1 / 1
貰い忘れた一枚の写真
しおりを挟む
働く事に関しては私は何をやっても役に立たず続かない人間だった。二十歳の時に看護専門学校を中退して以降私は地元の東村山市を拠点として様々なアルバイトに従事してきた。スーパーのレジ打ち、喫茶店の店員アルバイト、新聞配達員等々。それらの仕事は週に三日程の出勤頻度でも長くて半年、短い場合には二ヵ月程度で辞めてしまっていた。時にはインターネットで登録する形態の日雇い派遣に従事した事もある。ただその時は五反田駅近くのビルの撤去作業の現場だったと思うが、現場の指導員と些細な口論から殴り合いの喧嘩にまで発展して一日でその派遣先から出入り禁止を通告された記憶がある。このように私は労働に関しては全くのダメ人間であった。特に日雇い派遣からも拒絶されてしまった事は結構な挫折感を私に与え、且つ社会不適合者の自覚をも齎したものである。そしてこの話は労働に関してそのように八方塞がりで自暴自棄だった平成二十八年の春に始まる。その年の春は平成四年生まれの私にとっては一浪して大学へ進学した同級生達も社会人となった時期であった。看護専門学校を中退して以降漫才師を目指して浅草の東洋館に出入りしたり、某お笑い芸能事務所のオーディションを受けたりして一発逆転も狙ったが一切その努力が実る事はなくただ徒に時間だけが過ぎていった実感だけがあった。おまけに上述した通りアルバイトさえまともに続かず月五万円さえ稼げない体たらくな状態で社会人としての自信等一切保てない有様でもあり、当然自立は出来ず当時の私は母親と一緒に神奈川県の横浜市に住んでいたがもうすぐ二十四歳になろうとする現状からの焦りからか、毎日母親との親子喧嘩が絶えない時期ともなっていた。
一方でその当時の私にはどうしても欲しいものがあった。それは木綿で作られた馬乗り袴だった。和服にハマったのはその二年程前だったが、私は長着の着物のままの状態の所謂着流し姿をあまり好まず着流し姿の上から馬乗り袴を履いていたのだが、その当時履いていたのはポリエステル製の馬乗り袴だった。しかしこのポリエステル製の馬乗り袴は冬等に静電気が激しく起きる欠点があり私ははっきり言って全然好きではなかった。静電気が起こる心配がないようにするには天然素材の馬乗り袴が適しているのだが、絹は洗濯出来ないしウールは暑そうな印象があったので木綿製の馬乗り袴が欲しくなっていたのだった。ところが木綿製の馬乗り袴はネットショップ等で売ってはいたものの、反物と仕立て込みの金額で六万円は掛かるようであった。そんな金を持ち合わせていない私としてはどこかでその金を稼ぐ必要があったのだったが、その金をスーパーのアルバイトや日雇い派遣等をして稼ぐ気力はその時の私にはもうなかったのである。ただ窮すれば通ず、といった事か私は奥の手を考え出すに至った。地方で募集している期間限定の住み込みアルバイトをしてみようと考えついたのだ。旅行好きな私にとって都会から離れた地方の田舎町で働く事は気晴らしも兼ねる事が出来ると思えたし、期間限定であるから煩わしい人間関係に長い時間縛られてストレスを溜めるような恐れはなさそうだと判断したのだった。そうと決まると私は早速自宅のパソコンからインターネットを使って山小屋から農家から漁業までありとあらゆる住み込みアルバイトを探し始めた。
それから約一日中ネットサーフィンをして住み込みアルバイトを探した記憶があるが、結論からすると静岡県島田市の茶工場の住み込みアルバイトに申し込んでみる事にした。その他にも群馬県の尾瀬ケ原の山小屋の住み込みアルバイトや岐阜県高山市のトマト農家の住み込みアルバイト等が気になったが何れも時給が安く交通費を片道しか支給してもらえない為見限った形だった。即日私は先方に連絡をしたところ若年だった為に好印象を相手に与えたものなのか、証明写真等を貼付した履歴書をファックスで送る必要もなくあっさりと採用されてしまった。汚れてもいい服装と頑丈な靴を持ってくる事を要求され、往復の交通費は最終日に給料と一緒に手渡すとの事。期間は約二週間で休日はそのうち一日だけであり、時給は千円の一日十時間労働との事も告げられた。私はすんなりと採用されて嬉しかったものの地方の住み込みアルバイトにも関わらず時給千円という高待遇から相当な重労働を課せられるような不安も感じて心中は穏やかではなくなってきていた。しかし先方は直ぐに現地に来て欲しいとの事なので私は取り合えず必要最低限の持ち物を用意して翌日静岡県島田市へと出発したのだった。実は今回の茶工場での住み込みアルバイトでは個人的に楽しみな事が一つあった。それは大井川鉄道のSLに乗る事であった。どうやら大井川鉄道では通常の電車とは別にSLが走行しているようなのだ。茶工場の現場の最寄り駅は大井川鉄道の家山駅と言う駅なので休日はSLに乗れる機会もあるに違いないと踏んだ私は明治時代の青年になりきったつもりで着物にポリエステル製の馬乗り袴のコスプレ姿で茶工場の現場先へと旅立ったのだった。勿論先方から指定された汚れてもいい服装と頑丈な靴を携行しながら。
先方から指定された時刻に家山駅へと着くと既に茶工場の軽トラックが待ち構えていた。その胡麻塩頭に細面の六十代位の年齢のBさんと言うおじさんが私を出迎えてくれた形だったが、当然のように私の和服姿の風体に驚いている様子で半ば戸惑っていた。そこですかさず私が「作業着と靴は持って来てますから」と告げるとBさんは強張っていた顔を綻ばせて私を軽トラックへ入るように促すのだった。そのBさん曰く「今すぐにでも仕事に従事して欲しいところだが、今日はここまで来ただけで疲れているだろうから明日から仕事をしてもらう事にする」との事で私はそのまま茶工場の住み込みアルバイトが寝泊まりする寮へと連れていかれた。ただ家山駅から軽トラックで十分間程走った場所にあるその寮は馬等が飼育されている馬場の隣に存在していて糞尿の匂いが充満しているのには少々辟易したものだった。思わず鼻を両手で覆いたくなる程だったので、私はBさんより先に素早く寮の中へと入ってしまった。中へ入ってみると先客がいた。相原さんという女性で年齢は私とそう変わらないようにも見える。和服姿の私に興味を持ったであろう彼女と少し話してみると彼女も三日程前から住み込みアルバイトとして働きに来ているそうで普段は京都府に住んでおり、しかも関西のある難関国立大学の文学部の大学生だとも云う。そして驚いた事に彼女曰くこの寮には私と彼女の二人しかいないと云うではないか。その現実を知りどことなく若い頃の広末涼子にも似ていなくもない彼女を凝視しながら私は彼女との淡いロマンス等をうっとりと想像するのであった。
翌日私は朝七時頃起床し、昨夜寮の近くのコンビニで買ったメロンパン等の菓子パンを食べコーンスープも飲んでから昨日Bさんから支給された自転車に乗って茶工場へと向かった。この頃は確かゴールデンウィークの頃だったと思うが、寮から茶工場までは新緑の木々が真っ盛りの緑道が大半であり、その緑道に沿うような形で流れている壮観な大井川を見つめながら私は自転車を走らせた。その水流の激しさや美しさに圧倒されつつこの時の私は半ば旅行気分でいる自分を少し恥ずかしく思ったものの、この二週間はこの風景と共に過ごせる事を確認出来たみたいで旅行気分からは抜け出せなかった。やがて十五分間程この緑道を自転車で走ると茶工場へ着いた。途端に職員から仕事に取り掛かるように指示が下ったのである。私の仕事はこの地域のお茶農家の方が軽トラックで運んでくるお茶っ葉を商品用に出来るものと商品用に出来ない既に毀損しているものに仕分ける作業であった。軽トラックで運ばれてくるお茶っ葉は茶工場の屋外の地面に設置してあるベルトコンベアーの上に放り込まれ、そこで仕分けるのである。私はそのベルトコンベアーの前にしゃがみ込んで軍手を着けた上でひたすら各軽トラックで運ばれてくるお茶っ葉を仕分けるのであった。因みにこの作業は両膝を地面に付ける為に膝当て用のサポーターを必要としたので翌日からは初日の勤務後に茶工場の近くの大型スーパーの百均でそれを購入せざるを得なかった。一方で相原さんの方はと云うと茶工場の中の事務所に入り浸って事務作業に精を出しているようである。私と違ってホワイトカラーの仕事だが時給は同じ千円で労働時間も同じであるが、男と女の違いと云う事で労働内容が異なっているそうだ。これには何か腑に落ちないものを私は感じたが抗議出来るだけの度胸も余裕もないのでひたすら目の前の仕事に集中するのであった。
茶工場の前面は大井川であり、その大井川に沿うような形で大井川鉄道が敷設されていた。時たまベルトコンベアーの前で作業していると、大きな汽笛の音がした。顔を上げてみればSLが走っているではないか。今までにも秩父鉄道のSLを見た事はあったが、それとはまた趣が異なるSLで私は好奇心をそそられたものだった。そんな私の様子を見て同じ作業に従事していた隣の職員が「手を動かせ!」と荒っぽく言ってきたものの、SLに反応している事に気が付くと「休みの日にでもSLに乗ってくるといい」等とやんわり勧めてくれるのだった。だがその後その職員は目にも留まらぬ速さで次々とお茶っ葉を仕分け始めたので、うかうかしていられなくなった私はSLに再度注目する事等出来ずに仕分け作業に当たらなくてはならないのだった。そうして仕分け作業に没頭しているうち午後十二時になると皆労働を中断して昼休みの時間になった。それは午後一時まで一時間の昼休みだったが、なんとありがたい事にはこの時間の間もタイムカードを切る必要はなく、一時間の時給を出してもらえるのだと云う。どうやらこの昼休みの休憩時間も含めての十時間労働と云う事らしかった。こんな大盤振る舞いな職場は中々ないので私の気分は有頂天となったものである。この昼休みでは地元の弁当屋さんから仕出し弁当がアルバイトも含めた分まで配達されたのでそれを頂く形であった。この初日は付かなかったが、インスタントの味噌汁等も貰える事があり労働によって大量の汗をかいた後の身体にはその味噌汁が芯まで沁み込んで大変美味かった事をよく覚えている。
また職員の方と世間話や身の上話で盛り上がったのもこの昼休みだった。日数が経つ毎に茶工場の職員と私は打ち解け合う事が出来、労働から解放されたこの昼休みにお互いに緊張感を感じる事なく語り合ったものである。ただその中で私を戸惑わせたのはこの地域の方言だった。職員の方は皆地元の方言で私に語り掛けてくるので東京都出身で方言には疎い私には分からない語彙や語尾等があり会話に支障が出る場合があったが、そんな時には東京都に働きに出た事があると言う比較的若い職員が通訳してくれて事なきを得た。その方はバンドマンとしても活動しているそうで当時も休日にはバント演奏をしに関東へ出てくる事も多いためか東京都や神奈川県の地理にも明るかった故に私と話が合ったものだった。一方で相原さんはと云うと女性職員と共に茶工場のベランダで昼食を食べているようで、事務所で昼食を食べていた私とは住み込み期間中に一度も一緒に昼食を取る形とはならなかった。何でも彼女の方では私の事を酷く警戒している様子でそれは数日後寮にて私が問題行動を起こした事で彼女の中では決定的となったようでもあった。
それは働き始めてから三日間程経った時だったと思うが、一日の仕事を終えて寮に帰りレトルトカレーを茹でて食してから缶ビールを数本飲んだ私は非常に疲れていた為か歯を磨いた後は風呂にも入らず早々に寝てしまった。だがどうやらこの時の私は大きな失態を犯してしまったようなのである。翌日私はドアを激しくノックする音で目が覚めた。ドアを開けてみると血相を変えた相原さんが立っている。相原さんは開口一番「あなた、私の歯ブラシを昨日使ったでしょ」「えっ」「えっじゃないわよ、私の歯ブラシを昨日使ったでしょって言ってるの。だって私こんなに力を入れて歯ブラシを使った事なんてないもの」と相原さんは片手に握っていた歯ブラシを私に提示して語気を荒げた。それを見てみるとなるほどその歯ブラシの毛の先は大きく歪んでいた。これに私は「いやでもそれを使った記憶はないけど」と弁明すると相原さんは「なんで嘘を付くの?」と全く引き下がらないのである。それ以降二人は歯ブラシを使った、使わないの押し問答となったが相原さんが余りにもしつこいので私は根負けし、使用した事を認めた。缶ビールを数本飲んで酔っ払っていた私はその負い目もあり、新しい歯ブラシ代を相原さんに渡す事で決着が付いたのである。確か百十円程度を差し出した記憶があるが、それを受け取った時の彼女は「ありがとう」を言うのでもなく、それどころか「もう信じられない」とかなんとか捨て台詞まで吐き、ドアを勢いよく閉めてさっさと去って行ったのだった。これに私は彼女と出会った時に感じた淡いロマンス等は雲散霧消し殺意まで湧いてきた程だったが勿論それを実行する事はなく我慢した。本音を言えば私はこの住み込み期間中に相原さんと仲良くなり彼女の連絡先を聞き出した上で交際を申し込もうとまで考えていたのである。しかしそれはこの出来事で脆くも崩れ去ったのだった。それに相原さんにはどうやら付き合っている彼氏がいたようでもあった。この寮は浴室の隣に洗濯機が設置されているのだったが、私が風呂に入っている時に洗濯をしに来た相原さんが洗濯機を回している間彼氏と思われる相手と携帯電話で会話している声を私は何度か聞いたからである。以降相原さんと私は挨拶程度はするもののその他は全く会話を交わす事なく過ごしたのだった。
そのうち働き始めて一週間程が経つと念願の休日がやって来た。この休日は二週間の労働期間の中一日しかないので極めて貴重なのである。日々朝から晩までベルトコンベアーの前でしゃがみ込み、お茶っ葉の仕分け作業に従事してきたので腰を痛めていた私としてはこの休日を寮で丸一日寝て過ごしても良かったものの、当初から抱いていたSLに乗りたい気持ちを優先させる事とした。勿論和服姿でSLには乗り込むつもりだった。明治時代の書生を擬似体験する絶好のチャンスだったからだ。一応休日の前日の昼休みに職員の一人からSLが家山駅に到着する時刻を教えてもらっていたので、前日に洗濯を済ませた和服に着替えて朝食を食べた後私はそれに合わせて家山駅へと歩き出した。その寮から家山駅まで歩いていく途次では大井川とそれを囲むようにして存在している新緑に装飾された山々が改めて目に映り、島田市が持つ自然の景観の魅力を再び認識させられたものだった。しかもその中では神奈川県の横浜市では見られない野鳥等も目撃出来たのである。野生の動物が好きな自分にとっては得難い体験が出来た訳で、私のテンションは一気に上昇し高揚感さえ感じた程だった。
やがて家山駅に着くと既にSLは到着していた。まじまじとそれを眺めると秩父鉄道で走っているSLとはまた種類が異なるSLで目新しさと使い古された経年劣化が同時に感じられた。故に独特の価値を感じた私はマナーの悪い目障りな撮り鉄等も居なかった為、持参してきたスマートフォンでそのSLを記念撮影した覚えがある。そして私は記念撮影を終えた後この時確か一日乗り放題の切符を千円で買ったと思うが、それを持って車内へと乗り込んだのだった。一方車内では和服姿の風体から当然の如く周囲から注目を浴び、中には「映画の撮影ですか?」とか「明治時代のドラマの撮影かしら」等とおばさんから声を掛けられ、ツーショット写真も撮られる事態ともなった。ただ私は映画の件は言下に否定したものの、一応笑顔でそのおばさんとの撮影には応じたものだった。そのうち車掌による切符確認も済むとSLは汽笛を響かせて発車した。この時に響いた汽笛音が私にとってはかなり意表を突く形であった為、酷く驚いたものである。動き始めたSLは直ぐに大井川の沿線を走り出した為、車窓から大井川を眺めたがいつも茶工場の現場やそこへの行き帰りに自転車を走らせながら目視する場合とは当然視点が異なりより身近だったからか、大井川が非常に巨大な川に感じられた印象がある。特に目を凝らして見ると大井川の向こう側の大井川鉄道とは対面する形で伸びている国道では小学生ぐらいの子供を含めて何人もの人達がこちら側のSLに向かって盛んに手を振っているではないか。私もそれに負けじと車窓から両手を出し手を振り返したものだったが、先程の車掌が飛んで来て「やめてください」と手厳しく注意してきたので中断せざるを得なかった。
SLはその後渓谷や田園の中を走り過ぎていった。その間私はと言うと大正ロマン溢れる車両を先端から最後尾まで何度も往復したりする等大人しく座席に座っているような事はしなかった。横浜市に住んでいたらまずSLなんて乗れないのだから、和服と雰囲気が非常に調和するSLの車両の中を存分に楽しんでおきたかったのである。乗客の方も私の和服姿を好意的に受け入れてくれたようで、私が「車両の中で記念写真を撮ってほしい」とお願いすると快諾してくれる乗客が多かった。ただほとんどの乗客に「坊ちゃんでしょ?」等と夏目漱石の坊ちゃんのコスプレをしていると思われたのは心外だった。私は夏目漱石の文章が苦手だったので坊ちゃんも読んでいなかった故にどう反応していいか困ってしまったからだ。そんな事をしつつ結局家山駅から三十分程走ったところの無人駅で私は途中下車した記憶があるが、その駅名に関してはもう忘れてしまった。そこは映画「男はつらいよ」の寅さんや金田一耕助が居そうな昭和三十年代に建築された感じの味わい深くて魅力的な駅舎だった印象がある。最も当の私が金田一耕助のような風体をその時はしていたのだけれど。
SLの車両をひたすら歩きまわり少し疲れてきた私は駅舎の中の自動販売機で三ツ矢サイダーを購入し、しばしそれで喉を潤しつつベンチに座り一時の涼を取った。ふと腕時計を見てみれば既に午後二時を過ぎている。夕飯の用意も考えるともう寮に帰った方がよさそうな気もしてきた私は一日乗り放題の切符が勿体なく思えたが、一駅だけ歩いてその後は電車に乗って家山駅まで戻る事に決めた。見知らぬ土地を歩く事は不安だが、スマートフォンの地図アプリを使えば一駅先の駅まで難なくたどり着けると踏んだのだった。ただ今から思えばこれが大きな間違いだったのだが。その無人駅から歩き始めて十分間程経つと雨がぽつぽつ降り始めた。最初は小雨だろうと思って足を進めたが、一分二分程してどんどん雨脚が強くなってきた。そのうち雷も鳴り始めたではないか。どうやら雷雨のようだった。本当ならこの時に途中下車した無人駅に引き返せば良かったのだが、十分間以上も歩いてきた為引き返すのが面倒くさく思えたので私は歩くスピードを速めて、一駅先の目的の駅へと進んだ。しかしこれがいけなかった。目的の駅にたどり着くにはそれから三十分間以上もの時間を要したし、その間着ていた和服はずぶ濡れる等散々な目にあったからである。その後何とか目的の駅から家山駅まで乗車しそこから歩いて寮まで帰り着いたが、悪寒を感じ始めたのはその夜の風呂上がりの事だっただろうか。どうやら私は雷雨に晒され続けた為、風邪を引いてしまったようなのだった。早速茶工場の職員に連絡を入れ風邪を引いた旨を伝えたが、風邪は治るのに翌日から二日間も掛かりその間私は寮で寝ていたので、二日間分も働き損なってしまったのである。
元々の休日も入れれば三日間も休んだ形だったが、風邪から回復した後に職場に復帰すると茶工場の職員の方々は温かく迎えてくれた。文句の一つぐらい言われる事は覚悟していたがむしろ私の体調を確認してくる等心から心配してくれていたようである。これまで様々なアルバイトに従事してきた中で、出勤の日に風邪を引いて休んだ場合は休む事自体も職場の了解を得る事が大変だったし、休んでから出勤すると「風邪なんて引きやがって」と嫌味を言われる事も多かったからこの茶工場の職員達の人柄の良さには少々呆気に取られたものだった。しかしながら私が風邪から完全回復した事が確認出来ると、今までのベルトコンベアーでのお茶っ葉の仕分け作業ではなく別のハードな仕事に回される事になった。何でも茶工場内に設置されているコンテナの中に入っている大量のお茶っ葉を別の空のコンテナの中に手作業で移し替える内容で、説明を受ける中でこれはちょっと一筋縄には行かないだろうな、と私は思う程だった。やり方は大きなサイズのゴミ袋を片手にお茶っ葉が入っているコンテナの中に乗り込んでゴミ袋の中にお茶っ葉を入れ、別の空のコンテナの中へそのゴミ袋からお茶っ葉を移し替えていくだけなのだがこれがなかなか力も集中力も必要だし、屈んで腰も痛めるしで非常に難儀したのだった。しかもこのコンテナの移し替えは一組だけでなく五組程あったので、その日だけで完了する事は出来ず、それから三日間程はその作業に没頭したものだった。勿論職員の人も一日で全てのコンテナの移し替えを望んでいる訳ではなさそうだったが、腰痛がしんどくなって途中でコンテナの中で座ろうとすると必ず職員が交代で様子を見に来る状態であったので気は抜けなかった。しかも茶工場の中は蒸していて気温が高く暑かった為、今までのように涼やかな風に晒される外でのベルトコンベアーでのお茶っ葉の仕分け作業より格段に疲れる作業であったのである。
ただ三日間掛かってその作業を完了し終えると職員達には非常に感謝され、また外でのベルトコンベアーのお茶っ葉の仕分け作業へと移してもらえたのだった。何でも私がこの三日間従事した労働は昨年茶工場の住み込みアルバイトへ来た男子大学生には到底耐えられなかったようで、ある職員は「結局彼はその途中で辞めて帰って行った」と言っていた。中でも初日に私を家山駅から寮まで軽トラックで送ってくれたBさん等は私が和服を身に着けていたので私に対して軟弱で体力がなさそうな印象を持っていたらしく、到底コンテナでの作業には耐えられず音を上げて昨年の男子大学生と同様に途中で帰るだろうと踏んでいたからか私に対して「見直したよ」等と一声掛けてきたものだった。それを聞いて思わず私は鼻が高い気分になってしまったし、「こんな事で私に対しての印象が変わる職員の人達はなんと単細胞な人達なんだろう。案外島田市の人って単純でチョロい田舎者なんだろうな」等と職員だけでなく島田市の人達にまでも田舎者と馬鹿にするような優越意識まで持ってしまったのだった。そしてこの私の勘違いがこの日ちょっとしたトラブルをも生んでしまったのである。
それはこの日の仕事を終えて寮に帰宅して食堂で一人味噌ラーメンを食べていた時の事だった。ここの寮は隣が馬場である為かその食堂には何故か馬場で乗馬をし終えた後に馬場の利用者が夕食等を取っている事が多かった。おそらく茶工場の職員と馬場の関係者によって提携が成されているからなのだろうが、仕事に疲れた後で落ち着いて食事を取りたかった私としては食堂にいる馬場の利用者は家族連れ等が多く騒がしかった為、少々迷惑していたものだった。だがこの日は家族連れではなく地元のマイルドヤンキー風の青年が四人程おり、これはこれで威圧感等があった為家族連れとは違った意味で鬱陶しさを感じていた私はその存在を無視していたが、和服姿で味噌ラーメンを食べていた事が原因で先方から話しかけられてしまったのだった。断っても良かったものの、マイルドヤンキー相手に上手く断る事が出来なかった私は取り合えず彼らと会話を始める流れとなった。まず手始めに互いの年齢等を打ち明け合ったが、先方の四人いずれも三十歳を超えているようで私よりも約十歳は年長であった。当初彼らを見た時は私と同じ年齢か、もしくは年下だろうと踏んでいたのでこれには酷く面食らってしまったものである。年齢を確認し合った後は彼らから「何故和服を着ているんだ?」とか「何故島田市に住み込みアルバイトをしに来たんだ?」とか質問攻めに合い、それに対して丁寧に返答してやれば彼らも機嫌を良くして日本酒等を私に差し出してきたものだった。日本酒嫌いな私だったのでこれも断っても良かったものの、ここで彼らの好意を拒否して険悪な雰囲気になったらまずいという頭が働きそれを貰ってしまった。後から思えばこれも大きな間違いでここで日本酒をキッパリ断っておけば良かったのである。彼らから日本酒を御猪口で五本程貰いそれを飲み干した私は直ぐに酩酊状態となってしまった。私は下戸ではないが酒には弱いのである。彼らも彼らで出来上がっている状態で話は猥談等にも飛び火しますます盛り上がっていった。ここで終わっていれば良かったのだが、彼らの一人が「島田市と地元のどっちが住みやすいか?」と言ってきて私が昼間抱いた島田市の人達を田舎者と馬鹿にする優越感や酒の勢いから「馬鹿言っちゃいけねぇよ、俺の地元は東京都の田舎だぜ!」と口を滑らせた事から場の空気が一変してしまったのである。
それから数十秒間沈黙が流れた。重々しい空気感である。やがて彼らの一人が「じゃおめぇの田舎は東京だからこの島田市とどこが違うって言うんだよ」と物凄い形相でこちらを睨みながら怒鳴って来た。どうやら彼は私が言った東京と田舎というワードに引っかかっている様子であった。これに私は「いやそれは・・・」と口ごもったが、こんな事で手を緩める事はなく彼は「だから島田市よりもおめぇの田舎は東京だから何が特別なんだよ?」と尚迫って来た。「いやこれは決して島田市の事を貶める為に言ったんではなくて」「じゃどういうつもりで言ったんだよ」「いや俺の地元は東京だけれども田舎と変わらないっていう意味で言ったんですよ」「だったら最初から東京の、なんて付ける必要はねぇじゃねぇかよ。結局東京って事を自慢したいから言ったんだろ?」「いやそんなつもりはなくて」「今時東京なんて地方の人間は誰でも憧れてるなんて思うなよな」 「は・・・・」これを聞き私は「随分とこいつは東京にコンプレックスを抱えているようだな」と思ったがそれは口にはしなかった。そのうち私に対して酷く難癖をつけてきた彼を周りの三人が宥めすかしてようやくその場は収まったが、何だか禁断の発言をしてしまったようで居た堪れなくなった私はすぐに食堂を後にしたのだった。ただその後地方出身者の友人が出来た際等は相手に向かって絶対に自分が東京都出身である事を強調しない事や「田舎」という言葉を使わない事等を徹底出来るきっかけにはなったので全くの無益な出来事ではなかったと思っている。
以後の私は勘違いした優越意識等はさっぱりと捨ててまた茶工場での仕事に邁進した。普段和服で生活していたので、久々に住み込みアルバイトをする中で靴を履く生活に戻ると働き始めて一週間以上経過する中で右足に酷い水虫が出来たが、それをある職員に訴えたところ何故か島田市の有名な温泉に連れて行ってもらった事があった。その職員は温泉に入れば水虫が良くなると考えていたようだがその相関関係は置いておいても、その親切心に私は心を打たれたものだった。改めてあの日職員の方々を田舎者だと侮り、優越意識を持った自分を恥ずかしく思った。特にBさんはコンテナの作業を終えて以降私の事を大変可愛がってくれ、仕事が終わった後に私を軽トラックで自分の自宅へ連れて行き、夕食を振る舞ってくれた事もあった。その時は静岡県焼津市の焼津漁港の海で獲れた旬の魚の刺身が出されたが、これが何とも言えない旨味があったのでその魚の名前を忘れてしまった事は後々かなり後悔したものだった。ちなみにこの時も日本酒が提供されたのだが、数日前の失態の反省から私はそれを少々嗜む程度に留めておき、羽目を外さないように努めた。そんな職員との心の交流と言ってもいい程のコミュニケーションを経て私はすっかり住み込みアルバイトの身分でしかない事を忘れて、「自分も立派な茶工場の一員である」等と自惚れ始めたが、時の流れは早いもので遂に住み込みアルバイトとしての最終労働日が来てしまったのだった。
最終日の仕事は午前中で早々に切り上げ、午後からは職員の人達全員と私で打ち上げのバーベキューをする事となった。一瞬私は参加する事を躊躇ったが、険悪な仲となっていた相原さんは二日前に京都府へ帰っていた事もあったし、職員の人達は私に参加して欲しそうであったのでその気持ちを無下には出来なかったのだった。そこでは私はひたすら野菜やウインナーを焼く役目を与えられたが、Bさん等がその私に対して私がこの期間中にベルトコンベアーで仕分けた商品用に出来るお茶っ葉で沸かしたお茶を「美味いから飲め、飲め。お前が普段飲んでいるお茶とは比べ物にならないぞ」と急かすので中々集中出来なかった。ただそのお茶を飲んでみると独特の香ばしさもあって確かにBさんの言う通り普段飲んでいるお茶とは全く違った美味さを感じたものだった。一通り野菜とウインナーを焼き終えるとBさんの隣の席にあてがわれ私は彼からどんどんと焼き肉を与えられた。そしてここでもビールや発泡酒等をコップに酌まれ乾杯するに至ったが、流石に乾杯を断る事は出来なかったのでとにかく悪酔いしないように酒を飲んだらその分水を飲む事を徹底する事に焦っていた記憶がある。おかげでバーベキューは約二時間程だったが、その間私は十回程度小便をしに便所へ駆けていったのだった。ただBさんを筆頭にほぼ全ての職員がそんな私の落ち着きのなさを気にする事はなく、飲んで食って歌って騒いでの大盛り上がりの様相であった。そんな気分を良くした彼らは私に対して「来年も来てくれよ」とか「仕事に困ったらここへ就職しろ」なんて言ってきたが、「どうせ酔っぱらいの戯言だろう」なんて思いつつも、住み込みアルバイトとしてやり切った自信もありそれを聞いて私は満更でもなかった。そうして宴もたけなわとなった頃に私は泥酔して眠ってしまったようなのだった。それは目覚めると寮の自分の部屋で寝ていた事からも分かる通り、どうやらBさんが泥酔した私を茶工場から寮まで軽トラックで送ってくれたようなのである。それを知り私はバーベキューの跡片付けにも参加出来ず、何だか職員の皆に対して申し訳ない気持ちとなってしまった。
翌日いよいよ島田市を離れる日となった。私は朝食を済ませると二週間お世話になった部屋の片付けをして荷造りをし、Bさんが軽トラックで迎えに来てくれる時刻になるのを待った。そこで二週間分の給料を貰い、家山駅まで送ってもらう事になっているのである。私は名残惜しさもあったが、貰える給料の事で嬉しさ一杯であったのでまだかまだかとBさんの軽トラックを待ったのだった。やがて午前九時過ぎになるとBさんの軽トラックがやって来た。私はそれで玄関へ行きBさんと挨拶を交わして軽トラックへと入るのだったが、早速運転席に座るBさんから給料袋を手渡された。まず明細書を確認すると手取りで十万三千円と記されており、中には往復の交通費の他に十万三千円の給料がしっかりと入っていた。時給千円で二週間の十時間労働の中で三日間休んで最終日は午前中だけの労働であったから計算通りの給料であった。Bさんは明細書を確認する助手席の私を横目に「お疲れ様」とだけ告げ、軽トラックを出発させた。乗車中もう五分程で家山駅に着く頃合いだったと思うが突然Bさんが「それで木綿製の袴は買えそうか?」と私に言ってきた。「なんでその事を知っているんだろう」と不思議に思った私は「どうして僕が木綿の袴を欲しがってる事を知っているんですか?」とBさんに確認すればBさんは「昨日、バーベキューの時にお前は皆にこの住み込みアルバイトをした理由は木綿製の袴を買う為のお金を稼ぎたかったからだ、なんて言っていたじゃねぇかよ」と言った。どうやら昨日の私は酔いの勢いに任せてそんな事を言ってしまったようであった。私がこれにどう反応していいか分からなくなっているとすかさずBさんが「その木綿製の袴が出来たら、その袴を履いてまた金田一耕助みたいな姿で写真を撮ってこっちにその写真を送ってこいよ」と言ってくるではないか。これに私が「どういうつもりですか?」と質すとBさんは「ここにかつて和服姿の変わった若者が来たって事を忘れたくないんだよ、茶工場の事務所にその写真を貼っておけば皆忘れないだろ?」と言い、Bさんの住所をメモした紙も同時に渡してきた。どうやらそこにその写真を送ってこいという事らしい。これに私は少し涙腺が緩んだが、泣く事はなく「分かりました」とだけ言いそのメモを受け取ったのだった。
それから一か月後に茶工場の住み込みアルバイトで貰った給料の一部で購入した木綿製の馬乗り袴が出来上がりネットショップから送られてきたので、早速それを着流し姿の上から履いた姿で母親に写真を撮ってもらった。その写真と共に茶工場の職員の方に対して感謝の思いを綴った手紙も同封してBさんの住所に送ったが、結局Bさんから返信はなかったのでどうなったかは分からない。あの時にBさんが言った通りその写真が茶工場の事務所に貼り付けられているのかどうかも、翌年またそこへ住み込みアルバイトをする事で確かめようと思ったが、その時にはもう住み込みアルバイトを当の茶工場では募集していなかったので確かめようもなかった。ただその馬乗り袴を履く度に島田市の茶工場の事を思い出して、感傷的な気分になってしまう事が私と島田市での日々を繋ぐただ一つの絆のようなものとなったのだった
一方でその当時の私にはどうしても欲しいものがあった。それは木綿で作られた馬乗り袴だった。和服にハマったのはその二年程前だったが、私は長着の着物のままの状態の所謂着流し姿をあまり好まず着流し姿の上から馬乗り袴を履いていたのだが、その当時履いていたのはポリエステル製の馬乗り袴だった。しかしこのポリエステル製の馬乗り袴は冬等に静電気が激しく起きる欠点があり私ははっきり言って全然好きではなかった。静電気が起こる心配がないようにするには天然素材の馬乗り袴が適しているのだが、絹は洗濯出来ないしウールは暑そうな印象があったので木綿製の馬乗り袴が欲しくなっていたのだった。ところが木綿製の馬乗り袴はネットショップ等で売ってはいたものの、反物と仕立て込みの金額で六万円は掛かるようであった。そんな金を持ち合わせていない私としてはどこかでその金を稼ぐ必要があったのだったが、その金をスーパーのアルバイトや日雇い派遣等をして稼ぐ気力はその時の私にはもうなかったのである。ただ窮すれば通ず、といった事か私は奥の手を考え出すに至った。地方で募集している期間限定の住み込みアルバイトをしてみようと考えついたのだ。旅行好きな私にとって都会から離れた地方の田舎町で働く事は気晴らしも兼ねる事が出来ると思えたし、期間限定であるから煩わしい人間関係に長い時間縛られてストレスを溜めるような恐れはなさそうだと判断したのだった。そうと決まると私は早速自宅のパソコンからインターネットを使って山小屋から農家から漁業までありとあらゆる住み込みアルバイトを探し始めた。
それから約一日中ネットサーフィンをして住み込みアルバイトを探した記憶があるが、結論からすると静岡県島田市の茶工場の住み込みアルバイトに申し込んでみる事にした。その他にも群馬県の尾瀬ケ原の山小屋の住み込みアルバイトや岐阜県高山市のトマト農家の住み込みアルバイト等が気になったが何れも時給が安く交通費を片道しか支給してもらえない為見限った形だった。即日私は先方に連絡をしたところ若年だった為に好印象を相手に与えたものなのか、証明写真等を貼付した履歴書をファックスで送る必要もなくあっさりと採用されてしまった。汚れてもいい服装と頑丈な靴を持ってくる事を要求され、往復の交通費は最終日に給料と一緒に手渡すとの事。期間は約二週間で休日はそのうち一日だけであり、時給は千円の一日十時間労働との事も告げられた。私はすんなりと採用されて嬉しかったものの地方の住み込みアルバイトにも関わらず時給千円という高待遇から相当な重労働を課せられるような不安も感じて心中は穏やかではなくなってきていた。しかし先方は直ぐに現地に来て欲しいとの事なので私は取り合えず必要最低限の持ち物を用意して翌日静岡県島田市へと出発したのだった。実は今回の茶工場での住み込みアルバイトでは個人的に楽しみな事が一つあった。それは大井川鉄道のSLに乗る事であった。どうやら大井川鉄道では通常の電車とは別にSLが走行しているようなのだ。茶工場の現場の最寄り駅は大井川鉄道の家山駅と言う駅なので休日はSLに乗れる機会もあるに違いないと踏んだ私は明治時代の青年になりきったつもりで着物にポリエステル製の馬乗り袴のコスプレ姿で茶工場の現場先へと旅立ったのだった。勿論先方から指定された汚れてもいい服装と頑丈な靴を携行しながら。
先方から指定された時刻に家山駅へと着くと既に茶工場の軽トラックが待ち構えていた。その胡麻塩頭に細面の六十代位の年齢のBさんと言うおじさんが私を出迎えてくれた形だったが、当然のように私の和服姿の風体に驚いている様子で半ば戸惑っていた。そこですかさず私が「作業着と靴は持って来てますから」と告げるとBさんは強張っていた顔を綻ばせて私を軽トラックへ入るように促すのだった。そのBさん曰く「今すぐにでも仕事に従事して欲しいところだが、今日はここまで来ただけで疲れているだろうから明日から仕事をしてもらう事にする」との事で私はそのまま茶工場の住み込みアルバイトが寝泊まりする寮へと連れていかれた。ただ家山駅から軽トラックで十分間程走った場所にあるその寮は馬等が飼育されている馬場の隣に存在していて糞尿の匂いが充満しているのには少々辟易したものだった。思わず鼻を両手で覆いたくなる程だったので、私はBさんより先に素早く寮の中へと入ってしまった。中へ入ってみると先客がいた。相原さんという女性で年齢は私とそう変わらないようにも見える。和服姿の私に興味を持ったであろう彼女と少し話してみると彼女も三日程前から住み込みアルバイトとして働きに来ているそうで普段は京都府に住んでおり、しかも関西のある難関国立大学の文学部の大学生だとも云う。そして驚いた事に彼女曰くこの寮には私と彼女の二人しかいないと云うではないか。その現実を知りどことなく若い頃の広末涼子にも似ていなくもない彼女を凝視しながら私は彼女との淡いロマンス等をうっとりと想像するのであった。
翌日私は朝七時頃起床し、昨夜寮の近くのコンビニで買ったメロンパン等の菓子パンを食べコーンスープも飲んでから昨日Bさんから支給された自転車に乗って茶工場へと向かった。この頃は確かゴールデンウィークの頃だったと思うが、寮から茶工場までは新緑の木々が真っ盛りの緑道が大半であり、その緑道に沿うような形で流れている壮観な大井川を見つめながら私は自転車を走らせた。その水流の激しさや美しさに圧倒されつつこの時の私は半ば旅行気分でいる自分を少し恥ずかしく思ったものの、この二週間はこの風景と共に過ごせる事を確認出来たみたいで旅行気分からは抜け出せなかった。やがて十五分間程この緑道を自転車で走ると茶工場へ着いた。途端に職員から仕事に取り掛かるように指示が下ったのである。私の仕事はこの地域のお茶農家の方が軽トラックで運んでくるお茶っ葉を商品用に出来るものと商品用に出来ない既に毀損しているものに仕分ける作業であった。軽トラックで運ばれてくるお茶っ葉は茶工場の屋外の地面に設置してあるベルトコンベアーの上に放り込まれ、そこで仕分けるのである。私はそのベルトコンベアーの前にしゃがみ込んで軍手を着けた上でひたすら各軽トラックで運ばれてくるお茶っ葉を仕分けるのであった。因みにこの作業は両膝を地面に付ける為に膝当て用のサポーターを必要としたので翌日からは初日の勤務後に茶工場の近くの大型スーパーの百均でそれを購入せざるを得なかった。一方で相原さんの方はと云うと茶工場の中の事務所に入り浸って事務作業に精を出しているようである。私と違ってホワイトカラーの仕事だが時給は同じ千円で労働時間も同じであるが、男と女の違いと云う事で労働内容が異なっているそうだ。これには何か腑に落ちないものを私は感じたが抗議出来るだけの度胸も余裕もないのでひたすら目の前の仕事に集中するのであった。
茶工場の前面は大井川であり、その大井川に沿うような形で大井川鉄道が敷設されていた。時たまベルトコンベアーの前で作業していると、大きな汽笛の音がした。顔を上げてみればSLが走っているではないか。今までにも秩父鉄道のSLを見た事はあったが、それとはまた趣が異なるSLで私は好奇心をそそられたものだった。そんな私の様子を見て同じ作業に従事していた隣の職員が「手を動かせ!」と荒っぽく言ってきたものの、SLに反応している事に気が付くと「休みの日にでもSLに乗ってくるといい」等とやんわり勧めてくれるのだった。だがその後その職員は目にも留まらぬ速さで次々とお茶っ葉を仕分け始めたので、うかうかしていられなくなった私はSLに再度注目する事等出来ずに仕分け作業に当たらなくてはならないのだった。そうして仕分け作業に没頭しているうち午後十二時になると皆労働を中断して昼休みの時間になった。それは午後一時まで一時間の昼休みだったが、なんとありがたい事にはこの時間の間もタイムカードを切る必要はなく、一時間の時給を出してもらえるのだと云う。どうやらこの昼休みの休憩時間も含めての十時間労働と云う事らしかった。こんな大盤振る舞いな職場は中々ないので私の気分は有頂天となったものである。この昼休みでは地元の弁当屋さんから仕出し弁当がアルバイトも含めた分まで配達されたのでそれを頂く形であった。この初日は付かなかったが、インスタントの味噌汁等も貰える事があり労働によって大量の汗をかいた後の身体にはその味噌汁が芯まで沁み込んで大変美味かった事をよく覚えている。
また職員の方と世間話や身の上話で盛り上がったのもこの昼休みだった。日数が経つ毎に茶工場の職員と私は打ち解け合う事が出来、労働から解放されたこの昼休みにお互いに緊張感を感じる事なく語り合ったものである。ただその中で私を戸惑わせたのはこの地域の方言だった。職員の方は皆地元の方言で私に語り掛けてくるので東京都出身で方言には疎い私には分からない語彙や語尾等があり会話に支障が出る場合があったが、そんな時には東京都に働きに出た事があると言う比較的若い職員が通訳してくれて事なきを得た。その方はバンドマンとしても活動しているそうで当時も休日にはバント演奏をしに関東へ出てくる事も多いためか東京都や神奈川県の地理にも明るかった故に私と話が合ったものだった。一方で相原さんはと云うと女性職員と共に茶工場のベランダで昼食を食べているようで、事務所で昼食を食べていた私とは住み込み期間中に一度も一緒に昼食を取る形とはならなかった。何でも彼女の方では私の事を酷く警戒している様子でそれは数日後寮にて私が問題行動を起こした事で彼女の中では決定的となったようでもあった。
それは働き始めてから三日間程経った時だったと思うが、一日の仕事を終えて寮に帰りレトルトカレーを茹でて食してから缶ビールを数本飲んだ私は非常に疲れていた為か歯を磨いた後は風呂にも入らず早々に寝てしまった。だがどうやらこの時の私は大きな失態を犯してしまったようなのである。翌日私はドアを激しくノックする音で目が覚めた。ドアを開けてみると血相を変えた相原さんが立っている。相原さんは開口一番「あなた、私の歯ブラシを昨日使ったでしょ」「えっ」「えっじゃないわよ、私の歯ブラシを昨日使ったでしょって言ってるの。だって私こんなに力を入れて歯ブラシを使った事なんてないもの」と相原さんは片手に握っていた歯ブラシを私に提示して語気を荒げた。それを見てみるとなるほどその歯ブラシの毛の先は大きく歪んでいた。これに私は「いやでもそれを使った記憶はないけど」と弁明すると相原さんは「なんで嘘を付くの?」と全く引き下がらないのである。それ以降二人は歯ブラシを使った、使わないの押し問答となったが相原さんが余りにもしつこいので私は根負けし、使用した事を認めた。缶ビールを数本飲んで酔っ払っていた私はその負い目もあり、新しい歯ブラシ代を相原さんに渡す事で決着が付いたのである。確か百十円程度を差し出した記憶があるが、それを受け取った時の彼女は「ありがとう」を言うのでもなく、それどころか「もう信じられない」とかなんとか捨て台詞まで吐き、ドアを勢いよく閉めてさっさと去って行ったのだった。これに私は彼女と出会った時に感じた淡いロマンス等は雲散霧消し殺意まで湧いてきた程だったが勿論それを実行する事はなく我慢した。本音を言えば私はこの住み込み期間中に相原さんと仲良くなり彼女の連絡先を聞き出した上で交際を申し込もうとまで考えていたのである。しかしそれはこの出来事で脆くも崩れ去ったのだった。それに相原さんにはどうやら付き合っている彼氏がいたようでもあった。この寮は浴室の隣に洗濯機が設置されているのだったが、私が風呂に入っている時に洗濯をしに来た相原さんが洗濯機を回している間彼氏と思われる相手と携帯電話で会話している声を私は何度か聞いたからである。以降相原さんと私は挨拶程度はするもののその他は全く会話を交わす事なく過ごしたのだった。
そのうち働き始めて一週間程が経つと念願の休日がやって来た。この休日は二週間の労働期間の中一日しかないので極めて貴重なのである。日々朝から晩までベルトコンベアーの前でしゃがみ込み、お茶っ葉の仕分け作業に従事してきたので腰を痛めていた私としてはこの休日を寮で丸一日寝て過ごしても良かったものの、当初から抱いていたSLに乗りたい気持ちを優先させる事とした。勿論和服姿でSLには乗り込むつもりだった。明治時代の書生を擬似体験する絶好のチャンスだったからだ。一応休日の前日の昼休みに職員の一人からSLが家山駅に到着する時刻を教えてもらっていたので、前日に洗濯を済ませた和服に着替えて朝食を食べた後私はそれに合わせて家山駅へと歩き出した。その寮から家山駅まで歩いていく途次では大井川とそれを囲むようにして存在している新緑に装飾された山々が改めて目に映り、島田市が持つ自然の景観の魅力を再び認識させられたものだった。しかもその中では神奈川県の横浜市では見られない野鳥等も目撃出来たのである。野生の動物が好きな自分にとっては得難い体験が出来た訳で、私のテンションは一気に上昇し高揚感さえ感じた程だった。
やがて家山駅に着くと既にSLは到着していた。まじまじとそれを眺めると秩父鉄道で走っているSLとはまた種類が異なるSLで目新しさと使い古された経年劣化が同時に感じられた。故に独特の価値を感じた私はマナーの悪い目障りな撮り鉄等も居なかった為、持参してきたスマートフォンでそのSLを記念撮影した覚えがある。そして私は記念撮影を終えた後この時確か一日乗り放題の切符を千円で買ったと思うが、それを持って車内へと乗り込んだのだった。一方車内では和服姿の風体から当然の如く周囲から注目を浴び、中には「映画の撮影ですか?」とか「明治時代のドラマの撮影かしら」等とおばさんから声を掛けられ、ツーショット写真も撮られる事態ともなった。ただ私は映画の件は言下に否定したものの、一応笑顔でそのおばさんとの撮影には応じたものだった。そのうち車掌による切符確認も済むとSLは汽笛を響かせて発車した。この時に響いた汽笛音が私にとってはかなり意表を突く形であった為、酷く驚いたものである。動き始めたSLは直ぐに大井川の沿線を走り出した為、車窓から大井川を眺めたがいつも茶工場の現場やそこへの行き帰りに自転車を走らせながら目視する場合とは当然視点が異なりより身近だったからか、大井川が非常に巨大な川に感じられた印象がある。特に目を凝らして見ると大井川の向こう側の大井川鉄道とは対面する形で伸びている国道では小学生ぐらいの子供を含めて何人もの人達がこちら側のSLに向かって盛んに手を振っているではないか。私もそれに負けじと車窓から両手を出し手を振り返したものだったが、先程の車掌が飛んで来て「やめてください」と手厳しく注意してきたので中断せざるを得なかった。
SLはその後渓谷や田園の中を走り過ぎていった。その間私はと言うと大正ロマン溢れる車両を先端から最後尾まで何度も往復したりする等大人しく座席に座っているような事はしなかった。横浜市に住んでいたらまずSLなんて乗れないのだから、和服と雰囲気が非常に調和するSLの車両の中を存分に楽しんでおきたかったのである。乗客の方も私の和服姿を好意的に受け入れてくれたようで、私が「車両の中で記念写真を撮ってほしい」とお願いすると快諾してくれる乗客が多かった。ただほとんどの乗客に「坊ちゃんでしょ?」等と夏目漱石の坊ちゃんのコスプレをしていると思われたのは心外だった。私は夏目漱石の文章が苦手だったので坊ちゃんも読んでいなかった故にどう反応していいか困ってしまったからだ。そんな事をしつつ結局家山駅から三十分程走ったところの無人駅で私は途中下車した記憶があるが、その駅名に関してはもう忘れてしまった。そこは映画「男はつらいよ」の寅さんや金田一耕助が居そうな昭和三十年代に建築された感じの味わい深くて魅力的な駅舎だった印象がある。最も当の私が金田一耕助のような風体をその時はしていたのだけれど。
SLの車両をひたすら歩きまわり少し疲れてきた私は駅舎の中の自動販売機で三ツ矢サイダーを購入し、しばしそれで喉を潤しつつベンチに座り一時の涼を取った。ふと腕時計を見てみれば既に午後二時を過ぎている。夕飯の用意も考えるともう寮に帰った方がよさそうな気もしてきた私は一日乗り放題の切符が勿体なく思えたが、一駅だけ歩いてその後は電車に乗って家山駅まで戻る事に決めた。見知らぬ土地を歩く事は不安だが、スマートフォンの地図アプリを使えば一駅先の駅まで難なくたどり着けると踏んだのだった。ただ今から思えばこれが大きな間違いだったのだが。その無人駅から歩き始めて十分間程経つと雨がぽつぽつ降り始めた。最初は小雨だろうと思って足を進めたが、一分二分程してどんどん雨脚が強くなってきた。そのうち雷も鳴り始めたではないか。どうやら雷雨のようだった。本当ならこの時に途中下車した無人駅に引き返せば良かったのだが、十分間以上も歩いてきた為引き返すのが面倒くさく思えたので私は歩くスピードを速めて、一駅先の目的の駅へと進んだ。しかしこれがいけなかった。目的の駅にたどり着くにはそれから三十分間以上もの時間を要したし、その間着ていた和服はずぶ濡れる等散々な目にあったからである。その後何とか目的の駅から家山駅まで乗車しそこから歩いて寮まで帰り着いたが、悪寒を感じ始めたのはその夜の風呂上がりの事だっただろうか。どうやら私は雷雨に晒され続けた為、風邪を引いてしまったようなのだった。早速茶工場の職員に連絡を入れ風邪を引いた旨を伝えたが、風邪は治るのに翌日から二日間も掛かりその間私は寮で寝ていたので、二日間分も働き損なってしまったのである。
元々の休日も入れれば三日間も休んだ形だったが、風邪から回復した後に職場に復帰すると茶工場の職員の方々は温かく迎えてくれた。文句の一つぐらい言われる事は覚悟していたがむしろ私の体調を確認してくる等心から心配してくれていたようである。これまで様々なアルバイトに従事してきた中で、出勤の日に風邪を引いて休んだ場合は休む事自体も職場の了解を得る事が大変だったし、休んでから出勤すると「風邪なんて引きやがって」と嫌味を言われる事も多かったからこの茶工場の職員達の人柄の良さには少々呆気に取られたものだった。しかしながら私が風邪から完全回復した事が確認出来ると、今までのベルトコンベアーでのお茶っ葉の仕分け作業ではなく別のハードな仕事に回される事になった。何でも茶工場内に設置されているコンテナの中に入っている大量のお茶っ葉を別の空のコンテナの中に手作業で移し替える内容で、説明を受ける中でこれはちょっと一筋縄には行かないだろうな、と私は思う程だった。やり方は大きなサイズのゴミ袋を片手にお茶っ葉が入っているコンテナの中に乗り込んでゴミ袋の中にお茶っ葉を入れ、別の空のコンテナの中へそのゴミ袋からお茶っ葉を移し替えていくだけなのだがこれがなかなか力も集中力も必要だし、屈んで腰も痛めるしで非常に難儀したのだった。しかもこのコンテナの移し替えは一組だけでなく五組程あったので、その日だけで完了する事は出来ず、それから三日間程はその作業に没頭したものだった。勿論職員の人も一日で全てのコンテナの移し替えを望んでいる訳ではなさそうだったが、腰痛がしんどくなって途中でコンテナの中で座ろうとすると必ず職員が交代で様子を見に来る状態であったので気は抜けなかった。しかも茶工場の中は蒸していて気温が高く暑かった為、今までのように涼やかな風に晒される外でのベルトコンベアーでのお茶っ葉の仕分け作業より格段に疲れる作業であったのである。
ただ三日間掛かってその作業を完了し終えると職員達には非常に感謝され、また外でのベルトコンベアーのお茶っ葉の仕分け作業へと移してもらえたのだった。何でも私がこの三日間従事した労働は昨年茶工場の住み込みアルバイトへ来た男子大学生には到底耐えられなかったようで、ある職員は「結局彼はその途中で辞めて帰って行った」と言っていた。中でも初日に私を家山駅から寮まで軽トラックで送ってくれたBさん等は私が和服を身に着けていたので私に対して軟弱で体力がなさそうな印象を持っていたらしく、到底コンテナでの作業には耐えられず音を上げて昨年の男子大学生と同様に途中で帰るだろうと踏んでいたからか私に対して「見直したよ」等と一声掛けてきたものだった。それを聞いて思わず私は鼻が高い気分になってしまったし、「こんな事で私に対しての印象が変わる職員の人達はなんと単細胞な人達なんだろう。案外島田市の人って単純でチョロい田舎者なんだろうな」等と職員だけでなく島田市の人達にまでも田舎者と馬鹿にするような優越意識まで持ってしまったのだった。そしてこの私の勘違いがこの日ちょっとしたトラブルをも生んでしまったのである。
それはこの日の仕事を終えて寮に帰宅して食堂で一人味噌ラーメンを食べていた時の事だった。ここの寮は隣が馬場である為かその食堂には何故か馬場で乗馬をし終えた後に馬場の利用者が夕食等を取っている事が多かった。おそらく茶工場の職員と馬場の関係者によって提携が成されているからなのだろうが、仕事に疲れた後で落ち着いて食事を取りたかった私としては食堂にいる馬場の利用者は家族連れ等が多く騒がしかった為、少々迷惑していたものだった。だがこの日は家族連れではなく地元のマイルドヤンキー風の青年が四人程おり、これはこれで威圧感等があった為家族連れとは違った意味で鬱陶しさを感じていた私はその存在を無視していたが、和服姿で味噌ラーメンを食べていた事が原因で先方から話しかけられてしまったのだった。断っても良かったものの、マイルドヤンキー相手に上手く断る事が出来なかった私は取り合えず彼らと会話を始める流れとなった。まず手始めに互いの年齢等を打ち明け合ったが、先方の四人いずれも三十歳を超えているようで私よりも約十歳は年長であった。当初彼らを見た時は私と同じ年齢か、もしくは年下だろうと踏んでいたのでこれには酷く面食らってしまったものである。年齢を確認し合った後は彼らから「何故和服を着ているんだ?」とか「何故島田市に住み込みアルバイトをしに来たんだ?」とか質問攻めに合い、それに対して丁寧に返答してやれば彼らも機嫌を良くして日本酒等を私に差し出してきたものだった。日本酒嫌いな私だったのでこれも断っても良かったものの、ここで彼らの好意を拒否して険悪な雰囲気になったらまずいという頭が働きそれを貰ってしまった。後から思えばこれも大きな間違いでここで日本酒をキッパリ断っておけば良かったのである。彼らから日本酒を御猪口で五本程貰いそれを飲み干した私は直ぐに酩酊状態となってしまった。私は下戸ではないが酒には弱いのである。彼らも彼らで出来上がっている状態で話は猥談等にも飛び火しますます盛り上がっていった。ここで終わっていれば良かったのだが、彼らの一人が「島田市と地元のどっちが住みやすいか?」と言ってきて私が昼間抱いた島田市の人達を田舎者と馬鹿にする優越感や酒の勢いから「馬鹿言っちゃいけねぇよ、俺の地元は東京都の田舎だぜ!」と口を滑らせた事から場の空気が一変してしまったのである。
それから数十秒間沈黙が流れた。重々しい空気感である。やがて彼らの一人が「じゃおめぇの田舎は東京だからこの島田市とどこが違うって言うんだよ」と物凄い形相でこちらを睨みながら怒鳴って来た。どうやら彼は私が言った東京と田舎というワードに引っかかっている様子であった。これに私は「いやそれは・・・」と口ごもったが、こんな事で手を緩める事はなく彼は「だから島田市よりもおめぇの田舎は東京だから何が特別なんだよ?」と尚迫って来た。「いやこれは決して島田市の事を貶める為に言ったんではなくて」「じゃどういうつもりで言ったんだよ」「いや俺の地元は東京だけれども田舎と変わらないっていう意味で言ったんですよ」「だったら最初から東京の、なんて付ける必要はねぇじゃねぇかよ。結局東京って事を自慢したいから言ったんだろ?」「いやそんなつもりはなくて」「今時東京なんて地方の人間は誰でも憧れてるなんて思うなよな」 「は・・・・」これを聞き私は「随分とこいつは東京にコンプレックスを抱えているようだな」と思ったがそれは口にはしなかった。そのうち私に対して酷く難癖をつけてきた彼を周りの三人が宥めすかしてようやくその場は収まったが、何だか禁断の発言をしてしまったようで居た堪れなくなった私はすぐに食堂を後にしたのだった。ただその後地方出身者の友人が出来た際等は相手に向かって絶対に自分が東京都出身である事を強調しない事や「田舎」という言葉を使わない事等を徹底出来るきっかけにはなったので全くの無益な出来事ではなかったと思っている。
以後の私は勘違いした優越意識等はさっぱりと捨ててまた茶工場での仕事に邁進した。普段和服で生活していたので、久々に住み込みアルバイトをする中で靴を履く生活に戻ると働き始めて一週間以上経過する中で右足に酷い水虫が出来たが、それをある職員に訴えたところ何故か島田市の有名な温泉に連れて行ってもらった事があった。その職員は温泉に入れば水虫が良くなると考えていたようだがその相関関係は置いておいても、その親切心に私は心を打たれたものだった。改めてあの日職員の方々を田舎者だと侮り、優越意識を持った自分を恥ずかしく思った。特にBさんはコンテナの作業を終えて以降私の事を大変可愛がってくれ、仕事が終わった後に私を軽トラックで自分の自宅へ連れて行き、夕食を振る舞ってくれた事もあった。その時は静岡県焼津市の焼津漁港の海で獲れた旬の魚の刺身が出されたが、これが何とも言えない旨味があったのでその魚の名前を忘れてしまった事は後々かなり後悔したものだった。ちなみにこの時も日本酒が提供されたのだが、数日前の失態の反省から私はそれを少々嗜む程度に留めておき、羽目を外さないように努めた。そんな職員との心の交流と言ってもいい程のコミュニケーションを経て私はすっかり住み込みアルバイトの身分でしかない事を忘れて、「自分も立派な茶工場の一員である」等と自惚れ始めたが、時の流れは早いもので遂に住み込みアルバイトとしての最終労働日が来てしまったのだった。
最終日の仕事は午前中で早々に切り上げ、午後からは職員の人達全員と私で打ち上げのバーベキューをする事となった。一瞬私は参加する事を躊躇ったが、険悪な仲となっていた相原さんは二日前に京都府へ帰っていた事もあったし、職員の人達は私に参加して欲しそうであったのでその気持ちを無下には出来なかったのだった。そこでは私はひたすら野菜やウインナーを焼く役目を与えられたが、Bさん等がその私に対して私がこの期間中にベルトコンベアーで仕分けた商品用に出来るお茶っ葉で沸かしたお茶を「美味いから飲め、飲め。お前が普段飲んでいるお茶とは比べ物にならないぞ」と急かすので中々集中出来なかった。ただそのお茶を飲んでみると独特の香ばしさもあって確かにBさんの言う通り普段飲んでいるお茶とは全く違った美味さを感じたものだった。一通り野菜とウインナーを焼き終えるとBさんの隣の席にあてがわれ私は彼からどんどんと焼き肉を与えられた。そしてここでもビールや発泡酒等をコップに酌まれ乾杯するに至ったが、流石に乾杯を断る事は出来なかったのでとにかく悪酔いしないように酒を飲んだらその分水を飲む事を徹底する事に焦っていた記憶がある。おかげでバーベキューは約二時間程だったが、その間私は十回程度小便をしに便所へ駆けていったのだった。ただBさんを筆頭にほぼ全ての職員がそんな私の落ち着きのなさを気にする事はなく、飲んで食って歌って騒いでの大盛り上がりの様相であった。そんな気分を良くした彼らは私に対して「来年も来てくれよ」とか「仕事に困ったらここへ就職しろ」なんて言ってきたが、「どうせ酔っぱらいの戯言だろう」なんて思いつつも、住み込みアルバイトとしてやり切った自信もありそれを聞いて私は満更でもなかった。そうして宴もたけなわとなった頃に私は泥酔して眠ってしまったようなのだった。それは目覚めると寮の自分の部屋で寝ていた事からも分かる通り、どうやらBさんが泥酔した私を茶工場から寮まで軽トラックで送ってくれたようなのである。それを知り私はバーベキューの跡片付けにも参加出来ず、何だか職員の皆に対して申し訳ない気持ちとなってしまった。
翌日いよいよ島田市を離れる日となった。私は朝食を済ませると二週間お世話になった部屋の片付けをして荷造りをし、Bさんが軽トラックで迎えに来てくれる時刻になるのを待った。そこで二週間分の給料を貰い、家山駅まで送ってもらう事になっているのである。私は名残惜しさもあったが、貰える給料の事で嬉しさ一杯であったのでまだかまだかとBさんの軽トラックを待ったのだった。やがて午前九時過ぎになるとBさんの軽トラックがやって来た。私はそれで玄関へ行きBさんと挨拶を交わして軽トラックへと入るのだったが、早速運転席に座るBさんから給料袋を手渡された。まず明細書を確認すると手取りで十万三千円と記されており、中には往復の交通費の他に十万三千円の給料がしっかりと入っていた。時給千円で二週間の十時間労働の中で三日間休んで最終日は午前中だけの労働であったから計算通りの給料であった。Bさんは明細書を確認する助手席の私を横目に「お疲れ様」とだけ告げ、軽トラックを出発させた。乗車中もう五分程で家山駅に着く頃合いだったと思うが突然Bさんが「それで木綿製の袴は買えそうか?」と私に言ってきた。「なんでその事を知っているんだろう」と不思議に思った私は「どうして僕が木綿の袴を欲しがってる事を知っているんですか?」とBさんに確認すればBさんは「昨日、バーベキューの時にお前は皆にこの住み込みアルバイトをした理由は木綿製の袴を買う為のお金を稼ぎたかったからだ、なんて言っていたじゃねぇかよ」と言った。どうやら昨日の私は酔いの勢いに任せてそんな事を言ってしまったようであった。私がこれにどう反応していいか分からなくなっているとすかさずBさんが「その木綿製の袴が出来たら、その袴を履いてまた金田一耕助みたいな姿で写真を撮ってこっちにその写真を送ってこいよ」と言ってくるではないか。これに私が「どういうつもりですか?」と質すとBさんは「ここにかつて和服姿の変わった若者が来たって事を忘れたくないんだよ、茶工場の事務所にその写真を貼っておけば皆忘れないだろ?」と言い、Bさんの住所をメモした紙も同時に渡してきた。どうやらそこにその写真を送ってこいという事らしい。これに私は少し涙腺が緩んだが、泣く事はなく「分かりました」とだけ言いそのメモを受け取ったのだった。
それから一か月後に茶工場の住み込みアルバイトで貰った給料の一部で購入した木綿製の馬乗り袴が出来上がりネットショップから送られてきたので、早速それを着流し姿の上から履いた姿で母親に写真を撮ってもらった。その写真と共に茶工場の職員の方に対して感謝の思いを綴った手紙も同封してBさんの住所に送ったが、結局Bさんから返信はなかったのでどうなったかは分からない。あの時にBさんが言った通りその写真が茶工場の事務所に貼り付けられているのかどうかも、翌年またそこへ住み込みアルバイトをする事で確かめようと思ったが、その時にはもう住み込みアルバイトを当の茶工場では募集していなかったので確かめようもなかった。ただその馬乗り袴を履く度に島田市の茶工場の事を思い出して、感傷的な気分になってしまう事が私と島田市での日々を繋ぐただ一つの絆のようなものとなったのだった
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
聖女を追放した国は、私が祈らなくなった理由を最後まで知りませんでした
藤原遊
ファンタジー
この国では、人の悪意や欲望、嘘が積み重なると
土地を蝕む邪気となって現れる。
それを祈りによって浄化してきたのが、聖女である私だった。
派手な奇跡は起こらない。
けれど、私が祈るたびに国は荒廃を免れてきた。
――その役目を、誰一人として理解しないまま。
奇跡が少なくなった。
役に立たない聖女はいらない。
そう言われ、私は静かに国を追放された。
もう、祈る理由はない。
邪気を生み出す原因に目を向けず、
後始末だけを押し付ける国を守る理由も。
聖女がいなくなった国で、
少しずつ異変が起こり始める。
けれど彼らは、最後まで気づかなかった。
私がなぜ祈らなくなったのかを。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
後日譚追加【完結】冤罪で追放された俺、真実の魔法で無実を証明したら手のひら返しの嵐!! でももう遅い、王都ごと見捨てて自由に生きます
なみゆき
ファンタジー
魔王を討ったはずの俺は、冤罪で追放された。 功績は奪われ、婚約は破棄され、裏切り者の烙印を押された。 信じてくれる者は、誰一人いない——そう思っていた。
だが、辺境で出会った古代魔導と、ただ一人俺を信じてくれた彼女が、すべてを変えた。 婚礼と処刑が重なるその日、真実をつきつけ、俺は、王都に“ざまぁ”を叩きつける。
……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。
これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
婚約破棄?いいですけど私巨乳ですよ?
無色
恋愛
子爵令嬢のディーカは、衆目の中で婚約破棄を告げられる。
身分差を理由に見下されながらも、彼女は淡々と受け入れようとするが、その時ドレスが破れ、隠していた自慢のそれが解き放たれてしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる