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4章 それぞれの修行
4章 それぞれの修行 3/8
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「伊藤先生に一手、ご教授頂きたい」
間もなく現れたのは、一人の大男。
堂々とした姿勢。広い肩幅。木綿の厚い胴着の上からでもわかる、分厚い胸板。太い足を隠すように袴がわりに履いているぶかっとした洋式ズボン。
――うちで一番頑強な寺田よりも逞しい、そんな大男だった。ただ大柄なだけではない。一刀流道場に、それもたった一人で乗り込んでおきながら実に落ち着いている。
きっとかなりの場数を踏んだ武者修行者なんだろう。
これまでの無数の挑戦者の中でも引けを取らなさそうな男に見える。
そう、並の拳士では勝てない程に強い――恐らく師範代の中西でも勝つのは難しいだろう。
そんなとんでもなく強い、でもありふれた、拳士。
‥‥僕にはよくわかる。
小田原無双なんて持ち上げられてその気になって、一度は伊藤さんに挑んだ僕だから。
その地方では無敵の拳士。
――そう、それは各地方に一人以上はいるということ。
‥‥無敵の、でもどこにでもありふれた無敵。
そんな強さ。
――何にせよ、どうにか僕でも片がつけられる相手だろう。いや、僕で片付ける。伊藤さんに出てもらうまでもない。
そっと横目で伊藤さんを振り返ると彼女はめんどくさそうに立ち上がっていた所だった。
‥‥いつものようにどこかへ去るつもりなんだろう。
「わかった。
――じゃあまずはうちの門下生3人と勝負してもらう。彼らに勝てたなら、その後でこの私、神子上典膳が――」
「いいわ、典膳」
「え?」
立ち上がった伊藤さんは、ゆるやかに腕を組んだまま僕の前に出た。
「相手をしてあげるわ、あなた」
「でも‥‥」
「でもが多いわよ、典膳」
「‥‥すいません」
伊藤さんを残し、数歩下がる――。
多分伊藤さんの気まぐれだろう。相手の武者修行者も真意を測りかねてはいるようだった。そう、道場への挑戦者は道場生が相手した後に道場主が出るのが常識だからだ。
理由は二つある。
一つは、道場生で勝てるような相手を道場主がいちいち相手をするまでもないからだ。
そしてもう一つは、道場生達が勝負をしている間に挑戦者の手を引き出すことにある。
挑戦者の拳筋、動き、技を見ることにある。
手の内のわかった勝負ほど楽なものはないからだ。そうして有利に勝負を運ぶ事は道場側の常識だからだ。
――それなのに、宗家である伊藤さんがいきなり出てくることは‥‥この挑戦者を特別扱いしているのか?まさか。それとも舐めているのか。それも、まさかだ。
――まぁいい。あまり見られない伊藤さんの試合だ。僕としても何よりの勉強になる。
‥‥何にせよ、今の僕と伊藤さんのやり取りから自分は特別扱いをされたと気付いたのだろう。
当代で一、二を争う達人として名高い伊藤一刀斎に、だ。悪い気がするわけがない。
大男はこらえきれないにやりとした笑い顔を浮かべたまま、名乗りを上げはじめた。
「私は甲斐の国は八代に生まれし――」
「名乗らなくていい」
「‥‥何?」
伊藤さんは無表情に、ぼそりと言った。
「いちいち名乗らなくていい。
――私はあなたを背負う気はない。名乗らなくていい」
「‥‥何だと?」
陽炎が立ち昇るかのように、僕の目に空気が流れるのが見えた。
それまでは気を良くして落ち着いていた武者修行者の目つきが、身にまとう空気がぱたりと変わった。
‥‥当然だ。
「もちろん、私も名乗らない」
「‥‥‥‥ッ!
――い、いいさ‥‥。試合の後で覚えさせてやるさ、俺の名を――!」
彼の肩が盛り上がった気がした。本気だ。
構えたかと思うと、同時だった。
「イえいッ!!」
5メートル程は離れていた間合い。
大男が構えた、と同時に発せられた気合。
と同時に飛び込んで放たれる伊藤さんの顔ほどもある巨大な剛拳。
と、同時に。
名も知らない挑戦者は後頭部から床へと叩きつけられていた。
彼のその"同時"は、大きな顔を伊藤さんの手のひらに包まれ足を払われ、床へと叩きつけられていた。
そして、やはり同時に響いたのは、頭と床とが出す衝撃音に振動、文字に出来ない男の声。
最後に、頑強な床板の砕かれるメキリという音だった。
――僕らの毎日の稽古に、激しい踏み込みにも耐える床板の中に、挑戦者の頭が半分も埋もれる音だった。
――これらのことが、全てがまさしく一瞬で始まり一瞬で完結してしまった。
「‥‥旅に出そうかしら」
ゆっくりと体を起こす伊藤さん。彼女は誰に言うでもなく、そう呟いていた。
「そうね、旅に出しましょう」
伊藤さんは遠い目をして、ひとりその場を去って行く。
「‥‥‥‥」
通り過ぎる彼女に頭を下げ、僕は黙って見送った。
道場生らに指示を出し武者修行者を運び出す。死んではいなかった。思った以上に丈夫に出来ていたらしい。
ふと見た武者窓の外に、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
間もなく現れたのは、一人の大男。
堂々とした姿勢。広い肩幅。木綿の厚い胴着の上からでもわかる、分厚い胸板。太い足を隠すように袴がわりに履いているぶかっとした洋式ズボン。
――うちで一番頑強な寺田よりも逞しい、そんな大男だった。ただ大柄なだけではない。一刀流道場に、それもたった一人で乗り込んでおきながら実に落ち着いている。
きっとかなりの場数を踏んだ武者修行者なんだろう。
これまでの無数の挑戦者の中でも引けを取らなさそうな男に見える。
そう、並の拳士では勝てない程に強い――恐らく師範代の中西でも勝つのは難しいだろう。
そんなとんでもなく強い、でもありふれた、拳士。
‥‥僕にはよくわかる。
小田原無双なんて持ち上げられてその気になって、一度は伊藤さんに挑んだ僕だから。
その地方では無敵の拳士。
――そう、それは各地方に一人以上はいるということ。
‥‥無敵の、でもどこにでもありふれた無敵。
そんな強さ。
――何にせよ、どうにか僕でも片がつけられる相手だろう。いや、僕で片付ける。伊藤さんに出てもらうまでもない。
そっと横目で伊藤さんを振り返ると彼女はめんどくさそうに立ち上がっていた所だった。
‥‥いつものようにどこかへ去るつもりなんだろう。
「わかった。
――じゃあまずはうちの門下生3人と勝負してもらう。彼らに勝てたなら、その後でこの私、神子上典膳が――」
「いいわ、典膳」
「え?」
立ち上がった伊藤さんは、ゆるやかに腕を組んだまま僕の前に出た。
「相手をしてあげるわ、あなた」
「でも‥‥」
「でもが多いわよ、典膳」
「‥‥すいません」
伊藤さんを残し、数歩下がる――。
多分伊藤さんの気まぐれだろう。相手の武者修行者も真意を測りかねてはいるようだった。そう、道場への挑戦者は道場生が相手した後に道場主が出るのが常識だからだ。
理由は二つある。
一つは、道場生で勝てるような相手を道場主がいちいち相手をするまでもないからだ。
そしてもう一つは、道場生達が勝負をしている間に挑戦者の手を引き出すことにある。
挑戦者の拳筋、動き、技を見ることにある。
手の内のわかった勝負ほど楽なものはないからだ。そうして有利に勝負を運ぶ事は道場側の常識だからだ。
――それなのに、宗家である伊藤さんがいきなり出てくることは‥‥この挑戦者を特別扱いしているのか?まさか。それとも舐めているのか。それも、まさかだ。
――まぁいい。あまり見られない伊藤さんの試合だ。僕としても何よりの勉強になる。
‥‥何にせよ、今の僕と伊藤さんのやり取りから自分は特別扱いをされたと気付いたのだろう。
当代で一、二を争う達人として名高い伊藤一刀斎に、だ。悪い気がするわけがない。
大男はこらえきれないにやりとした笑い顔を浮かべたまま、名乗りを上げはじめた。
「私は甲斐の国は八代に生まれし――」
「名乗らなくていい」
「‥‥何?」
伊藤さんは無表情に、ぼそりと言った。
「いちいち名乗らなくていい。
――私はあなたを背負う気はない。名乗らなくていい」
「‥‥何だと?」
陽炎が立ち昇るかのように、僕の目に空気が流れるのが見えた。
それまでは気を良くして落ち着いていた武者修行者の目つきが、身にまとう空気がぱたりと変わった。
‥‥当然だ。
「もちろん、私も名乗らない」
「‥‥‥‥ッ!
――い、いいさ‥‥。試合の後で覚えさせてやるさ、俺の名を――!」
彼の肩が盛り上がった気がした。本気だ。
構えたかと思うと、同時だった。
「イえいッ!!」
5メートル程は離れていた間合い。
大男が構えた、と同時に発せられた気合。
と同時に飛び込んで放たれる伊藤さんの顔ほどもある巨大な剛拳。
と、同時に。
名も知らない挑戦者は後頭部から床へと叩きつけられていた。
彼のその"同時"は、大きな顔を伊藤さんの手のひらに包まれ足を払われ、床へと叩きつけられていた。
そして、やはり同時に響いたのは、頭と床とが出す衝撃音に振動、文字に出来ない男の声。
最後に、頑強な床板の砕かれるメキリという音だった。
――僕らの毎日の稽古に、激しい踏み込みにも耐える床板の中に、挑戦者の頭が半分も埋もれる音だった。
――これらのことが、全てがまさしく一瞬で始まり一瞬で完結してしまった。
「‥‥旅に出そうかしら」
ゆっくりと体を起こす伊藤さん。彼女は誰に言うでもなく、そう呟いていた。
「そうね、旅に出しましょう」
伊藤さんは遠い目をして、ひとりその場を去って行く。
「‥‥‥‥」
通り過ぎる彼女に頭を下げ、僕は黙って見送った。
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