怒るところなのか笑うところなのか、反応に困っている私の前で、彼は独り言のように言葉を続けた。
「救えなかった役立たずの俺が独りよがりの涙を流しているのを、彼女は俺の頭を撫でて慰めてくれたんです。……夢の中なので、相手の顔は覚えていませんが」
「そう」
夢とはいえ、アカマースにとっては大事な想い出なのだろう。
とりあえず私は自分のパンケーキの続きを食べた。
それから大切なことを思い出して、彼に告げる。
「アカマース。蜂蜜を採るのは専門家に任せたほうが良くってよ」
彼はいつものような厳つい顔に戻って、重々しく頷いた。
うん、今後は気をつけてね。
いくらその琥珀の瞳が蜂蜜色でも、大柄で逞しい貴方が熊に似ていても、蜂に刺されたら命の危険もあるのだからね。
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