パラダイス・オブ・メランコリック

杙式

文字の大きさ
1 / 30

黒いマリアは創生の女神

しおりを挟む
 はじめに神は天と地とを創造された。

 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 神は「光あれ」と言われた。
 すると光があった。

 神はその光を見て、良しとされた。
 神はその光とやみとを分けられた。

 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
 夕となり、また朝となった。
 第一日である。
 (旧約聖書 創世記)




 
「――光あれ。神がそう言ったせいで、俺たちは光にさらされ、自分のみじめな姿を自覚しなければならなくなった。他人の目を気にして、自分の存在は糞だって自覚しなくちゃならなくなった。全部、全部、神の野郎が悪いんだ。そうは思わないか……!」

 配管が剥き出しの路地裏では不定期に水音が響く。
 追い詰められた男は荒い息で壁に手をつき体を支えながら同意を求めた。

「……きみは、そう思うんだね」

「だって、そうだろ? この世が闇に閉ざされてさえいれば、俺たちは土のなかで暮らすモグラのように、他人の目にも他人の存在にもわずらわされなくてすんだんだ」

「そうかもしれないね」

「それに神がいるんだっていうのなら、なんで俺みたいな存在を作る必要があったっていうんだ。神が万能だっていうのなら、なんでこの世界はこんなに糞で不完全で、俺はこんなに惨めなんだ……!」

 男の言い分はもっともなような気もして、大守十和おおかみとわは頷く。

「だから、きみのアイテールはそんな形なんだね」

 十和の言葉に男は汗塗あせまみれの引きつった顔を持ち上げた。
 よくある凡庸な顔だ。
 眼鏡をかけ、一見真面目そうな日本人。
 きっと明日には忘れてしまって、すれ違ったって気づきもしない。

 だが、もし、その男と他人との違いを一箇所あげるとするならば、異様なほどのその目のギラつきだろう。
 瞬きも忘れて見開ききって、白目はてらてらと輝き血走っていた。

「ああ……! ああ、そうなんだ。俺はいつも疑問だったんだ。この世界は不完全だ。慈悲なんてない。あるのは悪意だ。ならばきっとこの世界を作ったのは、全知全能の善意ある神なんかじゃない! きっと背徳の女神なんだ!」

 背後のアイテールを見つめる男の表情には愉悦ゆえつが浮かんでいた。
 男のアイテールは黒いマリア像の形をしていた。
 目をつぶり、手を開いて、まるですべてを受け入れる慈悲を持ちあわせていそうだ。
 それこそ暗い欲望だって受け入れてくれるのだろう。

 十和は男のプロフィールを思いだす。
 確か国立の有名大学に入学したが、女性にふられ自暴自棄になっていたところ、知人に違法薬物を勧められてハマり、いつの間にか薬物欲しさに売人にまでなっていたという。
 よくあるパターンといえば、そうだ。

 有名大学に所属できるほどさかしくても、男は所詮素人だった。
 警察はすぐに売人だと嗅ぎつける。
 だが彼の屈折し劣等感に苛まれた精神は強力なアイテールを生んだ。
 アイテールは彼を守り、そのせいで警察はあと一歩のところで彼を取り逃しつづけていた。

「美しいアイテールだね。黒いマリアさまか」

「そうだ。これこそが神のあるべく姿だ」

「……それで、あっちの具合も相当いいんだろうね」

 その言葉に、尊敬の念で黒いマリア像を見つめる男の目にはさっと好色な色がさし、口もとには下卑げびた笑いが浮かんだ。

「兄さんのアイテールは犬か。マニアックだよな」

 十和の横にいるシベリアンハスキーのアイテールを見ながら、男が言った。 

「うーん。僕のはそういうんじゃないんだけど」

 困ったように十和が首を傾げてシベリアンハスキーを見ると、ヘッヘッヘッへッと息をするシベリアンハスキーも同じ方向に首を傾げて返した。
 十和の場合、そういうものではなく、友人や兄弟に近い。

「なんだ。兄さん、試したことないのか。もう普通の女には戻れなくなるくらい具合がいいんだぜ。この女もな、聖女のような顔をして娼婦のように乱れるんだ。それにな――」

 男は声を潜めて囁いた。

「毎晩、処女に戻るんだ。服を脱ぐことに恥じらって、破瓜の痛みに泣いて、そのうち快感にむせび泣いて乱れるんだ。たまらねえよ。これぞ、男の理想だ」

 ――ジャキンッ。

 そう言った男の背後で、黒いマリア像の胴体と下半身が斜めに切り離されていた。

 振り向いた男は、愛しいマリアの胴体がずるずると落ちて、地面に叩きつけられ粉々になるのを目撃する。
 その背後から黒いパンツスーツを着て巨大な黄金きん色のはさみを手にした黒髪ショートカットの女が姿を現した。しかもその鋏の刃は語諸刃もろはだ。

 逃げる間もないまま、その鋏が男とマリア像の接合部分である足下の影を断ち切る。
 ジャキン。
 その音は男の脳内で弾けるように響いた。
 アイテールは男の精神と繋がっている。
 男は精神に直接衝撃を受けて、目をく。

「腐れ童貞中毒者チェリージャンキーが……! そのまま一生目覚めるな!」

 吐き捨てるように女――間宵慧まよいけいが言いながら、男の背中に苛烈かれつな蹴りをかます。

「が……っ!?」

 ダメ押しの攻撃を喰らい、精神と肉体にダメージを受けた男は地面に倒れこむと、そのまま意識を失った。
 地面には男のジャンパーの内ポケットから転がりだした違法薬物『夢幻』が散らばる。
 カプセルに入っている瑠璃色の粉末は濡れたアスファルトの上で、妖しく輝いているようにさえ見える。

 十和とわはパーカーのポケットから手錠を取りだすと、男の両手にはめた。

「ごめんね。でも、これも運命だから」

 その頭頂をけいがはたく。

「あんたもあんたよ! いまのいままでなにしていたのよ! さっさととっ捕まえればいいでしょ!」

 怒りの矛先ほこさきが十和に向かう。
 だが十和はニコニコしながらマイペースに答えた。

「なにがって、足止めだよ。だって戦闘こういうのは慧ちゃんの専売特許でしょ」

 慧は眉間みけんに深いシワを刻みながらも、それ以上はなにも言わず、フンと鼻を鳴らした。
 いままでのつきあいで暖簾のれんに腕押し、ぬかに釘、馬の耳に念仏だとわかっているのだ。
 なにをどう言ったって十和には響かない。

 どうしてこんな、のほほんとしたやつが違法薬物取締官なんて危険な仕事をやっているのか。
 慧にとってそれはいまだに謎だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

処理中です...