囚われの姫君と新米魔王

干潟

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1:囚われの姫君と悪魔の姫君

008 姫君の体温

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 今日は最悪の日だ。

 何よりも、まだ今日が終わっていないことが最悪だ。


 結局、私は気絶するまでユーディットのなぶりものにされてしまった。
 どれくらい気を失っていたのかわからないが、起きた時には脱衣所でユーディットの膝の上で抱きつくように座っていた。
 眠っていたときのこととは言え、私の手がユーディットのガウンを握っていたのが屈辱である。

 体も髪もユーディットが拭いてくれたようで、既に乾いていた。
 血塗れのドレスはコンスタンツェが回収していったらしい。二人分のシュミーズとガウンが用意されていて、私が気絶しているあいだにユーディットによって着せられていた。
 気が利くのはいいけれど、下着も置いてけよヘボ魔将軍。

「次は右? 左?」
「……右」

 まだ体に力の入らない私は、彼女の背に負ぶさり、運ばれるがままになっていた。
 この城の間取りに詳しくないユーディットを、寝室まで案内するのが私の役目だった。

「今度も右」
「アンネリーゼ。嘘はいけないよ。もう一度右に曲がったら元のところに戻っちゃうじゃないか」

 寝室に着いたら何をされるかぐらい分かっていた。
 だから、ぐるぐると同じところを回るように指示を出してみた。
 今日はもう色々なことを諦めてきたが、まだ踏ん切りがつかないのだ。

 もはや誰かに助けてもらうのは望み薄だと、私だって分かっている。
 それでも、嫌なことは少しでも先に延ばしたかった。

「わたしとしては、ここで夜を明かしても構わないんだよ」
「……一つ前まで戻って、左」

 負けた。
 絨毯を敷いているとは言え、硬くて冷たい廊下の床の上が初めてだなんて、そんなのは避けたかった。
 他人の靴跡の上に組み敷かれるのも嫌だし、必要以上に体が痛いのも嫌だ。
 寒いのも、自分の悲惨な姿を不特定多数の誰かに見られるのも、嫌だ。

 少しでも楽な方がいい。
 そんな甘い考えで、また流されてしまった。

 私の寝室へはすぐに着いた。
 それもそのはずだ。私専用の浴室から寝室への距離が遠ければ湯冷めしてしまう。
 くっ。
 普段は便利な城の構造が仇となったか。

 私の部屋は浴室と同様、磨かれた御影石や黒檀などの、黒い素材を中心に作られている。
 カーテンも黒。ソファーも黒。クローゼットや鏡台も黒。
 天蓋付きのベッドの柱も年代物の黒檀で、ベッド用のカーテンも黒のレース、シーツも枕も黒。
 微妙に明度や彩度を変えて、黒をベースにモノトーンで揃えてある。
 何の病気かと聞くなかれ。単純に暗い色の方が落ち着くからだ。
 元々クローゼットやベッドの下に潜り込むのが好きな子供だったんだよ。悪いか。

 部屋の各所に置いてある魔法の照明は、蝋燭の炎を模した柔らかいオレンジ色。
 窓際には小さな鉢で育てている、砂漠地方の多肉植物サボテン
 香炉から薫るのは、心を落ち着けてくれそうな匂いの残り香。
 そして、部屋を埋め尽くす、獣のごとき姿を象った名状しがたき形状の私物──

「わあ」
「見るな。聞くな。言うな。感想なんて一切聞きたくない」
「可愛いね。ぬいぐるみ好きなんだ? なんだか意外」
「うああああ! もうやだ、何でこんなやつにプライベート晒さなきゃいけないの!」

 内訳はアルパカが6割。羊3割。残り1割が兎や熊などである。
 本当はアルパカとか飼いたいけどぬいぐるみで我慢してるんだよ。何か文句ありますか。
 好きな色は黒だけど、抱きしめるなら白くてフカフカの方が好みなんだよ。何か文句ありますか。
 魔王の娘でも年相応にぬいぐるみが好きなんだよ。何か文句ありますか。

 全身全霊で作り上げた私だけの安らぎ空間なのに、そこに気に食わないヤツが一人いるってだけで、これっぽっちも安らげない。
 あと、部屋を見られただけで精神分析されそうで辛い。

 私は天蓋付きのベッドの上に下ろされる。
 素早くユーディットから距離をとった私は、大人の半分くらいの背丈のアルパカのぬいぐるみを抱いて自分の身を守ろうとする。

「そんなに警戒しないでよ」
「警戒されるようなことしかしてないじゃない。私の寝室に上がり込んで、今度は何をしようっての?」

 アルパカの陰に隠れてユーディットを睨んだ。
 彼女は小鳥のように首を傾げ、ほんの少し悩んだ後で口を開く。

「抱いたり?」

 あまりのストレートさにドン引きした。

「寝たり?」

 いや、その言い直しに何の意味があるのか。
 覚悟はしていたけど、改めて率直に連呼されると引いてしまう。

「……アンネリーゼは、わたしとじゃ嫌?」
「どうせ、嫌だって言ってもするんでしょ?」
「まあ、確かにその通りなんだけどね」

 あははー、と能天気に笑って、ユーディットは口を噤んだ。
 優しげな微笑を浮かべ、しっとりした視線で私をじっと見つめる。
 見られているだけで痒くなりそうなくすぐったさ。
 落ち着かなくて、私は顔ごと視線を逸らす。

 暖炉の炎がパチパチと弾ける。
 乾いた暖かい空気と程よい疲労、柔らく包み込むようなベッドが、警戒心を削いでいく。
 自室に帰ってきたせいか、緊張の糸が緩み、集中力がぷつりと途切れてしまった。

 衣擦れの音。
 ベッドの上を、ゆっくりとユーディットが近づいてくる。
 たったそれだけのことなのに胸がドキドキして、顔が熱くなってきた。

 首筋に息がかかるくらい近くに、彼女がいる。
 ガウンを脱がそうとするユーディットの手の動き。私の体は抵抗することもできずに従った。
 ぬいぐるみがころりと転がってベッドの下に落ちる。

 そっぽを向いたままでいると、ユーディットに後ろから抱きしめられた。
 彼女は既にガウンを脱ぎ捨てていたようで、薄布2枚を通して、彼女の体の柔らかさや温もりが伝わってくる。
 ユーディットの肌はすべすべしていて、癪なことに今まで抱いたどんなぬいぐるみよりも肌触りが良かった。

 マントルピースの亡き母の肖像が目に入って、何だか後ろめたい気持ちになった。
 肖像を倒しておいた方がいいだろうか。
 これから起こることを母に見られるのは、嫌だ。
 ユーディットの唇の感触を耳の後ろに感じながら、私はそう逡巡する。

 二人の体がベッドに倒れた。
 マットレスが柔らかくその衝撃を吸い込む。

 私は身を硬くした。
 この期に及んで、私は全然心の準備ができていなかった。
 どうしたらいいのか全然わからない。
 受け入れたくはないけれど、受け入れたらいいのか。
 抵抗しても無駄だけど、抵抗するべきなのか。
 何をされるのか。何をさせられるのか。
 私は。
 私は、ユーディットによって別の私に変えられてしまうのか。

 怖い。

「アンネリーゼ……」

 囁く声が、甘く蕩けそうな優しい声が、鼓膜を震わせる。
 私は、私の意思と無関係に、体の芯に熱を感じた。

 ユーディットの脚が、私の脚に絡む。
 ユーディットの手の指が、私の指に絡む。
 ユーディットの体が、私の背に密着する。
 ユーディットの唇が──

「は……あ……」

 首筋に押し付けられる彼女の唇。
 ただそれだけで、私の喉は、恥ずかしいくらいに甘い吐息を漏らした。

「アンネリーゼ……」
「ユ、ユーディット……あの……あの、やっぱり……」

 心も体も彼女にかき乱されて、どうにかなってしまいそうになりながら、私は言葉を搾り出す。
 ユーディットの腕に力がこもり、強く抱き寄せられた。
 たったそれだけのことで、私は意味のある言葉を紡ぐことができなくなる。

「アンネリーゼ……」
「あ……ああ……せ、せめて、お願いだから……優しく……」
「おやすみ……」

 は?

 おい。
 おい、こら、ユーディット。

 私の耳に、安らかな寝息が聞こえてきた。
 私はしばし混乱したまま、彼女の寝息を聞く。

「え……ホントに寝てるの?」

 返事がない。
 代わりに、むにゃむにゃと意味をなさない呑気そうな寝言が聞こえた。

 頭を抱えたくなったが、ユーディットにしっかりと抱きしめられていて、それもかなわない。
 なんだこれは。納得できない。
 あれだけ煽っておいて、思わせぶりにしておいて、挙げ句にこれか。
 いや、確かに変なことされるよりはいいけど。願ったり叶ったりだけど。断じて期待してはいなかったけど。

 私の葛藤は何だったんだ。
 何もしないんだったら、はじめから言ってよ。

 悔しい。憎い。腹が立つ。
 こんなやつ大嫌いだ。
 今まで一瞬たりとも気を許したつもりはないけれど、これからも絶対に気を許したりなどするものか。

 安堵のためか、まぶたが重くなってくる。
 明日になったら、この境遇から脱したら、覚えてろよ。
 心の中でユーディットへの呪いの言葉を吐きながら、目を閉じる。
 彼女の規則正しい寝息を子守唄代わりに、私も深い眠りに落ちていった。


 忌々しいことに、温かい彼女の腕の中は、とてもよく眠れた。
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