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8.やさしい背中
しおりを挟むいつまでもぼうっと呆けている場合ではない。保健室の先生も付き添いの八月一日宮も帰れなくて困るだろう。覚悟を決めて腰を浮かせかけるあゆたをしり目に、八月一日宮はくるりと背を向けるとそのまま屈んでしまった。
「ほら、先輩。俺の背中に載って」
「え」
彼は言わずもがなというふうに肩越しに見てくる。
「俺、今日はチャリで来てますから、家まで送ってきます」
我に返ってあゆたは首を振った。
「いや、悪い。バスとか、……無理ならタクシー呼べばいいし」
「は? 仮にバス亭まで行くにしても歩けないじゃないですか。それならもうこのまま負ぶっていってチャリで送るほうがいいですよ」
八月一日宮は呆れたように言い放った。筋は通っているのでぐうの音も出ない。
「もう、我儘いわないでくださいよ。そんなにおんぶ嫌なら、さっきみたいに横抱きでもいいですよ」
まるであゆたが我儘から八月一日宮の手を焼かせているような口ぶりだ。心外はなはだしい。
「八月一日宮くん、そうしてくれるなら先生も安心だ」
後押しするように保健医もにこにこしている。先生だからあゆたの家庭事情はなんとなく把握しているのだろう。優しい目の色でそう言われては、あゆたもぐっと言葉を飲み込まざるをえない。
そして今、あゆたは彼の背中に負ぶわれている。
「体、寄せて下さい。そのほうが安定するから」
「うん、ありがとう」
遠慮して上体を反らし気味にしようとしていたのを見抜かれて、八月一日宮は釘を刺してくる。おずおずとあゆたは八月一日宮の背中に身を寄せた。白いシャツの背中にそっと頬を押しあてる。
(いい匂い……)
綺麗に刈り上げられた後頭部の、襟足の首の白さが目の前にある。
(おんぶ、めちゃくちゃ久しぶりだ)
母を失ったのは四歳の頃だ。
それから祖母が十五の時に死ぬまで、ずっとふたりで暮らしていた。肉親の縁が薄い家族だった。幼少の思い出に父はいなかった。自分より年下の男の背中の広さに、もし父親がいたらこういうふうにおんぶされることもあったのだろうか……などと想像してしまう。
母と祖母が生きていた頃、時々おんぶしてもらっていたと思う。祖母は小唄長唄の師匠で生計を立てていたから忙しい人だった。女の、オメガの細腕に、子供心に祖母にこれ以上の苦労はかけたくないと決めていた。物心ついた頃にはあゆたは自分から遠慮するようになった。手のかかる子だと思われたくなかったのかもしれない。むしろ積極的にあゆたのほうが祖母を支えるように、労わりたい気持ちが強かったせいもある。
家族以外の誰かに負ぶわれるのも初めてだ。胸がむずむずして妙な感じだった。
「……悪い、迷惑かけて」
「いや、こっちのせいだから。すいません」
出会い頭の事故なのだから八月一日宮のせいじゃない。あゆたが気を使わないでいいようにそんなことを言うのだとなんとなくわかった。
「それより、俺、敬語が微妙で、よく目上のひとに注意されるから。委員長も気になったらばしばし言って下さい。敬語の練習になるし」
「そうか? あんまり気になんないけど。他の一年が言ってたけど、ずっとイギリスだったんだって?」
「ええ、三年間だけでしたけど」
「中学の三年だろう? そんなにいれば、日本語も不自由になるだろうな」
「近頃やっと日本語で本読むのが苦痛じゃないようになりました」
それでも帰国して一月ほどしか経ってない。もともとの母語ではあるが、やはり物覚えがいいのだ。
「ふーん、本当に俺が原文で英語読む感じなのか。古文の授業が楽しみだな」
くすくすと笑うと、八月一日宮は喉の辺りを憮然とさせた。
「鶯原先輩って結構意地悪ですよね」
優しそうに見えるのに。
八月一日宮はそんなことを唇を尖らせるようにして言った。
(そうか。優しそうに見えるのか……)
あゆたは愛想もよくないし、朗らかなタイプでもない。母も祖母も粋筋のひとだったから美貌と所作の華やかさは評判だった。あゆたとは大違いだ。あゆたは全体的に地味で、よく言えば朴訥なのだと自分で思っている。
八月一日宮は今まで誰かに言われたこともないようなことをぽんぽん口にする。まだ若いから分別がないのかもしれないが、かえってそのほうが気楽だった。言われたあゆたのほうも、きっと深い意味はないのだろうと流してしまえるから。
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