ZARDに救われた春

根本外三郎

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第三章

旅路

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 半年前の時と「全く一緒」だった。何がといえば運賃がだ。久米川駅の路線案内板は確認出来る範囲は狭かったので西船橋までの運賃は分からなかったが、東西線へ乗り換える高田馬場までの運賃ははっきりと記されている。二百九十円。そうだ、半年前に調べた通りの金額だった。そうならきっと西船橋までの運賃も変わっていないはずだろう、秀男は独り合点した。がそんな彼だったが、目の前の券売機がデジタル画面になっている事は予想外であったため非常に驚く。今までのボタン式券売機はどうなってしまったのであろうか。三ヵ月前の競技会帰りにはボタン式券売機のままであったと思う。気になったので近くにいた駅員に聞いてみた。

 すれば今年の三月十八日からICカードのPasmoが採用されて、チャージと称するICカードに金を貯える作業に対応するためにデジタル式券売機に取り換えたのだという。なるほど、改札口を通行する乗客たちはPasmoを使って通り過ぎていく。都心やJRではSuikaが導入され使用されている事はよく知っていたが、ついに西武鉄道までICカードが活用され始めたのかと改めてまた驚く。秀男も流行に遅れまいとICカードを手に入れたくなった。駅員に聞けば発行してもらうには五百円が必要になるという。手持ちの金は千五百円あったのでそれを手渡しすぐに発行してもらった。東西線やJRにもPasmoは使用出来るのかどうかは定かではなかったのだが、大多喜へ赴く時に高田馬場まではPasmoで行ってみようと思った。駅員曰く切符を買っていくよりもPasmoを使って乗車した方が運賃は安くなるようなのだ。それを聞いて早くも得をした気分になりながら彼はそそくさと久米川駅を後にして帰途に就くのだった。

 出発の日は一週間後の翌月七日と決めそれまではまた家に引きこもる生活になった。そんな時間の中で生まれる事は陸上部を辞めてしまった事への後悔と近々実現する一人での遠出に対する期待と不安なのであった。そもそも陸上部への入部は自分の本心から希望してやった事ではなかった。秀男は本当は水泳部に入りたかったのだが、彼が入学したその年に水泳部の顧問の先生がいなくなりそれを継ぐ先生もいなかったため廃部になってしまった。従って中学一年生の入学当初に行われた各部活動への仮入部ではサッカー部や機械体操部、そして陸上部への仮入部しか出来なかった訳なのである。そんな訳で陸上部への入部は本当に本当に入りたくて入ったのではなかったのだ。それだから練習も辛かった。秀男は短距離専門の選手だったから百メートルや二百メートルの走り込みを何回もさせられて毎日毎日疲れ切った。元々彼は陸上競技に限らずスポーツ自体が好きではなく、身体を動かす事自体が面倒で嫌に感じる性質だったからいずれは退部する運命にあったのだとは想定してはいた。
 
 が今こうして家に引きこもり、だらだら床に寝そべってみたりパソコンをいじくって時間を潰しているだけの日々に移り変わってみると、あの走り込みをしていた時間や部活仲間と談笑しながら帰宅していた帰り道が無性に恋しく懐かしく思えるのだった。短距離の記録も大会を重ねる事に伸びてはいたのだから、走る事自体がしんどいと感じていたものの、辞める直前にはやりがいを感じてきていたのかもしれない。戻れるものなら陸上部へも学校へも戻りたいとそんな虫のいい展開を切望するようになっている事にちょっと嫌気がさしながらも、その実現を希う状態になってしまっているのだった。不思議なものである。陸上部を辞めた時は喜色満面、もう走らなくていい、疲れなくていい、とあんなに嬉しかった訳なのに。

 後は大多喜への遠出を想像して、その実現をまだかまだかと待ちわびる余裕のなさだった。それは初めて行く修学旅行を待ちわびる普通の中学生のようなもので、うぶで邪念が全くない自然な心持ちが生み出す感情がそうさせるのだろう。行きたい、見たい、感じたいと大多喜の土地を目の当たりにした時の感動を先走って感じてみたい程、遠出の旅への期待が高まり落ち着かない彼なのである。まず千葉県という言葉が彼を刺激した。約三年振りの行き先となる。この間千葉県に赴いたのは父親と共に銚子へ行った時で小学校六年生の春だった。銚子電鉄に乗って銚子港へたどり着き大いにはしゃいだ覚えがある。その時以来千葉県には一度も足を踏み入れていなかったので非常に懐かしく思えた。また今回は一人だけで赴く予定であるのでそれはとても新鮮な体験となるのだ。目下少年から青年への脱皮を貫徹させるための少し高い壁とも言っていいだろう。少年から青年へ駆け上がるためには冒険が必ず必要になるのだ。とは言え本当は室井君と一緒に行くはずであったのだけれども。とまぁこんな調子でああでもないこうでもない、と物思いに耽りながらいたずらに時間は過ぎてゆき出発当日の朝を迎える訳なのであった。

 出発の朝は寝坊をせずに起きる事が出来た。午前七時半に起床し冷凍してあった食パンを解凍させ、それを二枚食べた。本当はサラダだのハムだのと出発前の朝食なのだからそうした類の味を欲していたのだが、ぐずぐずしていたら到着時間が遅れてしまいそうなのでそれらは省略した。両親共に大多喜行きの遠出計画についてはその了解を得ていたから自分勝手に朝食を調理する権限はあったのだけれど、結局は手間暇かけるのが面倒なのでやらずに靴を履いたのだった。空は曇りがちだが雨が降っていないため傘は必要ないと思えた秀男はリックサック一つで久米川駅へと歩いて向かっていく。この時東村山の空と千葉県大多喜の空は全く別物であるとしっかり区別出来ておれば、到着先で雨に濡れる事はなかっただろうが。今は六月であるのにも関わらず、彼は折り畳み傘はおろか合羽さえも持たずに遠出を始める間抜けさだった。若い男の顔には雨水が似合うのかもしれないけれど。

 久米川駅に着くと秀男はPasmoを取り出し改札機のICカードの反応領域の中にそれを押し当て、そこから出た耳慣れない音を聞き流してホームへとたどり着いた。その「ピッ」と鳴った音はPasmoの使用を意味するのだとすぐに悟ったものの、近未来的な印象が強すぎてなかなか事実として受け入れられない。それはこの間Pasmoを購入した際に行った千円分のチャージに対しても言えた事だが、これはどうしてそうなるのだろうと瞬時には理解出来ない程その科学技術が高度に発達していて、彼を戸惑わせるのだ。二十一世紀も六年が過ぎればそれは当たり前の風景なのかもしれないがたった三ヵ月前まで一々切符を買っていた過去を考えれば、今の音といい、チャージの事といい、当たり前の現象とは解せないのである。時間とは人に対して多かれ少なかれ意識改革を要求してくる魔物のようなものなのかもしれぬ、と秀男は沈思黙考しこの二ヵ月を引きこもってしまった自分が情けなく悔しくてならないのだった。

 そして彼は高田馬場へ向かう電車の乗車中「世の中の動き」には見事に乗り遅れた自分を改めて感じ、不安が頭をよぎり、さっきまでのウキウキした気分がやや沈んだのに気付く。遠出は開始早々トーンダウンした心理状態で進む事になったようである。それに加えて車内は満員電車で、人混みが苦手な彼にとっては非常な苦痛を感じざる負えなくなっている。全ては通勤ラッシュの時間にダブってしまったからだろう。高田馬場まで、それはそれは窮屈で息苦しい時間が続いた。目の前にいるサラリーマンのオヤジが広げている新聞の一面が折れかかった状態で彼の身体に接触してきた。秀男の顔付きはすぐ鬱陶しい物を感知した時の不快な色に変わったが、それは向こうも同じ様で秀男の方から自分に当たってきていると勘違いしている様子のオヤジは鋭く彼をにらみ付けてきた。

 それを非常にウザったく感じたのですぐさま視線をそらすが、目に映ってくるのはガラケーに夢中になっている高校生達ばかりで、それはどんよりした感じはないものの不健全な印象は拭えないためなんだか気持ちは落ち着かない。至近距離でガラケーを片手にその画面を食い入る様に眺めている人々を見つめる事は結構な視覚的圧力になるのだろう。それから秀男は高田馬場まで車内広告に視線を集中させ到着を待ちわびていた。ところで車内は非常に暑かった。六月の湿気も関係していただろうが、満員電車特有の人が混み合った時に生まれる熱気が大きく作用していたからだろう。とにかくここは暑かった。持ってきた冷茶入りのペットボトルを取り出して飲みたかったが、リュックサックからそれを取り出す空間的余裕がない程混み合った車内だったから高田馬場までは飲めずじまいであった。

 電車が高田馬場に着くと秀男は、山手線や東西線への乗り換え口へなだれ込むようにして入り込んでいく群衆から一人離れる形でホームの自販機の脇へ足を向けた。そこは乗客達の移動の流れから大分距離を保てる位置にあったのでそこで冷茶入りのペットボトルを飲もうとしたのだ。秀男はそこでぽつんと立ち止まってリュックサックからペットボトルを取り出しごくごくと冷茶を飲んだ。美味い。冷えたお茶を飲んで美味いと思うなんてジジ臭くて渋いだろうが、満員電車から解き放たれた爽快感も手伝って余計美味く感じた。

 そんな事をやって一分間程が過ぎれば、ホームには西武新宿を目指す客がまばらにいるだけの状況で移動するには快適な空間に変わっていた。それが分かると、後続の西武新宿行きが着いてまたホームが混雑するのは面倒だと察知した彼はリュックサックにペットボトルを押し込んでしまい、そそくさと東西線への乗り換え口へと急いだのだった。出口の改札口ではPasmoをまた取り出して、改札機のその反応領域へとそれを押し付ける。「ピッ」とまた入る時と同じ音がして遮断バーが開いた。こうして秀男のPasmo初体験は終わった。東西線からは普段通り切符を買って大多喜までたどり着くつもりだったからだ。こうして満員電車で若干意気消沈していた秀男であったが、Pasmoを安全に使い終えたり冷茶でのどを潤せた事も幸いして伸びやかな気持ちを取り戻して東西線の地下階段を下っていく事が出来たのだった。
 
 東西線のホームは西武新宿線のホームとは打って変わってとても涼しい空間だった。「コォ―」という地下鉄が走る時に鳴り響く音が秀男の胸に突き刺さってくる気がした。地下鉄特有の冷気というものか、彼はホームに立っているだけで怖い位に強くて鋭い風を感じた。もうしばらくたたずんでいれば悪寒を感じるところであった。が、すぐに西船橋行きの電車が来たためそれは免れる事が出来た。ここから西船橋までは乗り換えなしの乗車となり三十分以上乗り続ける事になる。西船橋で総武線千葉行きに乗り換えその千葉駅で外房線に乗り継ぎ、いすみ鉄道の起点駅である大原駅を目指す予定であった。結構な距離がある。秀男はまだ先が長い事に飽き飽きしつつ、はやる気持ちを抑えようと深呼吸を一回して車内の席に座った。

 東西線に乗っているといやが上にも四つ木の家を思い出す。四つ木の家とは秀男の父方の祖父母の家であった。それは小学生の頃は父親と連れ立って頻繁に訪れていた家だった。中学生になってからは部活動が忙しくなったために年に数回しか尋ねる事が出来なくなってしまったが、今でもこうして東西線に乗っていると祖父母の家で過ごした楽しかった時間が鮮明に思い出されるのだ。ああ、四つ木の夏祭りで神輿を見た後ばあちゃんとじいちゃんと近所のおばちゃん達とで花火を燃やした小学五年生の夏休みのあの夜。懐かしいのと同時に激しく愛おしい。時間よ、戻れ。心の中でそんな言葉を選び取ってしまう程、あの夏休みの花火は楽しい思い出として記憶されている。
 
 そんな調子で西船橋へ向かう車中、四つ木への経路で都営浅草線への乗り換え駅となっている日本橋駅を過ぎ去る辺りまでは、しみじみと四つ木での思い出を回顧する時間になってしまった。日本橋から先の駅は今回の遠出で初めて通過する訳で、やっとここから未知の領域へ入っていく緊張感を感じ始めたからなのか、ドクドクと胸が高鳴り始めた。車内の乗客は九段下、竹橋、大手町、日本橋でサラリーマン達が一気に降りていき、ぐっと少なくってきている。そして茅場町、門前仲町、木場、東陽町、南砂町、と進んでいくにつれまた徐々に少なくなっていった。すっきりしてしまった車内で脚を大股に開きながら座った秀男は眼を閉じ、うつらうつらとしながら地上へ昇り上がる時を待った。

 南砂町駅を過ぎて間もなくだったか、突然窓から光が差し込んできたような様子を閉じた目蓋の裏に感じた彼は、ゆっくりと目を見開き窓を見上げた。窓には力強い太陽の光線が幾筋も入り込んできていた。ここから始まる地上線となってからの景色は、秀男が常に渇望してきたものなので期待の気持ちで胸をふくらませながら、自分と対面している窓の方へ視線を集中し始めた。そして地上へ上がり終えてすぐに広大な荒川が現れガタンゴトンとけたたましい音を響かせながら鉄橋を渡り始めれば、それは八広駅~四つ木駅までの京成線の区間で通り過ぎる荒川鉄橋を思い出させた。四つ木の家にたどり着く際は必ずこの京成線の荒川鉄橋を通り過ぎていたから、今目の前に見えている荒川の景色があまり彼の眼には目新しくは映らないのだった。荒川を通り過ぎた後も似たような大きな川が現れそれもまた鉄橋で通り過ぎた。西葛西駅に着いたのはその川を越えて二分位してからの事であった。

 西葛西駅に着いてから西船橋駅までの区間においては特筆したい出来事も景色も全く見当たらなかったので、大きく省略する事にする。どこにでもありそうな住宅街風景や繁華街に対しての感動はほとんどなかったからだ。とにかくこの西葛西駅~西船橋駅までの区間の風景に視覚的な満足は感じられなかった。故に話は西船橋駅に着いてからに飛ぶ。この駅は広々としていた。東西線、総武線、京葉線、武蔵野線が利用出来る態勢が整えられていてそのホームの数は多かった。乗り換えで混雑する雑踏の駅構内を秀男は戸惑いつつも、総武線が走っている一番線ホームを見つけ出してそのホームへと駆け上がった。そこで千葉行きが来るのを待っていた。
 
 とここでは高校生らしき集団が彼の隣にたむろし、千葉行きの電車にも共に乗り込んだ。現在は午前十一時頃になるので高校生なら学校で勉強している時間帯だろうが、などと訝しく思いながら。秀男は彼らと同じ車両に居るだけでインフェリオリティーコンプレックスを強烈に感じたためやむなく左隣の車両へ移動した。だがそこには多勢の大学生らしき人群れがあった。引き返して反対の右隣の車両へ向かおうか、などと思いかけたもののそこまでしてしまえば、挙動不審な印象をその高校生達に抱かれるような気がしたし面倒臭くもあったので、その大学生達で賑わっている車内で我慢してみる。

 おそらく彼らも千葉駅で降りて外房線か内房線に乗り換えていくのだろう。何かの部活かサークルの集団なのかもしれない。二十人~三十人はいる。男女混成できっきゃきっきゃと騒いでいた。秀男と歳は五歳位しか違わないだろう。俺も五年後ああやって軽薄に騒いで大学生をやれているんだろうか、否今の自分の現況では大学進学はおろか高校進学も危ういのだから、それは不可能な未来予想図であるのだ。それは誰よりも自分自身が一番よく分かっている話ではなかったか。一人またインフェリオリティーコンプレックスを激甚に痛感しながら千葉駅まで立ちすくむしかないのだった。

 千葉駅に降りると彼は早急に五番ホームまで足を急がせそこで外房線の電車を待った。さっきまで一緒だった大学生の集団も五番ホームに待機していたから彼らと指呼の間にならぬよう大きく遠ざかった位置に秀男は立つようにした。例の高校生達は内房線の三番ホームに立っていた。まもなく電車が到着したので秀男は乗り込んだ。秀男が乗り込んだ車内の座席はボックスシート型と言われる座席が向かい合った計四人が座れる形式のものだったからここですぐに中央本線を思い出してしまった。この車両の形態は高尾駅から長野の塩尻駅まで続く中央本線の車両と同一のものである。トイレだって中央本線と同じように車両の端にあった。電車が本千葉、蘇我、鎌取と大原駅方面へ進んでいくにつれ駅と駅の区間が遠隔になりだし、風景は田舎臭くなりだしていく。
 
 秀男はこのような情景の中で昨年の夏休みに室井君と山梨県の大月まで訪れた体験を思い返した。それは陸上部の練習が休みだった日の出来事で、乗り鉄であった室井君からの誘いがきっかけで実行した遠出だった。中央本線は最初の高尾駅~相模湖駅の区間が非常に長かった覚えがある。夏休みの練習のせいで走り疲れていたためか、秀男は猿橋駅から先は寝てしまった。大月駅に着いたのは午後三時過ぎだった。室井君に起こされたら大月駅に着いていて到着時刻も告げられたのだ。二人は大月駅で降りて大月の街をゆっくり眺めたかったが、当地の地理に暗かったし時間も夕暮れ近くに迫ってきていたので、駅周辺を大雑把に歩く事しか出来なかった。三十分近くそうしてだらだらと歩いていると室井君が一軒の寂びれた駄菓子屋を見つけた。

 秀男はその駄菓子屋の外観が汚らしかったので入るのは嫌だったのだが、室井君が執拗に入ろうと誘いかけるので断りきれずに入る事になった。駄菓子屋なのだからコンビニとは違う訳で当たり前なのかもしれないのだが、中は夏だというのに冷房が掛かっていなかったので非常に暑かった。だが部屋の隅に設置してある小型の冷蔵庫の中に瓶のコーラと一緒にラムネが入っていたのを秀男が見つけた。冷蔵庫を開けると冷涼な風が秀男の手を包む。秀男はラムネを買おうとして店主のオヤジに値段を聞いた。五十円だと言う。室井君もラムネを欲していたから二人はラムネを買って駄菓子屋の脇のベンチで飲んだ。

 秀男はボックスシート型の座席に座って移りゆく外房線の景色を眺めながらその一年前の大月でのラムネの味を思い出していた。まもなく見えてくるだろう海とラムネがリンクしたからなのかもしれない。今目前にしている景色を楽しみたいのに、そのラムネがなかなか頭から離れてくれないのである。まぁラムネなんて東村山でも売っている訳でそんな執着しなくていい訳なんであるのだが。やがて上総一ノ宮駅を越えてまもなく、若干であるが海が見えた瞬間があった。それはちらっと見えただけであったが、蒼茫たる太平洋の海原だった。海を見たのは実に一年振りであったから気分は高揚してきた。ついさっき高校生や大学生の群れと遭遇して傷つき落ち込んだ心であったが、海を少し見ただけでも大分変るものらしい。

 東村山にいると日本は島国であるという基本的な認識さえ忘れてくるものだ。秀男は窓を開けた。爽涼な風が自分の双頬に当たってくる。東村山の風とは全く性質が違う、潮風だ。海がすぐ近くにある土地では鼻を突くような鋭い風が吹くのか。嗚呼、この風は百メートル走を走っている時に顔面に感じた風と似ている。位置について、ヨーイ、バン‼とピストルが鳴ったら感じられる風だ。その時、ふと「陸上部に戻りたい」と秀男は思った。戻れるはずはないはずなのに。なぜなのだろう、走って走って走り込んでいたあの頃が無性に懐かしいのだ。そうしてその風を堪能して暫く、車内アナウンスが「次は大原、次は大原。」と告知した。いよいよ菜の花鉄道、いすみ鉄道の起点駅に着く。長かった。ここまでたどり着くのに三時間を要した。車内では大原駅で降りる幾人かの人達が降車準備に荷物を背負い始めている。秀男も窓を閉めた。やがて電車は「ガタン」と鈍い音がして止まった。どうやら大原駅に着いたらしい。
 
 外房線の改札口を出ると「のりばご案内いすみ鉄道」と書かれた黄色い看板が宙に吊るされているのがすぐに目に入った。その奥には「ようこそいすみ鉄道へ」と記された白い看板も見えた。大多喜駅までの切符を買ったのだが、いすみ鉄道の改札口は自動改札機はなく駅員もいないので、切符を見せる機会がないままホームに入る事になった。ホームに入って早々黄色い一両の電車が来た。そうだ、これが昨年末に室井君と鉄道ファンで見た電車と同じ車両の電車だ。電車の方向幕が「大原」から「上総中野」に変わり、扉が開くと十人位の人達が降りてきた。がらんどうになった電車内に秀男は一人入り込んだ。出発まではまだ少々時間がかかるようであった。

 秀男が車両に乗り込んで十分程度経った頃に電車は動き始めた。西大原、上総東、新田野と順調に電車は進んでいくものの全くあの黄色い菜の花は見えない。代わりと言っていいのかアジサイがまばらに見えるぐらいで、一面田園風景が続くだけである。今までただ菜の花が見たいという単純な期待感だけで動いていて気付かなかったが、こうしてアジサイを見たり閑散としている田園風景を冷静に眺めて思うのは目下六月であるという事だ。菜の花は咲いていないはずである。家に二ヵ月近くも引きこもっていれば、季節感覚は相当ズレ始めているという事か。単線電車はそんなすっとぼけの秀男など構う事なくグングン進んでいく。
 
 まぁいいだろう大多喜の街を歩きまわろう、と秀男は自分に言い聞かせ苛立って悔しがってきている自分の心をただ鎮めようと思い、車窓に視線を集中させた。外は快晴の天気と、のどかな田舎景色が彼を優しく迎えてくれているのだから。ガタンゴトンガタンゴトン。電車は漸進していく。今まで見た事がないような妖しい色の斑点がある羽根を広げて舞っている蝶が見えた。薄気味悪いと感じた彼は視線をまた遠くへ移した。
 
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