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6話 回顧

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そのヴィスをシリルが見つけたのは、塔から出てすぐのことだった。
黒い、狼のような巨体が森の中を颯爽と走っている。
その狼の姿を取ったヴィスは、シリルに気がつくとその足を止め、彼にねめつけるような視線を投げかけた。
どうやら、シリルを獲物として認識したようだ。
両者の視線がぶつかる。
シリルは抜いた剣を正眼に構えた。
正眼に構えた剣に、赤いオーラが灯る。
獣の眼が、そのオーラに僅かに戦いたように細められる。
僅かの膠着の後、先に動いたのは狼の巨体だった。
ヴィスは唸り声を上げ、爪と牙を剥く。
シリルは襲い来るそれらを、時に身を翻し躱し、時に刃で弾く。
シリルの表情は、徐々に険しいものとなっていく。
彼はあの棺の中で目を覚ましてから、何度かこのような怪物と戦ったことがあった。
しかし今対峙しているこの獣は、動きが速い。
シリルは牙を避けつつ、獣から距離を取った。
シリルとヴィスとの距離が開くと、再び膠着状態に陥る。
いや、彼は自分の不利を勘づいていた。
まるで自分に攻撃する隙を与えない、ヴィスの爪と牙。
その体に、果たして自分の刃を通すことが叶うのか……その道筋が見えずにいた。
狼の巨体が、再びシリルに飛びかかる。
その爪をシリルは刃で弾く。
が、それは叶わなかった。
「……っ!」
その一撃は、あまりに重かった。
シリルの体はその重さに耐えきれず、大きく背後に仰け反ることとなった。
それは、あまりに大きな隙でもあった。
懐を大きく開かせたシリルに、ヴィスの爪が迫る。
シリルの黒い瞳が、その爪の鈍い光を捉えた。
しかしそんなシリルには、為す術はもうない。
避けるにしても受けるにしても、今から体勢を立て直してからでは、もう遅い。
シリルはその爪が自身を裂く、その瞬間を待つ他になくなってしまったのだ。
その瞬間だった。
その一本の矢が飛んできたのは。
シリルがこれを認識した時には、もうその矢はヴィスの巨体に撃ち込まれていた。
狼の腿に、深く刺さる矢。
その傷口からは、赤いオーラが燃え上がっているのが見えた。
ヴィスに対して致命的な傷にはならなかったものの、しかしその痛みに狼の巨体は大きく体を捩らせることとなった。
シリルは、刃を上段に振り上げた。
振り上げた刃は一閃、ヴィスの額を一刀両断。
そのまま巨体は地に伏し、二度と動き出すことはなかった。
僅かな静寂の後。
ヴィスが動かなくなったことを認めたシリルは、おもむろに顔を上げた。
赤いオーラを纏った矢を、放った人物を確かめるために。
「本当はこめかみ辺りを狙ったつもりだったんだけど……やっぱり弓は苦手だ。でもよかった、君が無事で」
弓を握ったローランが、木陰から顔を覗かせていた。
シリルは眉をひそめて、そんな彼の元へと大股で歩み寄った。
「貴方はそんなにも死に急ぎたいのか?」
「これが性分なんだ」
ローランは腰に下げていた剣を杖の代わりに、立ち上がった。
「けど、そのお陰で君は助かった」
「……」
そう言われれば、返す言葉はなかった。
黙り込む他にないシリルに、ローランは悪戯っ子のような笑みで彼を見上げた。
「戻ろう。ダミアンも待ってる。……それから、僕からお礼が言いたいんだ。ヴィスを倒してくれて、ありがとう。あのヴィスもいずれ、聖都ロージアに向かい、害を成していたかもしれない。それを防げたんだ。君のお陰で」
ローランは頭を下げた。
「……顔を上げてくれないか? 照れ臭い」
シリルはそんな彼から背を向けた。
シリルが自分から背中を向ける直前、ローランは顔を上げた。
そうして振り返る直前の、シリルの表情を垣間見た。
あぁ無表情な彼は、こんな顔で照れるのか。
ローランはまた自然と、笑みが溢れた。
「あ、もうお姫様抱っこは大丈夫だよ。ありがたいけど、このくらい自分で歩けるよ」
それから一瞬の後、シリルは再びローランに振り返った。
彼が振り返ったと同時、ローランはそう言って自分に伸びてきた腕を手で制した。
「しかし……」
「もう、君は過保護だね。じゃあ、肩だけ貸して。それでいい?」
ローランはシリルの肩に、自分の左腕を回す。
シリルは自分の肩に回された手首を掴んだ。
そしてローランの腰に、自分の右腕を回そうと腕を伸ばした。
回そうとして、それを躊躇した。
「……?」
ローランはシリルを怪訝そうな目で見上げた。
そしてシリルは、そんな彼の視線から逃れるようにして目を伏せた。
見下ろしたローランの腰は、思いの外に括れが細く、たおやかなものだった。
昨夜熱に浮かされながら見たり触れたりした、彼の柔らかでうぶな肌が、シリルの脳裏に過った。
しかしそこに掛かろうとするのは、黒く歪な爪と腕。
もしもこの醜悪な爪が、彼の柔らかな胴に食い込み、そして引き裂いてしまったとしたら……。
彼を不意に襲った想見は、シリルをたじろがせる。
「……いや、すまない」
シリルはその躊躇させた腕を、宙に浮かせたまま泳がせるばかりだった。
そんな彼をしばし見上げたローランは、何かに気づいたように輝く目を見開いた。
「そうだよね、あんなに戦ったなら疲れたよね。その上僕を連れて帰らなきゃいけないなんて大変だよね……。でもそれなら尚更早く戻って休まないと!」
ローランは怪我をしていない方の足を、揚々と一歩踏み出した。
「……!」
それに引かれるようにして、シリルは僅かにバランスを崩す。
その拍子に、宙に浮かんでいた彼の右腕が、ローランの腰を掴む。
勿論、その爪が彼の体に食い込むことはなかった。
ただ掌から服越しに、彼の体温が伝わるばかり。
「行こうか」
ローランはシリルを見上げて微笑んだ。
……自分がこの森で目を覚ましてから、どれ程の時間が経ったか、最早思い出せない。
けれどその間、ダミアン以外の者と触れ合った試しはない。
そんな彼の心に、ローランの快活な笑顔は静かに染み渡るのだった。


二人は塔に戻り、昨日シリルが狩ったという獣肉を食べることにした。
普段はダミアンが調理をして供されるものを、居間の暖炉で直火で炙っている。
その様子を、暖炉に当たりながら二人は眺めていた。
「ところでさ。君はここで、あぁやってヴィスの退治をしていたの? 一人で?」
問われたシリルは自分を見つめるローランの方を、一瞬だけ見た。
そうして再び炎へと視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「あれが何なのか、私には分からない。ただ、あれと戦わなければいけない……そんな気持ちが強くある。だから剣を振るった、それだけだ」
ローランはその横顔をじっと見つめた。
その視線を受けながら、シリルは続けた。
「自分の正体についてすら、私は何も見当がついていない。だがアレの討伐をしている時は、体が勝手に動く。迫ってくる爪や牙の出方が、不思議と見えてしまう、剣の振るい方も、きっと体が覚えているのだろう。何よりも『アレを倒さなければいけない』と強い衝動に駆られ、気がつくとあの怪物に刃を向けていた……棺の中で、目を覚ました時からずっとそんなことをする毎日だった」
ローランはしばし、シリルのことを観察してみた。
ロージアの騎士階級の者の着る服によく似た、彼の召し物。
そして何より、あの赤いオーラ。
ローランはおもむろに、口を開いた。
「ヴィスと戦うためには、まず聖都で儀式をして聖痕を受けなければいけないんだ。そしてその聖痕には位があって、赤は一番強いものなんだ。それに君が着ている服は、ロージアの騎士階級の者の制服によく似てる」
シリルはそれを、黙って聞き続けた。
彼の中で、聖都ロージアはどのような輪郭を帯びているのだろうか。
もしも彼が聖都に降り立ったら、どんな景色が彼の黒い瞳に映るのだろうか。
ローランは頭の片隅でぼんやりと、そんなことを考えながら話を続ける。
「赤いオーラを持つ人は、ほとんどいない。聖都から出れば、尚更少ないはずで……だからロージアへ行けば、きっと君のことが何か分かると思うんだ。あぁ、そうだ! 僕の怪我が治ったらさ、君もロージアへおいでよ。君の記憶を取り戻す、きっかけになるかもしれないしね」
ローランは屈託なく笑いながら、シリルを見上げた。
それを受けたシリルは、ふと自分の頬が熱くなるのを感じて、反射的に顔を伏せた。
「そろそろ焼けたかな~?」
ローランはそれに気づいていない様子。
炙っていた獣肉に手を伸ばして、空腹を満たそうと。
自分のことをそんな風にした感情の正体に気づいたのは、それからしばらくのことだった。
それまで彼は、ただ見知らぬ聖都という場所の輪郭を、朧げに思い描くのだった。
彼が守ろうとしている場所。
彼が立っている場所。
そこに自分も立っている様を、朧げに。
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